住居が「権利」ではなく、経済の「燃料」にされてきた戦後日本の歳月 -平山洋介『東京の果てに』を読む-

 平山洋介『東京の果てに』を読む。
 良書。
 内容については、こちらの書評をお勧めしたい。

 なかでも、"福祉としての住宅"という問題に関して興味深い箇所があるので、これについて書いておく。
 (著者は、のちに『住宅政策のどこが問題か』という本を書いており、これは必読されるべき。)



 地方分権が叫ばれる昨今だが、住宅政策の場合、その結果何が生まれたか。

 分権の結果、地域間の競争関係が生起する。
 そして、そうした各地域政府が求めるのは、中間層であり、彼ら向けの住宅市場を拡張しようとする。
 これにより、税の増収と消費力(購買力)を得ようとするわけだ。

 一方、低所得者向けの住宅政策の場合、逆に税収に寄与せず、福祉関係の支出を増大させるものと見なされる。
 結果、彼ら向けの公営住宅の建築は、縮小させられてしまう。

 住宅政策の分権化は、他の福祉政策に見られるのと同様、低所得者向けの施策をいっそう減退させる(226頁)。
 分権化とは、原則的には福祉の敵であり、それは住宅政策においても例外じゃない。



 もっとも日本の場合、住宅政策は歴史的に、経済に活力を与えるエンジンとしての役割を担わされ、持ち家を推進する方向へ舵が切られる一方、福祉としての公営住宅等の役割はおろそかにされてきた。

 乏しい財源しか与えられない公営住宅に対する政策は、結果、その対象を絞ることとなる。
 それが、入居世帯のカテゴリー化の促進を生んだ。

 すなわち、公営住宅の対象を、低所得者全体にではなく、その中の「カテゴリー」に当てはまる世帯に絞ることである(231頁)。
 カテゴリーとは、「高齢者」、「障害者」、「母子家庭」、「災害被害者」、「ホームレス」などの"表徴"を指す。

 上記の諸カテゴリーに当てはまらない世帯は、逆に、どんなに住宅に困窮していても救済されない(233頁)。
 カテゴリー各々は一応問題視される一方で、それらから外れた住宅困窮は、見えないものとされていった。

 (あまり関係のないことだが、何一つスティグマがないゆえに、却って外へ出られなくなってしまった「引きこもり」の存在を思い出した。)
 


 政策文書なんかには、「真の住宅困窮者」という言葉が出てくる(235頁)。
 要は、「真の住宅困窮者」じゃない「真じゃない住宅困窮者」をハブろうとしているわけだ(まるで、「本当に貧しい人」とか「本当に真面目に頑張っている公務員」みたいな論法じゃないのw)。

 この場合は、低所得者に対する住宅施策の不足を前提にして、比較的困窮していないと見なした世帯から順にハブっていく(比較的資産がある、だとか、収入が比較的ある、だとか)。
 低所得者に対する住宅施策の不足は、動かぬ前提とされてしまい、これを変える動きは殆どなかった。
 こうした「住宅困窮の量が住宅対策の供給量を決めるのではなく、対策規模の制限が困窮殿競争関係を形成」するという実に本末転倒な事態
が、日本ではまだ続いている(235頁)。



 著者が考える対策は何か。
 それは、民間借家に対する家賃補助である(237頁)。
 公営住宅に入居できない世帯にも公的援助が届く。

 実際、過去に社会資本整備審議会が、家賃補助導入の必要性を示唆したこともあった。
 しかし、結局、「技術上の課題」を理由に退けられたようだ。
 背景にあるのは、戦後日本の「住宅供給と経済開発を密接に関連づけ」る政策であり、建築投資に結びつかない施策への忌避がある。

 住居を、「社会保障」の面よりも、経済的な「財」の面ばかりで捉えてきた後遺症は、まだまだ行政の深部に残存しているらしい。

内向きな「戦争責任」でやり過ごした戦後六〇余年の歳月 -波多野澄雄『国家と歴史』を読む-

 波多野澄雄『国家と歴史』を読む。
 この著者がどんな人物であるかを知っておく限りであれば、この本は、悪い本ではないと思う。



 戦後においてもなお、昭和天皇が継続して在位したことは、国外において、「過去の軍事侵略について日本人が罪の意識を感じているように見えない理由の一つ」となった(34頁)。

 この著者の記述は、Saki Docjrillの論文を参照して書かれている。
 Saki Dockrillについては、細谷雄一先生が、ブログで記事を書いている
 「現在のイギリスでもっとも活躍するイギリス外交史研究者は誰か、という話をすれば何人かの方はサキ・ドクリル先生の名前を挙げるでしょう」という程の研究者だった。



 前に、東京裁判について、「判決だけ受諾したんだ プンスコ」と言い出す人物が現れる事案が発生した。

 この問題は要するに、外務省が、「判決を受諾」と訳せばいいところを、「裁判を受諾」と訳したことに起因している。
 なぜこんなことをしたのか。
 日暮吉延『東京裁判の国際関係』は、「判決を受諾」だけだと、パール判事らの少数意見が排除されちゃうから、あえて国内向けに「裁判を受諾」と意訳したんじゃないの?と書いているらしい(40頁)。

 もしこれが正しいとすると、せっかくの外務省の好意を、かの人たちはぶっ壊しちゃったことになるw



 1970年代の日中国交正常化の件。
 中国政府は、侵略戦争の責任と反省を前提として、賠償放棄を決めた(82頁)。
 中国側にとって、歴史認識の問題と、賠償問題はセットとなっている。

 この点を捉えずに歴史認識の問題を軽んじると、ろくなことにならない。

 そりゃ、日本側が歴史認識をぞんざいにすりゃ、中国側が怒っても無理はない。
 
 (日台の政治関係を切ることもまた、賠償請求放棄の基礎条件だった。この点に関しては、こちらの記事も御参照あれ。)



 欧米の戦争犠牲者補償制度は、一般市民と軍人・軍属を平等に扱う「国民平等主義」が共通の特徴となる。
 そして、自国民と外国人を区別せず、全て戦争犠牲者に平等な補償と待遇を与えるという「内外人平等主義」もまた、共通の特徴となる(97頁)。

 
 一方、日本の補償立法の中心となる恩給法と遺族援護法は、上記の国際的な基準から逸脱している。
 恩給法なら支給額は、退職時の俸給と在職年数で算出されるが、軍人の場合、在職時の階級で差が出る。
 さらに、外地戸籍法の適用者だった、朝鮮、台湾などの旧植民地出身者はハブられている。 

 美しい国ニッポソの光景。



 日本政府はずっと、侵略戦争という国際的批判を「厳粛に受け止め」はしたが、自ら侵略戦争と認めることはしてこなかった。
 村山談話の場合も、戦争遂行の結果(被害)に対して、公的立場として表明・謝罪はしたが、国家補償の根拠となるような戦争責任の所在については、判断を回避している(187、188頁)。

 こうしたダブスタを支えてきたのが、「平和」という主張である。
 すなわち、平和憲法・平和国家を作って過去の戦争を清算した、という便利な主張である
(129頁)。
 随分とまあ、内向きな論法といわざるを得ない。


 
 「一億総懺悔」の悪質な使用法について。

 戦争が全ての国民を動員した総力戦であるなら、一般市民の戦争被害者にも補償をすべきだ、という主張がなされたとき、政府が持ち出したのが「国民受忍論」だった(162頁)。
 要するに、国民が戦争に走った指導者を許してしまったんだから、国民の結果責任だよ、受忍しようよ、という「総責任=無責任」論だった。

 これもまた、随分と内向きな議論
だろう。



 著者は、2007年4月の二つの戦後補償裁判の判決(「中国人強制連行・西松建設裁判」と「中国人『慰安婦』裁判」)についても書いている(213〜217頁)。

 この二つの裁判は、最高裁が、被害の事実を認定し、被害者の肉体的・精神的靴の大きさにも言及しているが、結局のところ個人の賠償を認めなかった。
 それは、サンフランシスコ講和条約の枠組みは、日比や日印などの二国間の協定・条約も規定するという考えによるものである。
 個人の請求権などは相互に放棄するというサンフランシスコ講和条約の考え方が、上記の協定・条約の前提になっている、という主張だ。
 しかもその協定・条約の中には、講和条約の当事国ではなかった中ソの共同宣言や共同声明も含まれる、というかなり踏み込んだものである。

 当然、中国政府側、そして日本の法曹関係者は批判している。
 中華人民共和国は、講和条約の当事国ではないし、請求権放棄は政府だけであって、個人請求権も残存しているはずではないか、と。

 この最高裁の判断は、確かにムチャブリだと思うし、内向きな"御用判決"だという感想しかない。
 この判決の背景も、「企業や国が自発的に対応するものを除けば、旧被害国の国民による請求権の行使によって『予測困難な過大の負担を負わせ、混乱を生じさせる』」と著者がまとめるように、自国民への(恩着せがましい)優しさに溢れている(217頁)。

 実際の所この裁判の意味は、「すでに六〇年以上も前の歴史問題の法的判断には限界があり、司法の場に持ち込まないよう歯止めをかけたのである。問題は政府と国民に投げかけられたといえる。」と書いているように、司法はこの問題にタッチしません、ということであり、政府と国民で何とか解決しろ、ということである(217頁)。

 当時の報道を見ても、「サンフランシスコ平和条約によっても個人の請求権が完全に消滅したわけではないが、裁判で賠償を請求することはできなくなった」とか「ここでいう請求権『放棄』は、裁判上の権能を失わせるにとどまる」とかしか書いていない(これとか、これ)。

 この個人賠償(と請求権)をめぐる問題は、結局、政府にボールが投げ返されているんだが、政府側はそれを見て見ぬフリをしたい、というのが現状。

「護民官」としての安全管理職と、東電及び電力不足への対策について  -竹森俊平『国策民営の罠』を読む-

 竹森俊平『国策民営の罠』を読む。
 実に読み応えのある良本だが、Web界隈では、書評が少ない気がする。
 内容については、こちらの評をお勧めしたい。


 
 内容のまとめとしては上の評でいいと思うので、それで終わりにしてもいいのだが、それじゃ何だか芸がないので、いくつか書いておこう。



 著者は、今回の原発事故の背景には、日本にずっとある「安全管理」についての、先進国とは思えぬ酷い対応があるという(まあ当然だ)。
 そして「日本は官民一体となって『安全管理』という職種の地位向上を図るべきである」という(86頁)。

 なぜ「『安全管理』という職種の地位向上」なのか?
 安全管理というのは、当然、危険と判断した仕事をストップさせることを意味し、それは(短期的な)企業の利益に反するケースが多い。(長期的には別だろう。)
 そして、企業側にとってマイナスなものとして、捉えられてしまいかねない。
 結果、安全管理の責任者は、組織の中で出世できなかったり、逆に、出世しようと職を怠って、組織の(短期的)利益におもねったりしてしまう。
 こういうのをシステム的に防がなけりゃいけない。
  
 著者の提案は、

・安全管理のための教育プログラムを作る。(国内にないなら担当者の留学を国や企業が支援する)
・企業や国で重要な役職に付く人間は、その前に安全管理職を経験させる。
・安全管理職と経営層との交流について、米国並みの厳罰を適用し管理する。
・安全管理の責任者には、決定済みの計画でも自分の判断で差し止められる大きな権限を与える。

といったもの。

 特に、下の二つは重要だと思われる。
 原子力の安全管理云々というのは、上のことをやってから言うべきことだ。
 (それにしても、この「安全管理職」って、その拒否権の強さを考えると、何だか古代共和政ローマの「護民官」に似ている気がするw



 著者の東電に対する考えというのは、すでに紹介した村上氏のいうように、

竹森教授は、東電を生かすでも殺すでもない今の仕組みを最悪とこきおろす。日本で一番不足しているのは電気で、積極的な投資が必要なのに、東電は日本で一番嫌われているというジレンマ。東電は資産を全部売って破綻(はたん)させ、賠償と原子力の負担から免れた新会社に電力事業をやらせるのが最善

というもの。
 この意見は妥当と思われる。
 (なお著者は、原子力に完全に反対ではないものの、「原子力発電所のような『有毒性粗大ゴミ』」(250頁)は、新会社には引き継がせないという方針。)

 賠償からフリーになった新会社なら、電力事業への投資がしやすい。
 今後、原子力の代替のためには、火力などの発電所が必要になる。
 そんな投資が必要な時なのに、東電に急激なリストラなんぞを要求している場合じゃない(株主や経営層の責任とかは問われるべきではあるが)。

 


 で、ずっと前に出された「原子力損害賠償支援機構法」だが、これは、事故に備えた資金のプールを電力会社からの拠出によって賄う仕組み。
 でもこの法律では、電力会社に原子力事故のリスクを経営判断に取り込むインセンティブは生まれない。
 なぜかというと、支援機構への拠出金負担分だけ、電力会社が電気料金を吊り上げていいという取り決めがあるからだ(251、252頁)。
 そうなると、原子力事故のリスクを電力会社が経営判断に取り入れるためには、価格が市場競争で決まる電力自由化しかなくなってしまう。
 
 発送電分離というのがすぐ思い浮かぶけど、まずは、現行の法律でもできる自由化もある。
 例えば、天然ガス発電所なら、ガス会社に電力事業への参入を促すことだって可能だろう(254頁)。
 原発が停止するということは、送電網が空く分、新規参入は容易になる。
 現行の法律だと、新規参入する会社は、送電網を所有する電力会社に「託送料」を支払わないといけない仕組みなので、政府の指導で、値下げさせるのが吉といえる。

【小文】 「市民社会=市民団体」のなかに、「労働組合」は入りますか? -あるいは、東欧革命の解釈をめぐって-

 植村邦彦『市民社会とは何か』という良本がある。
 マトモな書評は他にもある(そうでないものもあったw)ので、詳細は、そっちを参照された方がいい。
 
 今回は、その一部について。
 第八章の中でこういうくだりがある。

 曰く、
 マイケル・ウォルツァーも、ユルゲン・ハーバーマスも、東欧革命における市民団体の役割から、「市民社会」の再定義を試みている。
 んで、国家権力に対して相対的に独立した領域として、「市民社会」を考えている。
 でもでも、東欧「社会主義」諸国において、政府は経済の領域においても、国営企業の雇用主として、労働者に対立していたはずである。
 ポーランドの「連帯」(労働組合だぜw)を見れば分かるように、政府への異議申し立てとは、労働条件をめぐる階級闘争でもあった。
 でもさ、ウォルツァーも、ハーバーマスも、経済の領分(企業と市場)をハブって、政治の領分(政治的公共圏)における政府への異議申し立ての担い手としてだけ、「市民社会=市民団体」を位置づけているんじゃね?

 著者の言わんとするところは、以上の通りだ。
 「個々の国民が政治的世界の天国にあっては平等で、社会の地上的生活にあっては不平等になるようにしたのは、歴史の一進歩」と喝破したマルクスが聞いたら、どんな顔をするだろうか。

 「市民団体」云々の話をするとき、そこでは、労働組合はハブられている。
 「市民社会」云々の話をするとき、そこでは、「社会の地上的生活」における「不平等」の話は、ハブられてしまう。
 別に無視されているわけじゃない。
 でも、「市民社会=市民団体」の話になった途端、見えなくなってしまうのだ。




 この問題については、またいつか考えることとしよう。

(恐らく続く)

「新自由主義的医療改革の本質的ジレンマ」 -医療と経済の常識- 二木立『医療改革』を読む

 二木立『医療改革』を読む。



 小泉政権における、医療に対する新自由主義的改革がなぜ挫折したのか。
 そこには根底的な理由がある。
 新自由主義的医療改革を行うと、企業の市場は拡大する一方で、医療費(総医療費と公的医療費の両方)も拡大し、これが医療費抑制という方針に反するためだ。
 著者はこれを、「新自由主義的医療改革の本質的ジレンマ」と呼んでいる
(5頁)。
 
 根拠は何か。
 それは高所得国における医療改革で、次のことが確認されるからだ。
 1、営利病院は非営利病院に比べ、総医療費を増加させ、しかも医療の質は低い。
 2、混合診療を全面解禁するには、私的医療保険を普及させることが不可欠だが、私的医療保険は医療利用を誘発し(儲けるためだね。)、公的医療費・総医療費が増加する。
 3、保険者機能の強化によって、医療保険の事務管理費が増加する。

 要は、医療を営利目的にやると、儲けようというインセンティブが働くから、却って、総医療費が増えてしまうわけだ。
 しかも、混合診療のような、公費負担が私的医療の増加に伴って増える仕組みの場合、公的医療費も当然増える、って訳だ。
 皮肉なこったw



 医療効率化で医療の質の向上と医療費抑制の両立、って言うのは、幻想だと著者は言う(11頁)。

 当たり前だが、医療というのは人件費が5割を占める労働集約型産業であって、しかも、医療技術の進歩で人件費が減ることはほとんどないどころか、増加することの方が多い。
 少なくとも、マクロレベルでは、医療の質の向上と医療費抑制の両立は不可能
、というわけだ。

 医療というのは、そもそも、技術が向上すればするほど、却って、患者の「潜在的需要」を掘り起こしてしまう。
 要は、これまでの医療では治らなかった病気の人が、技術的進歩で延命できるようになる。
 そうすると、医療という供給が、潜在的需要を喚起
するという、セイの法則っぽい事態が巻き起こってしまうわけだ。
 「医師誘発需要理論(仮説)」という奴だ。



 インフォームド・コンセントについて。
 これは、医師の意識改革だけでどうこうなる問題じゃない。
 当然医師や医療従事者が時間的余裕を持つことが不可欠になる(26頁)。
 少し考えりゃ判ることだ。
 イギリスの著名な脳外科医ジュネット氏のよると「患者との会話は労働集約的であり、時間を必要とし、それはコストにはねかえる」。

 そりゃそーだw



 米国の禁煙プログラムの医療費節減効果の話。
 それによると、禁煙プログラムの実施により、医療費は短期的には減少する。
 しかし、喫煙を止めた人々の余命の延長とそれによる医療費増加のため、長期的には(15年後以降は)累積医療費は増加に転じる(31頁)。
 
 著者は、この論理は、リハビテーションや、介護予防、生活習慣病対策にも当てはまる、と判断している。

 著者は、もちろん、だからこういった類のものを止めてしまえなどと、主張しているわけではない。
 そうではなく、あくまで患者や障害者のQOL向上のために行うべきであって、医療費抑制などを見込むのは危険だよ、といっているわけだ。



 オリックスの宮内会長サマの素敵な名言(49頁)。

 [混合診療は]国民がもっとさまざまな医療を受けたければ、『健康保険はここまでですよ』、後は『自分でお支払いください』という形です。金持ち優遇だと批判されますが、金持ちでなくとも、高度医療を受けたければ、家を売ってでも受けるという選択をする人もいるでしょう

 貧乏人に払う金はないわけですかww

 検索すると、この名言は知られてるみたいね。
 


 高齢化と医療の因果関係。

 昔、当時厚生省に勤務していた頃の広井良典氏は、ヨーロッパと日本の高齢化率とその進展の違いを見ないで、日本の医療費を大幅にひき上げたら、2020年頃の高齢化のピーク時には日本の医療費はヨーロッパ諸国をはるかに上回ってしまうはずだ、と述べた(94頁)。
 著者に意見に対して批判したわけだ。

 で、実際どうなったか。
 現在、日本の高齢化率はヨーロッパ諸国より高くなった。
 しかし、日本の医療費は国際的に見てまだ低い水準に留まったままだ。

 これは、平成17年度の『経済財政白書』でもきちんと認められた事実だ。
 2005年という小泉改革真っ只中の時期の白書できっちり認められた事実である。

 よーするに、高齢化と医療費は因果関係は思いのほか大きくないのよ。



 日本だと、民間保険っていうのは、個人が全ての保険料を負担する個人保険を連想しがちだ。
 しかし、欧米諸国の民間医療保険には、企業や雇用主が保険料を全て、もしくは大半負担するものは少なくない(205頁)。
 米国ではむしろそれが主流だ。
 
 統計とかで、結構気をつけないといけない点らしい。
 (民間保健負担分をイコール患者の自己負担、として扱ってしまうケースがあるからだ。)

 なお、日本の「実質患者負担割合」は先進国の中でも最上位ランクである(204頁)。
 良く覚えておくように。



 軽費医療の総医療費シェアというのはどの程度か。
 結構、この軽費医療を保険給付から外すべしとの意見は根強い。

 で、実際はどうか。
 1998年段階で、レセプト点数下位80%未満の患者の医療費シェアは25%。
 仮に、軽費医療の患者の自己負担を一律5割に引上げたとしても、浮く総医療費はたった1割程度に過ぎない。
 
 じゃあ超高額医療の総医療費シェアはどうか。
 2003年の付き1000万円以上のレセプトは101件、その医療費は、健保組合の医療給付総額の0.05%程度に過ぎない。
 超高額医療の患者が医療保険財政を圧迫しているとかは、憶説に過ぎない。

 結構勘違いしやすい、医療あるある、である。




(追記 2011/12/30)
 ブクマで、

 bn2islander 「喫煙を止めた人々の余命の延長とそれによる医療費増加」と「高齢化と医療費は因果関係は思いのほか大きくない」は矛盾する

というコメをいただいきました。
 まず単純に考えて、「医療費増加」という表記と、「因果関係は思いのほか大きくない」では、ニュアンスが違う以上、「矛盾する」という表現は適切ではありません。
 最低限「齟齬があるのではないか」が適切と思われます。


 で、本題。

 前者は、禁煙しない場合の医療費と、禁煙して延命した場合の医療費との比較の問題であり、「長期的には(15年後以降は)累積医療費は増加に転じる」という話です。
 誤解なきよう。

 対して、後者は、高齢化と医療費との因果関係であり、データ的に大きくありません(参照元の権丈先生は、もっと丁寧に 「有意な相関は、まったくない」 と言っています)。

 結局、「医療費の額は結局、社会のパイの中からどれだけ使うかという政治的な判断、つまり医療への政策スタンスで決まっている」。

 実際、日本は先進7カ国で最も高齢化率が高いが、国内総生産(GDP)比でみた医療費は最も少ない。

ワケですから(参照:http://plaza.rakuten.co.jp/wellness21jp/3050)。

 前者によって、医療費増加はするでしょうけど、それは、後者で見たように、マクロ的には大きなものではありません。
 つまり、そういうことです。(参考:http://bewaad.sakura.ne.jp/20061018.html)

健康優良児たちは、戦争へ行った -北澤一利『「健康」の日本史』を読む(後編)-



 西欧の解剖図。
 こういうのは、一般的にたくましく均整のとれた身体が描かれるもの。
 これは、特定の人物を標本にしたものではなくて、人間を代表するモデルなのだという(137頁)。
 というのは、解剖図における身体は、人の個人差等の要素を完全に取り除き、全ての人間に共通する特徴だけを抽出して記録しないといけないからだった。

 その共通の特徴だけを抽出しても、別に、もっと太ってたり痩せてたりした身体を選んでいいはずなんだけど、あえて均整の取れた身体を選んだってわけだw
 西欧的な理想の身体ってのは、こういうものだった。(古代ギリシアとかの彫刻の影響かしら。)

 マネキンとかも、そういう思想に基づくのね。



 徴兵検査、そこでは当然、合格しないためにごまかす人間が現れる。
 明治8年の徴兵検査規則から既に、「詐術」といって、病を偽る受検者の問題に触れているほどだ(190頁)。

 その「詐術」のなかで一番手軽かつ多く行われたのが、視力を偽ることだった。
 陸軍では、それらの「詐術」に対して、「看破法」というマニュアルを作成していた。
 
 効果的なものとして、例えば「癇癪」を偽る人間に対してのもの。
 それは、「本当の癇癪の場合、パシチンソン氏がスコットスヌナッフの粉末をひと匙鼻孔に吹き入れると激しく噴しゃする療法があるから、ただ、激しい疼痛を生じて一日危篤に陥るような療法なんだけど」と受検者にウソを言う方法。
 こういうと、病気を偽った人間なら白状するだろう、というわけだ。
 難しい医学用語を使って脅すこの方法、結構使えるかもね。

 ちなみに、視力を偽る人間に対しては、焦点距離が異なるめがねをかけさせて、結果を見る。
 近視を偽る人間ならどんな反応をしたらいいか戸惑うためだという(193頁)。



 日本近代において剣術を救ったのは何か。
 それは西南戦争だった。

 この戦争において官軍の主力となったのは、徴兵軍だった。
 しかし政府はこれを補うため、地方で職にあぶれていた士族を警官である「巡査」として採用する。
 これを前線の薩摩兵と戦わせた。
 で、戦争後、多くの人間は警察に残り、警視庁も巡査の訓練に剣術を採用することとなった。
 こうして剣術は警察の中で生き延びることに成功するのだった。

 
 新撰組の斎藤一も、警察で生き延びたわけだし、納得ですな。



 「健康優良児」について。

 昭和5年、朝日新聞社が、「健康優良児」の審査を行った。
 身長、体重、胸囲、座高、栄養、疾病異常などの項目や、
 走力、聴力、投力などの項目、
 病欠日数、学業成績、普段の行いなどの項目、
 果ては、分娩状況、哺乳状況、歩行を始めた年齢月、祖父母以下の家族の年齢や健康状態、死因、家族の経済状況などの項目に至るまで、広範囲に審査した(224頁)。

 文部省は朝日新聞社と協力し、各地方の予選から全国大会に至るまで、学校を通じて行わせた。
 これには学校側の名誉も関わっており、積極的に参加した。
 学校のみならず、子供にも家族親戚田中にも大変な名誉とされた。 

  
 んで、そんな健康優良児だが、戦争を始めると、どうなったか。
 健康優良児として選抜された男子はいち早く招集された。
 太平洋戦争中、国民全体の死亡率が0.4%、日本陸軍全体で18%。
 そんな中、健康優良児たちの場合、追跡できた限りで、50%が亡くなっている(227頁)。