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「皇室中心・国家本位」と「朝鮮人虐殺」からみる、警察の歴史 -大日方純夫『警察の社会史』を読む-

 大日方純夫『警察の社会史』を読んだ。
 
 以下、気になったところだけ。



 実際には娼妓の自由廃業の前には、依然としてたかい塀がたちふさがっていた。 (略) 遊郭主と警察が結託して、廃業を願う娼妓がいると遊郭主をよびだして「示談」にさせたり、警察官が娼妓を「説諭」して廃業を思いとどまらせるなどということが多かったのである(吉見周子「売娼の実態と廃娼運動」)  (33、34頁)

 日本における「自由廃業」というものはこういうものであった。
 特攻などにおける「自由意志」というのも、こうした文脈で考えた方がよい。
 少なくとも戦前、今もそうなのかもしれないが、「自由」に自由が足りない。



 日清戦争後の産業革命による紡績業の急成長は、労働力の不足をまねき、専業の紹介人や会社に属する募集人が、詐欺まがい、誘拐まがいの方法で女工を遠隔地から募集してきたという(中村政則『労働者と農民』) (65頁)

 日清戦争あたりからすでに、こういうことは行われていた。

 「詐欺まがい、誘拐まがいの方法」を軍隊や政府が放置した時、最悪のことが起きる。
 そして、御存知の通り、起きた。



 わが国民性は徹頭徹尾、皇室中心主義である。民衆の手本となるべき警察官はいうまでもない。皇室中心・国家本位の心がけさえ忘れなければ、たとえ法規や手続きに多少問題があっても大きな失敗にはいたらない (120頁)

 警視総監・岡喜七郎「警察官と思想問題」(1919年8月)が出典である。
 
 これ、アカンやつや。

 民衆は警察化させても、警察を民主(民衆)化させるのは嫌った岡であったが、その意識が端的に表れたのが、これである。
 今でもこういう意識、消えてないと思うんだけど。



 日本の警察官は国家の官吏である。国民警察は国民のための警察ということであって、国民のサーバントではない。 (120頁)

 松井茂(戦前の警察理論のイデオローグ)の1920年6月の論である。
 松井は、近年ストライキ騒ぎを起こしたロンドンやボストンの警察官のようなことがあってはならない、とした。
 警察官の労働者としての性格を否定している。

 個人的には、警察に労働組合を設立する案に賛成したい(詳細はこちら)。



 自警団の「犯罪」は免除された。それは、この「犯罪」行為そのものが警察側のあり方と密接にかかわっていたからであった。 (184頁)

 自警団の責任を徹底的に追及すれば、それは当然のことながら警察官憲の責任に及ばざるをえなかった。したがって、「事件」を事件団員の個別的な責任として処理するため、ほどほどのところでお茶をにごしたのである。 (185頁)

 関東大震災の時の朝鮮人虐殺について。

 三田四国町自警団の一員曰く、「××来襲の警報を、貴下の部下から受けた私どもが、御注意によって自警団を組織した時、「××」を見たらば本署へつれてこい、抵抗したらば〇しても差し支えない」と、親しく貴下からうけたまわった。あの一言は寝言であったのか」。

 自警団は実質、警察の肝いりであった。
 その自警団の犯罪を問うことは、警察の落ち度につながりかねない。
 ゆえに、その責任は回避されることになった。

 皇室中心主義ってこれのことかい。



 ところで、関東大震災時の虐殺については、例えば、「根岸町の自警団にとらわれた3名の鮮人(内1名女)」が「巡査派出所に逃げ込み保護を願った所、巡査は、男二人を派出所の側に縛って現場で惨殺」したという報道を紹介しているこちら記事や、横浜に「上陸した海軍陸戦隊は、 朝鮮人放火などのデマを肯定する報告を送って」いたという一文が読めるこちらの記事や、「官憲の発表に依れば、殆ど皆風説に等しく…斯くてはその犯罪者が、果たして鮮人であったか、内地人であったかも、わからぬわけである。」と喝破した石橋湛山を紹介するこちらの記事を推薦しておきましょうかね。



  安部もまた、"警視庁は人民から委任されてもいない、警視庁として不似合いな仕事に関係することを今後はやめてもらいたい"と要求した。いずれも警視庁の機能は、犯罪捜査・処理という消極的なものにとどまるべきだというのである。 (201頁)

 力士会側が、相撲協会に対してスト籠城を起こした。
 それに対して警察は調停を行った。
 この警察の対応に対して、政治家・永井柳太郎、経済学者・堀江帰一、そして、安部磯雄は批判的だった。
 上記引用は、安倍磯雄の回答である。

 安部の指摘するように、警察の日常生活に対する介入はかなりのものであった。
 (詳細は本書をご参照あれ。)



 フランスやドイツにならってつくり上げた大陸型警察の基本構造をそのままにして、イギリスやアメリカの自治的警察のもとでの警察と国民の関係をまねようというのである。 (204頁)

 大陸型警察は中央集権的だった。
 一方で、英米型は自治的警察という国民に密接するタイプのシステムだった。
 要は、日本の警察は両者の都合のいいとこ取りをしようとしたのである。
 で、最悪の奴が完成した。

 裁判員制度とかも、そんな感じである。



 民衆が自らの警察を回復するためには、国家の警察から自治体の警察へと転換させることが前提でなければならなかった。しかし、それは警察当局者によってはまたくかえりみられることがなかった (205頁)

 日本の近代警察はプロシア警察にはらまれていた自治的性格さえも否定し去り、内務大臣指揮下の知事のもとに、極度に中央集権的・国家的な制度をもって確立された。  (214頁)

 どうだい、最低だろう?w



 一九五四年二月、政府は警察の中央集権化を企図して警察法の全面改定案を国会に提出 (221頁)

 いったん、GHQによって力を抑えられた警察機構。
 だがしかし、上記改正案によって、自治体警察と国家地方警察の二本立てという新システムは廃止され、都道府県警察に一本化された。
 こうして、中央集権的な要素は格段に強められた。

 で、現在に至る。

 あとは御覧の通りだ。



(未完)
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「児童福祉の充実」この当たり前のことができていない。 -鈴木大介『家のない少女たち』雑感-

 鈴木大介『家のない少女たち』(2008年)を読んだ。

 本書は、児童買春が法で禁じられている日本において、その違法行為をすることで生き延びている者たちの実態を描いたルポルタージュである。
 今回は、その具体例に触れた本文に対する感想は書かない。

 ここでは、本書のあとがきに当たる個所で、著者が雑誌掲載記事では書けなかった、児童福祉に対する「政策」(と思い)について書いているので、簡単に紹介する。



 児童自立支援施設の場合、児童養護施設から送られてくる子供が半数以上である。
 (児童養護施設において、触法行為がかさむと児童自立支援施設へ送致されるしくみになっている。)

 その多くが、ADHD、LD、場合によってはアスペルガー、軽い知的障害とみられる場合が少なくない(249頁)。
 朝起きると歯磨き粉のチューブ1本食べてしまったり、鉛筆1本を食べて死のうとする者もあるという。

 児童福祉の課題は、常に他の問題圏と絡み合って存在している。(ホームレス問題とかも、そうなのだが。)



 児童自立支援施設の場合、施設職員も公務員なので、福祉の文字だけが同じでも、畑違いの現場から飛ばされてくる(251頁)。
 そして公務員だから、一定期間勤めたら異動となる。
 日本の公務員制度から言えば、ふつうにみられる光景である。

 ところが、子供からすれば、職員は親であり、その親が、3年か4年でさよならしてしまう。
 ここに、制度的な軋みがある。
 (もちろん、交代することによるメリットが、こうした場合にもあるにせよ。(相手との相性の問題もある。))



 児童福祉の充実を著者は主張する(246頁)。
 普通のことに思われるかもしれないが、その普通のことができていない。
 まずは母子家庭の母親に対する就業支援等の公的扶助があれば、家出に関する問題の幾分かは解決する。

 児童福祉の充実こそ急務である、と著者はいう。
 (そのためには、予算も人員も不足している、という前提がある。)

 中卒で就業するなら、実態に即した就業支援を行うべきである。
 児童福祉に対する職員の増強、専門性の確保も。
 里親制度の充実も必要になってくる(252頁)。

 就労支援まで提唱しているのは、著者の本気度をうかがわせる。
 だが、自助と共助がうたわれて、公助が退く国において、このような対策が今後、明確に打ち出されるのか、そう期待できるものはいない(と思う)。



(未完)

「おそるべき君等の乳房夏来る」(西東三鬼)を公の文章に引用した憲法学者は、多分著者が最初。 長谷部恭男『憲法のimagination』(後編)

 再び『憲法のimagination』を読む。



 ルソーは、戦争とは相手の国の社会契約に対する攻撃であり、根本的なレベルで大戦争にいたる国家間の対立を終結させるためには、社会契約自体を変更する必要がある、と述べた(175頁)。

 で、戦前日本の憲法だと天皇主権こそ憲法原理であり、その憲法原理の変更を受け入れて戦争は終結した、と見るのが著者だ。
 そして、冷戦というのは、リベラルデモクラシーという憲法原理と共産主義という憲法原理の対立であり、それが終焉したのは、東側がリベラルデモクラシーを受け入れたためだ、という。
 いずれの場合も、戦争の継続よりも国民の生命と財産を守ることが第一だと考える政府が、戦争の原因である憲法原理を自ら変更することで戦争は終わった、と見るのである。

 無論、この解釈を行った場合、難しい点が出てくる。
 即ち、ならば中ソ対立はなぜ引き起こされたのか、ということだ。
 同じ憲法原理なはずなのである。

 まあ元々、中ソ論争の原因ってスターリン批判が端緒だし、「(憲法原理が異なるであろう)米国と平和共存してよいか否か」とか、「どっちが正しい社会主義なのか」とかのイデオロギー(≒憲法原理?)に関わるから、別にいいのかもしれないけどねw

 (なお、実際に政府が「国民の生命と財産を守ることが第一」と考えてるかどうかは、皆様の判断次第w)



 湾岸戦争のときの海外からの感謝云々について。
 湾岸戦争のとき、巨額の戦費を出したのに、クウェート政府が感謝してくれなかったよー的なことが問題になった。
 著者はこれをいちいち気にしている奴らを批判している(198頁)。

 感謝されて当然のことをしたが相手が感謝しない時、非難されるべきは相手の方じゃねえの?
 もし、感謝されて当然だと思うのなら、それを、自分に非があるって考えるのは、「自虐」じゃねえの?

 てかそもそも、感謝されるのが目的じゃなくて、国際状況の中で日本の国益に最適だと考えるから、そういう行動をとったはずだろ。
 それに比べりゃ感謝なんぞ二の次、三の次のはずだ。
「国益」のためならね。
 自分の国益や正当性を慎重に吟味してとった行動なら、国際社会の評価は後から付いてくるって考えるべきだ。
 目先の評判を選ぶなよ、って。


 確かに、著者の言わんとすることは正しい。
 そのことを、先のイラク戦争の経験は教えてくれたはずだ。

 そして著者曰く、周囲の目先の評判を考えて自衛隊の活動を決めるような政府なら、万一を「考えてその手を縛っておくにこしたことはあるまい」。
 (この場合の「周囲」ってのは、メリケン合衆国のことだよねw)



 映画『靖国』騒動について。
 著者は、その中身については、「長くね?」という感想を正直に漏らしている(確かにあれ、90分でも長いと思うよw)
 中身は、「凡作」というに尽きる。
 (それより著者が、「涼宮ハルヒが未来人や宇宙人を呼び寄せてしまうように」という形容詞を用いている所で笑ったw)。

 で、この映画への公的助成の適否の件については、著者は、政治的に無色透明な作品しか公的助成はするなという議論を支持しない。
 だって、何が政治的なんて判断も困難だし、境界線だって曖昧だ。
 曖昧な基準だけだと、製作者だって安全策を取りがちになるし創作意欲だって萎縮する。


 仮に政治的な立場について公平性や中立性を要求できるとしても、それはあくまでも、助成対象全体として何ヵ年かを通して実現されていれば足りるという考えだって出来るし、個別の作品に要求できるのは、せいぜい、著しく不公平な立場をとらないことくらいだ(207頁)。

 そりゃそーよ。
 さすが、どこぞの弁護士資格を持つ某議員さんとは、レベルが違うぜww



 投票の合理性について。
 結局一人一票しかないんだから、投票に行くのって非合理じゃない?って言う説明に対して、著者は、リチャード・タックの主張を用いて反論する。

 例えば、Aさんという候補者をBさんが支持しているとして、Bさん以外の人がAさんに2万票すれば当選する、と仮定する。
 2万票集まるかどうかは不確定だが、どうやらAさんが当選しそうな場合、その投票は無駄にならないから投票することは合理的だ。

 もし、2万票を上回りそうな場合は、Bさんがわざわざ投票する意味はないのではないか、と思われるかもしれない。
 でも、Bさんと同じような理由で他の人も投票をサボる可能性がある以上、やはり安全策をとって、投票するのが合理的だ。

 つまり、Bさんが、Aさんに当選するだけの票が集まると信じているのなら、投票に行くのは主観的には十分合理的だし、実際にAさんが当選するなら客観的にも合理的だ(216頁)。
 (例え、その当選に必要な数がはっきりとは分からない場合でも、潜在的にはその境界線を想定できるだろうから、その必要数は明確でなければならない必要はない。)
 要は、「頻度依存行動」って奴よ (知らない人はググってねw)。

 で、上記説明から思うに、死票はやはりいけない。
 小選挙区制の場合、死票を出しやすいし、どうせ投票しても当選しないよなあ、という気分を人にもたらしてしまう。
 投票率を上げたいなら、せめて、小選挙区制は止めるべきだと思うの。




 この本には、著者がアーレントを軽視する理由も書いてある。
 よーするに、このオバサンアーレントさん、政治を自己目的化してんじゃね?と批判してる。

 アーレントを真っ向から批判している人って珍しい気がするw



 あと、憲法学者の手になる文章で、「おそるべき君等の乳房夏来る」(西東三鬼)の名句を引用したのは、多分著者が最初だと思う。

東京大学 -ボクと言語と、時々、大森荘蔵- (憲法学から少し離れて) 長谷部恭男『憲法のimagination』を読む(前編)

 長谷部恭男『憲法のimagination』を読む。

 著者のユーモア(芸?)も混じえつつ、著者の憲法観が早分かりできる(?)好著だ。
 著者の学問的(及び非学問的)興味は広く面白く、そこも見所。
 「配偶者」さん(も学者。)とのやり取りも面白い。



 憲法は、公務員や裁判官等の法の解釈・執行に関わる人々の多くが、それを憲法として認め、行動するようになって、初めて憲法として成立するという(17頁)。
 (まあ、ぶっちゃけいうと究極的には、最高裁と内閣法制局の解釈次第ってことなんだろうけど。)

 で、著者はその持論に続けて述べる。
 憲法というのは、上記のような追認を経たあと、そこから遡って、「このときが憲法の制定だ」という起源も成立する。
 だから、憲法制定権力が何かとか、誰が保持してるとか、俺にはどーでもいいし、憲法の正当性を論ずる上で意味ないよ
、と。
 
 カール・シュミット、涙目(!?)www
 著者のほうが正論かも。



 著者は、ハートの影響を強く受けた憲法学者。
 法の解釈に当たる裁判官集団の実践の中で、法律っていうのは形成され維持されるのであって、無論、憲法典であっても、その文面の有効性は、裁判官集団の実践するルールに依存するよ、と(37頁)。
 ぶっちゃけいうと、素人が憲法をどう解釈しようが意味があんまりないのであって、結局、最高裁と内閣法制局がその解釈を決めるんでヨロシク、ってことだ。

 まあ、素人にくだらない解釈でかき回されるよりはマシ、なのかも。



 憲法9条の場合、著者は自衛隊の存在を認めている。
 というのも、内閣法制局と最高裁が、現状、その存在を認めているからだw
 まあ理屈としては、憲法25条の生存権や29条の財産権に抵触するからで、そのことを考えれば、まあ自衛隊も合憲だろう、と。
 これはその通りではある。
 著者は、「絶対平和主義は、それを志向しない他の国民にも、それをおしつけている」として、この主義が、著者の抱く「立憲主義」(これの内容については説明を省略)に反している、と論じる。

 確かに憲法9条の文言は、文字通り読めば、あらゆる実力装備の保有を禁じているように読める。
 でも、「一切の表現の自由」を掲げる憲法21条があるけど、わいせつ文書は取り締まられるし、私学は「公の支配に属さない」という憲法89条もあるけど、それに反する可能性のある「私学への国庫助成」は為されている。
 文字通り読む=だから正しい、ってワケじゃないのだ。



 大森荘蔵についても書いてる。
 他我問題の場合、大森の言う「立ち現れ」では、上手く他我の存在を説明できない、という。
 「立ち現れ」一元論の場合、自分以外にも他にそれを行える存在はいるはずだけど、これはどう説明すんのよ、ってことだ。
 これ自体は野矢先生の主張を引いて述べているだけだが、問題はその先だ。

 なぜ、自分はずっと大森の哲学書から離れていたのか、と著者は自問する。
 そしてそれは、大森が他我問題を解決することもなく、晩年の「過去」に対する哲学的説明(「過去」の言語実践によって作られるという内容)を、社会的制度(言語実践など)を持ちだして解決しようとしていた(ように見える)ことにあるのではないか、という(68頁)。
 つまり、他我問題を解決することなく社会的制度を持ってきていいの?、ということだ。
 
 他我問題については、論ずる術を持たないが、永井均『なぜ意識は実在しないのか』とともに、この問題は理解されるべきなのだろう、とは思う。

 「言語」とは、私に特権的なものを構造的に消去していく働きをもっているのだが、実にそのような消去的な働きをもった言語を媒介することではじめて、私は、私に特権的なものがあるということを明瞭に自覚できるようになっている 

わけだから(こちらより引用)。
 言語実践というのは、「社会的制度」である以前に、「自我と他我」という境界線自体(つまり他我問題そのもの)を作成する本源的なものだ、という理解こそ正しいんじゃないか、ってミサカはミサカは真面目に考えてみたり。



 著者はスピノザについても書いている。
 曰く、スピノザの考えというのは、"全ての行動は因果的な生理学的な説明でも出来るし、理由に基づく思考過程としての説明も出来る。これは一つの状況を二つの異なる観点から説明しているのであって、一方が他方に影響を起こしてるわけじゃないのよ"ということだ(134頁)。
 分かりやすくいうと、今キーボードを叩いている時、脳を含めた体内の数多くの生理学的変化が生じている、と記述することが出来る。
 一方、この記事を早く書かなきゃいけないので、急いで記事を書いている、というふうに思考過程を記述することも出来る。
 二つはともに並列する、異なる描き方であり、どちらが適切も不適切もない。
 つまるところ、「脳内の状態の変化のせいで、彼はいたたまれない気分になった」とかいう、「トンデモ脳科学本」にある説明は、二つを混同しているわけだ。

 このスピノザの解釈ってどこかで見たことがあると思ったら、大森荘臓の「重ね描き」そのまんまだったw(著者はそのことについて言及してないけど)。
 まさか、ここでも大森と言語(記述・描写)の話が出てくるとは。
 スピノザと大森の解釈って、似てるなあ。

取調べの現状が、日本も酷いし、他の先進国も酷い件 -再び、小坂井敏晶『人が人を裁くということ』を読む-

 小坂井敏晶『人が人を裁くということ』を再び読む。



 ある研究。
 取調べの場面を録画(録音)して、大学生と警察官に見せ、被疑者が本当のことを述べているかを答えさせた。
 嘘だと誤判断した割合の場合、大学生46%に対し、警察官は67%だった(正しいと誤判断した場合の割合はあまり変わらず)。
 この傾向は、捜査経験を積んだ人間ほど高くなる。


 つまり、取調べの訓練の結果、人の言動に疑いを抱く傾向は強くなるが、判断力自体は向上しない。
 なんてこった、取調べを重ねたベテラン刑事って、結局疑り深くなるだけなのね orz

 (まあ、この実験に対しては、「大学生の場合に比べ、警察官の場合は、自分が取り調べを受ける可能性を考慮しないので、取り調べる側の立場でしか判断しかせず、結果、嘘だと誤判断する割合が高いのではないか」と考えたのですが、どうでしょうか?)



 嘘発見器の正答率は60~75%。
 この正解率のため、嘘発見器の結果は、公判時の証拠として認められない(78頁)。


 それでも米国では、嘘発見器がしばしば用いられる。
 それは、「科学」を盾に、被疑者を動揺させるためだ。
 こうした手段が、取調べでは用いられる。



 取調べの環境について(80,81頁)。
 無実の場合、事実無根の非難を受け、怒鳴られ、煙草を吸うこととも水を飲むことも許されず、背伸びや深呼吸も妨害される。
 それを長時間、居心地の悪い狭い椅子に座らされ、音は刑事の取調べの声と机の叩く音だけが響くよう設計された部屋で、照明も不安を煽るような暗さのなかで行われる。 
 空気も悪いし、時計もない。

 もはや拷問に等しい。



 米国のミランダ警告も、実際はなおざりに読んで聞かされるだけらしい(95頁)。
 警察は被疑者が警告を理解したかを確認もしないし、弁護士立会いの権利や黙秘権を放棄するかの確認も取らずに取調べに入る。
 こんな状況にちゃんと対応できるのは、マフィアか政治犯ぐらいだろう。
 
 本書では、日本以外の先進国における取調べの現状の酷さにも触れられており、必読といえる。
 (本書によると、米国の司法取引も、結構冤罪の温床になるようだ。)




 日本の場合、自白調書中心なため、文章の上手さが裁判に影響する。
 調書は幾度の推敲を経て、犯人にしか知りえない事実が強調される一方、真犯人ならありえない供述は削られていく
(98頁)。
 多くの場合、検察官は、それを無意識のうちに行う(99頁)。

 怖いのは、こうしたことが、無実の人間を犯人に仕立て上げようとする悪意ではなく、被疑者を犯罪者と信じる正義感によって行われることだ(102頁)。
 なおのことたちが悪い。



 本書の本当の問いは、冤罪が明るみに出る度に、捜査機関や裁判所が非難されるが、究極的には、冤罪というのは構造的な原因があり、一定頻度で必ず起こることだ、ということだ(189頁)。
 著者は、別に冤罪がしょうがないといっているのではなくて、冤罪は社会的・制度的になくす努力はすべきだが、それでもなお、冤罪はなくならないだろう、ということだ(それは、社会学における「自殺」の位置づけに似ている)。
 


 フランスの留置所の環境の酷さや、刑務所内での自殺者の多さは、いうまでもなく、改善されるべきところだ(73頁)。
 正直、ぜんぜん人権先進国じゃない。反面教師にしたい。

 それでも、日本が見習うべき所もある。

 フランスのストライキ。
 2008年夏、石油価格高騰に苦しむ漁民がストライキを起こしたが、このときは漁船団で石油備蓄基地を封鎖した。
 長距離トラック運転手がストライキをして、高速道路に大型車を横倒しにして交通不能にする。
 あるいは、石油備蓄基地の入り口を封鎖して、経済を麻痺させる。
 2010年の年金制度改革に対する反対闘争では、交通手段の罷業のみならず、製油所の操業拒否までやった。
 だが、国民の7割はこれを支持した。

 政治を動かすために、どのような"賭金"が必要なのか、彼らは何よりわかっている。

日本の裁判員制度って、やっぱり有罪にしやすいみたいですよ (制度を比較したら) -小坂井敏晶『人が人を裁くということ』を読む-

 小坂井敏晶『人が人を裁くということ』を読む。



 日本の裁判員制度だと、裁判官3人全員が死刑判決を支持すれば、裁判員6人のうち2人が賛成すれば、過半数になってしまう。
 頭のいい裁判官になら、2人程度の誘導など難しくあるまい。

 他の国ならどうか(10、11頁)。
 英米系の国の場合、裁判官が行うのは、有罪判決後の量刑だけ。
 ベルギーやオーストリアの場合も同様。

 デンマークの場合、現在、裁判官3人、陪審員6人だが、裁判官2人以上に加えて、陪審員4人以上の有罪判決が必要。
 日本とは大きく違う。

 フランスの場合は、裁判官3人+参審員9人の計12人のうち、8人以上の賛成がないと有罪にはならない。

 要するに、日本の裁判員制度は、すっごい有罪にしやすい制度なのだった。(この現状は、ドイツやイタリア、ポルトガルやギリシアにも言えることらしい。)
 日本のこの制度に近いのは、フランスのヴィシー政権時の制度で、当時のヴィシー政権は、有罪にしやすくするために、このような制度にした
(21頁)。

 おい、日本の裁判員制度、ふざけんなw



 フランスの司法制度の歴史(18頁)。
 アンシアン・レジーム体制の時代、裁判官などの官職は、売買の対象だった。
 革命政権は、こうした事実上の"特権"を人民に取り返そうとした。
 陪審員制は、こうした王権支配との断絶の意味を持った。まさに、人民主権だった。
 フランスの場合、事件解明や証拠探しも裁判所が積極的に行う。


 一方で、フランスでは最近まで控訴が出来なかった(29頁)。(訂正:正しくは、「重罪の有罪判決に対して控訴が認められなかった」となります。)
 絶対的な「人民」の意思が決めた判決を、覆すことなど出来ないからだ。

 市民個々人の意思より、「一般意思」としての「人民」の意思が優先された格好。

 一方英米の場合、検察と弁護側双方の言い分を公平に聞き、検察側の意見の妥当性を検証するのが裁判所の役割で、比較的消極的。
 市民の利害調整を担う、というのが、歴史の中で、司法の役割となったため。
 市民個々人の利害の調整を優先するため、控訴も英米では当然認める。

 
 各国の司法制度には、各々歴史的背景がある。
 


 判決理由について。
 英米でも、フランスでも、歴史的背景は違うが、判決理由は求められない。
 でも、日本ではそれを求める。

 判決理由を求めるとは、どういうことか(35頁)。
 つまり、有罪判決を出す場合には、検察が出した証拠を認めればすむ。
 だが、無罪判決を出すには、検察の主張を退けるための説明が裁判官には必要となってしまう。


 多くの事案を抱え、一つ一つの犯罪解明にかけられる時間が限られる裁判官には、無罪判決を下すことが難しい。
 判決理由を求める国、つまり日本では、無罪判決が出しにくいわけだ。
 検察無双国家・日本w



 ある実験(46頁)。
 ソロモン・アッシュが行った実験で、3本の長さの違う線分をチームで測定させる際、数人のサクラが口裏を合わせて誤答を選ぶと、被験者の75%が12回中最低1回はそれに釣られてしまう。
 だが、大多数のサクラが誤答を言っても、サクラのうち一人だけは異なる回答をするようにすると、影響の確率は3分の1以下になる。
 (この場合の「異なる回答」とは、他のサクラよりもっと誤った回答の場合も含む。)

 情報源が多数なのかが問題ではなく、情報源が一つしかないことが被験者の判断に与える影響を見る実験だった。

 ここから得られる教訓は何か。
 例えば、12人中2人の少数派と、6人中1人の少数派のケース。
 どちらも同じ割合だが、多数派が行使する影響力には格段の差がある。
 情報源の"複数性"を確保するためにも、たった一人でも少数派が存在できる環境は大切。




 (追記:2011/8/7)
 ご質問いただいた様なので、返答いたします。

>ちなみに,英米仏では判決理由が求められないとのことですが,これらの国ではどのように控訴をするのでしょうか?控訴するには判決理由を検討して,事実認定や法の適用を批判する必要があると思うのですが。

 とのこと。
 いい質問ですね(by 池上氏)w

 本題に入る前にまず、英米仏の控訴の実際について触れておきます。
 こちらのブログ様(http://sendatakayuki.web.fc2.com/etc5/syohyou293.html)を参照しますと、

 まず、英米法では、「裁判官は事実認定に加われない。有罪かどうかを決定するのは市民である。無罪を覆す権限は裁判官にはない」。
 そして、「英米法では検察官上訴は許されていない。有罪判決を不服とする被告人が上訴する。上訴権は被告にある。無罪判決であればそれで結審」となります。
 要するに英米法では、市民が無罪って判断したら、もう無罪確定で、検察も控訴できません。
 (なお、英米法の国で、控訴が通った場合、控訴審を行うのは原則、職業裁判官だけとなります。)
 
 一方、大陸法諸国では、日本と同じく、検察官が控訴可能です。(この対策のために、「フランスでは控訴審で市民の意見を重視するため裁判員の人数を、第1審の9名から12名に増やした」そうです。)
 で、フランスの場合、上に書きましたが、最近になって、控訴が可能になりました。

 回り道をしてきましたが、「控訴する時どうするのか。判決理由は要らないのか」という本題です。
 正直、こちらの無知のため断定は出来ませんが、おそらく、次のようなことだと思います。

 「事実認定や法の適用」という一審に不服があるから、控訴というのがあるわけです。
 ですから、一審の判決理由を一切無視して控訴する、ということもありえるのではないでしょうか。(それに、一審で既に、互いに証拠は出し合っているはずですし。)
 ブランクにいうと、「一審の裁判員どもと裁判官どもがこんな判決を下しやがったが、俺は認めねえ。ぜったい有罪or無罪だ。一審で挙がった証拠とか、ちゃんと見て欲しいんだ。チャンスをくれ、頼む。あいつらはダメだったが、あんたなら分かってくれるよな?」っていうことだろうと思います。
 要するに、一審の「判決理由を検討」する必要なんかなくて、あくまでも、自分達の一審でのと同じ主張を、控訴の時にぶつければ十分だと思うのです。
 法学の素人のため実際の所は不明ですが、こう考えるなら、判決理由の明示は不要だと思います。
 一審判決と控訴との間に一種の断絶がある、という風に表現できるかもしれません。この考えがあってるかどうか分かりませんが。

 以上の点において、もしお詳しい方いらっしゃいましたら、ご教授ください。
 ではでは。




 (どうでもよい追記)
 はてブを見たら、

 gimonfu_usr  ア )裁判員制度を廃止 イ)日当を a.被害者救済  b.刑事弁護士手当  ウ)弁護士を減らす

というのがありまして。
 若干何を主張したいのか分からないこの文面ですが、一応コメントをしておきたいと思います。


 ①「裁判員制度廃止」というのは、当然反対です。制度は存続すべきです。
  問題は、どのように司法の場に「市民」の声を導入するかであって、廃止したんじゃ元も子もありません。
  裁判員制度、ないし、司法の場への「市民」の参加を拒否っといて、民主主義など片腹痛いw
 
 ②「日当」云々の件は、そういう意味で、単なる冗談と受け取っておきたいと思います(こんなもの、素面で書けるわけないでしょうw)。
  日当を支払ってでも、裁判員制度を続ける意義は十分あるし、続ける意味があるからこそ、本稿で指摘した問題点を解消せねばならないと考えています。

結局、「コンプライアンス」の適切な訳語は何でしょうね? -郷原信郎『検察が危ない』を読みながら-

 郷原信郎『検察が危ない』を読む。



 検察は、90年代のゼネコン絡みの事件の時、結局業界の談合構造そのものに手をつけなかった。それどころか、指名競争入札から一般競争入札になって、業者間の"調整"行為は巧妙になった、という(112頁)。
 要するに、従来の捜査方法を変えなかったツケが、今にわたって回ってる、というわけか。



 検察の特捜部は、基本休日はない。土日、祭日も出勤。プライベートなし。数ヶ月に一度、数日休みがある程度(122頁)。
 勤務も深夜まで。
 ハードすぎw

 しかも、仕事の自由もない。
 特捜部の捜査で、自分で考えて判断するのは、部長や主任検事クラスのみ。その下は、指示されるままに取り調べを行う(125頁)。
 拘束時間は長く、自分のペースで仕事が出来ない。自由がない。ずっとない。
 これじゃあ、判断能力の低下は避けられない。
 こんな毎日だと、「どうでもいいから早く決着をつけてくれ。逮捕してしまえば二十日で済む」と考えちゃっても無理はない。
 まさに、思考停止になってしまうのだ。

 給料はもらえるけど、すっごく、やりがいのない職場だなあ。



 著者は、執筆当時にあった、政治資金規正法改正案の件に批判的¥(163頁)。

 改正案だと、会計責任者の違反さえ摘発できれば、代表者、つまり政治家の監督責任を簡単に問える。
 この政治資金の報告書の案件では、検察が罰則を適用するか否かを判断するので、法改正したら、検察の意向次第で、政治家の政治生命を奪えちゃうようになる。
 ただでさえ強力な検察の力が更に強まってしまうわけだ。



 著者の考えは次の通り。

 最終的には、特捜検察に期待されてきた、政界捜査や経済犯罪捜査などに関する捜査機関の機能を、検察庁から切り離し、新たな重大犯罪捜査の専門機関を創設することが必要(185頁)。
 これが、中長期的目標。

 まずは、取調べ可視化。著者もやや慎重だが、少なくとも、検察の独自捜査についての取調べは全て可視化すべきという(187頁)。
 曰く、重大凶悪事件とかだと、自白に頼らざるを得ないから、その点難しい面がある(犯人未検挙だと社会不安を招く)が、検察独自捜査の政治がらみ・経済絡みの案件なら、そうじゃないはずだ、と。
 (個人的には、全面可視化賛成。自白云々の案件については、司法取引導入とかで対処するしかないのかも

 多数の検事からなる"常備軍"を保有する特捜部の現体制も変える(189頁)。
 捜査が本格的な段階になるまでは、正直、そんなに人は要らない。
 なので、現在特捜部の検事のうち、財政経済班所属の人間を除く大半を、東京地検のほかの部署や全国の地検に併任の形で配置し、一般事件も担当させ、一方で、特捜事件の一部も担当
する。
 こっちの方が、確かに合理的だ。



 ところで、この著者は、「コンプライアンス」という語を、ただ単なる「法令遵守」と解釈するのではなく、社会の要請に対して応答することだ、と捉えている。
 詳細は、本書や、最新刊の『組織の思考が止まるとき』をご参照いただきたいが、至極全うな指摘。
 
 コンプライアンス[com;liance]というのは、たしかに「順法」という意味だが、形式的に法律の字面に従うだけになってしまう、というわけだ。
 形容詞のcompliantだと、「迎合的な」という意味さえあるw

 しかし一方で、この形容詞には「協力的な」という意味もある。
 また、complianceには、「人の願いなどをすぐ受けいれること」という意味もある。

 コンプライアンスを"社会の要請に対して応答すること"の意味を強くして語訳すると、(正直訳しにくいけど)単に「規則応諾」とか、「規範応答」と訳した方がいいかも。
 個人的には、「規範応答」が一番いいと思う。

新聞が滅びるとか騒ぐ前に、「一般人の反論権」と「新聞社内部での発言の自由」を認めろ -ブクマを振り返っての感想-

「フランスの考え方は、表現におけるメディアの自由ではなく、個人の自由ということです。個人の自由を最大化するために、メディアは国がコントロールすべきものと考えています。少数派に発言権を与えるために、弱い新聞を公的支援で助けるわけです。ところが、日本では、メディアの自由ばかりがまかり通っています」
フランスでは、公的支援については、一般人の反論権を認めること、新聞社内部での発言の自由が与えられていることが条件だという。これに対し、日本の新聞社では、こうした条件が満たされていないと指摘する。
「明らかに、一般人の反論権を受け入れていません。トップが政権の大連立を唱えたら、それ以外の発言は許されない。意見は上層部で決め、トップが政治家と会うなど権力と癒着しています。日本の新聞は、公器ではなく私物になっているのですよ。記者クラブや社員の高給など、新聞社に特権があることも公的支援になじみませんね」

 上は、青山学院大の大石泰彦教授の論(「「苦境の新聞に公的支援を」 毎日の識者コメントに異論」『J-CASTニュース』)。
 新聞社は、自分たちが"弱者"ではなく、強者であるという自覚が必要でしょう。
 上の"メディアは国がコントロールすべきもの"という表記に、違和感があるかもしれません。しかしこれは、国家が中間団体から諸個人を解放した、という大革命時代以降の仏国の流れを考えれば、むしろ当然な事柄です(詳細は樋口陽一先生の所論をお読みください)。
 「日本では、メディアの自由ばかりがまかり通っています」という点については、まあ、記者クラブ制度での"やりたい放題"を見れば分かることです。
 そして、そのマスメディアが妨げているのが、「一般人の反論権」と「新聞社内部での発言の自由」なわけです。マスメディアの中でも、上層部がやりたい放題。まさに"私物"です。
 新聞が滅びるかどうか、ということは良く論議されますが、とりあえず新聞社側は「一般人の反論権」と「新聞社内部での発言の自由」を認めるべきでしょう。それもしないのに、公的支援とかやるようならすぐに潰れるべきでしょう。記者クラブ制度のような"独占"をやってる割に、市場の競争をネオリベ的に煽る体たらくも当然やめるべきでしょう。
 新聞が公器であるという建前があるなら、最後までそれは守るべきなのです。

(終)

言葉通りの「個人主義」、そしてロビー活動の薦め 樋口陽一『人権 (一語の辞典)』(2)

■「自分主義」ではなく、「個人主義」■
 「個人一人一人」の「選びなおし」に開かれている文化と、そうでない文化とは、「等価ではありえない」という主張も実に重要です(72頁)。例えば多文化主義に対し、「少数者への帰属」だからじゃなく、「そもそも個人であるがゆえに主体となる」(92頁)はずだ、とする考えも、それに基づきます。個人主義」というのは、本来、個人としての私、個人としてのあなたが、個人として尊重される主義のはずであり、自己中心的な主義思想とは異なるはずです。【個人】という単位での尊重、というのが肝心であり、【個人】の自分勝手云々とかいうのは、「個人主義」とは別の事柄です。
 個人一人一人を単位と考え、彼らの意思を最大限(無論、その意思とぶつかり合う個人の尊厳との係争の中で)尊重するのが、著者の主張です。マイノリティというアイデンティティへの帰属に依存するのは、そのマイノリティの中の少数派の人々(例えば、貧困地域の女性たちを見よ!)への抑圧を考えたときに、困難が生ずる、と考えます。マイノリティだから、ではなく、個人であるから、尊重されるべきと考えるのです。
 人権が文化アイデンティティを壊すという批判があります。批判者たちは、「相異への権利」を主張します。しかし、たいていその「相異」は、西欧との対比に過ぎず、その「共同体内部での「相異」は、端的に禁圧されることが多い」(67、68頁)、と著者は、反批判しています。

違憲審査制
 違憲審査制についても言及されます(97ー100頁)。この制度は、世界に先駆けてアメリカで始まり、第二次大戦後、ドイツ、イタリアでも始まることになります。なぜアメリカが最初だったのでしょうか。 
 、pともと「人権」というものは、英仏において、司法ではなく、議会が支えてきた歴史的経緯があります。国王の執行権に対抗するための議会の権利、という構図です。せっかく執行権を抑止するために議会の権利を強化したのに、ここに裁判所が立ちふさがることはまかりならなかったのです。
 そのため英仏二国において、司法が「人権」をチェックする機能を求められることはアメリカに比べて比較的遅くなったのです。
 ドイツとアメリカの違憲審査制の違いにも話は及んでいます。違憲だと認められたとき、法の当該事件への適応のみを除外する前者に対して、その対象となる法ごと失効させる後者という差があるのです。無論多くの国では、その折衷を行っていますし、米独両国も、相互の良いところを取り入れたりはしています(と、書いてあります)。
 ちなみに、前者は付随的違憲審査制といい、通常の裁判所が必要な限りにおいて違憲審査をする方式で、違憲の法令を適用することに対する個人の権利保護に重点を置きます。後者は、抽象的違憲審査制といい、違憲審査をするための特別の機関が、具体的な事件とは関係なく違憲審査をする方式で、最悪、違憲の法令を排除することもできます。
 さらにちなみに、 白田秀彰『インターネットの法と慣習』にもあったように、アメリカと日本の違憲審査制の違いも重要です。 ともに、付随的違憲審査制ですが、日本の裁判所が、憲法判断を避けようとするのに対し、アメリカの裁判所は、積極的に関ろうとします。アメリカの裁判所が違憲審査に積極的だからこそ、つまり、法の制定後も裁判所が力を振るう慣習があるからこそ、議員立法で変な法律ができてもカバーできるのです。裏を返せば、このブレーキなき日本で、議員立法をやったら大変ということです。
 逆に日本の場合、裁判所は違憲審査を嫌うので、「法律で決まったら、もうお終い」なのです。「一度法律になったものを動かすには、その法律を別の法律で乗り越えるしか方法は」ない。だから、白田氏は、立法府の議員を直接的に動かせる、投票やロビー活動を重要視しています。デモをやっても立法府への影響はこの国では高が知れているし(少なくともこれだけではダメってことです)、それなら、投票やロビー活動で立法府の議員を動かしたほうが話が早い、というわけです。
 話題がずれましたが、これは重要なことですので、書きました。念のため。

■終わりに■
 脱線もしながら書いてまりましたが、ほかにも本著には、面白い箇所があります。
 例えば、個人主義を批判する傾向に対して、著者は、「私たちの日本社会で、「疲れる」ほど「強い個人」が追い求められたことがあったろうか」(55頁)と反批判しています。「強い個人」とは、自分の意思で自己決定し、その結果を自分で引き受ける個人のことです。私見では、今の日本社会にあるのは「強い個人」ではなく、むしろ、結社(会社・企業)や国家・政府へ依存しながら、それらとの距離をとることのできない「もろい個人」ばかりと思われます。「私たちの日本社会」は、「強い個人」を疲れるほど追い求めたのではなく、そこから単に逃避したのだといえるでしょう。
 日本の政治史に関しても、自由民権運動は主に、消極的自由(「からの自由」)よりも、参政権などの積極的自由(「への自由」)を尊重しており(24頁)、この傾向に沿って、1872年の中村正直訳の『自由之理』は訳された、という興味深い事実も書かれています。普通選挙法と治安維持法が同年の1925年に出た現象も、積極的自由と代替に消極的自由が制限された点で、もしかしたら、これに対応しているといえるかもしれません。
 最後に、著者は、民主主義へのブレーキを司法(憲法)に持たせるという、一種の立憲主義をとっています。本書では詳しく触れられていませんが、著者の『個人と国家―今なぜ立憲主義か』にはそれが詳しいので、ぜひご覧ください。

(終)

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人権、あるいは企業献金について 樋口陽一『人権 (一語の辞典)』(1)

樋口陽一『人権 (一語の辞典)』三省堂 (1996/04)

■国家が生んだ人権、あるいは企業献金について■
 本著は、少ない頁数ながら、ぎっしりと内容の詰まった名著です。人権を、思想的な観点から、そして、法制度的観点から読んでいるのが特徴です。本書に関するすばらしい書評として『乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~』様もありますので、こちらもご覧ください。
 重要な点は、「国家」の存在を基盤とする「国民」の主権こそ、人権主体としての「個人」を成立させたのだ、という点です。
 人権宣言には、実は、結社の自由は書かれていません。つまり、フランス革命においては、結社の自由というのは、重要視されていない、というか敵視されていたのです。この、国家と個人との間にある、あらゆる中間集団(組合や、教会勢力を中心とする諸々の共同体)は、革命(「人権」の確立)において邪魔なものとして退けられます。(家族制度だけは例外的に組み込まれることになり、これがフェミニズムから批判される原因にもなります。)
 中間集団を壊して個人と切り離し、国家と個人との紐帯を強化する。それが完了した後、「諸個人の自由な意思でとりむすぶ近代的結社」が、国家からの自由をバックに作られるのです(43頁)。国家の認める自由を背景として、自由なる「個人」が誕生し、その自由を背景として結社が作られる。デュルケームの言う中間集団というのは、この国家と個人との紐帯を前提とした集団を指すのでしょう。
 中間集団(結社)を壊して、個人と切り離した痕跡は、現代でも法的な問題として現れています。革命期の憲法には、結社の自由は書き込まれていなかったため、1901年の結社の自由法が、憲法としての効力を持っています(42-43頁)。この痕跡は、フランス革命が生んだ「人権」の特徴を反映しています。
 しかし、日本ではかえって、その意義が認められず、結社=法人が「自然人と同じ意味で憲法上の権利の主体として扱われる」(44頁)ことになります。それにより、会社の政治資金の寄付が事実上容認(1970年八幡製鉄事件最高裁判決を参照)されてしまうのです。現在まで続く、企業の政治的献金の問題は、このような、結社=中間集団と個人との切り離しに学ぶことがなかった日本の歴史に、依拠する面が小さくないのです。

■人権のフィクション性の擁護■
 そもそも人権とは、「自己決定という形式と、個人の尊厳の不可変更性という実質価値内容の、緊張にみちた複合」である(58頁)といいます。例えば、妊娠中絶や臓器移植の問題の場合、何でも決められる意志と、意思で左右しちゃいけない個人の尊厳とがぶつかり合う。その緊張こそ、人権の要諦なのです。そしてこの緊張した綱渡りを処理する仕事が、実定法学の領域だといいます(59頁)。
 人権を建前であるとして批判する例が多いのですが、まず、この緊張具合を忘れて、批判することはできません。
 人権が建前であることの重要性にも触れています(63頁)。例えば、動物に人権的な権利を認めようとしたとき、その人が、意思主体としての人間という考えを建前に過ぎないと批判して、代わりに「苦痛の主体」という概念を導入するとしましょう。これに対しては、その時点で主張する人は、苦痛さえも感じないような症状の患者を権利主体から排除している、と反論できます。
 要は、人権はフィクションにすぎないという主張は、たいていの場合代替として持ち出されるもの自体も、少なからずフィクションを含みこんでしまうので(「伝統」という概念のフィクション性も考えよ!)、より重要なのは、フィクションを含むか否かではなく、あくまでもそのフィクションの機能振りなのです。使えれば、使うべきだし使えなくなったら改良すればいいのです(このあけすけな言い方は、ちと無防備ではありますが)。

(続く)

TAG : 樋口陽一 人権 人権宣言 フランス フランス革命 献金

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