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「きれいな被害者」を求める社会は、幼稚だと思う。 -宮地尚子『トラウマ』雑感-

 宮地尚子『トラウマ』(岩波新書)を読んだ。
 トラウマとは何か、そしてトラウマに関する諸々を学べる良書。
 初心者にもとっつきやすい。

 興味を持ったところだけ書いていく。



 裁判などで「事件の次の日も平気で仕事に行ったのは不自然」ということで犯罪報告の事実が否認されることがありますが、被害者が事件の次の日に仕事に行くというのは珍しいことではありません。(略)あまりに衝撃が強く、感情が麻痺してしまうために、事件後の被害者や遺族が「冷静」に見えるということは、少なくありません。 (12頁)

 トラウマとは、人間が抱えるにはあまりにも大きすぎる。
 それは、"平時"に生きる人間には、推し量りづらいものだ。
 上記のくだりは、まさにそれを表している。
 犯罪被害者に対して上記の点を気を付けたい。



 トラウマに「慣れる」ということはなく、むしろ次のストレスへの耐性を弱め、他の人にはトラウマにならない些細なことがトラウマになりうるということは、これまでの研究からすでに明らかになっています。 (177頁)

 「トラウマ」は、経験として蓄積されるのではなく、経験して積もった地層を破壊し、傷跡を残す。
 トラウマは人を強くするのではなく、ひたすら弱い存在へと追い込む。
 人にできるのは、そうした弱さや傷と共に生き、付き合っていくことだけだ。
 (この点について、著者はトラウマを「耕す」という表現をとっているが、詳細は本書をあたられたい。)



 身体的暴力がまったくない場合、被害者もそれをDVだと思わないことがほとんどです。けれども、「モラハラ」(モラル・ハラスメント)という言葉を知り、その内容をネットなどで検索してみて、加害者の言動とあまりにぴったり重なることに驚く被害者もいます (116頁)


 日本の調査でも、加害者に「殴ったり蹴ったり」される例は少なく、「逆らったら殺すぞ」などと「言葉で脅かされた」り、「相手の体が大きいので逆らえないと思った」という被害者が多いことがわかっています。 (139頁)

 暴力が無くてもトラウマになる。
 当たり前のことだが、見過ごされがちの点である。
 特にDVの場合は。

 暴力が無くてもDVはDVである。
 覚えておこう。


 

 私は、公私の二分法の「私」を「親密」と「個」に分け、公的領域、親密的領域、個的領域の三文法に変形させて考えることにしています。そうすると、DVとは親密的領域における暴力と支配であり、それによって被害者の個的領域が奪われることだと、すっきり捉えることができるからです。 (121頁)

 公的領域(会社とかの公の場)ではまともな面をしているのに、家では横暴、みたいな奴がいる。
 こういうやつは大抵、その暴力性が社会にばれにくいので、厄介である。

 DVというのは、「公私」の二分法で考えようとすると混乱する。
 たとえば民事不介入の良い口実として扱われかねない側面があるからだ。
 そこで著者は「私」の領域を「親密」(家族とか友人とかの領域)と「個」(文字通り一個人の領域)に分けた。
 すると、どうなるか。
 第一に考えねばならない「個人的領域」が「親密的領域」における暴力に脅かされる、だからこそ、その暴力に対して対処せねばならない (公的であれ何であれ、何らかの「介入」が必要とされる)、ということが明確になる。 



 米国の研究によると、PTSDの発症率は、自然災害を受けた人の場合五%くらいですが、レイプの場合、女性で四六%、男性で六五%ととても高くなります。日本でもいくつかの調査で、被害者の半数以上にPTSDが発症するという結果が出ています。 (131頁)

 レイプのトラウマになる率は、震災を優に超す。
 それはなぜか。
 PTSDの発生率の高さについて著者は、「性暴力被害の場合、加害者との距離が非常に近く(というより密着され、侵入されるという意味では、距離がゼロかマイナスになります)、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など、すべての身体感覚が侵襲された状況が長く続くからです。」(132頁)と説明している。
 レイプとは、相手の「自己」の身体へ、直接的に侵攻し痛めつける行為なのである。
 自分の身体から逃れられるものはいない。



 事件の判決で、神戸地裁は「被害者の落ち度」を理由に、求刑よりかなり低い刑を宣告しました。被害者がテレクラで加害者と知り合ったからだというのですが、テレクラで知り合った相手には手錠をかけられても許されると、法は社会に向かって宣言するのでしょうか。 (141頁)

 よく知られるとおり、2001年の「兵庫県監禁致死事件」の地裁判決の話である(「中国自動車道女子中学生手錠放置事件」とも)。

 「きれいな被害者」を求める社会は、幼稚だと思う。



 同じような悪ふざけを、下級生や部下に対してはするけれども、上級生や上司にはけっしてしないとしたら、それはやはり親しみではないでしょう。 (180頁)

 では何と呼ぶべきか。
 「かわいがり」と呼ぼうか。
 この社会には「かわいがり」が多すぎる。



 暴力を直接ふるうことに、たいていの人間は嫌悪や苦痛を感じるのですが、命令者と実行者を分けることで、心理的苦痛を最小限にできるというのです。 (191頁)

 グロスマン『戦場における「人殺し」の心理学』を参照して、このように述べられている。
 ミルグラム実験を想起すべきだろう。

 責任から外れると、人は容易に放埓になる。
 ギュゲースの指輪の話をも、思い浮かべるべきか。



 (未完)
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かつて、学校が生徒に、電話のかけ方から貯金の仕方まで教えていた時代があった。  -広田照幸『教育論議の作法』を読んで-

 広田照幸『教育論議の作法』を読んだ。
 面白いし、これまでの広田先生の著作のおさらいにもなる。

 特に興味深かったところだけ、以下に取り上げる。



 1947年に教育基本法案が国会で審議されていた時、貴族院議員の澤田牛麿が質問している(38頁)。
 この法案はには道徳が書かれているが、「法案ぢゃなくて、説法ではないか」と批判したのである。

 法律と道徳の区分はこの時点で、すでに理解されていたのである。

 ああ、時代は後退している。



 吉川徹『学歴分断社会』を参照しながら、著者はいう。
 誰もが同じ学歴を取得するのは無理なのだから、労働市場に目を向け、安定した仕事が高卒に割り当てられるような制度的調整が必要ではないか、と(59頁)。
 (むろん、大学の学費は、親の収入ではなく、公費によって賄うべきだろうとは思う。)

 学歴格差を埋めるのはその本質において困難なのだから、そのあとの雇用段階での格差を縮めようというのは、それ自体は真っ当な指摘だといえる。(大学いけなかったら人生詰みなんていけないだろう)
 日本の社会がその真っ当なことを、やる気があるかどうかは微妙だけど。



 国立大学の(独立行政)法人化について(67頁)。
 
 次のような結果を生んだ。 

 絶えず改革をし続けろ、と命ぜられる。
 結果、会議が増える。
 書類提出が増える。
 予算確保や利害調整で、学内政治が横行する。
 人間関係がギスギスする。
 教育の準備や研究のための地道な作業に割り当てる時間が減る。

 若干誇張がなくもないけど、だいたいあってる。

 一体だれだ、法人化を唱えたやつは。



 日本の教員の仕事はチームでの労働である(72、73頁)。

 まず、分業と協力がある。
 一見当たり前だが、これが日本の教員の仕事の特徴である。

 そこで、教員間で統一した方針で指導に当たり、情報を共有する。
 教員の間でバラバラだと、親や子の信頼を失うからである。
 問題ある児童や生徒の話は、情報共有され、同僚の協力で解決に取り組まれている。
 
 そして、日本の教員は同僚や先輩からアドバイスを受けながら自己改善を図る。
 こうした教員同士の授業研究や自発的な交流は、諸外国から高く評価されている。
 アメリカでも、近年は日本から学んで授業研究の導入が進められている。
 (実例としてこの記事などを参照。)

 メンバーシップ型などと呼ばれる雇用・仕事形態の日本では、あまり驚かれないことかもしれないが、こういうのって、海外とはずいぶん違う点なのである。



 PDCAサイクルを教育現場に持っていった場合の問題点とはなにか(115ー117頁)。
 注意すべきところは何か。

 例えば、PLANを上から降ってくるような動きがないか。
 現場に関わりのないところから指示が行っていないか。

 CHECKもまた、現場や当事者間ではなく行政がする仕組みではないか。
 こういう場合、ますます教育委員会から指示される通りに動こうという思考停止になる。

 ACTも、評価結果を予算配分や人事に反映させていく方向ではないか。
 この場合、現場の当事者が自分たちの職場を良くしていくためではなく、外部の教育行政が、個々の学校や教職員をコントロールするために、PDCAサイクルが利用されてしまう。

 PDCAサイクルは、現場の創意工夫と自由の確保ではなく、より徹底した統制をもたらす道具として、使われがちである。
 そして特に、教育の現場では、後者として使用されるケースが多い。



 環境問題について米国で書かれた子供向けの本(翻訳書)を読んでいたら、環境にやさしい商品を使おう、とかのトピックと一緒に、みんなで抗議のデモをしてみよう、とか、環境を破壊する会社に抗議の手紙を出そう、等のトピックが並んでいたらしい(118、119頁)。

 デモがテロ呼ばわりされる国とはえらい違いであるw



 今の社会はお互いを助けあう気持ちが希薄化している、と保守政治家がいうのなら、教員はもっと教職員組合に入れ、というべきである(132頁)。
 非組合員は組合員の「頑張り」(使側との交渉の成果)をフリーライドしているのだから、この考えは至って当然である。

 政府はむしろ組合加盟を奨励すべきだろう。
 「自助」に次いで「共助」などと抜かしているのだから、組合加盟くらい奨励して当然である。
 (家族や会社はいいのに、組合はダメ、というのは、とんだご都合主義である) 



 戦前は、電話のかけ方を中学校で教わったこともあったという(四国の農村の事例)。
 中学校を卒業すると、多くは就職するので、その対策だろう、と考えられる。
 当時、農村地域では自宅に電話を持っている家庭は、ごく稀だった。
 周囲にいる大人たちも、電話の応対の作法は良く知らなかったはずである。
 農村地域で生きてきた大人たちにとって、会社や工場での仕事の仕方や対人作法は、異文化だっただろうと考えられる。
 かつての時代、学校はローカルな狭い地域や家庭から抜け出して、子供たちが広い社会で生きていくために必要な知識や生活のルールを学ぶ場だったのである(144-6頁)。

 昔は親がしっかり責任を持って子供のしつけをした、と思い込んでいる人には意外だろう。

 さらに、1950年代に静岡で行われた調査によると、服装や礼儀作法、食事の作法、衛生習慣、予習復習のしつけ、貯金等、多方面にわたって、学校が行っていた。
 最近の親は子供のしつけを学校任せにする、というのは間違った見方なのである。

 さすが、広田先生、『日本人のしつけは衰退したか』を書いただけのことはある。



 ちなみに、非行・犯罪統計をきちんと分析してみると、問題を起こす子供たちの大半は、大人になる頃には、ちゃんとまともになっている(174頁)。
 これは広田自身の『教育言説の歴史社会学』に依っている。



(未完)

「格差」を是正しなければならない時。 -「不法入国」から「金融危機」まで- ミラノヴィッチ『不平等について』を読んで

 ミラノヴィッチ『不平等について』を読了。

 あのトマス・ポッゲが推薦していたので、読んだ。
 曰く、「楽しみ満載のこの本で、経済的不平等という深刻な主題について学んでみよう!」

 特に面白かったところだけ。



 ソ連などの社会主義国家について(61、62頁)。

 ノーメンクラトゥーラ(社会主義国における支配階級)の特権は、仕事に付随しており、党綱領に抵触する反抗的な態度は、直ちに降格を意味した。
 そして、降格すると、全ての特権を失う。
 実は、最高幹部の賃金でさえ、一般労働者やサラリーマンと比べてもそれほど高くなかったのである。
 (非金銭的な、別荘や食料配給優先権などの特権などはあった。)

 そのため、貯蓄して頼りにできるような、私的財産を築くことはできなかった。
 すると、どうなるか。
 資産の蓄えもできず、所得と特権が仕事に結びついていたのなら、波風を立てたくない気持ちは非常に強くなる。
 起こるのは、事なかれ主義(官僚主義)の蔓延である。
 職務とそれに付随する特権は、結果、「人質」として作用したのである。



 著者曰く、エリートたちが、その支配をイデオロギー的に正当化しようとする一方で、それに合致しない行動をとることの重大性こそが、社会主義における教訓である。
 (社会主義なのに特権階級、という矛盾。)
 そして、ウォール街の金融エリートたちも、この教訓を肝に銘じてしかるべきだ、と著者は言う(63頁)。
 (金融危機以降の彼らの醜態を見よ。)



 国籍と両親の所得階層、この二つの要因だけで、個人所得の80%を説明可能であるという(115頁)。
 ちなみに、その他は、性別、年齢、人種、運、努力、勤勉さなどである。

 生まれで、個人の所得がほとんど決まってしまう、という現実。
 当然、その現実に抗おうとする奴らが出てくる。
 先進国へ移民を試みる者たちである。
 先進国へ入国するツテのない奴は不法に入国するしかない。

 しかし、先進国も発展途上国も、こうした不法入国によって死んだ奴を無視する。



 EUは、数百隻の高速モーターボートを使って、必死に上陸を試みるアフリカ・マグレブ諸国の人々を阻止している。
 毎年二十万人もの人々が、(おもに夜間に)老朽船に乗って生命の危険を冒している。
 そして、推定するに、数百名が命を落としている。
 その死に関しては、欧州諸国もアフリカ・マグレブ諸国も、双方が申し合せたように沈黙を守っている。
 名もなき人々が無視されたまま日々死んでいる。
 その遺骸は、地中海の冷たい水の中に朽ち果てている(121頁)。

 ちなみに、本書では、米墨間の国境フェンスにも、同じように言及している。

 この非常な現実において、もし、こうした不法入国者を認めないというなら、どうすればいいか。
 やはり生まれた国(発展途上国)自体を、徐々にではあるにせよ、富ませる方向しかない。
 つまり、先進国側が発展途上国側の経済成長(&再分配)を助けることで、グローバルな格差を是正するという方法しかない。

 その助ける(援助する)方法は様々に議論されているが、ここではそれには触れない。



  米国では、上位1パーセントの富裕層の所得が国民所得全体に占める割合が、1970年代中ごろは、8%程度だった。
 これが2000年代初頭には、ほぼ16パーセントに増加した(175頁)。

 その結果、何が起こったのか。

 所得の不平等が深刻化して、利用可能な莫大な金融資本がため込まれた(176頁)。
 貯めこんだ者たちは、より有利な投資機会を求めるようになった。
 そこで、金融機関に莫大な資金が殺到したが、良好な投資機会は不足していた。
 彼らは、新規の融資案件を求めた。

 いっぽう、中間層の賃金を上げる事が出来なかった政治家たちは、中間層が以前よりも多く稼いでいるかのように見せかける必要があった(177頁)。
 どんな方法を使ったのか。
 信用取引の敷居を低くして、間口を広げたのである。
 すると、中間層の購買力は高まった。
 彼らは、住宅ローンなどを増やし、クレジットカードの借金を膨らませていった。

 貸し借りの需要は上手く合った。
 貸す側は、投資先が見つかるし、借りる側は、お金を借りて消費が出来て、どっちもハッピーである。
 好景気が続いた。
 ずっと上手くいくはずだった。
 この調子がずっと続く限りは。

 だが、中間層が債務不履行に陥ったとたんに、アメリカンドリームは崩壊した(178頁)。
 金融危機である。



 著者曰く、金融危機の真因は所得分布における多大な不平等であり、この不平等がますます多くの投資待機資金を生み出したのである、と。
 そして、(金持ちの)利益増大に利用されたのである、と。

 中間層の所得拡大が不十分だという政治的な課題は、低利融資の間口を広げることで解決した、かにみえたのだが、結末はご存知の通りだ。

 とすれば、何をしなければならないか。
 問題の根本(「格差」)を解決することである。

(未完)

『これからの「国家」の話をしよう』(みたいなタイトルには、ならなかったw) -杉田敦(編)『連続討論 「国家」は、いま』を読む-

 杉田敦(編)『連続討論 「国家」は、いま――福祉・市場・教育・暴力をめぐって』を読む。
 
 本書の要点は、このブログが書いておられるので省略する(http://anglo.exblog.jp/12598554/)。
 巻末で杉田先生が述べている、国家は完全に肯定も、かといって完全に否定も、どっちもできない代物なのよ、的な話だ。

 個人的には、広田照幸先生がめっさ大活躍した「教育」の章が一番面白かった。
 「暴力」の章での、石川健治先生のウェーバーの「暴力論」に関する件も面白かった。
 是非読んで確かめて欲しい所だが。

 特に気になった所だけ。



 石川健治先生曰く、そもそも塾というのは、補習などの教授技術を専門にしているのだから、学校に勝るのは当然じゃねえの、というお話(117頁)。
 学校って、良くも悪くも、教授技術以外の部分も担わされていたわけであって、もしも教育技術だけに特化させようとするなら、代替の機関なり組織なりが必要になっちゃうわけだ。
 教育技術以外の部分、つまり、「コミュニティ」としての役割
を、日本社会において学校がどのように担わされてきたかについては、柳治男『<学級>の歴史学』を参照のこと。



 広田先生曰く、ロバート・アスピノールの研究によると、多くの国の教員組合は、どれも政治的に極端な立場を取っているわけではないが、教育への行政の介入は嫌う傾向がある、という(126頁)。
 実際の所、日教組なんぞは、他国の教員組合と大して相異ないってことだろう(ちなみに、全教すら知らないのに、只管、日教組を叩いている奴もいると聞くw)。
 教育に対し行政が介入を強めようとしている昨今、アスピノールの研究はもっと知られるべき、と思う。



 その広田先生、日本におけるコミュニティ・スクールの制度的問題についても語っている(132頁)。
 
 日本の場合、組織内部での意見対立が激しくなって、円滑な運営が難しくなった場合、コミュニティ・スクールの指定が取り消される可能性のある制度になっている。
 一見よさそうに見えるが、この制度だと、内部での多様で活発な意見などが出にくくなってしまい、画一的で一元的なコミュニティしか、作れなくなる可能性もある。
 これだと、いったい何のために、「普通」の学校を離れてコミュニティ・スクールを作ったんだよ、「普通」の学校の画一性から離れるためじゃなかったのか、という話だ。



 教科書の検定制度は、行政の一部が行うのではなくて、行政から一定度独立した機構が行うのが一番よいかもしれない、という意見が出た(141頁)。
 まあ、その通りだろう。
 最近の原発事故を見ていると、「行政から一定度独立した機構」ってどうやって作ればいいんだろう、とか思ってしまうのだが。
 (「アームズ・レングスの原則」http://eigageijutsu.com/article/149097085.htmlも参照あれ)。



 そして、教育の力をあまりにも過信してはいけない、教師も学校もあくまでワンオブゼムにすぎない、という意見(151頁)。
 左右が多様に存在し、様々な意見に触れる経験・機会がある限り、そう簡単に「洗脳」なんてされない。
 むしろ、そういった多様性を、国などが強制して押さえてしまうことの方が危険だろう、という話。

 教育の力を過信するな、は正しいだろう。うん。
 もちろんここで言われる「多様性」というのは、「歴史修正主義」のような低品質商品を含んで欲しくはないんだがw



 市野川容孝先生曰く、戦前の「国民優生法」はあまり機能しなかった、という話(203頁)。
 優生学が日本で機能したのはむしろ戦後だ、というのは先生の持論だが、何故戦前は機能不全だったか。

 その背景には、「家」の血筋を絶やしてはならない、という「家」の論理(家族国家イデオロギー)があった、という。
 総動員体制は、家族国家イデオロギーを与件としているため、それとぶつかり合った結果、あまり機能しなかったわけだ。
 (一方で、戦前でも、ハンセン病者の隔離政策は機能した。)



 新川敏光先生曰く、家計内の富の移転というのもある、という話(20頁)。
 つまり、高齢者が、子供のローンや孫の教育費を払うケースは多いが、巷の議論ではあまり想定されていない、というわけだ。
 「世代間格差」云々というのが取りざたされるとき、こういうのは忘れ去られる。

 結局のところ、問題になるのは、同世代内での所得格差だったり、もしくは、(ハビトゥスまで含む広義の)「相続」による格差の方だったりするのだが。
 「世代間格差」なんて、上記二つの格差に比べればマヤカシみたいなもんじゃないんですかね?

 (終)

住居が「権利」ではなく、経済の「燃料」にされてきた戦後日本の歳月 -平山洋介『東京の果てに』を読む-

 平山洋介『東京の果てに』を読む。
 良書。
 内容については、こちらの書評をお勧めしたい。

 なかでも、"福祉としての住宅"という問題に関して興味深い箇所があるので、これについて書いておく。
 (著者は、のちに『住宅政策のどこが問題か』という本を書いており、これは必読されるべき。)



 地方分権が叫ばれる昨今だが、住宅政策の場合、その結果何が生まれたか。

 分権の結果、地域間の競争関係が生起する。
 そして、そうした各地域政府が求めるのは、中間層であり、彼ら向けの住宅市場を拡張しようとする。
 これにより、税の増収と消費力(購買力)を得ようとするわけだ。

 一方、低所得者向けの住宅政策の場合、逆に税収に寄与せず、福祉関係の支出を増大させるものと見なされる。
 結果、彼ら向けの公営住宅の建築は、縮小させられてしまう。

 住宅政策の分権化は、他の福祉政策に見られるのと同様、低所得者向けの施策をいっそう減退させる(226頁)。
 分権化とは、原則的には福祉の敵であり、それは住宅政策においても例外じゃない。



 もっとも日本の場合、住宅政策は歴史的に、経済に活力を与えるエンジンとしての役割を担わされ、持ち家を推進する方向へ舵が切られる一方、福祉としての公営住宅等の役割はおろそかにされてきた。

 乏しい財源しか与えられない公営住宅に対する政策は、結果、その対象を絞ることとなる。
 それが、入居世帯のカテゴリー化の促進を生んだ。

 すなわち、公営住宅の対象を、低所得者全体にではなく、その中の「カテゴリー」に当てはまる世帯に絞ることである(231頁)。
 カテゴリーとは、「高齢者」、「障害者」、「母子家庭」、「災害被害者」、「ホームレス」などの"表徴"を指す。

 上記の諸カテゴリーに当てはまらない世帯は、逆に、どんなに住宅に困窮していても救済されない(233頁)。
 カテゴリー各々は一応問題視される一方で、それらから外れた住宅困窮は、見えないものとされていった。

 (あまり関係のないことだが、何一つスティグマがないゆえに、却って外へ出られなくなってしまった「引きこもり」の存在を思い出した。)
 


 政策文書なんかには、「真の住宅困窮者」という言葉が出てくる(235頁)。
 要は、「真の住宅困窮者」じゃない「真じゃない住宅困窮者」をハブろうとしているわけだ(まるで、「本当に貧しい人」とか「本当に真面目に頑張っている公務員」みたいな論法じゃないのw)。

 この場合は、低所得者に対する住宅施策の不足を前提にして、比較的困窮していないと見なした世帯から順にハブっていく(比較的資産がある、だとか、収入が比較的ある、だとか)。
 低所得者に対する住宅施策の不足は、動かぬ前提とされてしまい、これを変える動きは殆どなかった。
 こうした「住宅困窮の量が住宅対策の供給量を決めるのではなく、対策規模の制限が困窮度の競争関係を形成」するという実に本末転倒な事態
が、日本ではまだ続いている(235頁)。



 著者が考える対策は何か。
 それは、民間借家に対する家賃補助である(237頁)。
 公営住宅に入居できない世帯にも公的援助が届く。

 実際、過去に社会資本整備審議会が、家賃補助導入の必要性を示唆したこともあった。
 しかし、結局、「技術上の課題」を理由に退けられたようだ。
 背景にあるのは、戦後日本の「住宅供給と経済開発を密接に関連づけ」る政策であり、建築投資に結びつかない施策への忌避がある。

 住居を、「社会保障」の面よりも、経済的な「財」の面ばかりで捉えてきた後遺症は、まだまだ行政の深部に残存しているらしい。

「新自由主義的医療改革の本質的ジレンマ」 -医療と経済の常識- 二木立『医療改革』を読む

 二木立『医療改革』を読む。



 小泉政権における、医療に対する新自由主義的改革がなぜ挫折したのか。
 そこには根底的な理由がある。
 新自由主義的医療改革を行うと、企業の市場は拡大する一方で、医療費(総医療費と公的医療費の両方)も拡大し、これが医療費抑制という方針に反するためだ。
 著者はこれを、「新自由主義的医療改革の本質的ジレンマ」と呼んでいる
(5頁)。
 
 根拠は何か。
 それは高所得国における医療改革で、次のことが確認されるからだ。
 1、営利病院は非営利病院に比べ、総医療費を増加させ、しかも医療の質は低い。
 2、混合診療を全面解禁するには、私的医療保険を普及させることが不可欠だが、私的医療保険は医療利用を誘発し(儲けるためだね。)、公的医療費・総医療費が増加する。
 3、保険者機能の強化によって、医療保険の事務管理費が増加する。

 要は、医療を営利目的にやると、儲けようというインセンティブが働くから、却って、総医療費が増えてしまうわけだ。
 しかも、混合診療のような、公費負担が私的医療の増加に伴って増える仕組みの場合、公的医療費も当然増える、って訳だ。
 皮肉なこったw



 医療効率化で医療の質の向上と医療費抑制の両立、って言うのは、幻想だと著者は言う(11頁)。

 当たり前だが、医療というのは人件費が5割を占める労働集約型産業であって、しかも、医療技術の進歩で人件費が減ることはほとんどないどころか、増加することの方が多い。
 少なくとも、マクロレベルでは、医療の質の向上と医療費抑制の両立は不可能
、というわけだ。

 医療というのは、そもそも、技術が向上すればするほど、却って、患者の「潜在的需要」を掘り起こしてしまう。
 要は、これまでの医療では治らなかった病気の人が、技術的進歩で延命できるようになる。
 そうすると、医療という供給が、潜在的需要を喚起
するという、セイの法則っぽい事態が巻き起こってしまうわけだ。
 「医師誘発需要理論(仮説)」という奴だ。



 インフォームド・コンセントについて。
 これは、医師の意識改革だけでどうこうなる問題じゃない。
 当然医師や医療従事者が時間的余裕を持つことが不可欠になる(26頁)。
 少し考えりゃ判ることだ。
 イギリスの著名な脳外科医ジュネット氏のよると「患者との会話は労働集約的であり、時間を必要とし、それはコストにはねかえる」。

 そりゃそーだw



 米国の禁煙プログラムの医療費節減効果の話。
 それによると、禁煙プログラムの実施により、医療費は短期的には減少する。
 しかし、喫煙を止めた人々の余命の延長とそれによる医療費増加のため、長期的には(15年後以降は)累積医療費は増加に転じる(31頁)。
 
 著者は、この論理は、リハビテーションや、介護予防、生活習慣病対策にも当てはまる、と判断している。

 著者は、もちろん、だからこういった類のものを止めてしまえなどと、主張しているわけではない。
 そうではなく、あくまで患者や障害者のQOL向上のために行うべきであって、医療費抑制などを見込むのは危険だよ、といっているわけだ。



 オリックスの宮内会長サマの素敵な名言(49頁)。

 [混合診療は]国民がもっとさまざまな医療を受けたければ、『健康保険はここまでですよ』、後は『自分でお支払いください』という形です。金持ち優遇だと批判されますが、金持ちでなくとも、高度医療を受けたければ、家を売ってでも受けるという選択をする人もいるでしょう

 貧乏人に払う金はないわけですかww

 検索すると、この名言は知られてるみたいね。
 


 高齢化と医療の因果関係。

 昔、当時厚生省に勤務していた頃の広井良典氏は、ヨーロッパと日本の高齢化率とその進展の違いを見ないで、日本の医療費を大幅にひき上げたら、2020年頃の高齢化のピーク時には日本の医療費はヨーロッパ諸国をはるかに上回ってしまうはずだ、と述べた(94頁)。
 著者に意見に対して批判したわけだ。

 で、実際どうなったか。
 現在、日本の高齢化率はヨーロッパ諸国より高くなった。
 しかし、日本の医療費は国際的に見てまだ低い水準に留まったままだ。

 これは、平成17年度の『経済財政白書』でもきちんと認められた事実だ。
 2005年という小泉改革真っ只中の時期の白書できっちり認められた事実である。

 よーするに、高齢化と医療費は因果関係は思いのほか大きくないのよ。



 日本だと、民間保険っていうのは、個人が全ての保険料を負担する個人保険を連想しがちだ。
 しかし、欧米諸国の民間医療保険には、企業や雇用主が保険料を全て、もしくは大半負担するものは少なくない(205頁)。
 米国ではむしろそれが主流だ。
 
 統計とかで、結構気をつけないといけない点らしい。
 (民間保健負担分をイコール患者の自己負担、として扱ってしまうケースがあるからだ。)

 なお、日本の「実質患者負担割合」は先進国の中でも最上位ランクである(204頁)。
 良く覚えておくように。



 軽費医療の総医療費シェアというのはどの程度か。
 結構、この軽費医療を保険給付から外すべしとの意見は根強い。

 で、実際はどうか。
 1998年段階で、レセプト点数下位80%未満の患者の医療費シェアは25%。
 仮に、軽費医療の患者の自己負担を一律5割に引上げたとしても、浮く総医療費はたった1割程度に過ぎない。
 
 じゃあ超高額医療の総医療費シェアはどうか。
 2003年の付き1000万円以上のレセプトは101件、その医療費は、健保組合の医療給付総額の0.05%程度に過ぎない。
 超高額医療の患者が医療保険財政を圧迫しているとかは、憶説に過ぎない。

 結構勘違いしやすい、医療あるある、である。




(追記 2011/12/30)
 ブクマで、

 bn2islander 「喫煙を止めた人々の余命の延長とそれによる医療費増加」と「高齢化と医療費は因果関係は思いのほか大きくない」は矛盾する

というコメをいただいきました。
 まず単純に考えて、「医療費増加」という表記と、「因果関係は思いのほか大きくない」では、ニュアンスが違う以上、「矛盾する」という表現は適切ではありません。
 最低限「齟齬があるのではないか」が適切と思われます。


 で、本題。

 前者は、禁煙しない場合の医療費と、禁煙して延命した場合の医療費との比較の問題であり、「長期的には(15年後以降は)累積医療費は増加に転じる」という話です。
 誤解なきよう。

 対して、後者は、高齢化と医療費との因果関係であり、データ的に大きくありません(参照元の権丈先生は、もっと丁寧に 「有意な相関は、まったくない」 と言っています)。

 結局、「医療費の額は結局、社会のパイの中からどれだけ使うかという政治的な判断、つまり医療への政策スタンスで決まっている」。

 実際、日本は先進7カ国で最も高齢化率が高いが、国内総生産(GDP)比でみた医療費は最も少ない。

ワケですから(参照:http://plaza.rakuten.co.jp/wellness21jp/3050)。

 前者によって、医療費増加はするでしょうけど、それは、後者で見たように、マクロ的には大きなものではありません。
 つまり、そういうことです。(参考:http://bewaad.sakura.ne.jp/20061018.html)

広電労組に学ぶ、ストライキの正しい方法と今後の労組のあり方 -河西宏祐『路面電車を守った労働組合』を読む

 河西宏祐『路面電車を守った労働組合 私鉄広電支部・小原保行と労働者群像』は、全労組の組合員必読の内容といってもよい。



 例えば効果的なストの打ち方については、「ストライキは最も効果的な時期をねらってやる。たとえ一時間のストであっても数倍の効果を発揮する。」と述べている。
 具体的には、「一番いい時期をみて、ストライキを三日やれ。いまから運動に入ったら、会社がいちばん困るのは花見どき、夏山、秋の季節がいちばんいいときだ。そういう時期に、二日ないし三日のストライキをやれ。無制限ストみたいなバカなストライキはやらない。」
 これが、本のタイトルにもなっている、広電労組のリーダー・小原保行の闘い方だった。



 だがストの間の資金はどうするのか。
 小原の答えは、「特産品を売って歩け」だった。
 短期で最も効果のある時期に集中してストを打ち、それまでの資金は、「地区労の組合員の居住者名簿をつくって、一軒一軒まわって特産品を売って歩け」というのが、小原の手法だった。
 「物販(物資販売)運動で、三日分の人件費が集められれば」、その分のストができる。
 当然、長期戦になるが、「何年かかっても闘争する。そのための長期闘争方針をつくれ。」
 


 小原は少数派の第一組合に属していた。そして、多数派だった第二組合を切り崩し、幾十年かけて遂に人数は逆転する。
 方法としては、(これは小原自身の言葉ではないが)、「第一組合にとって最大の問題は、第一組合か第二組合かの差別だけに埋没することなんです。第二組合のなかにも同じく差別があるんですよ。(略)だから、第二組合のなかにクサビを打ち込める条件がある」
 この考えで、少しずつ、第二組合を切り崩していった。(具体的な手法は本書参照。)
 


 小原は、「会社というのは損益分岐点を境にして、モノの考え方がコロッと変わるんです。損益分岐点を境にして、赤が出ればダメ、ちょっとでも黒が出れば、その黒をいかに大きくするかということに必死になる。」と述べている。
 そして、「労働者が知恵をふりしぼって、会社側よりももっと上手に経営をやってみせる。そして、黒字経営を実現してみせる。そのことによって職場と雇用と労働条件を守る」。

 路面電車が赤字となって、会社側が事業を止めようとした時、路面電車を何とか黒字にして守ろうとしたのは、労働組合だった。
 そこで働く労働者を守るためだった。
 そのために、あらゆる手を尽くした。
 顧客の無駄な待ち時間を減らし、そのために仕事が増えることもいとわない。
 さらには、県・市に訴えて、「公共交通優先の交通政策をおこなうようにと、組合役員が各党派の県会議員・市会議員に要請してまわった。県・市との交渉のさいには、議員に同行してもらったり、議会での質問を要請したりもしている」。
 全国各地で路面電車がなくなっていく中で、広島には路面電車が残った。
 今、広島に名物の路面電車があるのは、小原たち労働組合のおかげである。



 小原の一番すごい発想はこれだろう。
 「ええ、会社の資本金まで貯める。赤字じゃ何じゃといったら、会社を買ってやろうかというぐらい貯める」
 労組は経営もやれる、といっているのだ。
 「経営者がまた失敗して赤字を出して倒産騒ぎをおこしたら、労働者は家族ぐるみで路頭に迷うことになる。そうなったら、組合が会社を買収して、もっとうまく会社経営をしてみせる。そうして、職場と雇用を守り、労働者の家族の生活を守る。」
 万年野党ではなく、政権をとって代われる野党として、組合があるべきだという。
 もしかしたら、労働組合のあるべき姿は、ここにあるのかもしれない。



 小原は「職制労働者にたいして「糾弾」する場合の線引きを明示」した。
 当たり前かもしれないが、自分側のルールも示さずに単に糾弾だけする某マスコミの皆様を考えれば、これは実に重要なことだ。
 「叩くときに、なぜ叩くのか、彼が何をしたからこうなるんだということを絶えず明らかにしませんと、何でもないようなことで叩かれるという認識をもたせると憎しみになってきますから」
 公務員叩きとか、いろんなものを叩くときに、こういう言葉を忘れずにいたい。自戒。



 なぜ小原は、上記のようなルールを明確にしたのか。
 それは、「三井三池労組は、職制労働者を敵視して徹底的に攻撃することを職場闘争としたことがある」という経緯があるためだ。
 「三井三池争議(一九六〇年)において同労組が敗北し、これを契機として日本の労働運動は衰退の一途を辿ることになった」。
 小原がこの敗北から学んだのが、職制労働者を絶対的な敵にしない、ということだった。

 学ぶべきことはまだある。
 本書を参照されたい。

天皇のリコール権まで入った、憲法草案

■アリスさん「でっかい東北です。」■

 諸外国と比較すると、東北地方の総面積はほぼラトビアやリトアニアの面積に匹敵し、オランダやデンマーク、スイスやボスニア・ヘルツェゴビナよりも広いのです。 (某書より引用)



■見た目と違って。■

 (引用者注: イザベラ・)バードは表面上の「未開」と内実の豊かさ・充実を見抜き、黒石から青森へ向かう間も、「人びとの姿もたいそう汚かったが、特に貧困であるという様子はなかった。北海道から魚を運んできたり米を運んで行くための馬や馬子の代金として多額の金を得ているにちがいない」と人々の満ち足りた生活を描写しています。 (某書より引用)



■天皇のリコール権まで入った、民権運動時代の憲法草案■

 小田為綱は […] 盛岡藩士の子として生まれ、維新後には藩校作人館で原敬・那珂通世・佐藤昌介らを指導しており、のちに天皇リコール権、普通選挙、人民の抵抗権などを主張した「憲法草稿評林」の筆者と推定されている人物です。 (某書より引用)



■鷹架村とはつまり・・・■

 鷹架村は戸数三〇あまり […] 「平和安穏」の地であり、都会の絶え間ない「鬱悒」とは無縁の世界でした。しかし、 […] 一九七〇年代からの臨海工業地帯建設をめざす、むつ小川原開発計画や一九八〇年代からの核燃料再処理工場計画の中心にあたります。



■八甲田雪中行軍遭難事件への報道の結果・・・■

 遭難事故の背後にあった陸軍首脳部の非人間的な戦術の採用といった問題は隠蔽されていったのです。



■羯南「東北はスコットランドたれ」■

 羯南は東北のもつ歴史的な不遇さと特異さを自覚していたのであり、日本のなかでも固有な位置にあることを承知していました。晩年 […] 『日本』に掲載された「北日本と北英国」は東北とスコットランドの比較論ですが、その不遇さを超克しようとする東北人羯南の叫びがそこに聞こえます。
 […]
 東北はスコットランドたれ、東北人は東北人たることを誇れ、という叫びです。国民主義者・日本主義者といわれる羯南ですが、その根底には中央主導の近代化に踏みにじられた東北人の視点がありました。



■実質の「遅れた地域」になるのは20世紀になってから■

 人口移動を見ても、一八八〇年代・一八九〇年代では東北の人口増加は、全体として全国平均値を上回るか全国平均値前後の増加率で推移しています。東北の可能性が薄らいでくるのは、東京を中心とする国内の陸上交通網が確立し、たびかさなる大凶作でダメージを受ける二〇世紀に入ってからのことです。

「じゃましマン」が凄過ぎる、という結論しかない -松本哉、二木信,編『素人の乱』を読んで-

 松本哉、二木信,編『素人の乱』を読む。



 松本の証言によると、PSE法の時は、「国会議員に訴えたりマスコミとやりとりしたりが多かった」らしく、そっち方で忙しかったそうな(111頁)。
 マスコミへの電話やファックス、政党や国会議員へのコンタクトなどで、結構大変だったらしい。

 曽我部恵一が反PSE法デモに出るきっかけはこういう活動の中でだった、と本書には書いてある。

 「素人の乱」も、ちゃんとこういう活動してたんだなあ。
 ロビングロビイングとかもしたほうがいいんじゃないか、とか思ってたけど、もうとっくにやってたのね。
 知らんで大変申し訳ない。
 (あと、「ロビング」って誤記して申し訳ない。)



 本書で最も面白人間は、「じゃましマン」という人物である(120-122頁)。
 本書で書かれた、その人の特徴を記載すると、だいたい以下の通り。

・高円寺の阿波踊りで、なぜか豹柄のビキニを着た金髪で、タイガースの帽子にジャイアンツマークを付けて、その上にジャイアンツの帽子(これにはタイガースのマークが付いてる)を被り、金属バットを振る。その際、阪神の監督が中村(勝広)だった頃のすごくマイナーな選手の物まねを勝手に始める。
・この人が中野ブロードウェイの店で働いていた頃、店には多量の「うまい棒」が置いてあった。しかもこのとき、店長だった。
・この人の家には、冷蔵庫の中に100本くらいのポカリスエットのペットボトルが入っていた。曰く、100本ポカリを買ったら椅子がもらえるため購入した。
・職質で単に謝ればいいところを、抵抗したためパトカー7台が来る。
・警察署に3日間ぶち込まれたことがある。小刀や催涙ガスをなぜか所持していたため。
・「つきまとい」や「ストーカー」だかで通報され、それに対して、「名誉毀損」と通報し返したため、それぞれの件で警察が来る。
・ティッシュを千切ったものを、通行人に配り始め、「もぎりの練習をさせてください。もぎりの練習をさせてください。」と延々連呼する。
・停まっているパトカーをトントンとノックして、窓を開けさせ、「職業何だ?」と逆職質をする。




 本当は、フィラスティンについても少し書こうと思ってたけど、「じゃましマン」がすご過ぎて書く気力がもうない。

「あなたがいなくなると悲しい」、あるいは、仏教と自殺の関係について少し -磯村健太郎『ルポ仏教、貧困・自殺に挑む』を読んで-

 磯村健太郎『ルポ仏教、貧困・自殺に挑む』を読む。



 釜ヶ崎で日雇い労働者や路上生活者の支援をしている大谷派の僧侶・川浪さんは次のように言う(65頁)。
 路上生活していた時に、「はじめて寝た日、不安で不安でたまらなかった」、と。

 ヒールの音が近づいてくると、こんな夜中にあるいてるおねえちゃんってだれやねん、とドキッとする。カッターナイフでテントを裂かれる人もいるし、サラリーマンは火のついたたばこを投げ捨てる。怖いのはこっちのほうですよ

 路上生活と、そうでないものとの間に心理的な距離があり、その距離がそのままお互いへの恐怖との転化している。
 路上生活者にこそ、社会に対して、自分の思いを発信する機会が必要なはずだ。
 彼らほど、社会に「聞く耳」をもたれぬ存在はいないからだ。




 本願寺の教学伝道研究センターによると、仏典はぎりぎりまで「生きろ!」と呼びかけている一方、自殺事態については、いいとも、悪いとも、語っていないという(107、108頁)。
 だが、二〇〇八年本願寺派の寺院1万ヶ寺にアンケートをとったところ、大半の寺が、自殺は仏教の教えに反していると回答したという。

 このような現状が、アンケートの中に出てきた「いのちの尊さを法話で話したらひどく怒られた」というエピソードに直結している。
 僧侶がいのちの尊さを説けば説くほど、遺族は「いのちを大切にしなかった」故人が責められているように感じる、というわけだ。

 この事態に対して、どのように教学伝道研究センターが対応したかは本書に譲ろう。
 ともあれ、自殺を悪であるとして片付けることは、自殺を選択しなかった者にとってはよくても、自殺を選択した人やその遺族には、酷なことであるのは間違いない。



 自死をするか否かに迷う人のために、電話相談を受け付けているある僧侶は、次のように言う(105頁)。
 相手が「死にたい」と告げても、「死んではだめ」では、相手は弱音を吐けなくなる。
 そうではなくて、「死んで欲しくない」というメッセージを相手に届けようと努めるのだ、と。

 やすやすと死ぬことを認めるのではない。
 ただ「死んではだめ」と「死んで欲しくない」に大きく違いがある。
 
 大切なことは、相手が自死を選んでしまう、その弱音を、その弱さをこそ受けとめることなのだろう。
 相手を受けとめるとは、相手の弱さを、相手が認めるような仕方で、受けとめること。
 では、いかにして「死んで欲しくない」を相手に伝えるのか。
 究極的には、それは、中島義道が述べていたように、「あなたがいなくなると悲しい」という点に尽きるのではないか。

 「誰かが悲しむ」というのは、例えば"親"が悲しむというのは、結局、その親自身がその一身において「悲しい」といわないと、何の意味もない言葉に過ぎない。
 でも「私が悲しむ」というのは、ほかならぬ「私」がそう述べている。
 あなたとかかわりのなかったこの「私」が、にもかかわらず、あなたの死を悲しむ。

 この、困難で、かつ、大切な一点が、実は重要だと、殊に思う。
 関係を持たなかった人に対して、にもかかわらず、その存在の消滅を悲しむこと。



 ある、野宿者支援のNPOの中の"保証人バンク"の代表を勤める僧侶は、あることに注意しているという(163頁)。
 曰く、

 我こそは正しい、と思ったとたん、自分を支えてくれている仏法を自分の価値観でとらえ返すことになる。しかもそのうちに、協力してくれない僧侶たちを裁いてしまう。坊主だったら行動することが当り前やろもん、と。恐ろしいことです

 これは世俗の人間にも言えることだろう。
 ある"正しいこと"をしている人間が、そのことに協力してくれない人々を裁いてしまう。
 これもまた、恐ろしいことだ。


 もちろん、そんな"正しいこと"を志して行動している人たちを、何もしない自分は棚に上げて、ただただあげつらっているひとも、十分恐ろしい。
 自戒。



 キリスト教団体に比べ、貧困・自殺問題への対策で出遅れている仏教界だが、日本には、コンビニの数倍もの寺院があるという(165頁)。
 寺が変われば、確かに、日本は変わる。

"都市型狩猟採集生活"と資本主義のカンケイ -ホームレスであることの自由と、社会福祉について-

 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』を読む。
 都市では、勤め人にならずとも、工夫すれば生きられることを証明している。 



 スーパーで、「無報酬でゴミ捨て場の掃除をやるので、その代わりあまった食材ください」と直談判する方法が紹介されている(53頁)。
 これで、弁当や惣菜、野菜に果物に魚に肉に、大量入手できた人もいるらしい。
 中には、居酒屋が集まるテナントビルから入手する人もいるという。
 でも、それが出来るコミュ力があるなら、十分就職してやってけそうな気も・・・。(いや、もう勤めるのが嫌で、そういう生活選んだろうけどね)



 アルミ缶拾いを生業にする人物。彼は、日経の購読している。紙面にアルミや銅のレートが載っていて、これを武器に買い取り業者と価格交渉できるからだ(66頁)。

 このエピソード、日本経済新聞社は使うべきだろw
 多数派のビジネスマンの方ばっかり向いてるから、こういう人の存在を見落としちゃうんだよ。



 ある"多摩川沿岸生活者"の人は、公園の水どころか、水道水も飲まない。
 雨水を飲む。
 曰く、二時間も雨が降れば、大気中の塵や埃や化学物質が流されてしまうから、二時間たってから雨を溜めるらしい(105頁)。すると純粋な水が取れる。これを煮沸する。15年間のみつづけて、腹を壊したことはないし、しかもこの水、二ヶ月おいても腐らないらしい。
 今度やってみようかな。
 (でも念の為、煮沸は必須。)



 街を歩いて、ホームレス小屋(といってもちゃんとした住処なのがすごい)を作る材料を集めるのに、乳母車を使ったらしい。
 曰く、音がしないからだ(120頁)。
 理にかなっている。
 彼らは、生活の知恵を発揮している。



 ある、代々木公園の生活者の言葉。
 "0円で余裕ある生活が出来るなんて、夢のような話ですね"という著者の言葉に、こう述べている(144頁)。

 こんなこと、社会主義の国では絶対出来ないよね。みんな等しく働かなくてはいけないんだから。これは資本主義だからこそできるんだよ。(略)
 お金持ちと貧乏人というヒエラルキーができあがる。すると、貧乏人はかわいそうだってことで、助けてくれる人が出てくる。(略)
 貧乏がコンプレックスになって、絶望してしまうかもしれない。でも、そのヒエラルキーから自由になった人にとっては、すごく楽なの。まあ、たいていの人は世間体とか気にしちゃうから、こんな生活できないだろうけどね。

 「都市型狩猟採集生活」とは、豊かな資本主義を前提にする。
 その、有り余る剰余=無駄を、前提とする。
 持てる者と持たざる者との"格差"を、前提とする。

 その自由は、やはり、豊かな資本主義を前提にしたものだ。

 ところで、自発的な"ホームレス"は、社会的に包摂できるか。
 社会主義国家ではなく、社会福祉国家を想定して、考えてみる。

 ソシアルな社会においても、労働をしない人間はそれ相応程度の福祉しか受けられないだろうが、彼らはそのことを十分受け入れるはず。いや、彼らは、むしろそれらをすら拒否するだろう。
 国による"居住の保証"(意味分からない人は"居住福祉"でググれ)も拒み、年金等の受給も避け、生活保護も拒否する。彼らが拒まないのは、かろうじて、医療くらいのものだろう。

 問題は、彼らがどのような糧を得て、社会の中で生きていくかだ。
 アルミ缶は拾えるだろうか。飲食店から食料を分けてもらえるだろうか。
 その辺のディテールになると、さすがに、こちらでは、想像できない。 その社会の状況次第、としかいえない。その社会にきちんと剰余があるかどうかといわれれば、おそらくあるのだろうが。



 現実には、北欧諸国にも、無論生活保護を受けている人は存在するし、ホームレスとして生活する人は存在する。ただし、そのホームレスとは、非自発的なものだ。
 「スウェーデンでは平均年齢は44歳、女性が約20%を占めている」という。むしろ、割合的には、日本より多い可能性さえあるらしい。(以上、「スウェーデンの福祉政策」より)

 ちなみに、「ストックホルムのホームレスの人々は、日本のように段ボール箱で仮部屋を作り寝る事は出来ません。夏場はまだしも冬は寒くて、凍死する危険があるからです」。「寝る場所は古いキャンビングカーとか、ワゴンや中古の車の中です」(以上、「ホームレスの実情」より)。
 "北欧におけるホームレス"というのは、研究として興味深い(他人事のようで、申し訳ない)。

公費投入が、実は"ニッポンの大学"を変える可能性がある件 -矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』を読む 後編-

 矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』を読む。続き。



 著者は、世間のお偉いさんの(上記のような)「無理に大学に進学する必要はない」という主張を批判する。だって、高校や専門学校の就職は大学よりもっと厳しいから(213頁)。大学進学を目指し、親がそれを支援するのは、むしろ合理的な判断。

 確かに世間から見れば、大学に入らないほうが合理的に見える。大学は無駄に多いし、学生は勉強しない、じゃあ、大学入らなくていいだろ、と考えるから。
 でも、親と学生からすれば違う。就職で有利なのは、結局大学をきちんと出ることだ。むしろ、大学にちゃんと入って卒業することに、経済的な合理性がある。
 この二つのギャップが、全て。

 一方で、親や学生が授業料値上げしても、それでも大学に入りたがる(親が入れたがる)のも、他方で、世間が大学の授業料の値上げに無関心なのも(税で補って学費安くしようと考えないのも)、こうしたギャップが背景にある。



 日本のシステムというのは、高卒の十八歳で大学に入るものだという主義、入学したら簡単に大学卒業できる主義、親が学費を負担しないといけない主義、の3つの合成されたもの(159頁)。
 これが、日本的雇用システムと補完しあっていたわけだ。つまり、ちゃんと4年で卒業した"真面目"な人間だけを新卒として入社させ、大学生にはそれ以上の特定の資質は問わず、職業訓練は社内でやります、という雇用システムと、とても補完的だった。
 企業は社内で職業訓練をやるから、大学に求めるのは、4年でちゃんと卒業する"真面目"な(色の付いていない「新卒」の)人材。だから学生は4年で卒業させないといけないし、中退しちゃいけない。学生は当然、4年でスルッと卒業したい。一方大学も、学生商売で、学費を少なくとも4年間ちゃんと払って欲しいので、そう簡単に退学させられない(むしろ沢山入学させて、学費を稼ぎたい)。だから、卒業は簡単になる(257頁)。
 一方で、親が学費を負担しないといけない以上、お金を出せるのは、学生の自立前になる(学生がバイトで稼いでそう簡単に入れるものではない)。なので、大体高卒の18歳くらいの時になる。

 そんな、著者のこの問題の解決方法は、大学の授業料への公費投入である。



 著者曰く、消費税1%分あれば、大学の無償化は賄える模様(267頁)。(まあ、財源は、消費税だけでなくていいと思うけど)
 むろん、税金使うからには、卒業をきちんと規制しないとね (つまり、厳しく審査)、ともいっている。国民が納得するルールを、と。ここが実は重要だったりする。
 また、逆に言えば、学力と意欲があれば、年齢関係なく誰でも学べるようになる。
 公費を投入することで、18歳以外の社会人も学ぶ機会が出来るし、財政的に安定した大学側も余裕が出来るから、卒業を厳しくしても困らなくなる。
 方法としては、正しいといえる。

 ちなみに、著者は更に、将来の人材需要に合わせた学部の構成の計画化、学長や学部長ら役員公募化、教員の出身大学の多様化、などの方法も提言してる。 



 ただ、学費原則無料の欧州でも、財政難はある。
 オーストリアの場合もそう。そこで、1989年に「高等教育拠出制度」を導入した。
 学生が一部の学費を負担する制度。大学進学すると、それによって得られる所得の便益は本人に帰属する、だから、本人も一部負担しろ、ということ。
 ただしこれ、全学生が負担する方式で、卒業後に本人が返却する。返済額は本人のその所得によって変動し、失業していたり最低所得水準にみたない場合は、その年の返済額は免除になる。しかも返済額は、本人の所得に応じて、3~6%まで、6段階。日本の奨学金(つーか学生ローンw)より、ずっといい制度だね。



 hamachan先生も引用してたけど、
「就活の話になれば、コミュニケーション能力が大事だと繰り返されていますが、若者のコミュニケーション能力を高める最良の方法は、大人と日常的に会話する機会に触れることです。そんなに大騒ぎする問題ではありません。22歳主義に閉じこめられている異常な日本の大学の空間が、空疎な就活論を繰り返させています。」(276頁)
 社会人経験のある大学生が沢山いる大学の方が、人生経験にも、将来の就職の時にもずっと有益ですよね。

いかにして「どうしてこうなった日本の大学 orz」となったか? -矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』を読む 前編-

 矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』を読む。



 この本の内容は、本田先生がつぶやいている通り、

入学者の大半を新規高卒者が占める「18歳主義」、入学すれば卒業は容易な「卒業主義」、教育費の「親負担主義」から大学を解放し、生涯いつでも質の高い学びの機会が保証されるよう公費の投入が必要と説く。

というもの。
 hamachan先生も書評書いているから、そっちも参照するように。
 まあ、こちらは適当に書いていこう。



 普通、大卒の数が増えるってことは、大卒の価値が小さくなると考えられがち、つまり、大卒と高卒の賃金格差が小さくなると思われがちだけど、実際はこの十数年の間に、賃金の学歴間格差は大きくなってる(6頁)。
 著者は、これを、大卒の価値の重要性(単純な労働から、知識を活用する労働への人口の移動)ととらえている。
 まあ、これ間違いじゃないと思うけど、大きな要因は、正社員と非正社員の格差がそのまま反映したことなんじゃないかな。大卒の方が、正社員になれるような気がするし。どうだろうか。
 


 端的にいうと、
 欧州の場合、学費は低価格か無料で、代わりにそれを国費でまかなってて、それがゆえに仮に卒業できなくても、その分「学費ドブに捨てたーっ」って事態にはなりにくい。入学優しく、卒業厳しくって出来るのは、このシステムのおかげだったわけだね。学力をこうして一定維持してる仕組み。

 米国の場合、基本学費の安いor無料の公立大学と、学費が基本高いの私立大学の二段階制。で、学力のある奴は、私立大学(アイビーリーグとか)目指すんだけど、これが結構お金掛かる。だから、金のある階層の奴しかは入れないわけで(奨学金制度もあるけどね)、結果、金持ちほど名門私立大学とかに入って、金持ち階層が再生産されるんだよ。
 ただし、金持ちじゃなくても公立大学に安い金で入れるって仕組みでもある。しかも、米国の場合8割が州立大学(138頁)。だから、大学に入る機会は、州立含めれば、ちゃんとある。学力が比較的低くても、ちゃんと州立大学で勉強する機会があるってワケだ。もっというと、低所得階層出身者でも、州立大学へいけるチャンスがある。

 日本の場合はどうか。日本の場合、基本学費の安い国公立大学と、学費が高い私立大学がある制度だけど、米国と違うのは、多いのが私立大学ってこと(何でそうなったのかは、本書を読んで欲しい)。
 で、公立大学の場合、比較的高い学力の学校が多いけど、大学総数から見ると公立大学の数は私立より少ない。一方、日本は私立大学は多いけど、学力高い所から低いとこまでいっぱいあって、しかも学費が高い。結果、学費の安い(しかし高い学力が必要な)公立大学にいける奴は少数で、残りは、学力の高い私立に行かなきゃ行けない。で、学力の低い奴は、大学行くために、私立の高い学費支払わないといけないって仕組み。もっというと、低所得階層は、国立行くしかもう道がないんだよね。

 以上が、欧米日の大学事情。これを何とかしなきゃ、ってのが著者の問題意識。



 68年時代の学生運動にも触れられてる。そういえば、私立の学生闘争って、値上げ反対運動がそのスタートだったんですよね(148頁)。で、これが、一気に火をつけて、独立に発生してた東大(国立だからねw)の全共闘運動と重なって、全国的な反体制運動になっていた。
 つまり、この当時、学費値上げは、学生運動を引き起こすほどの政治的論点だった。しかし、80年代以降もどんどん学費は値上がってたのに、もう政治的論点にはならなかった。月収を上回る値上げにもかかわらず。
 それどころか、国立の授業料が大幅に値上がりした
(203頁)。おいっ!!

 その背景にあったのが、学生運動以降の時代の、「大学の数が多すぎる」という世間の風潮。先進国各国で、こうした指摘がされたことがある。でも、先進国各国の場合、その後"大学は増やすべき"という議論に変化していったのに対して、日本の場合は、ずっと"大学多すぎる"という論が主流だった(ここら辺、少し大雑把なので、詳細は本書をご参照ください)。
 で、大学多すぎるって主張が、そのまま、大学はわざわざ入る必要のないところだ、入らなくてもいい、って主張に転化する(レジャーランド呼ばわりも、こういったのが背景にある)。
 この、わざわざ大学に入らなくていい、という主張が、学費値上げをする隙を与えた。値上がりしたって、別に大学に入らなきゃいい、ってことになるからだ。こうして、貧乏人でも大学入って勉強したい奴の道は、閉ざされていったのだった。
 (実際、勉強しなくても大学卒業がたやすいシステムが、この「大学入らなくていい」説を補強したと思われるが、これについては後述する。)



 (追記)
 アメリカの私立大学については、給付型奨学金制度などを考慮する必要がある。詳細は、例えばこちらを参照のこと。

「国際人」と「独特なナショナリズム」 /とある保守派への平凡な反論 【短評】

 ヒッチハイクをやり、皿洗いや掃除をやりながら、無国籍人として生きたから、一人前に生きた、国際人として生きたといえるのか。埒外者として、乞食として生きのびるだけなら、アメリカであろうがイギリスであろうが、いささかの厚顔ささえあれば、なんの人間的能力も要しない。
 そんなのは国際人とはいえない。一人前の市民として、それで妻を持ち子供を養い、子供達に一人前の教育を受けさせる程度のことをしてから、おれは国際人だといってほしい。
 「国家」を捨て、いかなる国家からも疎外されて「生きる」ことがどういうことなのか。

 重要なことは、それでもよい、ということじゃないでしょうか。
 例えば、日本国籍で、米国に暮らす貧しい労働者として生きているだけでもいい。それで十分であって、何か問題なのでしょう。みながみな、出世して、立派になって、高橋是清のようになれるわけはないでしょうに。人数制限があること確定の話なのに、そこから「落伍」しそうな人間を叩いてどうしようというのでしょう。
 ところで、「一人前の市民」というやつですが、これはどんなアメリカンファミリーなんでしょう。子供を養う云々ですが、非嫡子はオッケーでしょうかね。
 さらに話は変わりますが、「一人前の市民」から女性を除外してないでしょうか。このお話。まさか女性も、「妻を持ち子供を養い、子供達に一人前の教育を受けさせる程度のことをしてから」国際人と名乗れ、ということなんでしょうか。なるほど。やはり、女性同士でも結婚はすべきなのですね。なるほど。早速、法律改正に動きましょう。
 「「国家」を捨て、いかなる国家からも疎外されて「生きる」ことがどういうことなのか」などといいますが、どういうでしょ。
 「ヒッチハイクをやり、皿洗いや掃除をやりながら、無国籍人として生き」ていても、例えば信じられる仲間がいて、働いて、毎日の生活を肯定できる人生の方が、「一人前の市民」の生活とやらよりは、マシだと思うのです。こういったことが出来る能力が、「人間的能力」じゃないんですかね。
 国家というのは、あってプラスになったり、マイナスになったり、そういう存在で、よりマシな国家になったほうがよい、という話でしょう、せいぜい。別に国家を否定しているのではなくて、それは、その人間の人生の絶対条件じゃないということに過ぎないのです。
 結論、一人前でなくても、国際人とやらでなくても、よい人生はよい人生。目くじら立てず、うまくやってくだせえ。

 それは日本人同志の、互いに肌のあたたかみを感じるような連帯感であり、それにもとづいた日本の国の独立の感覚であり、広義の文化統一体としての共同感覚である。そしてなにより根本的には、この共同感覚体である日本というものへの誇らかな賛歌と未来への高らかな希望の歌である。そうした共同体への献身を第一義とする精神である。私の言葉でいえば、日本の、外部からの圧迫による団結を経験する歴史をほとんど持たない日本人の、独特なナショナリズムである。そのすべてを戦後の日本は、軍国主義への道として無惨に封殺してしまったのだ。

 「互いに肌のあたたかみを感じるような連帯感」を感じない人間をしいたげ、「広義の文化統一体としての共同感覚」を無理に、他の文化に所属した人間にまで押し付け、「共同体への献身を第一義とする精神」を滑稽な隷属にまで展開させたというのが、日本人の「独特なナショナリズム」だというならば、それは「軍国主義への道として無惨に封殺」などされていないとおもいますよ。程度はどうあれ。まだ残ってると思いますので、探してみてはいかがでしょうか。
 結論、戦前日本は今も残存して生きていますよ。よかった よかった。

 以上、とあるweb上の記事を見て、反論をしてみました。この言葉を誰が吐いたのかについては、引用部分をググって見れば分ります。まあ、この程度の低レベルな発言が、『アーロン収容所』の著者によるものだなんて、そうおっぴらにはいえませんよ。


(追記) 昔書いて存在を忘れていた駄文ですが、Apemanさんの「家畜を飼わなくても捕虜は管理できます」という記事を読んで、存在を思い出しました。なんでこの人の文章が良いといわれるのか、理解できないというのが正直な所。こんなに生理的に受け付けない人は、正直珍しいです。なんでだろ。

最終更新2010/2/17

外国人犯罪に対する正しい態度 番外編(4)草野厚『政権交代の法則』

■80年代後半における外国人犯罪グローバル化の関係(の続き)■
 87年から93年にかけての来日外国人の一般刑法犯の検挙人員の方が増加傾向にあり、それ以降一般刑法犯の検挙人員のなかで来日外国人が2%程度の割合を占めることとなります。しかし、87年から93年にかけて何があってこのような結果が生まれたのか。あくまで仮説ですが、88年から92年にかけて、外国人登録者数が増加しており、これが関係することは予想されます(「第3章 我が国の少子高齢化・人口減少と東アジアの新たな経済的繁栄を目指した経済統合」『経済産業省』様)。
 もし、現在のような一般刑法犯の検挙人員のなかで来日外国人が2%程度の割合を占める状況を改め、それ以前の状態にしたいのなら、グローバル化の波をこうむる以前の社会に、日本の社会を戻す必要があると想定されます。
 20年前と比較して、外国人犯罪が増加したことは一応の事実と思われます。ただし、この増加はその背景に、外国貿易貨物の相対的増加をはじめとする社会構造の変化や、外国人登録者数の増加などの外国人労働の変化など、グローバル化がある可能性があります。具体的には、流入してくる外国人の質的変化や、これまでいた外国人の日本における環境の変化が、このとき以降あったと見るべきではないでしょうか。
 あくまで可能性としてですが、この点を指摘せずに、20年前との比較は生産的な議論とはならないでしょう。

来日外国人内の犯罪者の割合は多いのか?■
 以上、「図録外国人犯罪の推移」(『社会実情データ図録』様。前掲。)のデータを使わせていただきました。感謝です。
 ただし、ひとつ疑問に思うこともあって、「この2%という水準であるが、外国人労働者の比率が1%である(図録3830)ので、2倍の検挙人員となっている。従って、外国人犯罪は多いと評価できる。」と述べています。
 これ自体は反証はできないので、基本的に問題ないなのですが、これを、悪用する人もいるかと思うので、これについて原因を考えます。
 すると仮説として、日本国籍の人間との収入・所得の格差の問題や、人的資本等の相対的な欠如を挙げられると思います(つまり、来日外国人たちの低所得の問題とか、職業的な不安定性とか、それをカバーする周囲の血縁などを含む人間関係が薄いとか)。要するに、前に取り上げた湯浅誠氏のいう「溜め」が足りない、という可能性があるのです。湯浅氏が言うように、単純に、「貧しき人々」を排除すれば終わり、という問題ではありません。
 もちろん、これは仮説に過ぎません。これについては、まず来日外国人たちの所得・収入の統計が必要です。そして、もしこの仮説が正しいなら、単純に彼らを排斥しても、問題は何も解決しません。(注2)

■来日及び在日である「外国人」の犯罪に対する適切な認識と対応■
 最後に。今後、ではどのように来日も在日も含んだ、「外国人犯罪」をどう考えるべきか。

手荒で組織的な犯罪は国籍を問わず(日本人による者であっても)排除すべき問題であり、その犯罪者のプロファイルの統計をとった場合、特定のグルーピングに犯罪率が高かった場合、そのグループを重点的に防犯活動を行うのが必要です。特定の国籍所持者による組織的犯罪が多いことが統計結果から判明した場合は、日本国としてその国に対して日本の秩序を乱さないように要請するのが筋であると考えます。

これは、前掲「治安悪化論争?っていうかなんていうか・・・」における、コメント欄での「Hide@欧州」様の発言です。冷静な議論とはこれをさすのでしょう。手続きの優先順位を間違えてはいけない。これが、この問題において実に重要なことなのです。
 ①組織的犯罪に対し、対策をとって重点的に防犯活動を行うこと、②もし特定の国の犯罪組織による犯罪が多いなら、当該国にきちんと外交的に働きかけること、以上の二点が重要です。そもそも外国人犯罪を考える際に、犯罪組織の存在を忘れてはいけません。これを忘れた議論のいかに多いことか。統計を見る際に気ををつけるべき一点です。また、もし外交的問題にするのなら、最初の議論に戻りますが、もっと使える統計を作りましょう。まずはそこからです。

(了)



(注1) これに関して、興味深い記事が、「在日コリアンを追い出せば犯罪激減?その2」(『ホンマかいな在日特権?』)です。曰く、「在日コリアンは日本人に比べ『貧困層が多い』うえにその多くが『都市部に集中』して」おり、「在日コリアンのように日本人に比べて圧倒的に少ない集団を比べる時に『居住地区』や『所得』を考慮せずにどうこう言うのは片手落ち」とのこと。
 これは、別の国籍の外国人などにも応用できる事柄かもしれません。貧困層が多く、都市部に集中しているのは、在日コリアンだけではないはずです。

TAG : 来日外国人 外国人犯罪 グローバル化 溜め

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