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「アメリカ」が「西欧」・「西洋」と等価でしかない日本の知識人の系譜 -ジャズと「アメリカ的」であること- 蓮實重彦『随想』(2)

■ジャズと「アメリカ的」であること、あるいは抽象的な日本の知識人たち■
 某団体への怒りで終わる本書ですが、その内容は大まかに、小説と映画への言及の二種類に分かれます。いつもどおりですね。
 しかし、今回は珍しくジャズについても言及していたりします。映画つながりでジャズというのは、まあ、無理のないつながりではあるのですが。

 しかしジャズといっても、戦時中の日本のジャズです。
 じつは、戦前既に非常に高いレベルまで、日本のジャズは到達していました。例えば、仁木他喜雄の編曲する「崑崙越えて」は、ジャズをそろえたレコード店の店主に「アレンジがすごい。ベニー・グッドマンですよ」と口走らせるほどの「アメリカ的」サウンドでしたし、服部良一さえ、昭和十三年の帝劇で、ジャズに編曲した軍歌「天に代わりて」の間奏に、「君が代」のフレーズをベースのフォービートで繰り出していたのです。 
 軍歌までもを、「アメリカ的」な音に仕立て上げる技術が、戦時下に既にあった。彼らは、既にそこまで、「アメリカ的」なものに触れていたのです。具体的に「アメリカ的」なものに触れるという点は、当然小津安二郎がシンガポールで、日本では見れなかったアメリカ映画にじかに触れていたことに通じるでしょう(実際『監督小津安二郎』で明らかにされるように、小津映画は戦前戦後を通じて、日本的というよりアメリカ映画的でした)。

 しかし、こうした具体的な「アメリカ的」なものへの無知は、「その後の比喩的な枠組みとしての「アメリカ」の抽象性にもつながる」のです(120頁)。(似たことを、既に著者は『近代日本の批評』昭和篇で述べていたと記憶しています。)
 ここでいう「無知」とは、座談会「近代の超克」に集まったメンバー達の多くに見られる、具体的な「アメリカ的」なものへの感性の欠如のことです。そしてこの欠如は、後世の戦後、そして現代に至るまでの知識人に引き継がれてしまっています。確かに、彼らの語る「アメリカ」の薄っぺらいことといったらありません。(小林秀雄も江藤淳もそうでしょうし、彼ら以降の、前任者より才覚の足りない文芸批評家たちもそうでしょう)
 彼らは、自己=日本を揺るがしたり、あるいはその「再生」に利用したりするときに持ち出される抽象的なものとしてしか、アメリカを知覚することがありません。彼らにとっての「アメリカ」とは、極端なはなし、「西洋」・「欧米」に還元されるものに過ぎないのです。チンケな抽象概念を跳ね除ける具体的な「アメリカ的」なものを、日本の多くの知識人は、現在でもなお取り逃し続けているように思えます。

(続く)


(追記)
 なお蓮實は、ジャズの"最先端"だった戦中日本と同時代の、1940年代アメリカについても書いております。詳細は、「ベンヤミンと、批評家の【知的な賭け】 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(2)」をご参照ください。
 あと、「具体的」な観点から他国を知ることの重要さという点においては、麻生晴一郎『反日、暴動、バブル』は必読です。そこらへんの抽象的でしかない中国論より、はるかに面白い。
 つーか、何で日本人(に限らないが)の書く中国論というのは、あんなに抽象的なんでしょうか。「中国人ってOOだ」とか「中国は昔からOO」とか、そういった「中国像」から離れられていないんですよね。「中国のOO」というなら、まず「中国の」という形容詞ではなくて、「OO」という具体的な存在に目を向けることが重要なのに。

(再度追記) 一部誤表記あり訂正。(2012/8/8)
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1864年の「虚構」への知的賭け/1936年の「変化」を忘れた「改革」 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(10)

■「虚構の物語」への知的な賭け、1864年をめぐって■
 自分はどんな時代を生きているのか。あけすけにいうなら、同時代でもある「近代」とは何か。これが第10章で、蓮實が問うとする事柄です。
 自分は、同じフランスの19世紀でも、「バルザックやスタンダールの小説を読んでも、その理解はごく抽象的」だが、1848年以降はなぜか理解できる、と蓮實はいいます(176、177頁)。なぜか。それは、1848年以降の時代というものが、紛れもなく同時代だからだ、と説明されます。その同時代とは、蓮實の『物語批判序説』でも述べられていた、1848年以降現在まで続くであろう、「凡庸な」言動の反復が支配する時代のことです。
 紋切り型を【しゃべらされてしまう】この「凡庸な」同時代において、蓮實は問います。「いま」という時代を真摯に生きる人間だけが構想できる「虚構の物語」ともいうべきものへ、理念的に賭けることが、後世の人の思考と「いま」の人の思考とを通呈させるのではないか、と。
 蓮實は一例として、スルタンガリエフを挙げます。彼の「虚構の物語」への知的な賭けは、後世と通じ合っていたのではないか、と。ここで言われる「虚構への物語」とは、共産主義、イスラーム主義、民族主義の三つのあいだの、共存と葛藤を土台とした脱植民地主義的な革命思想を指すはずです。この三つの主義いずれもが各々もつ排他性を克服し、彼は後年の第三世界における有志たちに思想的地盤を与えました。
 いうまでもなく、ここでいう「虚構の物語」とは、単なる画餅でも虚構でもなく、真実が何かが不確定な中で、あえてそれに賭けてみることで、それが後世の者にさえ通呈してしまう、大胆さをもつ【フィクション】にほかなりません。
 また、通常ノイズとして切り捨てられがちな細部の意義を復権し、「分析を突き詰め対象をさらに細分化していくことで、全体に触れることができるのではないか」(194頁)として、最大と最小の通低という「仮説」についても、蓮實は述べています。そして、ベンヤミンにおけるパサージュこそ、全体に触れるその細部だ、としています。無論このパサージュも、知的に賭けられた「虚構の物語」に他なりません。

 批評とは、「いま」だけが構想せしめる虚構の物語への賭けを代償として、初めて実践される生の体験にほかならない。 (181頁)

 蓮實はそれに加え、伊達千広の原典(『大勢三転考』)を読みたいと思いながら、まだ読んでいないことを告白し、それでもこれについて言及しようとしようとします。伊達は「三転」というある種の「構造論的な虚構を成立せしめ、その物語に賭けようとする著者の知性がそこに感じとれる」(185頁)、と蓮實は評価します。歴史学的というより、フーコー『言葉と物』的な構造論的である点で、『体勢三転考』の「物語への賭け」を評価しているのです。そして、この書物は、江戸期でも幕末期の書物ではなく、19世紀の書物だといいます。この書が書かれたのは1864年、【19世紀の首都】を論じたベンヤミン『パサージュ論』が起点としているのも、1864年なのです。

■「改革」と「変革」■
 山内と蓮實は、本書の最後で対談を行っています。その中でも、いくつも興味深い話があります。
 例えば、インカやマヤ、アステカ文明などの「古い文明からの連続として、アメリカをとらえる歴史学というのは実はアメリカ人やソ連人の意識の外にあった」(203頁)という山内の指摘や、「アメリカから実は亡命者が出たという見方は、アメリカ人はもとより、プロのアメリカ史家もあまりしない」(209頁)という話は大変興味深いです(この亡命者が例えばジョセフ・ロージーです)。ソ連へ亡命した土方与志の話も興味をそそります。
 NYタイムズの記者に、北野武に比較できるのはジェリー・ルイスしかいないと蓮實が述べると、その記者は映画を撮っていたことを知らなかった(212頁)というエピソードは、ある意味後の「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」に通じてしまうでしょう(注1)
 本書の最後に、山内との対談のなかで蓮實は、生まれた年である1936年を研究したいと述べています。この年は、二二六事件と、総選挙での社会大衆党の大勝利年です。社会大衆党の勝利によって、改革、改革と言葉が唱えられながら、それとは別の方向へ進路が行ってしまったからだ、というのがその理由のようです(213、214頁)。これについては、蓮實が東大総長時代に、「改革」という言葉を避け、「変化」という言葉を使おうとした点を想起すべきでしょう。
 2001年の蓮實の『私が大学について知っている二、三の事柄』を参照すれば分るように、「政治的な変化を恐れる人だけが『改革』をとなえるという現状」を批判する蓮實は、「変化」を、「ほんのわずかな入力が思いもかけぬ重大な結果をもたらす」ことの「驚きの体験」だとしています。
 ここでは、蓮實の、1936年の出来事に対する理解の正確さについては、保留します。まず重要なことは、「改革」を唱え続けたあの某国の宰相が、ついに真の意味での【政治的な変化】だけはもたらすことがなかった事実です。これについては多言いらないでしょう。問題は、「ほんのわずかな入力が思いもかけぬ重大な結果をもたらす」ことの「驚きの体験」ではないか、という言葉をどう受け止めるかに他なりません。果たして、今唱えられている諸「改革」に、「変化」と呼ばれるものは、ありますでしょうか。

(了)


(注1) この問題の詳細については、既稿「複数としての擁護 蓮實重彦『映画論講義』(1)」をご参照ください。

TAG : 1848年 蓮實重彦 山内昌之 ベンヤミン 改革

歴史学における「偶然」の問題 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(9)

伊達千広大勢三転考』、または歴史書をめぐって■
 第9章で山内は、歴史叙述について考察します。歴史叙述というものが、そもそも「国家」(狭義の政治的勢力)の存在を強く意識するところから出発している事実を語る山内は、「史書」(「史料」と区別される)というものが、未来に向けての教訓や指針として書かれるものであることを確認します。
 ここで参照されるのが、内藤湖南の『先哲の学問』における「白石の一遺聞に就(つい)て」という史論的文章です。湖南は、『愚管抄』より『神皇正統記』の方が、世の中の努力による改革の志向もつ点で、後者の方が優れていると指摘します。未来への指針という点での高い評価といえるでしょう。
 そして新井白石の『読史余論』より、伊達千広大勢三転考』の方が、前者が支配勢力の交代という表面に着目したのに対し、後者が支配制度の変化という深層に目をつけた点で、より優れているとしています。
 伊達千広大勢三転考』は、日本の歴史を三つに区分しています(伊達は、陸奥宗光の実父です)。最初の「骨(かばね)の代」は、血族によって職務が世襲される制度の時代で、大化の改新により廃れます。この「大化の改新」を画期の事件として取り上げたのは、『大勢三転考』が最初といわれています。次は「職(つかさ)の代」で、天皇のトップダウンに基づいて、官職中心に政治運用を行う制度の時代です。
三番目が「名(みょう)の代」という、武士たちの実力による競争と変革が世を動かす時代です。これが伊達の同時代であり、彼がこの本をこのように書いたのは、「名の代」の安定が崩れた時代における危機意識かもしれない、と山内はいいます。そして、日本国外の歴史書もまた、危機意識を元にかかれたものが多いことを指摘しています。

山内昌之による「偶然的原因」擁護■
 山内は、歴史を著す目的とは、事件の原因を分りやすく生き生きと連関付けて明らかにすることだけではない、といいます。そこで、『平家物語』における「運命」の主題を、石母田正に見るのですが、この辺の問題は、ここでは脇においておきます。ここで書きたいのは別のことです。
 山内は、E・H・カーの「合理的原因」と「偶然的原因」との区別について、それらを区別するのは「簡単な作業なのだろうか」(170頁)と述べて、偶然的原因を擁護しています。詳細は次のとおりとなります(「偶然的原因」の擁護というより、「合理的原因」と「偶然的原因」の境界線の不確定さの擁護というべきかもしれませんが)。
 カーの『歴史とは何か』は、歴史における偶然について、「クレオパトラの鼻」を例に出します。このブレーズ・パスカルの例えの意味するところは、歴史とは何かが少しでも変わるだけで、何もかもが変わってしまいうるほど儚い、ということです。このような些細ともいえる偶然的要素が、歴史を大いに動かしてしまうことを述べているのです。カーは、このような考えに否定的です。対する山内は、この偶然的要素に注意深くあろうとするのです。
 塩川伸明「E・H・カー『歴史とは何か』 」(『塩川伸明のホームページ』様)は次のようにまとめます。「飲酒運転、自動車整備の落ち度、道路管理の不備は一般的な交通事故原因として想定されうる」のだが、「ある人が愛煙家だから事故に遭うとか、禁煙運動をすれば事故が減るだろうというようなことは、一般命題として意味をなさない」。
 塩川は、「一般化可能性」と「歴史」に強い結びつきを志向するカーの考えに対して、「これは、歴史の登場人物個人により大きな関心を寄せるか、それとも個々人を取り巻く集団や社会により大きな関心を寄せるかという問題とも関連している」として、次のように述べています。

およそ「進歩」という考えそのものを拒否するような発想もありうる。私自身はあまり通じていないが、極端にミクロな生活史に着目するような歴史論も一部にはあるようだし、歴史の大きな流れから見れば完全な負け犬だった人の個人史を共感を込めて描き出すような歴史書もある。これらはおそらく、カーによって「無意味」と評されるようなものを重視するものだということになるだろう。

山内が述べたかったのはこの点でしょう。山内は、カーが差し置いたであろうものに与して、『スルタンガリエフの夢』などの書物を著し、本著でもオナシスや陸奥宗光らある個人へまなざしを向けていたのです。歴史学への志向の違いが、山内に「偶然的原因」を擁護させたといえるでしょう。

(続く)

TAG : 伊達千広 山内昌之 大勢三転考 歴史学 偶然 歴史とは何か

ヴァレリー・ラルボーにおける第三共和政のパリ 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(8)

■コスモポリタニズムの不可能性と可能性■
 蓮實が行ったのは、究極のコスモポリタンの登場する小説を示すことでした。ヴァレリー・ラルボー『バルナブースの日記』の主人公は、ありえないような【セレブ】です。大変裕福な南米の家の出の彼は、親の遺産を相続すると、堪能な語学を生かして、欧州を漫遊し各地で贅沢の限りを尽くしていきます。ひたすらそれだけを、詩を捻りつつ行っていくのです。
 コスモポリタンが消滅してゆく時代に応答するかのように、ヴァレリー・ラルボーは、絶対不可能な虚構上の「コスモポリタン」を登場させたのです。これまで存在したことのないほど絶対的コスモポリタンは、その存在不能性(つまり、ありえなさ)ゆえに、コスモポリタニズムの限界を明らかにするのです。
 おそらく蓮實は、コスモポリタン性というものを、理念的なものと捉らえていたのだと思われます。というのも、究極的には、完全に自由なコスモポリタンは、この世界に存在しないからです。スミルナの人々は、ある種の「諦念」を持ちながら、帝国の統治構造に入ることで、民族や宗教の対立を超えて共存して、その繁栄を享受していました。
 いうまでもなく、条件付の自由において、コスモポリタンたりえていたのです(例えば帝国への忠誠の証としての、星と新月をあしらった帽子や腕章を身に着けねばならない制約を、後世子孫である【アメリカ人】・エリア・カザンは、これを 【押し付けられたもの】 と見ていたのです)。
 もし、本当に自由なコスモポリタンになろうとすると、小説の中にあるような、金銭的富裕と上流的人脈と語学的才能、そして、それらを蕩尽するだけの有閑が必要になります。そのような究極的な自由を持てる(つまり、あらゆる原理から制約されないという意味での)真のコスモポリタンは、小説の中にしかいないのです。
 『バルナブースの日記』は、コスモポリタニズム終焉の時代において、このコスモポリタン性というものの不可能性、つまり【ありえなさ】を示すことで、コスモポリタニズムの現実における不可能性と、理念としての可能性を示したのだと思われます。
 現在、仮に「国家的」からも「国際的」からも距離をとり、原理主義的な場所から離れた真にコスモポリタンたろうとするのなら、この可能性と不可能性の狭間において、理念としての可能性を目指して動く必要があるのです。この「理念」という問題は、第10章における、虚構への知的な賭け、という問題に繋がっていくことになります。

■ヴァレリー・ラルボーにおける第三共和政のパリ■
 蓮實にとっての(理念的な)コスモポリタニズム(言語的、民族的、宗教的な混在的共存)というのは、20世紀の首都たる1940年代ロサンジェルスのような、いかがわしさをともなう輝かしき共存に近しいものではないでしょうか。このいかがわしさをともなう共存という点で、蓮實はアナトリア半島のスミルナに魅せられたのだと思います。その点で、蓮實の言及するヴァレリー・ラルボーは、20世紀初頭のスミルナや1940年代のロサンジェルスからは、遠い存在に見えます。
 しかし、このラルボー『バルナブースの日記』を、【理念としてのコスモポリタニズム】のために使うだけというのも、もったいない話です。フィクションたる『バルナブース』の禁欲的な例示よりも、作者ヴァレリー・ラルボー本人とその周辺の人物たちのエピソードを混ぜる方が、20世紀の首都の話とのつながりを示す点で有効なはずです。
 一代で一家の財を蕩尽したというヴァレリー・ラルボーは、優れた語学力と言語感覚を持ち、「幼年時代からヨーロッパを旅行して過ごすような生活が可能であったため、ギリシャ、ラテンの古典の素養に加えて、英語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語が堪能で、まだほかにもルーマニア語、カタロニア語も自由にあやつったという。」人物です(「リル(3)」『オックスフォード便り』様)。小説にも、その優れた言語感覚が反映しています。
 彼は、秀でた翻訳者でもあり、外国語文学の最良の紹介者でもありました。ジョイス『ユリシーズ』の仏語訳は、ラルボーの協力でなされたものです。また、サミュエル・バトラーからウィリアム・フォークナーまで、フランスに移入させたのも、ラルボーです(以上については、未読ですが、西村靖敬『1920年代パリの文学』が、絶好の参考文献になりそうです)。

■アドリエンヌ・モニエ。そして、理念としてのコスモポリタニズム■
 またラルボーは、パリのオデオン通りで書店を経営する、アドリエンヌ・モニエのグループに加わっていました。このグループには、ポール・クローデル、レオン=ポール・ファルグ、ポール・ヴァレリー、ジャン・ポーラン、エリック・サティ、ダリウス・ミヨー、アンドレ・ジッド、エズラ・パウンド、ジェームズ・ジョイス、アーネスト・ヘミングウェイ、ライナー・マリア・リルケ、F・スコット・フィッツジェラルド、ウィリアム・バトラー・イェイツ、サミュエル・ベケット、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトン、さらにはW・ベンヤミンまでもが、程度や時期は異なれども参加していたのです。
 この書店で、「ラルボーはそこで皆にサミュエル・バトラーを発見させるし、ジョイスはそこでその回想録を読むし、音楽家たちはそこで自作を演奏するし、ポーラン、次にブルトンは、そこで聞いたこともないチューリッヒで発行された雑誌『ダダ』に出くわす」のです(松田浩則訳、ドニ・ベルトレ『ポール・ヴァレリー / 1871-1945』(『グラッパ/古い瓶の空間』様より孫引き)。
 なぜ、このような素晴らしき側面を、蓮實は描かなかったのでしょうか。アラゴン、ブルトン、ベンヤミンという、パサージュから連想できる人間が少なくとも3人もいるのに。第二帝政時代のパリと1940年代ロサンジェルスのあいだの、この第三共和政時代のいかがわしく輝かしい共存を少しでも書いておかなかったのか。
 蓋し、映画人をはじめとする異業種と文人たちのとの驚嘆すべき共存・組合せ、という側面があまりなかったことが大きいのだと思います。このグループが、その綺羅星のごとき才能にもかかわらず、1940年代ロサンジェルスよりいかがわしくないのはそのためでしょう。ヴァレリー・ラルボーの第三共和政のパリは、いかがわしさが足りないゆえに、あえて書かれなかったのだと思われます。まあ、実際は、紙の枚数が足りなかったか、忘れてたか、どっちがでしょう。

(続く)

TAG : 蓮實重彦 ヴァレリー・ラルボー コスモポリタニズム 第三共和政

【正しい】母国語?、【国家的】と【国際的】のあいだ 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(7)

■第二帝政時代の「国家的」と「国際的」■
 第8章では、蓮實が、「国家的」・「国際的」の語彙に関する問題や、「コスモポリタニズム」の可能性と限界について考察しています。
 まず蓮實は、フローベールの小説・『感情教育』において、「国家的 - national - 」という語が三六回使われているのに対して、「国際的 - international - 」は一回も使われていないことを指摘します。このことから分るのは、『感情教育』の書かれた第二帝政時代とは、「国家的」の語が比較的高い頻度で使われた時代であり、一方、まだ「国際的」の語が出現しない時代だということです。
 蓮實は、この19世紀を「国家」の時代にしたのは、この形容詞の頻出ではないか、と述べます。人々の口に「国家」・「国家的」の語彙がのぼりはじめるとき、「国家」という存在は、人々の意識にその輪郭を見せ始めたのです。人々が「国民的 - national - 」になった、といってもよいでしょう。
 一方、「国際的」という語が頻出し始めるのは、しばらく後、社会主義運動の隆盛が時代に広まってからのこととなります。
 「国際的」という語に関連して蓮實は、「国際化」といったとたんに、たちどころに国境が消滅して、「平和な共存が約束されているかのように思われてしまう」と指摘します。例えば、本当なら「国際連合」は「国家連合」と訳せば十分のはずです。なのに、「国際連合」と訳してしまったことが、「国際的」という形容詞に、どこか「理想主義的ともいえる楽天性を与えてしまったのかもしれない。」(141頁)と、示唆に富むことを述べています。

■【コスモポリタニズム】と【インターナショナリズム】■
 いうまでもなく、「国際的」という語は、現象学の「間主観性」に倣い「間国家的」とも訳せることからもわかるように、「国家」の存在を前提とします。「国際的」の語が広まり始める社会主義隆盛の時代もまた、「国家的」という語を前提とした時代なのです。
 この二つの語彙の流通具合に比べ、歴然と陰りを見せたのが、「コスモポリタン」の語です。前章で山内が書いているように、20世紀初期のアナトリア半島にある都市・スミルナは、ほとんどの家族が少なくとも二種類の言葉を使い分けるような、多言語性にあふれ多民族性に沸き立つコスモポリタン都市でした(注1)。しかし、やがてこの都市のコスモポリタン性も、「国家的」・「民族的」の趨勢によって失われていったのです。(注2)
 コスモポリタン性を失わせたのは、国家主義や民族主義だけではありません。「国際主義」(インターナショナリズム)もまた、コスモポリタニズムにおける階級性への考慮のなさ等を批判し、コスモポリタニズムの居場所を失わせていったのです (旧ソ連において、ユダヤ系【人民】を排斥する際、「コスモポリタン」という【侮蔑語】を用いたことを、想起すべきでしょう)。20世紀とは、アリスト・オナシスが「国際的」資本家となった時代なのです。
 問題は、「国家的」という語が激しく揺れ動く「現在」において、コスモポリタン性をどう位置づけるか、ということです。コスモポリタン性は、現在でもなお克服されるべき過渡的事柄なのでしょうか。それとも、近代を克服することで到達できる目指すべき理想的状況なのでしょうか。蓮實は、この問いにある小説で返答します。

(続く)



(注1) いうまでもなく、彼らの話していたことば(「トルコ語」や「ギリシア語」など)は、「正しい母国語」のようなものではなかったはずです。彼らの話していたことばは、方言としての特色や外国語の要素の混じりあう、いわば汽水のごときことばであったと思われます。
 「正確に言えば「○○語」として同定できるような言語などはそれ自体としては存在していないのである。「日本語」という言語がそれ自体としてあるように見えるのは錯覚にすぎない。」のです(室井尚「情報社会と「多言語主義」」『Virtual Time Garden』様)。閉鎖され固定された諸言語が複数並立するタイプの「多言語主義」が、ルペン的排外主義に利された「多文化主義」と、同じ命運を味わうことは目に見えています(これについて詳細は(1)の稿に書きました)。同じく、

「日本文化の重層性」といった修辞に現れているように、文化や人種の同一性を強調する議論は必ずしも雑種性を拒絶してきたわけではなくむしろ雑種性を横領し同一性の力学の契機としてきたからである。だから、雑種性を同一性に横領できないような形で考え抜くことが、多言語主義をめぐる議論ではまず初めにある課題であると私は考えている。

という酒井直樹「多言語主義と多数性」(『Amehare's quotes』様より孫引き)の記述は、今回のコスモポリタン性を考える上で注意すべき点です。

(注2) ただし、コスモポリタニズムが嫌われていたのは、この時代に限られません。
 「コスモポリタニズムの世紀」である18世紀ヨーロッパに触れた「[memoire]コスモポリタニズムCommentsAdd Star」(『Il faut cultiver notre jardin.』様)によると、「1762年の『アカミデー・フランセーズの辞書』では、世界市民cosmopoliteとは、「祖国を受け容れようとしないものであり、良き市民ではない」。この定義はコスモポリタニズムが当時引き起こしていた猜疑心を反映している」そうで、七年戦争やアメリカ革命等によって、コスモポリタニズムは「愛国主義者」からの批判を受けるようになっていたとのこと。
 当然ながらフランスでの大革命以前から、祖国への忠誠という、原理や主義への忠実さと強張りが、コスモポリタニズムを退かせる動力となっていたのです。

2009/10/30 一部次稿に移転

TAG : 蓮實重彦 コスモポリタニズム ナショナリズム 国際的

共存のための寛容と「自尊心」、スミルナのオナシスについて 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(6)

■スミルナのオナシス■
 第7章では、山内が、大富豪として名をはせたアリストテレス・オナシスと、彼の出身地スミルナにおけるある出来事を取り上げています。オナシスは、アナトリア半島のスミルナ出身で、ギリシア系のひとでした。当時のスミルナは、オスマン帝国の支配下にありました。
 帝国の支配の下では、ムスリム以外の人々も、トルコ人以外の民族も、その支配における制限を受け入れる限りにおいて、共存を許されていました。(注1)そのアナトリア半島のエーゲ海に面する都市スミルナ (トルコ語ではイズミル。スミルナはギリシア語) は、古くはイオニア同盟の主要都市の一つであり、19世紀に入るまでは多国籍な商業都市として栄えました。19世紀以降、イギリスをはじめとする欧米資本の投資によって、港湾や鉄道が整備され、物流の国際拠点となります。このころに、オナシスは、このスミルナで、中流階級のギリシャ人一家に生まれます。スミルナは、ギリシア系住民の多い都市でした。

■20世紀初頭のコスモポリタン性とその崩壊■
 当時のスミルナは、ピーター・エヴァンス『オナシスの生涯』によると、オスマン帝国在住のギリシア人がトルコ語を日常語とし、ギリシア文字で書かれたトルコ語の書物を読み、時にアラビア文字で書かれたギリシア語を理解した(124頁)という、多言語的な社会でした。オナシス自身も、6ヶ国語以上話せた、といいます。まさしくコスモポリタン性に溢れた社会でした。
 もちろんこれは、「アリストは、帝国への忠誠を誓うために、星と新月をあしらった帽子や腕章を親の命令で不承不承つけさせられた」(125頁)という帝国で生きるための「制限」を条件としていました。ですが、このようにして、多言語の空間の中で、異なる言語話者が共存できていました。
 しかし、コスモポリタン性が均衡が保つ時代は終わります。第一次大戦でオスマン帝国が降伏すると、ギリシア軍がスミルナ一帯を占拠したのです。スミルナでは、ギリシア人たちの拡張するナショナリズムで沸き起こり、ギリシア系住民は歓喜します。ナショナリズムが、帝国にあったコスモポリタン性を崩したのです。
 しかしそれもつかの間、三年後にトルコ軍が奪還します。真っ先に逃げたのは、ギリシア軍と総督や文官たちでした。逃げ遅れたギリシャ軍兵士の多くは射殺されました。住民は見捨てられました。帝国臣民でありながら「裏切り」を行ったスミルナの主教クリソストモスは、トルコ人の暴漢たちに、生きながらにして手足を切断されるなどして、残酷なやり方で虐殺されます(130頁)。ギリシアが「征服」してきたときに行ったトルコ系住民の虐殺が、その背景にありました。(注2)
 オナシス家は全ての財産を失い、ギリシャへ難民として移住します。ギリシア側を助けた廉でアリストの父は、トルコの収容所送りになります。そこでアリストは、軍当局に渡りをつけ、父を釈放させます。アリストは、「賄賂」「酒」、さらには軍の中尉と「愛人関係」をさえ結んだといわれます。
 しかし、収容所生活での栄養不足と病で人の変わってしまった父は、彼の「浪費」(!)を非難します。「人がすぐに感謝の念を忘れてしまう動物だということを学んだ」アリストは、父と離別しアルゼンチンで商売を始めることとなります(134-6頁)(注3)帝国のコスモポリタン文化の終焉とおなじ時期のことです。

■共存と寛容、そして小さな自尊心■
 印象的なのは、オナシス一家が、主教クリソストモス虐殺の一報を聞いたとき、アリストの祖母・ゲスセマネが、主教のみならず彼を殺したものたちのためにも祈るよう言ったことです。アリストは納得できませんでした。しかし祖母曰く、「私たちはいつも弱い者を許してやらなければならない」。ムスリムとギリシア正教徒を区別しないこの態度が、「多民族帝国の少数派として生きていく上で大事な知恵だった」のです(133頁)。
 宗教がもたらす寛容の精神と、その寛容がもたらす宗教への自尊心との均衡の中で、この帝国は支えられていました。それは、ギリシア正教の人々にも、ムスリムたちにも、おおよそ同じことが言えるのかもしれません。寛容をなすというわずかな自尊心が、この帝国における共存を支えたともいえるのではないでしょうか。もちろん、その寛容さが少数派にとってより難しいものであったことはいうまでもありません。少数派として生きる上で、この寛容の精神と、それがもたらすわずかな自尊心に、コスモポリタン性は支えられていたのかもしれません。

(続く)



(注1)当時のオスマン帝国の異民族・異教徒への政策については、名著・鈴木董『オスマン帝国  イスラム世界の「柔らかい専制」』 をご参照ください。

(注2)イズミール」(『世界飛び地領土研究会』様)によると、この後、

ギリシャとトルコは住民交換条約を結び、紛争を抜本的に解決するために、ギリシャに住むトルコ人とトルコに住むギリシャ人を、それぞれ相手国へ強制移住させることになった。これによってトルコを追われたギリシャ人は150万人、ギリシャを追われたトルコ人は100万人と言われる。

 なおこの頁には、「ギリシャ人」と「トルコ人」の判断基準が宗教であったことも書かれています。「イズミール地方のギリシャ正教徒はギリシャ語を話していたが、黒海南岸の住民が話すギリシャ語はギリシャ本土では全く通じず、カッパドキアの住民はもっぱらトルコ語を話していた」のですが、彼らも追放されます。
 世俗主義であったはずのケマル・パシャでさえも、①トルコ語を話すギリシア正教徒と②ギリシア語を話すムスリムの、どちらが「トルコ国民」かという問題に対して、後者だという判断を下しています。言語よりも宗教の方が、国民統合に利用しやすい、という判断があったのです。詳細は、山内昌之『イスラームと国際政治 歴史から読む』をご参照ください。
 ただし、トルコ人とギリシア人以外の民族にも注意を払うべきで、「トルコはスミルナを占領すると,およそ三万人のギリシャ人とアルメニア人のキリスト教徒を虐殺した。都市は巨大な炎に包まれ,残されたのはトルコ人とユダヤ人の居住区だけだった」と、リチャード・クロッグ『ギリシャの歴史』に書かれています(「現代ギリシャの歴史」『ΑΤΑΚΤΑ』様より孫引き)。アルメニアとトルコという問題が、このスミルナにも映し出されています。

(注3)発掘!テレビ映画って結構面白いじゃん!?」(『angeleyes』様)によると、『海運王オナシス/世界で最も富を得た男』というテレビ映画では、父と息子は終生親密な中として描かれている模様です。山内も、このテレビ映画も、同じピーター・エヴァンズの著作を参照・原作としていますが、父子の仲は、まるで違う印象です。原作は読んでおりませんが、テレビ映画のほうがこれを改変したのだ、と推測します。

2010/1/22 内容一部改変

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エリア・カザンの「転向」と、メディア的批判 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(5)

■エリア・カザンの「転向」と、余裕の問題■
 第五章で山内は、先の50年代のアメリカ映画という話の続きとしてエリア・カザンを取り上げ、ギリシア系移民という彼の立場の弱さ(「ネイティブ」の人間に比べて移民出身者であることの寄る辺なさ)が、やがて転向と「裏切り」に繋がっていく様を描いています。
 彼の自伝的映画『アメリカアメリカ』は、金が第一、夢のためにも金が先立つ世界で、アナトリアのギリシア系青年が夢の国アメリカへ移住しようとして、自らの手を汚していく話です。山内は、これの原作における多民族性と競争原理が、アメリカと共通していると述べます。そして、本作から山内は、”おまえら裏切り者と俺をののしれる義理か?お前らも同じだろう?”という声を聞きます(93頁)。このようにして、エリア・カザンは、移住を郷愁化し、「転向」を正当化しようとしました。(注1)
 次に山内は、一度明治政府に反抗しながら、「転向」し駐米公使となった陸奥宗光と、政府に反抗して亡命した馬場辰猪とのアメリカでの出会いについて触れます。そして、陸奥とエリア・カザンは、「転向」により「権力」と「理念」のあいだで引き裂かれていた点で共通していた、と言います(98-9頁)。「転向」した側にも言い分はある、というわけです。
 ここで問題としたいのは、話題から少し離れますが、「余裕」の問題です。坂野潤治 『未完の明治維新』は、「明治二十六年末」の議会で陸奥宗光が、議会政治も富国強兵も「すべて実現しましたと言い切っている」ことに対して、これまでの「幕末・維新期の思想家と政治家が必死にめざした」重い努力と比較をして、その発言の軽さを批判しています。陸奥の場合は、後世の人間の「余裕」を批判されたといえるでしょう。ここで問題としたいのは、「転向」した者が見せてしまう「余裕」の問題です。
 同じように、太田昌国「国策に奉仕する「〈知〉の技法」―山内昌之の発言に触れて」(『現代企画室』様)において、「東大教授という安全地帯にいる」己れは、〈周辺事態〉なる曖昧きわまりない、米国主導の戦争行為で生命を落とす、あるいは他者を殺害するかもしれぬという「危険地帯にいる」自衛隊員の未来像に心騒がぬのか。」とその「権力」的姿勢を指摘される山内は、立場の「余裕」を批判されたといえるでしょう(ただし太田は、山内の学術的業績は評価しています)。
 「一九六〇年代には、北大ブントのはしくれとして、「暴力」=ゲバ棒を振るっていた」(注2)という山内の「転向」が、この立場の「余裕」にどのように絡んでくるのかについては、ここでは考察しません。ここで重要なことは、「転向」をして、その人がその後見せてしまった無防備な「余裕」を見てゆくことです。

■納得の風土、エリア・カザンとメディア■
 第6章で蓮實は、エリア・カザンに対して、どのような「余裕」を批判するのでしょうか(もっとも、「批判」という仰々しいものではなく、しずかな、しかし力ある「指摘」なのですが)。彼はエリア・カザンの「自伝」にある一枚の写真、赤子の頃のカザンの母とその家族が写った写真を手がかりに、論述を進めます。
 まず蓮實は、マス・メディアにおける出来事性のなさに触れます。例えば、テレビである何かを見るのは、個人として偶然でも、全体的には、必然的に誰かが視聴し得てしまいます。誰かが、それを見るのです。しかも、膨大な匿名の人々によって見られてしまう可能性が、広がるのです。
 かようなマス・メディア環境にこそ、「二十世紀独特の体験がひそんでいるはず」(108頁)と蓮實はいいます(無論、現在ならマス・メディアのみならず、ネットのことも想起されるべきでしょう)。カザンの自伝の中で写真の被写体となった当時の人々には予想できなかったこのような事態、このメディア的流通構造の著しい発展こそ、「二十世紀独特の体験」なのです。
 我々が、エリア・カザンの幼いころの母の家族写真を見ることになるのは、まさに、20世紀以降の時代を生きているからであり、加えて、「エリア・カザン」という有名なメディア化された人物だからこそです。カザンという名前の有名性が、この写真を我々に見させるのです。カザンは、「まさにメディア化された名前としてあたりに流通する自分を、どこかで断ち切ろうとする決断をついに下しえなかった」(114頁) のです。この名前の流通という点も、「二十世紀独特の体験」といえるでしょう。カザンの持つメディア的な「余裕」が、ここで指摘されるのです。
 エリア・カザンの演出は、「物語の優位」の時代において、「納得」させる機能を持っていた(117頁)のですが、これは、1930年代以降のトーキー映画やテレビなどのメディアの求める「納得の風土」において、高い評価を受けることになります。
 彼の演出は、視覚的画面に対する物語の優位よって成り立っていて、このような「納得」させることばかりのカザンの映画に対して、蓮實がどう思っていたのかは、いうまでもありません。(注3「二十世紀独特の体験」であるメディア的流通構造の著しい発展において、納得と引き換えに、驚きへの感性が放棄されていく潮流に躊躇なく乗ってしまったこともまた、メディア的な「余裕」といえるでしょう。

(続く)



(注1)同じく、「裏切り者」となったジェームズ・ロビンズについては、津野海太郎『ジェロームロビンスが死んだ ミュージカルと赤狩り』をご参照ください。こちらに適切な書評があります(「ミュージカルと密告者」『千葉海浜日記』様)。「下院非米活動委員会に召喚された際、かつての同志の名を証言する「友好的証人」」だったというジェームズ・ロビンズとエリア・カザンを、いつか対比させて考えて見たいと思います。

注2)「山内昌之よ! いつからブッシュの提灯持ちになったのか」(『解放』様、第1691号( 2001年10月29日)より孫引き)。また、府川充男「「六八年革命」を遶る断章」(『東亜文字処理 ライン・ラボのWebページ』様より孫引き)には、「伊斯蘭(イスラーム)圏史の東大教授山内昌之氏が北大社学同当時渡辺数馬の筆名で『理論戦線』に書いた社青同解放派批判等,『共産主義』九号に掲載された門松曉鐘[廣松渉]の「疎外革命論批判序説」一本の丸々引写しでしか無かった」との記述があります。

注3)この、視覚的画面に対する物語の優位という問題については、「イーストウッドと50年代映画 蓮實重彦『映画論講義』(4)」もご参照ください。


(追記) 『TARO'S CAFE』様の「グッドナイト&グッドラック Ⅳ」という記事のコメント欄では、「カザンが裏切りのシンボルとして定着してしまった理由」の一つとして、「カザンはすでに30年代から名声が確立し、証言を拒否しても経済的に本当に食い上げるわけではなかった。」ことを挙げられています。この点は、上島春彦『レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝』にも書かれています。

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赤狩りとアメリカ映画の死、及びアンソニー・マンの「西部劇」 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(4)

赤狩りと、ハリウッドの黄昏■
 第4章では、第2章のその後を扱っています。第3章での中世スペインの言及に対して、蓮實は「20世紀の首都」崩壊以後の、スペイン・マドリッドへ焦点を当てます。
 ロサンジェルスが「20世紀の首都」たりえたのは、30年代中期から40年代中期の約十年間にすぎない、と蓮實は言います。やがて時代は、猥雑・異質なものに対する原理主義的な「浄化」に向けて動いていき、冷戦というのはこの動きの枠内にあるというのです(66頁)。しかし、「20世紀の首都」ロサンジェルスの崩壊は、目に見えない、当時誰にもそうと気づかれないままに起こった出来事でした。
 テレビという媒体の隆盛と独禁法違反の訴訟に巻き込まれた映画界は、当時マーシャル・プランにより旧大陸に凍結されていたドルで、製作をする他ありませんでした。つまり、凍結されたドルによって費用を賄って映画を作り、その映画を上映してお金を回収しようとしたわけです。『ローマの休日』もこのハリウッドの空白時代のアメリカ映画でした。
 さらにハリウッド衰退を進行させたのが、赤狩りでした。ワシントンの議員たちによって「非米活動委員会」が組織され、ロサンジェルスの浄化政策がすすみ、かつて存在したいかがわしい煌びやかさは消えていきます。50年代にハリウッドを離れた映画人たちは、人件費を安く済ませられるローマとマドリッドに「亡命」します。
 蓮實は二つの都市で相応の水準の映画作品が撮られていることを一応認めながらも、先にあげた各界の優れた人物が共存したロサンジェルスと違って、映画産業しかない二つの都市を、ロサンジェルスの「醜悪なパロディ」と述べます。
 確かに、非米活動委員会によって召還されたハンス・アイスラーと委員との対話はそう思わせるに十分な内容です。アイスラーのドイツ時代の作品の歌詞の卑猥さについて、こうした詩を書いた男は「合衆国議会に対する尊敬の念を欠いている」という委員に対し、アイスラーは「あなたはアメリカの詩に慣れ親しんでおられますか」と応じているのです(74頁)。

アンソニー・マンと、アメリカ映画の死■
 マドリッドでは、『ドクトル・ジバゴ』や『北京の55日』等が撮影されていました。前章で言及された映画『エル・シド』も、アンソニー・マン監督により、ここで撮影されています。
 なぜアンソニー・マンがこの映画を監督することになったのかについては、インタビューで、ラストに死んだ騎士が甲冑を纏って馬に乗って戦闘へ赴くイメージに惹かれたからであり、自分の西部劇にふさわしい風景に出会えそうだったからだといっています(80頁)。彼は、スペインの国民文学にも異教徒同士の争いという主題にも、執着がなかったようです。ただ、自分の撮りたい画があった、という、いかにもアンソニー・マンらしい言葉といえるでしょう。
 蓮實は、この映画の悲劇的雰囲気とハリウッドの崩壊が通じ合っている、といいます。片や、すでに命尽きているのに敵は誰も気づかない、馬上の騎士の雄姿、片やすでに死んでしまっているのに、まだ周囲の人間がそれに気づいていないというアメリカ映画の状況、この二つが似通っているというのです。誰にも気づかれないアメリカ映画の死。(注1)
 それにしても、72頁にあるように、ニコラス・レイとジャン・ルノワールは、なぜ委員会に召還されなかったのでしょうか。いまだ分っていません。『レッドパージ・ハリウッド』でも、これは解明されていないはずです。これを書いている者の生きているうちに、真相は分るのでしょうか。

(続く)



(注1) 以前、この部分に「上島春彦『レッドパージ・ハリウッド』は、ニコラス・レイ『大砂塵』の脚本家は、フィリップ・ヨーダンではなく、ベン・マドウだとしており」と書きましたが、誤りです。上島春彦『レッドパージ・ハリウッド』の137頁には、 『大砂塵』に「マドウが関与していなかったことは明らかになった」との表記があります。
 本稿の詳細については、蓮實の『ハリウッド映画史講義』や上島春彦『レッドパージ・ハリウッド』をご覧ください。

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いかがわしき都・コルドバと、エル・シッドの真実 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(3)

■「世界の首都」コルドバ■
 第三章で山内は、蓮實の挙げた1940年代のロサンジェルスに対して、諸民族はもちろん、イスラム教とキリスト教さえも如何わしく共存していたハイブリッドな10世紀から11世紀にかけての「大都市」コルドバを提示します。当時は、今とは逆の立場で、ヨーロッパ側が、イスラームの習慣の放縦さ・官能主義を非難する時代でした
 最盛期の10世紀のコルドバは、その諸民族だけでなく、イスラームとキリスト教が、ある種のいかがわしさを伴いながら共存しているという点で、1940年代ロサンジェルスを凌駕していることを語ります。アブド‐アッラフマーン3世、息子のハカム、宰相マンスールがその最盛期を支えていました。
 アブド‐アッラフマーン3世は、内憂外患を退け、アッバース朝に対抗する力を備えてカリフとして即位し、アフリカまで勢力を広げた名君でした。文化を保護し、ヨーロッパ諸国の留学生を迎え入れるなど、古代ギリシャの系統を引く、イスラームの文化とヨーロッパの文化を融合させた文化を醸成させ、コルドバを世界的大都市(後世の数字だが、当時では破格の30万の人口)にまで成長させたのが彼でした。
 息子のハカム2世は、優れた教養人で、巨大図書館を創設するなど、文化に力を入れた君主でした。そのさらに息子のヒシャーム2世の時代に、宰相マンスールこと、アル・マンスール・ビッ・ラーヒは、後ウマイヤ朝をその最大版図まで拡大させます。

■飲酒と同性愛/ 爛熟の都市コルドバ■
 コルドバでは、後ウマイヤ朝滅亡のあとの小国分立と北アフリカ勢力の北上の以後も、さまざまな才能が生まれた場所となりました。11世紀の乱世において政治的流転を繰り返しつつ、神学、法学者、詩人等さまざまな才をもったイブン・ハズムもコルドバの名家出身でした。12世紀のアリストテレス註釈の巨人の一人であるアヴェロエスことイブン・ルシュドもコルドバ出身、宮廷の侍医でありユダヤ教神学者でもあり偉大なる哲学者でもあったマイモニデスもコルドバ出身です。
 では、そのコルドバでは、文化の爛熟の一方でどのような「退廃」があったのでしょうか。例えば、アラブの詩人であるイブン・シュハイドは、この都市のキリスト教会で痛飲したと著者は言います。当時イスラームの都であったこの場所でも、秘裏に酒の飲める場所があったのです。しかもそれが、よりにもよって異教徒の教会であったわけです。キリスト教徒たちは、ムスリムの「不道徳」に染まって、一夫多妻制を実践するものが現れました。
 またコルドバでは、先にも紹介したイブン・ハズムのように同性愛を楽しむ人もいたといいます(49頁)。イブン・ハズムは、「鳩の頸飾り」という作品において、少年愛を扱っています。このような混沌とした爛熟と退廃の都において、文化は大いに花開いたわけです。このような爛熟が、真面目で純粋さを求める原理主義的な思考の持ち主たちには、害あるものとして受け止められていたことも、無論わすれてはいけません。

■エル・シッドの実像と、中世イベリアのキリスト教徒■
 さて、イブン・ハズムは、祖父の代にコルドバに移り住んだムワッラドの子孫でした。ムワッラドとは、ここでは、イスラムに改宗したキリスト教徒を指します。当時のイベリア半島のムスリムとキリスト教徒の関係は、単純に支配・被支配関係として図式化できるようなものではありませんでした。先にも述べたように、改宗した元キリスト教徒と、なおキリスト教徒である人との差異などが、存在していました。無論、当時のイベリア半島では地位の高かったユダヤ人や、奴隷として輸入されたベルベル人やスラブ人(彼らには官僚や軍人として活躍の道があった)も、忘れてはいけません。
 また、イスラーム勢力とキリスト教の勢力も、単純な対立をしていたのではなく、イスラーム勢力の側が傭兵部隊としてキリスト教の軍を雇うような事例もありました。宗教によって、体よく色分けして理解できるような関係ではなく、権謀術数の関係の中で、相互の勢力が時に協力し時に対立すると言う関係だったのです。アンダルス最大の詩人イブン・アンマールが、イスラーム諸国ばかりかキリスト教国家にも亡命客として受け入れられた事実(55頁)が、ここで想起されるべきです。
 かような観点を踏まえ、エル・シッド(エル・シド)の実像を考えましょう。エル・シッドは、11世紀のカスティーリャ(イベリア半島中央部にあった)の騎士です。君主に疎んじられながらも、あくまで王に忠実たらんとする人物、異教徒から国を守りスペインを統一しようとした英雄というイメージで知られています。
 しかし映画などから来るイメージと違い、実際のエル・シッドは約束を守らず、教会を略奪し、給与と戦利品にしか興味がなく、残酷な人物であったことを、ラインハルト・ドズィという人が19世紀にすでに実証しました。
 史実では、カステーリャの王による追放後、サラゴサのムスリムの王に仕え、バルセロナ伯やアラゴン王と戦っており、このころ、「シッド」の敬称をムスリムたちから与えられたと考えられています。そもそも、「シッド」とはアラビア語で「主人」を意味します。当時、タイファと呼ばれるイベリア半島のイスラーム国家の君主たちが分立しており、隣国と戦うためにキリスト教の傭兵が雇われたのです。
 そもそも、スペイン古典文学の代表作『わがシッドの歌』では、この主人公が経済的価値に固執し、キリスト教を本当の敵としたり、生存のためならムスリムと手を結ぶこともいとわなかった(58-61頁)ことがきちんと書かれています。バレンシアを攻撃したのも、宗教的情熱や愛国の精神ではなく、経済的利益のためであったことが書かれているのです。しかし、先のことを踏まえれば、彼を軽蔑したりする必要はないのです。
 当時のイベリア半島は、そのほとんど、原理主義的な思考の持ち主による宗教戦争の世界ではありませんでした。宗教勢力が単純な対立に収まらず入り乱れる世界の中で、エル・シッドという人物は生きていたのです。エル・シッドとは、当時のイベリア半島の状況をそのまま体現する人物だったのです。

(続く)

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ベンヤミンと、批評家の【知的な賭け】 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(2)

■1940年代のロサンジェルスにおける豪華さ■
 ヒッチコックやフリッツ・ラングのような監督や、グレタ・ガルボにマルレーネ・ディートリッヒなどの俳優は無論のこと、『春の祭典』のイーゴリ・ストラヴィンスキー、『三文オペラ』のカート・ワイル、『死刑執行人もまた死す』の作曲も行ったハンス・アイスラー、ルノアール監督の『ボヴァリー夫人』の音楽も担当したダリウス・ミヨーなどの、作曲家たちが40年代のロサンジェルスには「共存」していました。
 ハリウッド黄金期の映画音楽作家であるエリッヒ・ウオルフガング・コーンゴルドは、すでにガーシュイン以上にアメリカ的な生活を送ったいわれ、歌劇『モーゼとアロン』(ストローブとユイレ!)でも知られるアルノルト・シェーンベルクに至っては、テニスコートでラケットを振り回していました。
 ドイツ演劇の「皇帝」・マックス・ラインハルトはもちろんのこと。ベルトルト・ブレヒトは、『啓蒙の弁証法』のテオドール・アドルノやホルクハイマー、『エロス的文明』のヘルベルト・マルクーゼと交流し、オーソン・ウェルズと『ガリレオ・ガリレイの生涯』の映画化を検討し、ウイリアム・ディターレにジャズ史を教授し、フリッツ・ラングにはナチズムを啓蒙的娯楽映画としてとるための企画を提供し、この映画・『死刑執行人もまた死す』の脚本を書くこととなります。(注1)
 在米中に『奥様は魔女』を撮ったルネ・クレールはもちろんのこと。『歴史は夜作られる』のシャルル・ボワイエの邸宅では、『現金に手を出すな』のジャン・ギャバンや『霧の波止場』のミシェル・モルガンらを巻き込んで、ヴィシー派とドゴール派の口論が行われていたといいます。
 『すばらしい新世界』で著名であろうオルダス・ハクスリーや小説『ベルリンよさらば』で知られるクリストファ・イシャウッドの姿が、MGMの撮影所で見かけられ、小説家のトマスとハインリッヒのマン兄弟が、弟の妻と大通りを散歩し、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリとジャン・ルノワールが同じ車に乗っていました
 後に赤狩りの対象となる東海岸出身の作家たち、『血の収穫』のダシール・ハメットや「盟友」リリアン・ヘルマンなども、この「国内植民地としての西海岸の都市」にいたのです。このような顔ぶれがそ知らぬ顔で行きかっていた都市が、1940年代のロサンジェルスでした。

■知的な賭け、あるいはベンヤミン第二帝政
 先にあげたごとく豪華な面々がロサンジェルスには「共存」していたわけです(『啓蒙の弁証法』の「文化産業」の章が、サンタモニカでの口述筆記を原型としていることの驚き!(42頁))。差異を認めるという点で、人種主義に利用されかねない多文化主義に対して、この都市におけるハイブリッドな「共存」をもって、返答がなされています。固定された差異の住み分けではなく、反復にともなって差異化し続けるいかがわしくもある場所の肯定によって、固定された差異を解きほぐし続けていこうとする目論見、とひとまずといえるでしょう。
 もちろん、その一方で蓮實は、当時のアメリカ文化の中にある「日本像」が、十九世紀的な表象にとどまっており、日本人のほとんどはロスから離れていない土地で強制収用されているのに、これに気づいている「ヨーロッパの亡命者はほとんど誰もいない」(34-5頁)ことにも言及しています。
 日本人・日系人だけでなく中国人もムスリムも、誇張された存在として映画などで描かれ、ネイティブ・アメリカンも黒人たちも、現在と比較してステロタイプな存在としてしか、振舞うことを許されていませんでした。
 それでもなお、その限界を認めてなお、その場所が持つ可能性に、知的に賭けているのです。本著の一つのテーマは、この知的ともいうべき賭けといえます。
 蓮實は、批評家ベンヤミンが、フランス第二帝政の研究をしようとしたときには、「その研究対象である時代がまったく流行遅れのものだった」ことに言及しています。帝政など、今の共和国には無意味だ、と。「フロベールやボードレールについては饒舌に語りながら、彼らが生きたナポレオン三世治下のパリについては語らずにおくという抽象的な姿勢がたやすく容認されていたのである。」というのです(37,38頁)。ベンヤミンはそのような不利な条件下において、知的な賭けを行ったのです。
 1940年代のロサンジェルスもまた、「六○年代の公民権闘争を通過しているのだから、四○年代の人種差別の問題はすでに清算されているはずだという公式の視点」にさらされていました。だとするなら、二十一世紀の批評家もまた、この不利な条件において、知的な賭けを行うはずです。
 蓮實は、「当事者にとっては、つかのまのできごととして記憶されても不思議ではないこうした事態を、まぎれもない二十世紀の現実として捉える感性こそ、二十一世紀の批評家には不可欠なものとなるはず」(40頁)と述べています。
  これとあわせていえば、知的な賭けには、自身の同時代人も、当事者たち(その時代において「共存」しえた者も、共存できないままに終わった者も含めて)も、ついに明確には感知しえなかった対象を、ある時代における現実として捉える感性が必要となるのです。なお、この問題は再度、最後の方で提起される事柄となります。
 1940年代のアメリカ西海岸でのアドルノたちの「茫然自失」を「いささかも共有しようとはしないハーバーマスの理論一般への確信が、二十世紀におけるアメリカの文化的な役割の無視によって成り立っている」(44、45頁)とする蓮實の批判は、この知的な賭けの重要性とともに、読まれるべきなのです。ちなみに、レヴィ=ストロースも、サイードも、ハーバーマスも、方法・理論ばかりを重視して、語るべき対象をきちんと分析し切れていないと蓮實は批判していますが、このような批判は、後に出版されるフィクション論たる『「赤」の誘惑』で繰り返されることになります(この本についてもいつか書きたいと思います)。

(続く)


(注1) アドルノとアイスラー、アドルノとベンヤミンの関係については、細見和之「アドルノ、ベンヤミン、アイスラー ~30年代の「引き裂かれた半身」をめぐって~」(『生きているうちにみられなかった夢を』様)をご参照ください。

(追記)蓮實は、浅田彰との対談において次のように述べています(「パリ・上海・幕張(2)」『幕張 アーバニスト 第1号』様)。

 近代の都市は、最も魅力的なものが最も困ったものであるという矛盾した側面を持っているわけです。そして近代とは、その矛盾をどのように処理するかに悩みつづけた時代だと思うんです。例えばベンヤミンが、第二帝政期のパリに対して非常にアンビヴァレントな感情を持つわけですね。パッサージュといった展示的な価値を持つ空間に強く惹かれると同時に、それは彼が考えている戦略からすると、そこに資本主義的な矛盾が集中するという意味で、撲滅すべきものでもあったわけでしょう。にもかかわらず、それに惹かれた彼は、その矛盾を解決することなく死んだ。我々は、ベンヤミンが解決できなかった矛盾を、遺産として引き継いでいる。

 近代の都市は、「いかがわしさ」ともいうべき両義性、つまりもっとも「魅力的なもの」がもっとも「困ったもの」であるという矛盾をどう処理するか悩み続けた時代であり、ベンヤミンもまたこの矛盾に悩みつづけた。そしてこの問題は現在でも残されている、というこの蓮實の問いは、この発言(1994年)から十年以上を経た現在でも、有効なのだと思います。これは、本記事での「首都」の問題を考える際に重要なことです。
 また、「その情報社会なり、あるいはネットワークというものが無意味というわけではなく、もっと魅力的になり得るはずでありながら未だ十分魅力的でない。」という蓮實の言葉は、つねに「情報社会」に生きるものにとって、心すべき言葉ではないでしょうか。

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多文化主義の弱点と、世界の首都 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(1)

蓮實重彦/山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』講談社 (1998/05)

 本書は、フランス文学者であり映画批評家である東京大学学長(当時)と、同大学のイスラーム史を専門としながらもそれ以外の分野にも博学で知られる教授による、「往復書簡」ともいうべきものです。言及したい話題が豊富ですので、章の順を追って書いていきたいと思います。基本的に本書は話題がズレながら進んで生きますので、ついていくのは思いのほか大変です。

多文化主義の弱点としての「人種主義」■
 第一章で山内は、多文化主義がフランスの国民戦線のようなタイプのレイシズムに対抗できないことを、論じます。多文化主義では「差異」の尊重は、そのまま「差別」への許容にすり替えられる、と(注1)。「差異への権利」は、差別を助長する方向と、差別に反対する方向との両方に使われてしまう、というのです。
 国民戦線の論法とは、【マイノリティの権利が尊重されるのなら我々多数派も権利を尊重されるべきであり、尊重されるには国内にいるマイノリティは国に帰って(無論強制的に)、お互いの文化の尊重をし合おう】、という理屈でまとめられるでしょう。(この党については、 畑山敏夫『現代フランスの新しい右翼 ルペンの見果てぬ夢』等をご参照ください。)互いの差異を尊重するために、互いに隔離し合って、融合や混交を忌避しているのです。これの極端なものが、アパルトヘイトといえるでしょう。
 この党の方針、「小さな政府」政策と移民排斥路線の矛盾という点はさておいて、二点、本書で言及すべきことがあります。
 第一点は、1970年代の調査において、「ユダヤ人と北アフリカ人に対する敵意は主として労働者と退職者にあることが指摘されている」(18頁)という点です。彼らの既得権を奪われるという恐怖が、人種差別の種子を植えつけた、というわけです。「弱者」こそ、別の「弱者」を憎悪・排斥する、という事例といえるでしょう。弱い者達こそが、夕暮れに、さらに弱い者をたたくというわけです。(注2)
 第二点は、「日本のように同質性の高い社会では、ルペン以上に巧妙な論客が生まれるだろう」(19頁)と山内が述べている点です。もちろん、現在の日本における外国人に対する湿ったレイシズムは、甚だしいものがありますが、ルペン以上に「巧妙」な論客となると、2009年現在でもいないかもしれません。少なくとも、移民排斥を”第一”として票を伸ばす党が、未だにないからです。いるかもしれませんが、大半は「巧妙」とは程遠い無才ばかりでしょう。

■1940年代のロサンジェルス、あるいは世界の首都■
 第二章で蓮實は都市における、多文化の如何わしささえ漂う「共存」をもって、山内に返答します。もし21世紀の批評家が、20世紀の「世界の首都」について論じるとすればどんな都市か、と仮定する蓮實は、1940年代のロサンジェルスを挙げます
 思いもかけぬ出会いに満ちたハイブリッドな構成をもつ、国籍や人種や職業などの違う人々が群集の一人として行きかう都市。このような都市は、同時代にパリやモスクワや上海などにも見られる特色ではありますが、資本主義という始末におえないシステムのなかで、人類の思考を嫌でも標準化させる「商品」の暴威を鑑みて、その最たるロサンジェルスこそ、「世界の首都」なのです。この危うい魅力に溢れた「国内植民地としての西海岸の都市」(32頁)において、資本主義による文化の商品化は、知性と感性の大掛かりな変容を日常化させていました。
 「世界の首都」たる都市ロサンジェルスのハイブリッド性、その驚嘆すべき共存について蓮實は、その豪華な面々を列挙することで論じます。彼らはロシア訛り、ドイツ訛り、フランス訛りの英語で共存していたといいます(39頁)。

(続く)



(注1)多文化主義」に触れる以上、西川長夫のいうように、「多言語主義」についてはふれずには、いられません。これについては、後の記事、「【正しい】母国語?、【国家的】と【国際的】のあいだ 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(7)」の、注1をご覧ください。

(注2) ただし、山内は本書20頁で、「貧者の人種差別は、牙を抜かれた人種差別なのである」とも書いています。恵まれた人たちが持つ「寛容さ」は、その恵まれた地位や環境こそ背景にある場合があるのではないか、という疑問を持つことは大切です。そういえば、パレスチナの人々に比較的寛容といわれるのは、イスラエルの中でも恵まれたセファルディやアシュケナージではないでしょうか。


(追記) 気になる点を一点だけ。第1章において、マスウーディー(10世紀のアラブ人地理学者)が当時のヨーロッパ人たちを蔑視する一文が、引用されています。その中で彼は、ヨーロッパ人を「ユーモアに欠け」、「性質は粗野」、「振舞いはがさつ」、「理解力は鈍く」、「宗教的信条は堅固でない」と批判しているのです(15頁)。我々の時代のものなら、【俗信への妄信】などの言葉が、侮蔑語として並ぶのではないでしょうか。異教徒に対する侮蔑語が、「宗教的信条は堅固でない」だったことの意味を、今後考えたいと思います。

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映画は追悼しない - ダニエル・シュミットと"ヘップバーン" 蓮實重彦『映画論講義』(6)

ダニエル・シュミット、または追悼ならざる追悼
 「ダニエル・シュミットは死なない 追悼を超えて」の章を見てみましょう。
 著者はまず、亡くなったダニエル・シュミットの映画について、次のように言います。男性が女性を後ろから抱える姿勢が愛を生じさせる。女性たちが一人になる時、所作が止まり死に近づいてゆく。やがて二人が向かい合った時には「死」が待ちうけている。著者は、彼の映画における、愛と死と所作の関係を語っています。
 そして、『今宵限りは…』での、エンマの演じられた死(「仮死」!)を、ヴェンダース監督の『アメリカの友人』での俳優たるシュミットが暗殺されるシーンと被せることで、私たちの知るシュミットの死をあくまでも仮死とし、追悼ではなく、誇張すれば「仮死の祭典」とすることで、彼とその映画の存在を肯定するのです。
 このような、追悼のやり過ごしは、『絶対文藝時評宣言』の「中上健次の死は、無慈悲なまでに抽象的である」という章での、津島佑子の中上健次の「追悼」の仕方に似ています。大方の人たちが「追悼」をはしたなく行うのに対して、津島は、海外で中上へ言及した記事を切り抜き、それを中上に送ろうする。しかし、そのときに中上がすでに死んでいたことを思い起します。追悼という、死者の厄介払いは、ここにはありません。
 このような追悼とは程遠い形の「追悼」は、「中上健次の死は、無慈悲なまでに抽象的である」の章自体でも行われていますが、その詳細については、ここでは述べないことにしましょう。同じような追悼のやり過ごしは、『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』での、ダニエル・ユイレにも行われています。
 蓮實は、本書の論述へ変更を余儀なくさせた、この優れた映画作家の一人の死に対して、パートナーだったストローブとの映画『セザンヌ』での、ナレーションである女性の声が、男性のはずのセザンヌを名乗るシーン等に言及することで、映画における「声」の主体の自己同一性の揺らぎについて語っています。もし追悼というものが、死者の自己同一性の確保を前提的な条件とするのなら、映画における自己同一性の否認に言及することとは、彼女への追悼をやりすごすことであり、彼女(たち)の映画への肯定をすることなのです。
 だからこそ、キャサリン・ヘップバーン追悼」の章での、著者の「わたくし自身は、ヴィデオで『男装』と『アダム氏とマダム』を見て彼女を追悼しました」という時の「追悼」は追悼などではないのです。「ヘップバーンさん」と「さん」づけで彼女について述べるとき、そこにあるのは、「誰かまわず「さん」づけで呼ばぬと気のすまぬらしいテレビや新聞・雑誌の官僚主義」による、彼女への無知に対する批判であり、彼らのようなはしたない追悼をするまいとする、著者の誠実さなのです。彼女の姿をせめて、ヴィデオで見ること。これこそが、彼女と映画に対する肯定の、最低限の振る舞いなのです。
 追悼とは、「小津安二郎はわたくしたちにとって、あくまで来るべき作家にほかなりません」と述べる著者にとっては縁遠い言葉なのです。

■終わりに■
 ここら辺で、本著についての話を終えることにいたしましょう。「ネット上のサイトには、注目すべきものもある」が、「読むと、どれも同じ文体に見える。ネットに書くということで、同一性が生まれてしまうのか。文体的に際立つ人が非常に少なくなっている」という指摘や「自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます」という言葉を気にしている人間としては、これ以上は何も述べられません(「蓮實重彦さんの映画批評復活」(『YOMIURI ONLINE』様))。
 溝口が短いショットをうまく編集して活劇も見事に撮れたことや、成瀬組だった美術監督の中古智が、『山の音』を監督した後に、『ゴジラ』のロケを監督したという話など、興味深い挿話もある本著の面白さは、まだまだ尽きないのですが。

(了)


(追記)
 本書に関する優れた書評のひとつに、「「映画論講義蓮實重彦」(『Mani_Mani』様)があります。ただし、「環境によっては観点の多様性と声の複数性というのがネット上で機能していく可能性はあるのだろうと思う。」という展望については、「■終わりに■」での蓮實先生の見方とは、間隙があるのも事実です。
 しかしやはり、拙稿「ベンヤミンと、批評家の【知的な賭け】」で引用したように、「情報社会なり、あるいはネットワークというものが無意味というわけではなく、もっと魅力的になり得るはずでありながら未だ十分魅力的でない。」という言葉に、あくまで希望を見るべきでしょう。

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グルダットと、映画への道 蓮實重彦『映画論講義』(5)

■グル・ダット、あるいは映画の道を目指さない幸福について■
 「大胆さと技法について」の章は、映画の覇権をめぐる緊迫した雰囲気を脱して、単純かつ楽天的とも取れるテーゼを述べています。映画において大胆さが許されるということ、それは、技術の問題だ、と。
 ある人物の回想の場面なら、役者に特殊メイクさせて、回想させていい。ワンショットで取ってもいい(しかも、安上がりになる可能性もある!)、同時録音なしでもいい(予算が安上がりになる!)。ショットごとに衣装や髪形を変えてもいい(観客は馬鹿である!)。カメラの影が画面に映ってもいいんだ(画面に強度があれば気にならない!)。当然、イマジナリーラインを守らなくていい。女たちだけでいい、男なんて出なくても問題ない。画面を全く割らなくてもいい。逆に割りまくってもいい。唯一つ、技術さえあればいい。それがありさえすればいい。
 この恐るべき単純なテーゼは、ただひとつ、技術の問題だと述べているのです。しかし、技術とは何でしょうか。「グル・ダットの全貌に向けて」というすばらしい章を見てみましょう(必見です!!)。グル・ダットは、「大胆さと技法について」の章にも登場しています。
 著者は、グル・ダットの映画の中では、登場人物の身振り・振る舞い・感情に合わせて、メロディーが「同語反復的に同調」してしまうことを指摘します。キャメラも、音楽も、踊りも、それを「二重三重に誇張してみせる」のですが、これも「そこまでやることないんじゃないか、とは思わせない」というのです。彼の映画は動くことをやめません。風が、カーテンや、女性の髪や衣装やヴェールを揺らし、雨が振り落ち、木漏れ日が光と影を形作り、男たち女たちは場所を移動し、それに合わせてカメラも移動します。「何かが絶えず艶めかしく動いている」のです。そしてその画面に、グル・ダットの独特な歌声が響き渡ります。
 まさに、これぞ「技術」というべきでしょう。本章では、50年代の国際映画祭では、「ある国民がごく普通に受け入れ、それを消費し」にくいような作家は国際的には認知されにくく、その作家の例が、日本の小津、インドのグル・ダットであり、彼らの映画は、アメリカ映画的な「あらゆる国の、どこの文化にも適用できるような大きな枠組み」で構成されている、と重要なことも述べられていますが、ここではそれはおいておきましょう。
 ともあれ、技術さえあれば、大胆であることは許されるのです。演出が「二重三重に誇張」されていても、技術が許すのです。画面を割りまくってもいいのです。技術がある限り。動くことをやめない彼の映画のなまめかしい画面が、その大胆さを助けます。
 しかし、「そこまでやることないんじゃないか、とは思わせない」技術とは、恩寵に近いものでしょう。努力は必要な条件となるが、十分な条件ではない。技術とは、映画を愛した人ではなく、映画に愛された人だけがもつことのできるもののはずです。それは、自分の自己研鑽の末にもやってくるとは限らないような、「小手先」という形容詞を許さない厳格なものです。
 著者はこれまで、技術も足らずに撮ることを厳しく「抑圧」していたはずです。「大胆さと技法について」の章は、その意味では、「抑圧」そのものです。グル・ダットをはじめ採る作家たちは、映画に愛されていた。あなたはどうか、と。
 この章は、映画美学校の受講生を相手にした講義なのですが、これを聞いた受講生たちは、幸福なのか、不幸なのか。もちろん、受講生たちは、そんなことは百も承知で聞いていたはずです。ともあれ、映画を撮る機会など一切ない人間には、上の両章はとても面白く読めました。

(続く)


(追記)
 本稿に関しては、「映画美学校発言集」(『映画美学校』様)が必見です。
 蓮實重彦は、グリフィスの「映画の父」たるゆえんを、「彼が普通の映画作家だったから」だといいます。「与えられた条件の中で自分自身の表現をどこまで高めていくかという、いわば、最良のための努力をたえずしていた監督」であり、ゴダールでさえも同じである、と。「「相対的によりよい表現がある」ということ、これは幻想かもしれません。だが、それを信じなくては映画は成立しません。」という言葉は、映画に関る人間の存在条件(のはず)です。
 具体的には、例えば、高橋洋の「音が奪われたらこの画って何秒もつの?っていうことを、DVっていう便利な機械のおかげでみんな考えなくても良くなっちゃったんですね。でもこれは映画にとってかなり致命的なことで。やっぱり不自由から出発した方が人間はいろんな事を考えるんです。」という言葉から、まず「技術」を考えるべきでしょう。なお、サイレントを経験したことの強さについて、前回論じましたのでご参照を。
 さらに、『ラルジャン』の「極めて周到な編集、次から次へと省略していく方法」と、『現金に手を出すな』の「ほとんど省略しない方法」を比較する青山真治は、「題材にとって何が適切なのか、題材が何を要求しているのか、ということを真剣に考えると、こういう両極端の事が起こってしまう」と説明し、「この題材を選ぶ生理が、この技法、この省略法、この話法を選んでいるというふうに言っていい」と述べています。どの題材を選ぶのか、という「生理=人生」の問題が、「技術」の礎といえるのです。映画にとって「技術」とは、その人の「人生」そのものまでも問われる試練のようです。自分の「生理」にあった題材を、それにともなう技術を。
 テオ・アンゲロプロスの言葉、「果たして、映画は私を望んでくれているか?」「映画は私を欲してくれているか?」という疑問は、もう言わなくてもわかることと思います。

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イーストウッドと50年代映画 蓮實重彦『映画論講義』(4)

■映画の覇権と、イーストウッドの行方■
 「21世紀の映画論」の章では、「伊藤大輔から山中貞雄への覇権の移行」というテーゼが出てきます。このテーゼは、映画の視覚的効果重視から、視覚効果の物語への従属へ、という世界的な流れをあらわしています。著者は、無声からトーキーでもなく、白黒からカラーでもなく、この1930年代に起きた変化が、大変重要だと述べています。特に、その分かりやすい「変化」を、身をもって体現した作家こそ、フリッツ・ラングだというわけです。
 また、著者は、1950年代の無声映画経験者(小津、溝口、ジョン・フォード等)と未経験者(黒澤明、リチャード・フライシャーなど)とが共存・競合しえた時代について語り、現在における映画出身者とテレビ・ビデオ出身者の共存・競争の存在について問うています。
 まず、ここで問題となるのは、50年台における、無声映画を経験していない作家たちの問題です。
 著者は、無声映画経験者と未経験者の違いについて、「【週刊読書人】21世紀の映画批評 (2008年10月3日号)(2008年10月3日)」で、以下のように述べます。

 「必ずしもサイレントにこだわらなくても構いませんが、あるひとつの現象をワンショットで撮るとする。次に、別のショットがくる。そこでは、前のショットを次のショットが否定するにせよ肯定するにせよ、サイレント出身監督は、何らかの意味で葛藤関係にある画面を撮るのが普通です。ある意味で、そのことが映画の本質になっていて、そこに生じる葛藤が画面にショックを与える。」


 このような手法を無声映画経験者たちは、持っていた(もちろん全員であるはずなどありません)。では、50年代において、無声映画経験者たちはいかなる意味を持ち、いかなる形で位置づけられるのか。この、【遅れてきた】彼らは。
 先のインタビューで聞き手の「五〇年代は映画において、語りの経済性の抑圧を逃れて、画面の視覚的効果が徐々に露呈していく時代だったのではないでしょうか」という発言や、「一九五〇年代を別の観点から見ると、演出の映画から撮影の映画へ変わっていったとも考えられます」という質問・疑問に対して、著者は、「画面の視覚的効果に向かう時期があったけれど、それはついに覇権とはならなかった」のであり、「それは個人的なスタイルの追求でしかなかった」のだから、「山中貞雄の覇権の中にゴダールやトリュフォーもいたと考えておかないと、後の彼らの様々な試みも見えなくなってしまう」と答えています。
 聞き手が、50年代の作家たちの映画に、著者のテーゼをはみ出すような要素を見ているのに対し、蓮實はあくまで、「山中貞夫の覇権」の中に、50年代の映画の「画面の視覚的効果が徐々に露呈していく」要素は収まってしまうのであり、これは「個人的なスタイルの追求でしかなかった」というのです。
 ニコラス・レイやアンソニー・マン、ジョゼフ・ロージーにサミュエル・フラーといった、50年代の作家としてひとまずくくりうるだろう作家たち(蓮實の愛する作家たち)が、本書に主役として出てこないのはもしかしたら、それに関係するかもしれません。彼らのようなタイプの無声映画未経験者たちが持ちえていたものが、本章のテーゼを阻害するという危険があった、と考えるのはうがちすぎでしょうか。(ただし、先に問うべきなのは、50年代無声映画未経験者たちの中の、黒澤明やフェリーニと、ニコラス・レイやフライシャーとの映画的な質の違いのほうでしょうが。)
 50年代の無声映画未経験者たちの映画は、覇権の覆りそのものなのか、それとも覇権の中の個性にすぎないのか。
 しかし、一方で、蓮實は「視覚的効果」と「説話論的有効性」の関係について、「「山中貞雄の覇権」が、今尚、我々の周りに成立しているのかというと、成立していない」のであり、

 「ショットだけで押さないで、その連鎖がやや弛緩したものでも映画は語れるというところまで、イーストウッドは行っている。言わば、小津や溝口、成瀬とも違う語りで映画を作っている。もしかすると新しい覇権を予見させるものなのかなと、私は思っています」


と述べています。これらの点も含めて著者は、映画の「覇権」について、「そこは皆さんと議論してみたいこと」だというのでしょう。
 ならば、本章で述べられたことについては、著者の『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』でのテーゼ、【70年代以降の画面のスペクタクル化流行と、イーストウッドの簡潔性のそれへの優位】も含めて、議論されるべきでしょう。50年代無声映画未経験者たちの、とくに著者が愛したその作家たちと、そしてイーストウッドの位置づけこそ、映画の「覇権」問題を解きほぐす鍵のはずです。
 その準備運動として、なぜ海軍の衛生兵が陸戦の海兵隊に同行するのか、という疑問を導きに、『父親たちの星条旗』での炸裂する銃弾のさなかに切れ切れに響く声の重要性を説いた「合衆国海軍の衛生兵をめぐる長年の疑問について」の章は読まれるべきなのです。『父親たちの星条旗』は、準備運動にするにはもったいない、すばらしい映画なのですけどね。

(続く)

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テマティスム映画批評と、監督の個性 蓮實重彦『映画論講義』(3)

■ホークス・フォード・ルノワール、及び主題の現れ方について■
 小津映画に見られた、女たちの優位という意味でならば、ハワード・ホークスにも同じことが言えるかもしれません。著者は、「転倒=交換=反復 ハワード・ホークスのコメディについて」の章で、ホークス映画を理解するためには、彼のコメディーを見るべきだといいます。
 そして、男性の弱さ=女の強さという論理が、少しづつその要素を「交換」しつつ律儀に「反復」されていく様を、コメディの中に見ていきます。「転倒」の主題に対して、男性はうまく適応できずに敗北するのに対して、女たちはそれに身体的に上手に順応してしまう。男たちは、言葉でなんとかで抵抗を試みますが、これも失敗に終わる始末です。このように、ホークスのコメディでは、「転倒=交換=反復」の主題が律儀に働いています。
 ちなみに、このような主題への律儀さに対して、ジョン・フォードは逆を行っています。「ジョン・フォードと「投げること」」の章では、「投げる」ことについて、さまざまな登場人物の様々な感情が、たやすく一定の主題として律儀に収まりきらずに、その身体的な運動に備わってしまう様を述べています。この「投げる」ことは、プロットや主題からは外れることが多いけれども、しかしながら、その運動性ゆえに、魅力的な細部なのです。
 ジャン・ルノワールの映画の場合も、二人とは異なる細部です。その映画から、「ジャン・ルノワールまたは「枯れ木」と「笛」」の章で著者は、片や不吉さと死、別離を招く枯れ木と、木片やステッキが立てる音という「枯れ木」の主題と、生命と自由と愛の溢れる、「木の笛」の主題、この二つを見出しています。樹木という存在が、片やマイナスのベクトルを持ち、片やプラスのベクトルを持つという、驚き。形をかえただけで、対照的な主題へと変貌し、「異なるものの豊かな共存の可能性」が示される。
 本章においては、「本書のその他のテクストも、多かれ少なかれ、かなりの削減が行われており、ここが残念といえば残念であるが、だからといっていささかも価値を減じるものではない」という重要な言葉も含めて、『Incidents(偶景)』様のルノワールへの言及をぜひ見ていただければと思います。本章への思い入れには、胸が熱くなります。
 こうして三人の映画における主題のあり方を見ていますと、各々まったく異なるのがわかります。一方に主題への律儀さ、一方に主題へ収まりきらない運動、一方に異なる主題の共存。主題論的な批評というのが、単に頻出する主題を見つけてことたれりとするものではないことが、よくわかるはずです。主題の現れ方が、その監督の特色そのものを反映してしまうのです。本当に優れた主題論的批評とは、その主題の内容によってのみ特色を反映するだけでなく、主題の現れ方もまたその特色をあらわにするのです。言わずもがなのことですが、念のため。

TAG : 蓮實重彦 映画論講義 主題 ジョン・フォード ハワード・ホークス ジャン・ルノワール

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