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(西)ドイツの長い戦後、そのキレイではない泥臭い道程 石田勇治『過去の克服』を読む(後編)

 ヤスパースについて。
 彼が1945年に「責任」について講義(ドイツ人自らが内面的な転換を図るもの)を行った時は、実は、その主張は世間の受け入れる所とはならなかった。
 むしろ根拠のない誤解と批判に晒され、その真意、特に「形而上学の罪」について理解されるようになるのは、1960年代半ば以降である(75頁)。
 ドイツでさえ、それだけの時間を必要とした。

 1960年代後半、ヤスパースは「人道に対する罪」の概念をドイツ法に導入して、時効問題に根本的解決を図ろうと呼びかけている(194頁)。
 ヤスパースは、きちんと現実へアンガージュした知識人でもあった。



 では、ヤスパースを受け入れなかった当時のドイツの世論とはどのようなものだったか。

 終戦直後からユダヤ人を標的にした暴力事件はドイツ各地で頻発しており、ユダヤ人墓地荒し事件は1949年だけで100件を超えた。
 一方、1948年世論調査では、「ナチズムはよい理念だが、実行の仕方が悪かった」という意見にドイツ住民の58パーセントが賛同している(82、83頁)。

 それが当時、戦後すぐの雰囲気だった。



 アイヒマン裁判はイスラエルにとってどんなものであったのか。

 スエズ動乱を機に、大量の東洋系ユダヤ人が近隣アラブ諸国からイスラエルに流入した。
 東洋系ユダヤ人は、ホロコーストや欧州におけるユダヤ人の受難の歴史を知らない。

 そんな彼らを統合するには、ホロコーストをイスラエルの国民統合の柱にする必要があった。
 そして、シオニズムの正当性に疑念を持つ、イスラエル国外のユダヤ人に対しても、アピールの意味があった。
 アイヒマン裁判は、そうしたイスラエルの存在意義を強化する効果を持った。

 ただし、その「強化」は、歴史修正主義的な操作も伴っていた。
 「ハウスナー主席検事は公判の冒頭諭告で、『ナチの犠牲となったユダヤ人はすべてイスラエル建国を求めていた』と論じた」(164、165頁)。



 ドイツの影の部分について。

 例えば、元ナチ裁判官は一切の不利益を受けることなく退職することが出来た(175頁)。
 公務員、特に法曹関係者は、その過去を事実上免責されていた。

 ナチ時代に権力の座にありながら、過去に頬かむりしたまま権力の座に居座るこうしたエリートを批判する動きは、1950年代後半には東ドイツが行なっていたが、その10年後には、西ドイツの学生たち、議会外反対運動の者たちに受け継がれることになった(203頁)。
 ドイツの本当の「反省」は、この時期から始まっていると見てよい。



 ブラントへの評価について。

 国外からナチズムに立ち向かったブラントには、しかし、裏切り者などの誹謗中傷の言葉が浴びせられた。
 国外で敵の攻撃から逃れた奴、というレッテルだった。
 1960年代末までそれは続いた。

 再評価は、ナチズムの時代との決別を求める上記のような戦後世代によって、行なわれた(216頁)。



 ブラントの有名な、ポーランドでの「躓き」だが、この行為に対しても、西ドイツの世論は二分された。
 1970年12月の調査によると、これを適切な振舞いと見なす回答者は41パーセントに留まっていた(220頁)。

 この時期においてさえなおも、ドイツ国内の評価はせめぎあっていたことに、注意されたい。



 西ドイツとイスラエル・アラブ諸国関係について。

 1950年代の西ドイツでは、野党の社会民主党がイスラエルとの関係を重視していた。
 第一次中東戦争の後も親イスラエルの立場だったのが、社会民主党である。

 そもそも建国直後のイスラエルには、シオニズムとマルクス主義を結びつけるギブツという共同体経済が定着し、欧州左派陣営に共感を引き起こしていた。それが背景としてある。
 イスラエルの社会主義者の間でも、ドイツ社会民主党は反ファシズムの伝統を継承する政党として評価を得ていた(253頁)。



 一方の保守政党はどうだったか。

 アデナウアーは、親ドイツのアラブ諸国との友好関係を保っていた。
 だが一方、イスラエルへの経済支援も続行しており、武器輸出までしていた。



 1956年、エジプトへのソ連の武器供与に対抗して、イスラエルが武器供与を要請する。
 1960年には、ヘリコプター・対戦車砲など総額3億マルク分の武器供与が決まった。
 さらに、ドイツ連邦軍によるイスラエル将校の訓練も実施した(254頁)。

 こうしたイスラエル政策に対して、アラブ諸国は反発し、60年代中番に国交を断絶する国が数多く出現する。
 そこで1970年代、西ドイツはイスラエルとの関係を維持しつつ、サウジアラビアやシリアなどアラブ諸国(各国、1965年に国交断絶)との関係修復に乗り出した(259頁)。

 そして、1982年に始まったイスラエル軍のレバノン侵攻がパレスチナ人大虐殺を引き起こし、そのことによって、西ドイツ世論もイスラエルへの共感を失う事態となる(263頁)。

 シーソーゲームのように、イスラエルとアラブ諸国との間でバランスを取りながら外交するのが、ドイツの常である。



 レーガンのビットブルク訪問への反応について。

 当時のアメリカ大統領レーガン大統領が、西ドイツのコール首相と、ビットブルクの軍人墓地を訪問した件である。
 このビットブルクには、国防軍だけでなく武装親衛隊兵士も埋葬されており、この訪問をめぐって、国内外で論争が起こった。
 実際、同盟国の対独感情は悪化した (そりゃそうだ)。

 ドイツ国内メディアも分裂した意見だった。
 いつもは保守系の、親米路線の新聞は、アメリカ批判を展開した。
 曰く、アメリカには潜在的反ドイツ感情があるとした。
 ビットブルク訪問反対の世論を喚起したのがアメリカのユダヤ系上院議員であったことも、ユダヤ人への不信感を煽った。

 一方、反米色が強いはずの左系の新聞は、アメリカ世論に理解を示し、独米関係悪化は、レーガンとコールの責任だと攻撃した(280頁)。

 日本でも2007年くらいに、同じような光景が展開されたが、あの時は、米大統領でさえも味方してくれなかったw



 ポーランドにおける反ユダヤ感情について。

 ポーランドの地域社会に根付く反ユダヤ人感情は占領期を通しても消えることはなかった。
 占領期には、ポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きていた。
 戦争が終わっても、故郷に戻ったユダヤ人に対する暴力事件は絶えなかった。
 1990年に大統領になったワレサは、ポーランドの反ユダヤ主義を認め、翌年イスラエルにて虐待を謝罪している(318、319頁)。
 あまり知られていないらしいので、念の為書いておく。

(未完)
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アデナウアーにおける「独仏の絆」的な何かの源流と、再軍備方法。 石田勇治『過去の克服』を読む(前編)

 石田勇治『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』を読む。
 良本である。

 ドイツにも、ナチ時代の過去を反省しようとする人々がいる一方、それを自虐だと切り捨てる人々がいた。
 ドイツの過去の克服は、この二つの力のせめぎあいの中で、現在に至っている(12頁)。
 アメリカ、ヨーロッパ近隣諸国、イスラエル、東側からの厳しい批判、こうした外的要因が無ければ「過去の克服」は進展しなかっただろう。

 すでに出版されて幾年か経た本であり、既に幾つも書評もあるけれども、是非一度自分の目で読んで欲しい。
 戦後ドイツの道のりについては、礼賛本も、「暴露」本もあるけれど(例えばこれとか)、きちんと当時の(西)ドイツ国内外の事情を踏まえれば、よりバランスの取れた意見を持てると思う。

 そんな中から気になった箇所を。



 まず基本的な事実だが(7頁)。
 ドイツ連邦共和国がこれまで支払った、ホロコースト等に代表されるナチ不法の被害者に対する補償金は実に1059億マルク(6兆円)である(出版当時)。
 その約8割は、外国と外国在住の被害者が受け取った。

 2000年には、ヨーロッパ各地から連行された強制労働の被害者個人を救済するために、ドイツ政府とドイツ企業の共同出資による補償基金「記憶・責任・未来」が設立されている。
 その総額、100億マルクである。
 政府も企業も法的責任は否認したが、道義的責任を根拠に補償を行うことを選択した(295頁)。



 ヒトラーについて。

 ヒトラーの人気の源泉の一つは外交にあった(28頁)。
 1932年時点での国会選挙では、ナチの得票率は33パーセントだった。
 だが度重なる外交的勝利によって、ヒトラーへの評価はうなぎのぼりに上昇する。
 内政でも同じく、大規模な公共投資がドイツ経済を立ち直らせ、失業者は急速に減少し、36年には失業者は1パーセント未満になる。

 ・・・ただし、「街頭の浮浪者や物乞いの一掃をねらって行なわれた『反社会的分子』の一斉取り締まりも、街に『秩序の回復』をもたらす措置として歓迎された」。
 これを見落としてはならない。



 行政官僚を嫌うヒトラーはナチ党や親衛隊の側近たちと個別の会合を重視し、国家政策をそこで決めた。
 ヒトラーは彼らに口頭での命令や文書による布告を与えたが、その内容はしばしば非常に曖昧で矛盾さえした。
 そこで、側近たちは、ヒトラーの支持と権限の拡大をもとめてお互いに競合し、ヒトラーの意に沿うよういっそうラディカルな行動を起こした(34頁)。

 詳細は、I・カーショー『ヒトラー 権力の本質』を参照すべきであろう(著者が当該書の訳者をやっている)。

 維新のか・・いやなんでもありません。



 第二次大戦下、ドイツ女性の就労比率は上昇しなかった。
 その理由の一つは、女性の労働動員が、ナチの理想とする女性像と矛盾したことである。
 そこで、戦争の長期化と共に深刻化する労働力不足を補充するために、ヨーロッパ各地から外国人労働者が大量動員された。
 その数、1944年時点で約760万人、ドイツ国内の就労人口のほぼ2割を占めた(41頁)。

 あけすけに言えば、ナチスは、「働く女」が嫌いだったのである。
 そのために、悪名高い「動員」がなされた。



 ホロコーストの直接的原因について。

 もともと、ナチスはゲットーに閉じ込めていたユダヤ人を、「東方」へ追放するつもりだった。
 ところがその目論見は甘かった。
 やがて、独ソ戦であてにしていた電撃的勝利は得られず、長期戦が明らかになる。
 すると、ユダヤ人をソ連の東方に追放するという思惑は現実性を失った。
 それまで隔離していたユダヤ人ゲットーでは、生活環境が悪化し、疫病が蔓延した。

 そこで、ユダヤ政策は、追放政策から絶滅政策へ切り替わった。
 ホロコーストへの道はこうして開かれた(38、9頁)。



 連合国側は、戦中からホロコーストのことを知ってたんじゃねえの、と言う話。

 ローマ教皇庁もイギリス軍上部も、ホロコーストの現実を情報として把握していながら、世界に公表しなかった。
 著者曰く、それは、連合軍の側にも反ユダヤ主義的な傾向が潜んでいたためである(44,45頁)。
 実際、イギリス政府は東部戦線でのユダヤ人大虐殺の実態やアウシュヴィッツに鉄道輸送されるユダヤ人犠牲者の人数まで把握していたにもかかわらず、一切警告を発しなかった(312頁)。



 ドイツの「憲法」について。

 ドイツ基本法では、ナチ党と手を組んでヒトラーを首相にした伝統的な保守派の政治的責任は問わず、もっぱらナチ党に巨大な抗議運動のエネルギーを与えた大衆民主主義の弊害を重大視した。
 結局、基本法の定める国民の政治参加のチャンスは、連邦議会選挙に限られ、大衆より政治エリートが活躍する政治体制が作られた(87頁)。

 上記のスルーっぷりが、長らく過去の克服を困難にした一因でもある。



 アデナウアーの政治的背景について。

 アデナウアーは、ナチによって解任される1933年までケルン市長を務めた。
 政治的にはカトリック中央党に所属していた。
 1923年のフランス・ベルギー軍によるルール占領に際しては、ラインラントのプロイセンからの分離運動に関与する。
 ゲシュタポに監視される日々が続き、44年には、二ヶ月の拘留生活を強いられた。
 戦後、連合軍によって、ケルン市長に任用される。
 「だが、フランスの協力を得て『ライン国家』創設を画策した計画が発覚して再び解任された」。
 アデナウアーにとってフランスは最も信頼すべき友邦であった。

 アデナウアーはその後、国政の道を進み、急速に重要な地位に着く(97頁)。
 1949年には首相就任にする。

 西部ドイツの政治的カトリシズムを代表するアデナウアーは、反プロイセン・反ナチズム・反共主義を標榜しており、経済原理として自由主義を支持していた(98頁)。
 彼を考える上で、そうした政治的背景は念頭におく必要がある。
 「独仏の絆」的な何かの源流が、そこにある。



 再軍備について。

 アデナウアーは、再軍備政策を実行するに当たり、7月20日事件の関係者を重用し、新しい軍が反ヒトラーの系譜を継承することを印象付けようとした。
 7月20日事件とは、「黒いオーケストラ」の件、ヒトラー暗殺未遂事件のことである。

 旧軍のエリートにとってヒトラーと一体化した過去は弱みとなっていた。
 例えば、国防軍は、ヒムラー配下の親衛隊行動部隊と一致協力してユダヤ人大虐殺を実行していた。

 アデナウアーはこの弱みを利用して、議会のコントロールを受ける新しい軍隊を創設することに成功した(125頁)。
 アデナウアーはこのようにして、「民主主義」的な軍隊を作ることに成功する。
 ・・・どこぞの国の、元幕僚長がアレなく国とはえらい違いだと思(ry

 (ドイツの再軍備については、こちらのブログさんも御参照ください。)



(未完)

スウェーデンがソ連よりも平等、な一例。

■日本にもこういう本が欲しい。■

 スウェーデン人が手元に置いて、必要があるたびに読む本が何冊かある。 […] まず『社会ガイド』(Samhälls Guiden)。これはそれぞれの市民が社会から受け取れるサービスを受益者カテゴリー別に整理して一覧表にしたもの。たとえば在住外国人ならどういうサービスを受けられるか。学生ならどういうサービスを受けられるか。ことこまかに紹介してある。
 […] 多彩なサービスが、テキストどおりに与えられないときには法律問題になる。そういうときのために『家庭の弁護士』という本を手元に置いているスウェーデン人は少なくない。 (某書より引用)



■明日はわが身■

 スウェーデン型高負担主義に反対していた人も、一度病気になると、反対温度が下がるという。医療費・薬品代の安さが納得派に変身させるらしい。スウェーデン型高負担主義に疑問を持っている視察団も一度ケア付き住宅を訪問すると、疑問が氷解するという。原則個室主義の広い居住空間が、肯定派に変身させるらしい。 (某書より引用)



■スウェーデンの「生存戦略」・外交編■

 経済に陰りが見えた七〇年代以降も、つまり経済が苦しいときでも、財政不如意で外国から借金しているような緊縮経済のなかから、ODAだけは水準通りに割り当てた。それが第三世界の多くの国でスウェーデン・ファンが多い理由になっている。いかにもスマートな戦略である。 (某書より引用)



■高学歴な移民にありがちなこと(?)■ 

 母国では高学歴の知識人として反体制運動の先頭に立ち、それが理由で弾圧を受け、スウェーデンに難民として流入していながら、スウェーデンでは学歴にふさわしい仕事に就けないという理由でスウェーデン批判者になる。移民のためのスウェーデン学校に通っていた時代、よく見かけた光景である。 (某書より引用)



■スウェーデンがソ連よりも平等、な一例。■

 今は亡きパルメ首相と博物館で一緒に列を作って入る順番を待った […] 警護もつけず、首相が市民と同じ列の中に入って順番を待つ姿に最初は驚きもしたが、秘書すらつけずに大蔵大臣が地下鉄に乗っているのに出くわしたりするなどの経験を繰り返すうちに、これが「スウェーデン流か」で落ち着いてくる。 (某書より引用)



■財源と福祉。ごもっとも。■

 財源論のない福祉政策論は根を持たないし、政策論のない財源論は実を結ばない。 (某書より引用)

「イタリアの男はマザコン」という神話について ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方』(3)

■「マザコン」幻想と、偏見の問題■

 多くの西欧人にとって日本の男性はマザコンが多いというが、これもまたオリエンタリスティックな態度を表すと思う。 (145頁)

 著者は、【イタリア人男性=マザコン】という、日本人のもつイメージに対して、次のように応答しています。多くの日本人にとって、イタリア人男性は子どものようなイメージなのかもしれない。しかし、異文化を「子供」のイメージで捉えるのは、実際のところ、オリエンタリズムそのものではないか。「優れた自己:劣った他者」=「大人:子供」という構図だ。
 著者は、そう論じたうえで、日本人男性について以上のように述べているわけです。イタリア人男性だろうと、日本人男性だろうと、自分たちとは異なる文化の人々を、子供のイメージで捉えるのはオリエンタリスティック、オリエンタリズムそのものなのです。さらに著者は、イタリアの若者の実情についても次のように言います。

 若い人たちが早く独立したくてもなかなかできないのは、アルバイトや仕事があまりない、そして家賃が高いなど、多くの理由が挙げられる。つまり、多くの場合、両親との同居は若い人の自由な選択ではないのである。 (略) イタリアの女性も結婚するまで家族と同居しているが、(略)「ファザコン」であるという説はまだ聞いたことはない(146頁)

 イタリア人男性がマザコンであると思われる理由のひとつに、母親を含む家族との同居の多さがあります。母親離れできない男性、というレッテルです。しかし実際のところ、若い独身男性が独立できないのは、経済的な要因による場合が多いのです。そもそも、イタリアの女性たちの場合、父親を含む家族と同居するケースが多いのに、彼女たちが「ファザコン」という説は、聞こえてきていません。この違いは何なのでしょうか。
 次のように考えられないでしょうか。Wikipediaの「オリエンタリズム」の項目にあるように、「オリエンタリズムの一種としては、「東洋」、あるいは自らよりも劣っていると認識される国や文化を、性的に搾取可能な女性として描く、といった傾向も指摘されている具体例としては、イメージの一人歩きしているハレムや、ゲイシャ、そして、最近の作品では『ミス・サイゴン』や、ディズニー映画の『ポカホンタス』などにもオリエンタリスティックな視点が見られる。」
 だとすれば、イタリア人や日本人のうち、女性であればそのまま「ハレムや、ゲイシャ」に代表される「性的に搾取可能な女性」のイメージとして配置してしまうことができます (日本においてのイタリア人女性へのイメージにかかる相応のバイアスについては、説明は不要でしょう)。しかし、男性の場合、「女性」イメージには回収できないため、「子供」という劣位の存在として位置づけられるのではないでしょうか。すなわち、「子供」のイメージ、母から自立できない「子供」のイメージとしてです。まさに、「マザコン」です。
 あくまで仮説に過ぎませんが、相応に考慮すべきことだと思います。<イタリアの男はマザコン>という神話の裏には、こうした優劣意識に基づくオリエンタリスティックな思考が存在していると思われます。(注1)

■バクシーシと幕末日本■

 イタリアの「闇」の側面が強調されたのは、「明治の初期に出版された『米欧回覧実記』という見聞録のなかに出てくる、一口でいえばイタリアは駄目な国という認識が、世上に流布したこと」によると指摘する人もいる (32頁)

 傍点は省略しました。元ネタは、著者によると、長手喜典『生活大国イタリア』という本です。
 『米欧回覧実記』では、「以太利ニ貧民多シ、羅馬ハ仏羅稜(フイレンツエ)ヨリ甚タシク、此府ハ又羅馬ヨリ甚タシ、此行欧米十二国ノ各都府ヲ略歴観シタルニ、此府ノ如く清潔ニ乏シク、民懶ニシテ貧児ノ多キ所ハナシ」と記しており、確かに、これでは悪印象となるのは否めません。山内昌之『イスラームと国際政治』という本では、ナポリでもバクシーシがある、という記述があったと記憶しております。
バクシーシというのは、一言で言えば「施し」のことです。チップのようにして払う場合が多いのですが、その請求がしつこいとして、日本人には嫌われているようです。これが実は、ナポリにもあった、というのです。
 ちなみに、エジプトを訪れた幕末の訪欧使節団の武士たちも、バクシーシを求める人々のしつこさを非難しています。しかし一方で、彼らがしきりにバクシーシを行う理由についても考察しており、その原因が当時のエジプトの執政の悪さによるものであることを見抜いています。幕末の武士たちは、ある具体的な出来事の裏に、政治的・社会的背景があることを見抜く目を持っていたわけです。

■おまけ:インタビュー時の注意点■

 イタリアのいわゆる一般の人たちが日本の新聞記者と話すとき、彼らの言っていることは、その人の日本人についての知識、または日本人が聞きたいことについての推定によってだいぶ影響される (191頁)

 インタビューには、相互作用が働くということが、よくわかる一文です。あちらのほうが、こっちの意を汲んで発言してしまう、と。これと同じ例については、すでに、拙稿「紙のリサイクルは熱帯林を救わない?」において書いております。

(了)


 (注1) 河崎環「恋愛の国イタリアが超・低出生率のワケ」(『All About』様)は、イタリアの晩婚化について、

 この原因は、福祉政策の貧弱さにあると言われています。失業補償や所得保障が手薄なため、若者が経済的に自立しにくく、親に長く財政的に依存せざるを得ません。またイタリアの都市部では歴史的景観を維持するためもあって賃貸料が非常に高く、物件数も少ないという特徴があります。住宅事情が悪いので、賃貸よりも分譲という形で住宅を取得しなければ親と別居することができず、家を買う取得費用が捻出できない限りは、親元から出られないという構図になってしまうのです。

とのこと。福祉政策が貧弱で、親に依存せざるをえず、自立しようにもできない。その上、住宅もイタリアというお国柄ゆえに、賃料が高くて、やはり自立できない。それで結婚のチャンスは、「「親が納得する相手との結婚」ということになりがちだといいます。いきおい、晩婚になるというわけです」。若者が、財政的な事情などによって、自立できないというのは事実のようです。
 若者の、親との同居の多さの理由を、財政的な事情から説明しました。それでもなお、イタリアの男性には、マザコンと見なされるような行為がある、という人もいるでしょう。これに対しては、質問板での「イタリア人の男性はなぜ・・・」という問いに対するmartinbuhoという方の解答が、あります。
 曰く、マザコンと見なされるような男性の振る舞いは、「イタリア人に限らずカトリック国の男性に共通して見られます」とのこと。カトリック圏でのマリア信仰が、「女性、特に母親を尊敬する気持ち」を大きくするのだとか。イタリア男性の、母親に対する「過度」な関係や振る舞いは、マリア信仰を背景とした「母親を尊敬する気持ち」を原因とする、というのが、martinbuhoさんの意見です。スペインなど他のカトリック国との比較が必要でしょうが、ひとつの有効な説明ではあります。
 「イタリア男のマザコン度」(『Brigata Golosa』様)は、イタリア男性たちの「マザコン」ぶりの内実をこう書いています。「イタリアの場合、息子にとって母親が一番の友達であり理解者でありパトロンである、という感じで、どちらかといえば、日本の娘と母親との仲の良さに近いかもしれません。密接につながりながらも、お互い、精神的には自立している」と。「日本の娘と母親との仲の良さ」と比較して考えてみると、男性の「マザコン」振りも、あまり違和感はないのではないでしょうか。

(追記)著者のランベッリ氏の手になる「比較宗教論1 第2回 宗教とはなにか」は、宗教の定義そのものを再審する内容です。「個人的な次元=内面性=感じる・考えること=言葉が中心になる=「神」との直接で個人的なつながり」と「共同体的な次元=外面性=演じる・見せること=体が中心になる=「神」との間接的で共同的なつながり」というわかりやすい対比をするなど、読んで損の無い内容です。この点については、拙稿「『一Q禅師のへそまがり“宗教”論』」書評(1)~(4)も、ご参照ください。

TAG : イタリア マザコン オリエンタリズム バクシーシ 幕末

イタリアにだってマイノリティはいます ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方』(2)

イタリアにおける多様なマイノリティ

 イタリアには(略)イタリア文化圏に属さない、異民族のイタリア人も住んでいるのである。 (82頁)

 よくよく考えたら、イタリアにもマイノリティはいるんです。
 ざっと見ていきましょう。まず、シチリアとサルディニアの両特別自治州。
 シチリアでは、くせの強いシチリア語(シチリア方言)が話されています。「シチリア弁 その1」(『イタリア料理留学日記』様)によると、「「シチリア語」も街によって違う」らしいほどに言語の多様性があるそうです。サルディニアの場合、イタリア語のほか、サルディニア語(サルデーニャ語)も話されています。農村部で、日常語として話されているようですが、衰退しているという話です。その他場所によっては、コルシカ方言などもはなされていて、こちらも言語の地方色が大変豊かです。(注1)過去のいきさつから、島のアルゲーロという土地には、カタルーニャ語話者も住んでいます。
 オーストリアと国境に近いフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州では、70パーセントの人が、ドイツ語を母語としています。オーストリアに帰属していた歴史が長いため、「住民にはドイツ語を母語または第二言語とする者が多い」のです(「フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州 Wikipedia」)。また、「フリウリ語やドロミティ・ラディン語の話者が居ることでも」知られています。
 トレンティーノ=アルト・アディジェ州にはドイツ系の「南チロル人」と呼ばれる人々が住んでいます。第一次世界大戦まで、オーストリア領だったため、ドイツ語を使用する住民が多数派です。ムッソリーニの時代、国民化政策は厳しさを増し、ドイツ系住民たちのうち「約7万人の南チロル人が 1943年夏までにオーストリアへと強制移住させられました」(「駅の近くの「南チロル広場」」(『オーストリア散策』様))。その後、テロ活動を含む抵抗運動を経て、自治権を条件にして、南チロル人のドイツ系住民たちは、イタリアへ帰属することとなります。
 フリウリには、スロヴェニア人住民も住んでいます。国境近くであるためです。「フリウリ-ヴェネツィア・ジュ-リア州 州別観光」(『ジャパンイタリア・トラベルオンライン』様)「ユーゴスラビアとの国境が正式に確認されたのは1975年と新しい。お隣のスロベニアには現在もイタリア系住民が住んでいるしその逆もしかりである」とのこと。
 北西のヴァッレ・ダオスタ州にはフランス語の方言をしゃべる住民がいます。フランスとも国境を接しており、州の公用言語はフランス語とイタリア語です。ピエモンテには、プロテスタント系のヴァルデーゼ共同体というグループも存在しています。
 全国的には、ユダヤ人やジプシーたち、そしてその子孫が暮らしています。歴史家のカルロ・ギンズブルグも、小説家である母ナタリーの父(カルロの祖父)がユダヤ系であるため、ユダヤ系の子孫にはいるでしょう。プリーモ・レーヴィも忘れてはいけません。16世紀から17世紀にオスマン・トルコから逃げてきたアルバニア人なども、暮らしています。
 ざっと挙げてみましたが、イタリアというのは、歴史的・地理的背景もあって、非常に言語的・民族(エトノス)的に多様な場所です。「イタリア」と聞いて連想してしまうイメージを、一新させるに十分な多様性を持っています。

■イタリア方言の実際■

 各地方民間テレビの多くの番組は、方言あるいは方言的なイタリア語を使っているのである。 (92頁)

 国営は違うそうですが、民間では そのくらいイタリアの地方色は強いです。その強さは、上で紹介したような言語的・民族(エトノス)的多様性も関係しているはずです。国の統一されるまでが遅く、しかも日本のような強い中央集権体制を作れなかったことが、このような言語的多様性を生んだ原因でしょう。
 政府が何とか標準語としてのイタリア語を広めようとしても、このような現状であるわけです。むしろ、標準イタリア語は、トスカナ州の「上流階級の話し言葉」から来ており、極端に言えば、イタリア人にとってイタリア語は、リンガ・フランカだ、というのが著者の意見です(88、89頁)。 
 ただし他のサイトには別のことも書いてあります。例えば、「イタリア猫の小言と夢  N.3」という記事を読むと、「TVの影響とともに、イタリア各地で方言は話されなくなり、60%くらいの学生は方言を家庭でも話さなくなっているという時期が続いたのですが、最近はまた伝統の振り子が戻ったというのか、方言を勉強して使おうという州政府も現れました」と書いてあります。ナポリやヴェネツィアのように方言に強い愛着を持つ地方もあれば、そうでない地域もある、というのが実情ということでしょうか。

(続く)


(注1) 陣内秀信「自著を語る38」(『地中海学会』様)によると、「サルデーニャの二つの文化圏では,町の構造にも,家のつくりにも,生活スタイルにも,大きな違いが見られる」とのこと。詳細は、本文及び、陣内秀信・柳瀬有志著『地中海の聖なる島 サルデーニャ』をご参照ください。

2010/4/25 改題済

TAG : イタリア マイノリティ 方言

イタリアにおける原子力と、「南」への搾取 ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方』(1)

・ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方 日本人のためのイタリア入門』(筑摩書房 1997/2)

■産業と科学技術:美術だけじゃないイタリア■

 イタリアは世界で五番目か六番目の産業大国で、(略)イタリア人の研究者は芸術だけでなく世界の第一線の科学・技術の計画に積極的に協力している。しかし、これらはイタリアについての常識に入っていない。 (30頁)

 「美の国」というイメージのあるイタリアですが、よくよく考えたら、イタリアは産業及び科学技術のほうでも、先進的な国です。しかし、「美の国」というイメージが先行して、どうしても目がそちらには行きません。
 具体的には、フェラーリなど自動車とかを想起すればいいでしょう。Wikipediaには、「イタリアは1950年代後半から原子力発電の研究開発を開始し、当時の世界原子力技術で最先端であり、1965年時点には3カ所の原子力発電所が稼動していた。」とあります (チェルノブイリの事故によって原発は全面停止となりますが、近年、原子力発電への回帰が唱えられています)。こんな意外な一面もあるのです。
 また、「エネル」というイタリアの電力及びエネルギー関連の会社は、「地熱発電技術で100年の経験蓄積があり、世界一である」(Wikipedia)とあります。何の世界一かは存じませんが、新エネルギー分野をリードする企業であるのは確かです。

■「南北イタリア」の現実の姿■

 二〇世紀前半まではイタリアは貧しく、何百万人も海外へ出稼ぎに行かなければならなかった。その中には、北の人々も多かった。
 同じくイタリア南部はイタリア統一の少し前に政治的には統一されていたが、経済的にも文化的にも地域差や階級差が激しかった。 (76頁)

 著者は、「最初から南北の対立が存在したわけではなく、むしろ著しい地域差や階級差があり、それらをできる限り隠すために、南北の対立という単純な図式を政略的に取り入れた」といいます。そもそも、「南イタリア」がどの州までを含むのかについて、きちんとした学術的定義は無いのです。
 「南北イタリア」という簡単な構図よりも、その内部での(経済的・文化的な)多様かつ複雑な地域性に着目すべきでしょう。
 北村暁夫『ナポリのマラドーナ イタリアにおける「南」とは何か』でも、南北対比の図式ができてくるのは、イタリア統一期以降だと述べられています。また、南イタリア内の「多様性」(「複雑さ」)という点にもきちんと触れており、これらは、本書の内容に沿うものです。この本においては、アルゼンチンへ渡ったイタリア系移民の話や、外国人労働者への現代イタリアでの差別問題について触れられていて、勉強になります(「南北」差別に、犯罪人類学までもが動員されたという事実!)。(注1)

■搾取される南イタリア■

 南部発展政策として南部に投資する企業は、国家からさまざまな形で交付金が受けられる。しかし、これを北イタリアにある企業の設備投資にあて、不要となった古い設備を南イタリアの新しくできた工場に移動する。そうして、二、三年経って南イタリアの工場は経済効率が低いといって操業を止める (78頁)

 著者が、人づてに聞いたエピソードです。北による南の収奪の例というべきでしょう。南部地域の貧困が、政府からの助成にもかかわらず、固定化してしまう原因としての例です(本当は「南北」という単純な図式は控えるべきなのでしょうが、経済比較としての意味があるので、今回は使用します)。
 南部へ投資した企業は交付金がもらえます。しかし、企業はこれを北部の設備投資に充ててしまい、不要な古い設備は南イタリアの工場へ回します。数年たって、南の工場は効率が悪くなって閉鎖する、というわけです。南へ資金が使われたのに、実際は北を潤す資金となってしまいます。
 もちろんあくまでも著者の人づての話ですので、事実かどうかは検証していません。しかし、「東でわざと損失をだし西で支払う税率を落とす、節税になり損を補って余りある」という東ドイツの構図と、南イタリアの搾取は似ていないでしょうか (詳細は、拙稿「秘密警察・シュタージの傾向と対策、及び西側による東側の【搾取】」をご参照ください)。ここにも、【後進的地域】を利用して【先進的地域】の企業が潤う、という構図があるようです。
 なお、「ゾーナ・ヌクレアーレ(Zona Nucleare)にようこそ」(『Zona Nucleare』様)によると、2003年ごろ、イタリアに核廃棄物を集積するのに適した場所を決めるため、専門家委員会が開かれたのですが、

しばしば、非公式に以下の各州が特定される場所になるだろうという声が出されました: プーリア州、シチリア州、トスカーナ州、バジリカータ州、とくにサルデーニャ州です。 (略) イタリア共和国政府の政令(閣議決定2003年11月13日131号)は、バジリカータ州(イタリア南部)の小さくて落ち着いた田舎町であるスカンツァノ・イオニコに5万トンの核廃棄物を、永続的最終的に埋設することを(法律により)義務づけました。イタリアの全核廃棄物です。欧州でも最大の核廃棄物集積センターです。

 トスカーナ州を除いて全て「南」にある州です。これは偶然でしょうか。人口密度や土地の広さで説明されるのでしょうか。でもそのような説明は、「裏日本」の原発でもなされた記憶があるのですが、どうでしょうか。(ただし、現在ある原発が、南部に集中しているわけではないので、原子力については別の事情があるのかもしれません)。

(続く)


(注1) 現代イタリアにおける移民たちの蜂起・暴動については、「イタリアの "奴隷たちの反乱"」(『夢の浮き橋 - il Ponte Sospeso dei Sogni -』様)をご参照ください。イタリアは南北だけでなく、例えば南の内部にもまた、搾取/被搾取の関係が醜い形で存在しているようです。

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ドイツ人の中のマイノリティ ・ヴォルガドイツ人 平野洋『伝説となった国・東ドイツ』(3)

■「俺たちの女」を盗られたネオナチ■

 以前聞き取りをした東のネオナチの青年たちは、反外国人の理由として「仕事を奪う」の他に「俺たちの女を盗る」ことをあげた。 (176頁)

 この根拠のない「所有」意識こそ、ナショナリズムの中にあるジェンダーバイアスを考える鍵になると思います。言いたい放題のネオナチですが、こういう思考は、他国の男性全般が、もち得るものかも知れません。
 なお著者は、『黒い性・白い性』と、『フェミニズムの宇宙』を注として挙げています。

■ユーゴ難民に対する、西ドイツの老婦人による不当な批判■

 「彼らはドイツの豊かさに目が眩んで、戦争が終わってもこの国に残りたがるのね。」 (208頁)

 これは、ドイツに流入するユーゴ難民についての西ドイツの老婦人の発言です。
 自分は故郷のベルリンが瓦礫の山になっても疎開先から帰ってきたのに、と彼女は述べます。著者は次のように反論します。彼女のときは、ヨーロッパ全土が荒廃していた。今現在のような状況とは違う。しかも、大半のユーゴ人は、故郷へ自らの意思で帰国した。
 これについては、著者の方が正しいと思います。またそもそも、ユーゴ内戦の一因は、ドイツが煽ってしまった側面がありますから、彼女の傍観的発言は不当なものといえるでしょう(詳細は、拙稿「豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』(2)」をご参照ください)。

■ボルガドイツ人、あるいはドイツ人の中のマイノリティ■

 東ドイツ人はあまりしない仕事で、ロシア系ドイツ人との間に競合関係などない。彼らがロシアで得た資格はドイツでは認められず、医師免許や教員資格は通用しない。(略)無職でいれば社会に寄生しているといわれ、職を持てば、奪ったといわれる。 (222頁)

 ドイツ国内では、ロシア系ドイツ人(ボルガドイツ人)に対する、【ネイティブ】のドイツ人による差別が存在します。これは、著者の差別に対する批判的記述です。
 ボルガドイツ人が担う仕事は、実際は3K労働であり、【ネイティブ】とは競合関係にはなりません。なのに、無職でいれば社会に寄生しているといわれ、職を持てば奪ったといわれるのです。移民出身者というのは、こういった理不尽をマジョリティから受けます。(注1)では、ボルガドイツ人とは誰なのでしょうか。
 十八世紀、経済・宗教的理由から、ドイツ人の集団が、ロシアのボルガ地方に移住します。エカチェリーナ2世の時代、積極的に彼らはロシアに招致されました(彼女はドイツ出身)。ボルガ地方に多く住んだため、ボルガドイツ人と総称されます。彼らは、農業労働者としての役割の他、東方のタタール人との緩衝地帯を形成する役割も期待されたといいます。(注2)
 しかし、スターリン時代になるとナチドイツとの関係を国から疑われ、ボルガドイツ人たちは、シベリアなどソ連各地に分散・追放させられます。スターリン死後も、かれらの自治を含む権利が復活することは、ありませんでした。(注3)
 ボルガドイツ人たちの受け入れを、戦後西ドイツ政府は、はかってきました。そこには、東側への対抗心もありました。西ドイツは、数百年前にロシアに渡り、満足にドイツ語ができなくとも、ドイツ人の血をひく彼らを受け入れようとしました。いままでにおよそ二〇〇万人のロシア系ドイツ人が「帰国」しました(その後、増え続ける移民に対し、西ドイツ政府は受け入れに消極的な政策をとるようになります)。
 しかし、同じ「ドイツ人」でありながら、その出自からマイノリティとなるボルガドイツ人への【ネイティブ】の差別が存在しており、上記のような事態となったわけです。「冷戦終結後、ドイツに移住したロシア系ドイツ人は230万人に上り、その多くが満足にドイツ語を話せないことなどから就職もできず、貧困層を形成している」といわれています。
 ボルガドイツ人については、おなじ著者による『東方のドイツ人たち』という本も必見です。

■東欧の反ユダヤ主義■

 第一次大戦後、ポーランド・チェコなど東欧各国は独立を認められると、これらの国々で強烈な民族主義が湧きあがり、それは反ユダヤ主義につながった。その結果、迫害を逃れておおくのユダヤ人たちがドイツにながれこんだ。ロシアからは革命の影響でユダヤ人たちがドイツに移住してきた。 (16頁)

 革命で逃れてきたユダヤ人の多くはおそらく、比較的富裕な階級が中心だったのだろうと思います。ただ、東欧各国の反ユダヤ主義については、詳しく知りません。ヤン・T・グロス『アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義』という本は、第二次大戦期のポーランド人による「ポグロム」を描いていますが、第一次大戦後の反ユダヤ主義は、この事件につながっていくのだろうと思います。
 事実、「Wikipedia:ポーランドにおけるホロコースト」には、「戦前(引用者注:第二次大戦前)には社会的に広く反ユダヤ主義が存在し、時に反ユダヤ主義はカトリック教会やいくつかの政党によって助長されたが、政府が直接反ユダヤ主義を唱えることはなかった。ポーランドには反ユダヤ主義に反対する政治勢力も複数存在した。」とあります。


(注1)
 また、「彼らがロシアで得た資格はドイツでは認められず、医師免許や教員資格は通用」しなかった点も重要です。冷戦後ロシア内のユダヤ人がイスラエルへ移入したとき、ロシアで取った医師免許や教員資格をイスラエル内で使うことは、認められませんでした。そのため生活水準は下がり、この不満が、国内の政権交代の一因となります。

(注2) 「ヴォルガ・ドイツ人は、ロシア文明と西欧文明をつなぐ架け橋だった。先進的な農業の技術や方法、さらには文化・伝統をヴォルガ地方の諸民族に伝え、普及させることにも貢献した。サラトフがヴォルガ地方の工業・商業の一大中心地になったのは、多くの点でドイツ人入植者のおかげである。」という一文が、彩流社の『ヴォルガ・ドイツ人 知られざるロシアの歴史』の紹介頁にあります。
 なお、ロシア内のタタール人たちについては、山内昌之『スルタンガリエフの夢』に言及する際触れます。

(注3) ただし、「Wikipedia:ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国」は、スターリン登場以前にも、ボルガドイツ人たちへの弾圧があったことを書いています。曰く、
 「ロシア革命の後も敬虔なヴォルガ・ドイツ人の約76パーセントがキリスト教ルター派を信仰していたが、無神論を掲げるボリシェヴィキ政権と間もなく摩擦を生じることになった。1919年に、反革命のプロパガンダを唱えているとして、多くの牧師がシベリアの強制収容所(グラグ)に送致されている。

TAG : 東ドイツ ネオナチ ジェンダーバイアス ユーゴスラビア ボルガドイツ人 反ユダヤ主義

秘密警察・シュタージの傾向と対策、及び西側による東側の【搾取】 平野洋『伝説となった国・東ドイツ』(2)

■秘密警察・シュタージの支配方法■

 婉曲なやりかたとしては作家にいうんだ「紙がない」って。計画経済だから紙不足という事態もじっさいあったしね。さあーやっこさん悩むわけだ、なぜ自分の本は出版されないのか、本当に紙不足なのか、それとも……、と疑心暗鬼になる。こうなればこっちのものだよ。 (102頁)

 シュタージの支配方法の一つです。これが当時知識人たちに加えられた、支配の手法の一つでした。
 ソルジェニーツィンの小説を想起すべきでしょう(東浩紀「ソルジェニーツィン試論」を参照)。スターリン統治下のソ連では理由もなく人は収容所に入れられ、入れられた人は、なぜ自分は収容されているのか、そして、まだ生きているのかを問う姿に似ています。しかし、問いに応えられないわけです。
 出版と生命という違いはありますが、このような、疑心暗鬼の中で理由なき仕打ちに対して、なおも理由を考え込まざるを得ない、という点は同じです。

■シュタージへの抵抗基盤:カトリック教会■

 彼女は当時信仰心はなかったが、教会が唯一自分のような立場の者をうけいれてくれるのを知りそこで働く。彼女が選んだのはカトリック教会であった。 (62頁)

 当時、東ドイツで移住申請をする者に対しては、圧力が加えられました。そのような状況の下で、申請をしようとしたある女性は、カトリック教会に助けを求めました。
 プロテスタントの方は、シュタージとつながる牧師もいたらしく、彼女曰く、「東独内では少数派だが、ローマ法王を絶対者として国との関係はうすいし安心できた」とのこと。実際、教会と関って以降、シュタージの圧力はなくなったそうです。カトリック教会が、共産主義政権下で抵抗の基盤になりえたのは、ポーランドだけではなかったわけです。

■シュタージも手が出せない【怠惰】■

 職場では人びとはすることもなくブラブラし、一生懸命働こうという人もすぐにやる気をなくしていく。懸命に働こうが、怠けていようが給料はおなじだ。(中略)悪名高き秘密警察も、当局に反抗の意思などもたない労働者たちのサボりや欠勤などにたいしては手のうちようがなかった。 (56-7頁)

 シュタージは、反抗する者たちには弾圧・抑圧を加えましたが、反抗を意図しようとしない者達には、さすがに手が出せませんでした。旧東ドイツ地域などでは、昔の東ドイツの方がよかったという主張が聞かれるようですが、このような甘い【怠惰】は、十分魅惑される理由になるかもしれません。

■【搾取】される旧東ドイツ■

 東に大量の失業者を生みだした主因は九〇年夏に施行された「通貨同盟」政策によるものだ。東西ドイツマルクの交換比率を一対一としたために、東独は、ソ連・東欧市場を一挙に失った。品質は西独製品に劣るが、値段が安いということで東の企業の一部は生き残れたはずだが、値段が西と変わらないとなれば製品は売れず、企業は軒並みつぶれた。 (41頁)

 現在の東ドイツの現状の一因は、無謀な交換比率にもありました。「通貨交換は統一の第一歩となる事業だったが、「旧西ドイツの1ドイツマルク=旧東ドイツの2マルク」という非現実的な比率で行ったのだ(個人については、貯蓄の一部を1対1で交換することも可能だった)。ちなみに、1989年当時の闇市場では、1対10で交換されていた。」と、Bertrand Benoit による「ベルリンの壁崩壊から20年」(『JB PRESS』様)は伝えています。東ドイツと西ドイツの関係は、南北イタリアの存在を想起させます。

 西も損をする援助はしていない。事実、東独再建事業で西の建設業界は莫大な利益をあげている。一体誰のための援助かと批判がうまれるのもこのためだ。(中略)需給関係を無視したこの建設ブームの理由は、おもに企業による税金対策のためだ、と経営学の専門家の友人の説明で合点がいった。東でわざと損失をだし西で支払う税率を落とす、節税になり損を補って余りある。 (118頁)

 著者曰く、「この特別税制処置は九八年末まで。以後はちがう優遇税制がとられている」といいます。旧東ドイツ地域への、国の援助の【裏側】を伝えています。西側の建設企業の利益のために、無駄な建築物ばかり東側に作られていくわけです。要するに、情けは人のためならず。
 構図として似ているのは、日本のODAのあり方でしょう。ODAによる日本建設業界の海外進出は、事実上、海外において、日本の税金を日本の建設企業にバラ撒いてるという構図です(悪い側面だけでないにしても、です)。ともに、【後進的地域】を利用して、【先進的地域】の企業が潤うという構図を持っています。(注1)

(続く)


(注1) 東ドイツと沖縄との類似性を指摘する記事もあります。「ベルリンの壁崩壊から20年-ドイツにとってこの20年は何であったのか?」(『つれづれ なるままに  ほぼ毎日更新中 !!』様)という記事です。
 「復帰後は米国資本の誘致による経済的な自立という試みは、通産省によって事前に阻止され、米ドルから日本円への通貨統一は、結果として本土資本による土地買い占めを容易にしただけであった・・。しかも基地経済からの脱却はいっこうに進んでいない。」
 基地経済という点では、グアムもまた然りです。詳細は、拙稿「グアムでポリネシアンダンスという不可思議 山口誠『グアムと日本人』(1)」もご参照ください。

TAG : シュタージ ソルジェニーツィン カトリック教会 東ドイツ 西ドイツ ODA

東ドイツの裸体主義・男女平等・排他性 平野洋『伝説となった国・東ドイツ』(1)

平野洋『伝説となった国・東ドイツ』現代書館 (2002/08)

■東ドイツの女性たち■

 社会主義時代の東では、月一回ハウスハルトタークとよばれた家事のための有給休暇日があり、働く女性たち--当時は専業主婦というものが存在しなかったーーにとってこの日は歓迎された(男女平等が建前であったが、家事の大部分は女性が負担した)。女性たちの職場進出への前提条件である乳児院・幼稚園も完備していた。 (54頁)

 社会主義国は、職業の男女平等を、制度的に整えていたことで知られています。東ドイツもまた、その例に漏れません。家事のための有給休暇日があり、幼稚園なども完備していました。(社会主義国に「専業主婦」が存在しないのは、男女関係なく人民はみな「労働者」たるべき、という義務を負わせる思想があるからでしょう。純粋に、労働力不足というものあったかもしれませんが。)
 ただし、一方で著者は、「男女平等が建前であったが、家事の大部分は女性が負担した」と、制度に隠れた慣習(または陋習)の現実もきっちり書いています。これは少なくとも、他国(日本も含め)と変わらない面です。東ドイツの女性たちについては、柳沢文香「旧東西ドイツにおける女性の価値観とその変化」(『Reitaku Universitaet Fachrichtung Deutsch(Jap.)』様)もご参照ください。

■裸体と社会主義■

 FKK(フライ=ケルバー=クルトゥーア)とは、日本語で裸体主義と訳される。(中略)太陽の下、全裸で日光浴を楽しむ、そんな光景がドイツの各地に出現した。このFKK運動は、新社会建設を掲げる当時の共産主義者たちからも共感を得た。(中略)裸になれば金持ちも貧乏人もみな同じ、という”理論”も共産党指導部に気に入られた原因といわれている (55頁)

 この運動は、ダダイズムの影響であるといわれます。第一次大戦後に起こった運動は、ナチス時代に禁止されたものの、東ドイツ時代に復活しました。復活した理由が、【裸になれば金持ちも貧乏人もみな同じ、という”理論”】だったのは、大変興味深いです。反キリスト教、反ブルジョア道徳という意味で、裸体主義が肯定されたのかもしれません。(注1)
 ドミニク・ノゲーズ『レーニン・ダダ』は、無関係に見えるレーニンとダダイズムのつながりを、資料に基づいて推理した本ですが、本書の続編として、ダダイズムとレーニンの間に、裸体主義を挟んで書いてみるというのも一興です (誰か書いてください)。
 (なお、ヌーディズムについては、秋田昌美『裸体の帝国』を参照)

■東ドイツの、日本人との【近さ】■

 「とにかく(東独でも日本でも)言われたとおりにしていればいいんですから。計画があってあとはそれをこなすだけ。すべて組織化していますしね。交番もそこら中にあるし。学校でも一列にならんでの点呼。(中略)しかし東独では、はっきりと面と向かって物を言うところが日本とは違う」 (167頁)

 これは、東ドイツ出身の音楽家と結婚した日本人女性の発言です。確かに、学校とか、交番という制度など、近いところが多い。しかしどうやら、はっきりと自己主張するところは違うようです。自己主張という点については、中島義道『ウィーン愛憎』などを参照すべきかもしれません。日本人に近いところは、別のところにもあります。

 「まず、西ドイツ人は訊かないね。『どこから来ましたか』、『いつ帰るんですか』とね。東ではしじゅう訊かれるんだ。(中略)東の場合、その質問は人を値踏みするものなんだ」 (187頁)

 これは、アフガン出身のドイツ永住権取得者の言葉です。西ドイツでも聞かれることだ、と言葉を添えつつも、東ドイツでは、一層の悪意を感じたようです。このような【無神経】な「外国人」への発言は、日本人もよく行っていなかったでしょうか(今もまだ、やっているかもしれません)。
 Nikolausさんという日独のハーフの方は、「今度は、いつドイツに帰るん?」と小さいときから友達に訊かれて、そのたびに「ドイツへは“行く”んや」と訂正し続けていたそうです(「よくある質問」『Die Kreuzungsstelle~交差点な人たち』様より)。この言葉が、まるで「日本から出て行け!」と言われているような気がしたそうで、そこに「無意識の排他性」が見えた、と。

(続く)


(注1) 「二十世紀はじめのドイツのヌーディズムの理論家はウンゲヴィッターであったが、彼は男女ともに裸体になりながら性的な衝動からは解放されていると思い込もうとしていた。」と、多木浩二『ヌード写真』には、書かれています(「脱性の身体/体操/近代ドイツ」(『vingt-trois etoiles』様より孫引) )。ヌーディズムが一方で性的な衝動を排する側面を持ち、しかもこのイデオロギーが、「民族と文化の純粋性を維持するために「性」を管理する思想に遠くではつながっていた」というのです。ヌーディズムに否定されたもののひとつが、「自慰や女性との性交」でした
 その極北がナチズムであり、「ダンスによる陶酔や体育好み、さらにはあのナチ独特の集団的エクスタシーがこの否認された性的欲望の充足を引き受けていた」と多木氏は書いています。左翼的傾向を脱色した裸体主義運動を、ナチスが支持した背景には、こうした「健康」的な側面(性的な面を除く)を強調するため、という意味合いがありました。
 「性に開放的な東ドイツだが、実はポルノは禁止だった」ことは、以上の観点から考察されるべきでしょう(「戦争映画「コミュニストはSEXがお上手?」」 (『かぽんのミリタリー的日記』様))。東ドイツ時代には、性的な衝動こそ肯定されますが、それは生殖に結びつくことが前提でした。

2010/02/21 一部修正済

TAG : 東ドイツ 社会主義 裸体主義 日本人 差別

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