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「国民読書年」という"キモさ"、「活字離れ」な割にネットで活字が読まれすぎている時代に 蓮實重彦『随想』(1)

・ 蓮實重彦『随想』新潮社 (2010/08)

■「攻撃的」な随想■
 『随想』というタイトル。表紙には、「エッセ・クリティック」とあります。無論、これは、ロラン・バルトの同題の書物から来ているのですが、当時のバルトは(後の彼と比べて)結構戦闘的でした。
 なんせ、ロブ=グリエにバタイユにブレヒトにと論じておられた若い頃のバルトなのですから。で、『随想』の著者ですが、御歳にもかかわらず(?)、今回も結構攻撃的です。
 例えば、ノーベル文学賞をめぐるマスコミの大はしゃぎを批判する冒頭の章では、村上春樹信者である某レヴィナス研究者を、きっちり実名を挙げて批判していますし、中村光夫とルーアンへ向かいフローベールの草稿を閲覧した際の「思い出」を記した章では、中村の自身の仏語「能力不足」発言を真に受けた某文芸批評家に対して、これも実名を挙げてあなたとは違うんですとばかりに反論しています。まあ、これくらいなら優しいものですし、『小説論=批評論』の頃よりは、随分丸くなられたと思いますけど。

■問題はむしろ活字があまりに多くの人によって読まれていること■
 しかし、本書において最も攻撃的に批判されたのは、とある団体です。(ちなみに、その引用された文章の酷さから、最も読み進める速度が速かったのはこの章です。どうでもいい話ですが)
 「国民読書年」(「国民毒暑年」?)に興味がないといいつつも、「多少の税金-平成二十一年度は「機構」に九,一四七,六〇〇円が一般会計が支出されている-」と数字を挙げずにはいられないご様子ですし(242頁)。本人の言うとおり、事業仕分けの担当者のようには、言い募らないのも確かですが。
 しかも、この団体の理事長に対して、「元衆参両院の議員で児童文学者でもあるという」人物は「「出版文化産業振興財団」なるものの理事長」でもあり、「「幼い」有害図書から保護する法案を提出そびれたほかにこれといった実績もない」とこき下ろしています。この理事長サマ、なんか児童書を書いてるらしいんですけどね、まあどうでもいいや。
 さてさて。著者は、現在地球に暮らす人々がこんなにまで活字に接している時代は人類史上なかったと述べ、インターネットだって大半は活字なんだから、問題はむしろ活字があまりに多くの人によって読まれていることであって、「読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ」(243頁)こそ検討すべきじゃないのか、と述べています。だのにその某団体は、電子媒体による読書は読書じゃないといわんばかりに、その現実を無視している、と。御大にこんな正論を吐かせるとは、実に度胸のある団体ですな。(ちなみに、御大は、全国紙の定期購読はもう20年も前にやめたらしいです。)

■「言語力検定」と「建築力検定」、両方キモい。■
 この団体の名前にしても、「マンガじみた」名称であり、団体名にこんなのを何のためらいもなく採用してしまう奴らに「言語」の問題なんぞ任せらんないだろ、とモブ・ノリオの意見に賛同しつつ述べています。確かに、この団体名は「キモい」ですな。しかもこの団体は、よりにもよって「言語力」不足などとまたもやキモいことを主張し、「言語力検定」などとという漢字検定よりも下劣で金の臭いがする手段で解決をはかろうなどと考えていやがるのですが、著者は無論そんな意見には与しません。
 社会において教育的な刺激を受けることというのは、つまるところ異なるものの豊かで多様な共存(ジャン・ルノワール!?!)を許容する風土であって、試験などにある合格や不合格といった線引きとは一切無縁であり、間違えさえも成長の契機となるような時間のかかるものだと、著者はいうのです。またも正論を吐かせるのか、この団体は。
 著者が正論をはかないといけないくらい、この団体のサイテーっぷりはすさまじい。ノーベル賞騒ぎに熱心なマスコミに呆れることから始まった本書は、最後にキモい団体への隠せぬ憤りで終わります。最後の章という重要な所で御大をこんなに怒らせた団体に、呪いあれ。
 ところで、この団体の立ち上げた「国民読書年」の推進委員会の座長は、御大が大学へ招聘した建築家です。これってどうなのよ。建築家だから許したほうがいいのか、どうなのか。とりあえず、安藤さんには「建築力検定」を創設していただきたいと思うのですが、どうでしょ。

(続く)

ナボコフによるフローベール変奏 -半過去という倦怠、そして「私たち」という暴力について-

■半過去という倦怠 -ナボコフによるフローベール変奏①-■
 既に、プルーストとフローベールの話をしたと思います。フローベールの文体と技巧を取り入れようとしたのは、プルーストだけではありません。プルーストを介在させる形で、ウラジーミル・ナボコフも、その技巧を取り入れようとしていました。
 ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』のフローベール『ボヴァリー夫人』論は実に見事なものです。そこで、半過去の使い方、"et"(フランス語におけるandです)のフローベール独特の使用法などを指摘しつつ、『ボヴァリー夫人』の世界に主題として連なる「重層構造」(エンマとシャルルの結婚式のケーキから、果てはエンマの葬式の棺桶までに!!)を指摘したりしています。
 さて。著者は、ナボコフ『ロリータ』において、「フローベール的イントネーション」と書かれていることに注目します。そして、"would"の頻出に、フローベールの影響を見るのです。どういうことか。
 半過去というのは、反復・習慣にも使用される語です。「あの頃はよく~したものだ」というような、過去に何度も習慣的にしていたことを表す語でもあるのです。英語では、"used to"や"would"などであらわします。
 「あの頃~したものだ」という不定期な反復の表現は、小説に時間的な幅をもたらします。そして同時に、この語は、「倦怠」をもあらわします。何度も何度も同じことが起こるわけですから。この倦怠こそ『ボヴァリー夫人』にふさわしいテーマになっています。ナボコフは自身の作品の中で、時間の幅を、そして「倦怠」を、"would"の語を用いて表現しようとしたのです。いかにもナボコフらしい、先行した文学への意識が出ていますね。

■「私たち」というあつかましさ -ナボコフによるフローベール変奏②-■
 さて、ナボコフ『ロリータ』において、最たる暴力的なことばとは何か。著者は、小説の表現の中のある語がそれではないか、というのです。"nous connumes"という語です。
 日本語訳すると、「私たちは知っていた」となります。この語のどこが、暴力的だというのでしょうか。
 この語の「私たち」とは、当然、主人公ハンバートと少女ロリータのことで、これは主人公の手記において、書かれた語なのです。そして、"connumes"というのは、単純過去が使われています。単純過去とは、通常こうした小説などに使用される過去形です。
 そして単純過去は、それが客観的・外面的な行為などに使用されます。そういう性格のため、主観を表す場合は、通常単純過去を使用しません。なのに、こうした「知っていた」という語に、単純過去を使っているのです。しかも、「私たち」です。この「私たち」に、違和感はないでしょうか。
 勘のいい方は分かっておられると思いますが、「私たちは知っている」というとき、主人公自身は「知っていた」ことは自明ですが、ロリータが知っていたかなんて、分かるはずなどないのです。なのに、「私たち」とまとめてしまう乱暴さとあつかましさ。ロリータは、主人公と語的に同化されてしまうのです。ここにこそ、最大の暴力があるというのです。
 ロリータは「さながら意思のないモノであるかのようにハンバートの主体性に統合され」、「ひとつの主語=主体が、本来なら目的語=対象であるべき別の主体を強制的に自己に一体化させてしまった」のです(136頁)。"nous connumes"、この語こそ、彼女と性的な関係を端的に示した一語ともいえるのです。
 さて、この「私たち」という語もフローベールと呼応してしまう語です。『ボヴァリー夫人』の冒頭は、シャルルが新入生として教室に入ってくるときの出来事ですが、語りだしは「僕たち」です(ただし、"nous"ではなく"on"なのですが)。つまり、教室の学生たちが主語=主体となり、その「僕たち」がシャルルを観察するのです。小説の進行に従い、やがて語り手は「僕たち」から、生徒たちを置き去りにして、透明な語り手に切り替わるのです。
 蓮實重彦は、バンヴェニストの議論を参照しつつ、この「私たち」の語は実際は「私」と「彼ら」であるに過ぎないのに、それを隠すように「私たち」を名乗った語り手は、やがて小説の背後に隠れてしまうと指摘していたはずです(『反日本語論』などを参照)。またしても、「私たち」のずるさと恐ろしさ。
 ことによったら、ナボコフは、フローベールにこの「私たち」まで学んだのかもしれません。著者は指摘していないのでそうではないのかもしれませんが、無意識的にこれをやったとしてもおかしくはないでしょう(ちなみに、ナボコフの『ボヴァリー夫人』論では、冒頭の「僕たち」への言及はなかったはずです)。作家というのは、たぶん、意識しなくてもやってしまうものです。

(終)

コレットによるコスプレと、性愛遍歴について 工藤庸子『砂漠論』(5)

■コレット・コスプレ・性愛■
 プルーストは女性的な側面がある云々という話をしましたが、次は女性の作家であるコレットについて。コレットとプルーストの間には親交がありました。ちなみに、著者は、コレットの伝記を翻訳してもいます。
 「15歳年長のアンリ・ゴーティエ=ヴィラールと結婚。処女出版された『クロディーヌ』シリーズは、「ヴィリー 」(Willy)名義で(夫の筆名で)世に送り出された(夫婦合作とも言われる)」というWikipediaのコレット項の記述で分かるように、最初は夫の筆名という形で世に出ます。その際、彼女はクロディーヌのコスプレもしています(させられています)。(注1)
 夫とは離婚しますが、その前後から、彼女は様々な形で(例えば舞台で)「コスプレ」をすることになります。じっさい、「パリのミュージック・ホールでパントマイムや踊り子として活躍を始め」たりしています。そのときから、フィクションの人物になりきることの醍醐味を知ってしまったのではないか、と著者は言います(37頁)。クロディーヌを演じた彼女は、その後自身の小説『シェリ』や『さすらいの女』などの演目で舞台に立ち続けました。
 挙句の果てには、実生活で、フィクションの筋書きそのままに、義理の息子と恋愛してしまいます。連れ子だったベルトランでした。奔放なのはそれだけでなくて、「同性も対象とした華麗な恋愛遍歴で有名」とWikipediaにあるように、関係を多くの女性と結びました。その一人として、ミッシーがいます。
 「ナポレオン3世の血縁者を名乗っていたベルブーフ侯爵夫人ミッシーであり、2人は舞台上で共演することもあった」のです。実際、彼女はかのド・モルニーの実の娘に当たります。ド・モルニーについては、蓮實『帝国の陰謀』にも書かれていますね。
 さて、そんなコレットの小説での描写ですが、随分即物的・解剖学的なのです(64頁)。「しっかり滋養をあたえられ、筋肉を露出させず」とか、「その裸の上半身、女のように柔らかな肌とそのしたで蠢いている非の打ちどころのない筋肉、超然として誇り高い身体の窪みや隆起」とか、「慎重に胸を隠した敏捷な上半身、誇らしげにくねる背中、筋肉にしっかりつつまれた腰骨、長い腿と繊細な膝」など、こうしてみると確かに即物的・解剖学的です。「コレットの小説は、味な観察力と、つまびらかであからさまな文体が特徴的である」とWikipediaにありますが、こういうところが、それをあらわしています。
 

(注1) 「コレットのレヴュー「パリのクローディーヌ」」(『100年前のフランスの出来事』様)には、クロディーヌを演じていたコレットの画像があります。

(続く)

プルースト『失われた時を求めて』の書き方、読み方について 工藤庸子『砂漠論』(4)

■「後輩」プルーストのパスティーシュ■
 プルーストは、さきのバルザックとフローベールのそのまた後輩に当たります。彼の鋭敏な知覚と感性は、作家の文体にも向けられています。プルーストは、優れたフローベール論を書き残しています。これをめぐって、ティボーデと論争もしており、フローベールの半過去の用法の独自性をプルーストが指摘すると、ティボーデはラ・フォンテーヌ『寓話』がすでにこういう方法をやっとるわい、と反論したりしています。
 また、作家の文体論のみならず、実際にフローベールら先輩たちのパスティーシュをものしています。どうやら、フローベールの独特の技法を使いこなせるまで、文章を書いては書き直し、練習に励んでいたようです。結構風刺的な風味を混ぜたりしていたようですが、精力的に文体練習をこなしていました。
 バルザックも、フローベールも、先人のパスティーシュやパロディをやって腕を磨こうとは考えていませんでした(159頁)。そうした発想は、「後輩」プルーストの時代だからこそ、出てきたものなのです。

■プルーストと女性性、非キャラ小説性■
 著者がプルーストに惹かれる一面は、女性的なものへの執着、その身体的なぬくもりへの希求だといいます(83頁)。食卓の描写に始まり、女性たちの衣装、使用人たちの噂話、過程の中での肉親の死去、そういったものが「男にはあるまじき異様な熱意をもって至近距離から描かれる」のです。プルーストは(少なくとも小説の語り手は)、一貫して、父権的なものから身を引いていたのです。プルーストの世界には、弱者への優しさと救いと慰めがある。そう著者はとらえます。
 そんなプルーストの人物描写は、前代のバルザックとは違うものです。
 バルザックが、人物をあれほど過剰に描写するのは、かれの『人間喜劇』の分類学のためです。つまり彼には、この性格の人間にはこういった特徴があるという前提があり、この確信にしたがって、こういう性格・職業だからこういう特徴(キャラ)を描く、というふうにやるのです。この特徴は固定的なもので、彼バルザックの目指したものは、そういった特徴(キャラクター)による人間の分類学でした。
 それに対して、プルーストは、「時が流れ、個人と個人とのあいだの距離や関係が変わってしまえば、それこそ不意打ちのように、同一人物が予想もしていなかった横顔を見せる」描き方をしました。バルザックの野心とは異なる方法です。バルザックのキャラクター分類学は、基本的に固定しており、まさにキャラ小説です。一方プルーストは、そういった固定した特徴(キャラ)を否定し、そういったものは他者との関係が変わってしまえば移ろうものであって、人間は予想もしない特徴をこちらに見せてくれるという、非固定的なものだというのです。
 プルーストにとって重要なことは、キャラクター別の分類学の作成ではなく、常に時を重ね人との関係が変わっていく中で、人々が見せるプリズムのような特徴の移ろいを書くことだったのです。バルザックがキャラ小説の偉大なる祖だというのなら(そこらへんのラノベとはモノが違うけど)、プルーストはキャラクター小説とは異なる存在に他なりません。

■『失われた時を求めて』の読み方■
 著者は『失われた時を求めて』の読み方について以下のように言います(84頁)。
 書いたプルースト本人が言っていることだが、この小説は、面白いと思うところを読めばよいのだ、と。どこで乗車しても、どこで下車してもよいテクストだというのです。同じこと、そういえば蓮實先生も『闘争のエチカ』でいってましたね。
 「忘れたり思い出したり読み返したりすることは、すぐれてプルースト的な営みではないか」。読んだ内容を忘れてしまうことさえも、読書の楽しみの一つ。なるほど。

(つづく)

バルザックとフローベルの文学観 -世界を丸ごと貪ろうとした人/散文によって世界から自立しようとした人 工藤庸子『砂漠論』(3)

■バルザックとフローベール、小説観が違いすぎる■
 先に、バルザックとフローベールは、両人ともに脚フェチだよという話をしました。しかし、この二人、小説の作法がまったく違います。かたや、濫作も構うまいといわんばかりに書きまくる仕事の速いバルザック、かたや、書いては推敲し年月を文章に落とし込むように書いていった比較的寡作のフローベール。
 小説観もまったく二人は違っていました。フローベールの小説の理想は、自分の主観を小説の文章に介入させず、作品世界の裏に己を潜在させていることでした。そのために、彼が『ボヴァリー夫人』完成に当たって、具体的な描写など削いで文章を切り詰めていったことは良く知られているものと思います。彼は、作品の中に遍在する不可視の存在たろうとしていたのです。そして、その作法に対して、バルザックは、自分の身元、正統王朝派のカトリックで貴族主義者あることを隠さず、作品にずけずけ介入しているとして、フローベールは批判的でした。(確認しますが、フローベールは、バルザックより後年の人です)
 実際バルザックは、自身の恋愛小説の中で、特権階級の居住する地区の政治史的・社会史的考察を開陳しちゃったりしているのです。彼は、自分が小説において、隠れるつもりはありません。うるさく介入します。しかも、描写もうるさいときている。彼の人物描写の過剰さは、スタンダールなどと比較するだけで十分でしょう。
 しかし、何故そんなものをバルザックは書いてしまうのか。バルザックにとっての文学は、法学・政治学・歴史学・社会学・哲学・心理学などの領域を囲い込む、大規模なものだった、と著者は言います(210頁)。後世のフローベールにとって文学が、「世界を前にした散文の営み以外のものではありえなかった」のに対して、まさにバルザックは、『人間喜劇』という全体性を、世界を丸ごと描こうという途方もない野心を抱いていたのです。二人の才能は、各々別の道を行くのでした。
 バルザックはその文学において、世界を丸ごと貪ろうとし、フローベールはその文学において、散文によって世界から自立しようとしていたのです。

■レジティミストなバルザック。で、レジティミストって何?■
 さきに、バルザックは正統王朝派で貴族主義者と書きましたが、これらはいったい何を意味しているのでしょう。
 正統王朝派とは、レジティミストといい、ブルボン王家の正統な嫡子の家系を支持する一派のことで、傍系のオルレアン家を支持するオルレアニストと区別されます。後者は、ルイ・フィリップの七月王政を見て分かるように、裕福な市民層の支持を得ていました。
 貴族主義者というのは、自分の身分は関係なく、貴族が特権階級として国を支配するべきだという立場です。貴族に任せて大丈夫かよという声も聞こえてきそうですが、当時一般庶民は政治参加をする資格なぞないと見なされることが大抵でしたし、政治は専門家に任せるべきだというのが道理なら、政治の専門家として貴族が支持されても無理はありません。また、貴族階級に政治を任せて国王の専制を防ごうと考えた面もあります。
 バルザックやスタンダールの小説に良く出てくる、ユルトラという存在もいます。(注1)これは、フランスの大革命を否定するのみならず、1814年にルイ18世が発布した欽定憲章をも拒むという意思表示をした王党派の一派のことです(212頁)。なんとルイ18世という現在の国王の新しい政治方針にも距離を置くという、かなり守旧的な立場です。この一派である上流貴族階級(『ランジェ公爵夫人』にでてきます)は、やがて歴史の表舞台から姿を消し、代わりに新興ブルジョア知識人層が時代の主役となるのです。なお、バルザック自身は、レジティミストとして、ブルボン王朝の立憲王政を支持しています。
 そんなバルザックですが、実は、レジティミストのはずなのにナポレオンのような英雄好みでもありました。ナポレオンが好きだったのです。こんな嗜好を持ってしまうところ、これは、かれの小説の面白さに繋がっているのでしょう。いい意味で節操がない。エンゲルスら社会主義者たちも賞賛した彼の小説の面白さは、ここにあるように思います。

(続く)


 (注1) 文人シャトーブリアンもユルトラだったことがあります。Wikipediaの記述によると、「ナポレオン没落後、ブルボン王家を支持した(1815年)もののルイ18世の政策を批判して嫌われ、過激王党派(ユルトラ、次代の王シャルル10世を支持する)に加わる。しかしベリー公暗殺事件後、王とよりを戻しプロイセン大使、イギリス大使、そして外務大臣(1822年 - 1824年)を歴任した。」とあります。

『ランジェ公爵夫人』、あるいは、足フェチ作家バルザックによる足の小説について 工藤庸子『砂漠論』(2)

■『ランジェ公爵夫人』、あるいは、足フェチ作家バルザックによる足の小説について■
 本書は、オリエントへの憧憬というのが主題の一つとなっております。西欧人たちの持つオリエントへの憧れというべきものです。冒頭の「砂漠論」と、最後の一編となる「『ランジェ公爵婦人』論」は、それがテーマ(の一つ)となります。
 バルザック『ランジェ公爵夫人』は、著者が翻訳したものでもあり、その翻訳を契機として「『ランジェ公爵婦人』論」は書かれています。で、本書への批評のテーマの一つは、「足・脚」です。
 例えば、作品中、ヒロインは、男に自らの素足を露わにして挑発するのですが、当時の上流階級の女が素足をみせることはまれで、素足をみせることはまさに性的な挑発となりえたわけです。著者はその背景にあるものとして、スカートに覆われた部分であるがゆえに、異性にとって禁忌の対象となったのではないかと考えており、これは一九世紀小説における「脚フェチ(足フェチ)」傾向に関わるといいます。著者は、一九世紀において女性の足に執着する小説家として、フローベールとバルザックを挙げています。
 ちなみに、フローベールの脚フェチを示す作品のひとつは、『感情教育』でしょう。作品中、主人公は、ヒロインの足に魅せられており、ラストでも、その足が「たまらなくなる」って言ってますよね。蓮實重彦「運動・距離・中心 『感情教育』の構造をめぐって」っていう論文に、詳細書いてありますのでご一読あれ(『筑摩世界文學体系 16』の付録に書かれていますよ)。
 地中海対岸の気候では素足にサンダルが自然な格好でしたが、ドラクロアがその素足にオリエンタリスティックな視点をそそいでいた事実(231頁)も、ここで指摘しておくべきでしょう。素足とは、その性的な誘惑において、上流階級の恋愛の駆け引きの仕草とも、異郷の女のエクゾチシズムの表れともなる身体的部位だったのです。実際、男がヒロインの足を「値打ちがある」などと言って褒めた際、女は、オリエントの女をご存知なのねと男を牽制しているのですから。
 この素足、更に重要な役割をも果たします。男は自らの頭を、女の足に持たせかけながら愛の言葉を語りかけます。そのとき、「彼の頭の燃えるような拍動が、さながら電流のように、恋人の足からその頭へと伝わった」のです。男の頭から、彼女の素足を通して女へと電流のように道の感覚が走る。素足は、恋する熱情をも伝える身体的部位となります。
 最初は男の方が本気だったのに、いつしか女のほうが本気になり、しかし、そのときには男は女に冷淡になっていた。もう立場が逆転していた。男が再び動き出したときにはもう遅く、女は、修道院へと遁れます。女が隠れた僧院こそ、名前は「跣足カルメル会」。この修道会、文字通り厳冬にも素足で修行に励むという戒律があり、そこが一般のカルメル会と区別されます。「足」で始まる恋は、ついに「足」で終わりを告げようとするのです。
 最後までこの小説には「足」が登場するのです。足フェチの方もそうでない方も、ご一読を。

(続く)

"非・非実在女性"の快楽のために、あるいは「べ、別にフェミはポルノ嫌いって訳じゃないんだからねっ!」の確認 守如子『女はポルノを読む』

守如子『女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム』青弓社 (2010/02)

以下、本書を読んでの取り留めのない雑感です。

■抑圧された女の快楽と、「主婦/娼婦」という階層■
 女性たちは、マスターベーション一つをとってみても、「彼のため」という言い訳を必要とします。例えば、他の女性向けグッズショップのインターネットサイトでは、「彼のために自分磨きを頑張ります」という言葉がマスターベーションの理由付けの主流を占めるといいます(p14)。男性がそのような言い訳を必要としないのに、です。
 この非対称性はなんでしょうか。ここに、女性と男性との社会的な「格差」があります。
 あるいは。例えば、子供たちにポルノグラフィを見せないのが「母親の責任」であるとするような議論が存在します。
 快楽的な性に対する否定性を、女性は持たされます(p236)。性的な快楽を女性は抱かないし、抱くべきではない、という見えない社会的縛りのようなものが存在するのです。性的な欲求を顕示してしまう女性は、一段低い存在として処遇されます。
 ここに、「主婦/娼婦」という階層分けが存在します。無論、ここでの「主婦」とは既婚女性に限りませんし、ここでの「娼婦」とは狭義のセックスワーカーにとどまりません(前者は、「淑女」と言い換えられるでしょう)。家庭の秩序の枠内で性的に抑制・抑圧されつつ、一段高い地位の(しかし男性より一段低い)役割を負う女性と、家庭秩序の外で男性の性的「需要」を満たしつつ、社会から一段低い存在として処遇される女性たちに、大まかに分かれる、と定義できるでしょうか。
 女性は、このような「主婦」・「娼婦」以外のアイデンティティを持たされることがありません。女性たちは、「娼婦」に転落しないためにも、「主婦」として、快楽的な性に対する否定感を、社会的に表明せねばなりません。この構造の中では、女性たちは自分の性について語ったり実践することは難しいですし、まして、ポルノグラフィを自由に読んだりすることも困難です。
 著者は、「女性=ポルノグラフィ嫌悪・批判的」というレッテルを批判し、女性たちもまたポルノグラフィを享受する存在であることを強調します。そしてどのようにそれが受容されているのかを論じています。

■必ずしもポルノグラフィに否定的ではないフェミニズム■
 フェミニストは必ずしも、ポルノグラフィに否定的なわけではありません。それに肯定的だったり、却ってそれを戦略的に導入しようとするフェミニストもいます。フェミニズムは常に多様です。
 例えば、ゲイル・ルービンは、フェミニズムはポルノと戦う代わりに、検閲に反対し、買売春の脱犯罪化を支持し、セックスワーカーの諸権利を支持し、人間の性的な多様性が適法であることを主張すべきである、といいます(38頁)。ポルノと闘わなくても、ポルノの製作過程で発生する性暴力と闘えばよい、というのです。『ジェンダー・トラブル』の著者ジュディス・バトラーも、ポルノグラフィへの検閲には批判的です。
 また、日本のフェミニズム団体は、必ずしもポルノグラフィに否定的ではないのです。というより、ポルノグラフィ自体は置いておいても、その取締りに国家が介入することに対して否定的なのです。
 例えば日本の「行動する女たちの会」は、多元的で豊かな表現を作り出すこと、そして批判の自由を確保することを重視しました。行政による取締りを推進せんとするフェミニズムの道徳主義陣営とは、違う主張を持っていたのです(54頁)。
 フェミニズムの団体の中には、ポルノグラフィ検閲に賛しているグループもいます。しかし、そうしたフェミニストたちの行為は皮肉にも、文化的・宗教的保守派の思惑と一致してしまいました。挙句の果て、自分たちの運動によって、自身らの著作まで検閲されるという悲喜劇的出来事まで発生しています。(注1)
 フェミニズムの道徳主義陣営の”おめでたさ”はともかくとして、フェミニズム自体がポルノグラフィに否定的なわけでも、検閲に賛成しているわけでもないことは、いうまでもありません。
 以上は基本的なことですが、「フェミ=ポルノ嫌い」というレッテルはまだ存在する様なので、一応書いておきます。

■本書の読みどころ■
 本書の読みどころとしては、例えば、
・レディコミは、ヤオイの文法を根底に持つ。実は、男性同士の関係を、男女の関係に変換したのが、レディコミ漫画というジャンル(76頁)。
・レディコミ雑誌へのアンケートには、暴力的な描写のある漫画に対して、「こわい」という感想が多く存在する。これは、主体的な立場で作品に移入できないというファンの反応である(210頁)。
 などの内容です。
 前者は、女性向けポルノグラフィの成り立ち、そしてその需要のされ方を考える上でを知る上で重要なポイントになってきます。
 後者は、女性たちがポルノグラフィを読む際に、主体性を確保すること(つまり、性的行為が暴力的でなかったり、暴力的でも「愛」などで解釈付けができること)によって、脅かされること無く性的な快楽を享受できることを教えてくれるわけです。


(注1)詳細は、ナディーン・ストロッセン『ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性』を参照。まあ、自分たちの税金は惜しむくせに、道徳を盾に青少年の性に介入しようとする保守派は、どこの国でもウザイです。


(追記) Amazonでの小谷野敦氏の批評では、以下のように述べられています。
 「第一に、女には性欲がないとされてきたが本当かという前提だが、近代以前においては、女は淫乱であるといった女性嫌悪的言説が一般的だったことを言い添えないと、知識のない読者をミスリードするだろう。また近代以後についても、それは中産階級の言説に過ぎず、下層階級では相変わらずではなかったのか。 」、「第二に、著者も自覚している通り、女が楽しむポルノはBLとレディコミだという前提は疑わしく、男向けポルノを楽しむ女もまたいるであろうということだ。かつ、こうした雑誌の投稿欄の分析は、結局そうした雑誌類を読む層の分析にしかならず、「女性向けポルノが出現した」という事実の周囲を循環的に論じることにしかならない」。
 一点目について。要するに、「女には性欲がない」か、「女は淫乱である」しか、女性には選択肢は無かったわけです。間は、存在しないのです。本来なら、もっと選択肢があってよいはずなのです。
 二点目についても、同じく。「女が楽しむポルノはBLとレディコミだという前提は疑わしく、男向けポルノを楽しむ女もまたいるであろう」というのは、その通りでしょう。ただ、男向けポルノを読む際には、女性向けポルノの場合と同じく、性的行為が暴力的でなかったり、暴力的でも「愛」などで解釈付けができることが、女性読者が快楽を得る条件となるものと思われます。要するに、主体性を脅かされない形で男性向けポルノを読むだろう、ということが推察されます。実証は無論、されてませんが。

(おわり)

パスカルを使った、ノルマリアンによる悪戯 【短評】

 阿部良雄『若いヨーロッパ―パリ留学記』を読むと、こんなエピソードがあります。こんな感じです。
 副校長でパスカル研究の大家プリジャン氏の住居の出口にバリケードを築いて、「われわれの不幸のほとんどすべては、自分の部屋にじっとしていられなかったことから起る」という『パンセ』の一節を紙に書いて貼りつけた(70、71頁)。
 エコール・ノルマルでの、学生のいたずらの一つです。ノルマリアンたるもの、これくらいのユーモアは必要ということでしょう。今回は、パスカルの名言について、ツッコミなど入れていこうと思います。

・「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。なぜならば、つねに悪人は絶えないから正義なき力は弾劾される。それゆえ正義と力を結合せねばならない。
 「力こそ正義」というテーゼの反証になる一言です。「力こそ正義」というのが、米国ブッシュ政権のやり方だったようにも思いますが、実際のところは、【正義と力の結合に失敗した】というのが実情でしょう。

・「多くの宗教が互いに相反している。だから、ひとつ残らずすべて虚偽である
 おそらく無神論は、宗教Aと宗教Bがたがいに相反する状況から、懐疑主義的に生まれたのではないでしょうか。ただし、相反しているだけでは、無神論は生まれないはずだとも思います。実際は、各々の聖典のテクストクリティークが進展した結果だと思うのですが。いかがでしょう。(注1)

・「習慣は第二の自然だといわれているが、人は、自然が第一の習慣だということを知らない。
 ジョン・マグダウェルの反応が聞きたい一言です。ハイデッガーの用在性等の概念を用いれば、自然さえも第一の習慣とは、言えると思います(ギブソンのアフォーダンスの概念もそうだと思いますが)。

・「人は恋愛を語ることによって恋愛するようになる。
 恋愛という行為・現象が、言語的に媒介されているという一言。他者の欲望について語ったジラールを思い出せば、言わんとすることはおおよそ了解できます。
 ①恋愛は、自然にするものではなく、他の存在から学び習うということ、②恋愛は、それが語られることによって初めて、「恋愛」であることが自覚されるものであること、以上の二点が重要ではないでしょうか。

・「人類は、いわば不断に学ぶ唯一の存在である。
 学ぶ必要のない至高の存在である、と。神は、学ばない点で怠惰である、ともいえるでしょうか。神から見たら、人間の努力は実に無駄に見えてくるような気がしますが、実際どうなのでしょう。

・「好奇心というものは、実は虚栄心にすぎない。たいていの場合、何かを知ろうとする人は、ただそれについて他人に語りたいからだ。
 心臓に悪い一言です。このブログにそのまま、あてはまってしまいます。
 ところで、逆に、誰にも語ろうとしないことばかりを、知ろうとする人は、どんな人なのでしょうか(たぶんそれは、神と向き合って対話しようとする人間でしょう)。そんなことまで考えさせてしまう名言です。


(注1) J.H. ブルック『科学と宗教 合理的自然観のパラドクス』も、そのような指摘をしていたように思います。D・シュトラウスらの聖書批判の存在が大きいのは、間違いないように思います。

・パスカルの句の引用は、web上にあるものを使用しました。

古井由吉におけるフィクションの論理  古井由吉『漱石の漢詩を読む』

・古井由吉『漱石の漢詩を読む』岩波書店 (2008/12)

■漢詩の多義性■

 幽という字は暗い、かすか、それから奥深いという意味があるので、そのいずれか一つだけを取りたくないために、吉川氏はユウと読ませたのだと思います。 (27頁)

 「幽」についての著者の発言。吉川氏とは、いわずと知れた中国文学者・吉川幸次郎のことです。
 「幽玄」の「幽」は、「かすか」であることを意味し、「幽谷」の「幽」は、「奥深い」を意味します。
 詩そのものの本質なのでしょうか、漢詩では、このような多義性が頻繁に現れます。複数の意味同士の揺らぎの中で、詩は謡われ揺るぎ続けています。吉川幸次郎は、それを踏まえていたわけです。

 普通の意味に取れば、「青い山」とは遠い山、人の憧れを惹く遠山になる。(略)もう一つ取り方がある。「青山」とは墳墓の地を言う。 (123頁)

 これは、「青山」についての説明です。片や、人の憧れを惹く遠山、片や、終の安息をあらわす墳墓の地。二つの意味の間で、詩は、揺るぎ続けています。(注1)
 また多義的とは、単に複数意味があるというだけではありません。例は出しませんが、時には、正反対の意味同士の、あるいは意外な意味同士の組み合わせであることも、もちろんあるわけです。
 詩の多義性と聞くと、個人的には、意味を過剰に産出してしまうマラルメの詩が思い出されます。例えば、「yx のソネ」は、「ptyx」という語から次々に意味があふれ出していく驚嘆すべき詩です。そんな連想を、渡辺守章「襞にそって襞を フーコーの肖像のために」(『哲学の舞台』)を読んで思う次第です。マラルメについては、古井氏による『詩への小路』がありますが、これは別の機会に。

■漢詩の脱モノローグ作用■

 晩年の詩は、自分の中にいろいろな他者を含んでいる。だから、さまざまな主人公が、詩によって立てられている。中には、今にも立ち上がって戦に駆けつけようというような詩もある。隠遁の生活を喜ぶ詩もあれば、悲憤慷慨の詩もある。馬鹿正直に読んでいると、これはいったい誰のことを詠っているのかと思えますけれども、これらすべて漱石のうちにあるものです。 (81頁)

 「脱モノローグ」という点では、バフチンのポリフォニーの概念を思い起こさせます。ただし、バフチンのポリフォニーという概念の場合、各キャラクターの作者からの独立性と、相互の対話性を志向します。むしろこの例に当てはまるのは、漱石の小説『明暗』の方でしょう(島田雅彦『漱石を書く』などを参照)。
 それに対して、漱石の読む漢詩(これは漢詩全般に言えることでしょうが)は、作者の多重人格かと疑わせるほどの【ジャンル】の豊富さです。これを書いたのは同じ人かと思わせる豊富さです。蓋し、漢詩というジャンルは、どこかフェルナンド・ペソアの詩作を思い起こさせます。
 ただし、このジャンルの豊富さは、「公私」の区別、つまり、公に仕えるときは政治に積極的に参加し、政界から抜けるときは詩作し思索をするという、士大夫の「公私」の使い分けで説明できるでしょう(詳細は、斎藤希史『漢文脈と近代日本 もう一つのことばの世界』を参照)。「戦に駆けつけようというような詩」や「悲憤慷慨の詩」は前者、「隠遁の生活を喜ぶ詩」は後者と、大まかに捉えるべきでしょう。

■漱石の漢詩に、古井由吉を見る■

 ここでは陽のものである馬に乗ろうと思ったのに、間違えて陰である牛の背に乗ってしまった、とそう取れる。私は小説家であるゆえか、すこしひねって、馬と間違えて牛にまたがったところが、牛が馬の気になって、いなないて走り出した、と読みたい。 (127頁)

 「秋の声」とは、風を意味します。風ですけれども、秋の風の音に混じって、いろいろな声が、悲しみの声や恨みの声、後悔の声などが聞こえてくる。あるいは、季節と季節の戦いの声も聞こえてくる。 (154頁)

 前者は、漱石のある漢詩に出てくる馬と牛に関する話です。後者は、「秋声」という語に関する言葉です。
 前者では、著者の小説観が、にじみ出ています。人の方が馬と間違えて牛にまたがったのに、その意を汲んでか、牛が馬の気になってしまう。まさしくフィクション独特の論理とも言うべき展開。古井先生の小説そのものじゃないでしょうか。
 後者は、欧陽脩『秋声賦』に関する言及です。「いろいろな声が、悲しみの声や恨みの声、後悔の声などが聞こえてくる」というあたり、やはり、古井先生の小説を思わせます(「聞く」という主題も含めて)。ちなみに、徳田秋声の「秋声」は、欧陽修の『秋声賦』から来た季題に由来するようです。
 これ以上引用しませんが、漱石の「幽霊の雛」の話(60-66頁)は、必見です。弱る主人公と、看護する女二人、こっちは二人の心情も考えもわからないのに、あちらはこちらの考えがすべてお見通しに思える、という非対称的な構図。まさに、フィクション独特の論理を見るべきです。


(注1) 

 漢詩は、漱石の漢詩に限らず、きわめて不定法的な表現なのです。これはこれ、と限定せずにさまざまな形を一つに包括していくような仕方です。読んでいても、過去なのか現在なのか未来なのか、時制はわかりません。(略)主語は何か漠然として、いずれとも定められないことも少なくない。 (111頁)

 この点もまた、漢詩の多義性を高めるものです。だれのことか、いつのことか、定まっていないため、多義的になります。

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ブックガイドより註の方が重要? 柄谷行人ほか著『必読書150』(2)

柄谷行人による田山花袋『蒲団』紹介
 『蒲団』の内容自体はフィクションなのは周知だが、「明らかなのは、これが世間に衝撃を与えるという目的をもって書かれたということ」である。世間受けを狙う花袋。書いた内容なら作者は恥ずかしくなかった。だが、「彼は文壇的競争心のためなら何でもやってしまう自分の心だけは「隠した」」。
 小説を書いた人間の、世間受けを狙う姿勢を批判しています。この批判に対して反批判はあるでしょうが、この批判は実に鋭く面白いです。一言で言うと、【花袋=俗物になり切れなかった男】となるでしょう。真の俗物なら、文壇的闘争心もむき出しにしても気にすらしないはずです。

岡崎乾二郎による宮沢賢治『銀河鉄道の夜』紹介
 「見慣れた日常を科学者の目で観察し、理科の教科書のような平易な文体で即物的に記述しなおすこと。そしてどこか外国語のような名称でそれを呼び直すこと。」これが彼の武器だ。
 いやあ、身も蓋もない。彼の特徴(小説の秘密?)を、うまく掴んでいます。もっとも、同じ方法を使っても、宮沢賢治のように小説を書けるわけじゃないので、注意してください。当たり前ですが。
 もちろん岡崎は、宮沢賢治とファシズムとの関連性についても触れています。

■絓秀実の中野重治『村の家』紹介
 吉本隆明『転向論』の【大衆 対 知識人】の構図による同書読解を批判しています。実は主人公の父親もまた「小役人」ですでに「知識人」だし、「村」=前近代という読みは短絡的だ、とする指摘には注目です。この小説については、絓の『1968年』もお読みください。

柄谷行人による後藤明生『挟み撃ち』紹介
 「他人は君が思うほど、君のことを気にしていない」。「君が、他人が見ていると思って気取っているのに、実は誰も君を見ていなかった」。これが自意識の滑稽さだ。対して後藤が書いたのは、自意識の滑稽さの中でも、「見るー見られる」の関係ではなく、「笑うー笑われる」の関係だった。
 【自意識の滑稽さ】というものを、まず語っておき、その上で、後藤の小説の特徴とつなぐという、優れた紹介です。言い換えれば、【君は、他人に笑われていると思って恥ずかしがっているのに、実は誰も君を笑うどころか相手にさえしていない】。相手にさえされていないのに、恥ずかしがる自分。なんと恐ろしいことか。

以上、大体こんなもんでしょうか。岡崎の和辻哲郎『風土』紹介や、島田のホメロス『オデュッセイア』紹介(批判?)も面白いです。渡部のサド『悪徳の栄え』紹介も、ドゥルーズを引用して、陵辱の即物性と哲理的演説(討論)との関係を、論理自体の鋭利さが犠牲者の身体を切り刻む責め具と同じ「欲動の極み」を帯びる、と説いていて、鋭い。サドの本は、女王様に罵倒されたい方にこそ、お勧めの本です。

 最後に、本書に関して一言。
 絓秀実は、ヘーゲルの翻訳については、平易で知られる長谷川宏訳よりも、難解で誤訳の多い金子武蔵訳のほうが、「注が本文の倍の量」(イポリットの解説に過ぎなくても)あり、難しい分、読めばその分だけ考えるだろう、と述べています(25頁)。
 なるほど、いいこといってます。それじゃあ、必読書を人に読ませるだけじゃなくて、自分たちで、リストアップされた本に対して、翻訳は無理でも、せめて、注を「本文の倍の量」掲載してみるというのはどうでしょうか。
 『アンチ・オイディプス』とか、『失われたときを求めて』とかだと難しいかもしれませんが、上田秋成『胆大小心録』とか、ゴーゴリ『外套』、谷崎潤一郎『春琴抄』、折口信夫『死者の書』とか、『ランボー詩集』とか、デュラス『モデラート・カンタービレ』とか、短い本なら、いっそ注を書いて、掲載してみたらどうでしょう(挙げたのは小説ばかりですけど)。
 もっとも、そんな時間がないから、こんなリストを作ったのでしょう。教師は忙しいようです(書いてくださる勇者を募集中です)。
 そのほか、創造性は語れないが「情報の圧縮というのは技術で語れる」(42頁)という岡崎の発言はためになります。「同じ一つの本から、まったく見解の異なる要約を三種類出せ」という方法も含めて。
 「実際の本から、Webの検索に引っかからないような見落とされた細部を拾い上げて使うという技はあるかも」という岡崎の言葉を、本blogは実践しているつもりなのですが、なかなかうまくいきません。技術を磨かないといけない、ということでしょうか。

(終)

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『必読書150』を読む際の3つの注意点 柄谷行人ほか著『必読書150』(1)

柄谷行人ほか著『必読書150』太田出版 (2002/04)

 話題になった本ですので、これに関する紹介は不要と思います。
 感想は一言、【この本で取り上げられた必読書って、誰が読むんだ?】となるはずです。これは、選んだ当人たちが言っているのですから間違いないです。みんな、これをこれをと選んでるうちに、こんな誰が読むのか不明なリストになったわけです。事実、選者の一人である奥泉光は、全部は読んでいないと告白しています。この本を読んでむかついた人は、この選者はこの本を読んでないだろうな、という風に邪推してもかまいません。
 とりあえず本書を読む際、使う際の注意点について書いていきましょう。なお、リストとして挙げられた書物のいくらかについては、個人的な思い入れを書くとキリがなくなってしまうので、今回は自粛します。

①集団で読みましょう。
 68年当時は、学生は、「サークルなんかに入れば、学習会と称して読まされた」と、絓秀実は述べています(13頁)。いわばそこで、知識(教養?)を共有し、競争した、と語ります。懐古趣味入っている気もしますが、本書もその雰囲気に沿って、読書会において読まれるための書物と考えられるべきでしょう。
 後の頁で、コンペのような競争する共同的な場の重要さが語られていることも、(お楽しみサークル的ではない競合的な)読書会で読まれる必要を物語っています。本書は、だから一人で読まれるのではなく、複数の人が読書会のような形で、読みあい、その知識を共有し、また競争しあう場所で、読まれる必要があるということなのです。奥泉も、書物を通してその内容を語ること、他者と関ることの重要性を述べているのですから(220頁)。

②全部を読まなくてもいいのです。
 「最後まで読む必要はない、読んでダメならすぐやめろ、その代わり、即その次の本を見なさい」と、渡部直己は述べています(23頁)。自分にぴったり合う本を深く読めばいいのだ、と。奥泉もあとがきで、これと思える書物に出会ったら、「リストにこだわらずに、同じ作家著述家の作品を読み進むのがいい」と、芋づる式の読書を推薦しています(219頁)。
 極端にいえば、リストの書物全部を読んでダメなら、それでいいのです。まあ、そうなった場合は、己の無能さを恥じるべきだ、と思いますけどね。

③カノン(聖書)のように読む必要はありません。
 この本に納められた本の中には、批判すべき対象として選ばれたものもある、と岡崎乾二郎は述べています(19頁)。一旦読んでおいて、それを批判して乗り越えることによって、知の基礎を作ろうというのです。その基礎の欠落を岡崎は憂い、「むしろ凡庸さを通過することこそが重要」だというのです。
 だから、すべての書物を、まるで文字通りカノンのように、つまり、一字一句聖書のような厳密さと思い入れを以って読む必要はありません。こんな書物はくだらない、と思うこともあるはず。こんな本はあとで知識がついたら批判してやる、という野心も大事です。場合によっては、このくだらない本を批判できる、別の武器(書籍)はないか、という風に嗅覚を働かせる訓練になるかもしれません。

 以上、三点を注意点として挙げました。この三つを守ってリストの本を読んでいけば、(たぶん、)あなたの知性を磨き上げることのできる書物に出会えると思います。
 本書では、リストの各本に、選者の紹介文(推薦文)が寄せられています。そこで、そのなかでも、特に面白かった文章を挙げて、紹介(紹介の紹介)をしてみたいと思います。

柄谷行人のキルケゴール『死にいたる病』紹介
 信仰していると思っていても、「実は絶望している」し、絶望をどんなに自覚しても、「そこから出られるわけではない」。もはや、【死に至る病=絶望】からは抜け出せない。もうここまで来ると、「あまりに絶望的なのでいっそ楽しくなる」。
 なんてすばらしいキルケゴール紹介なんでしょう。絶望から抜け出せない悪無限のループの中で、もう楽しくなるしかない。どこか、スピノザのことを思い起こさせる紹介です。

■浅田彰のデリダ『グラマトロジーについて』紹介
 内的思考が、文字(外的なもの)となって他者に読まれるとき、内的思考と文字として読まれたものとの間に、ズレが生じる。これ自体は、経験的に私たちにも理解できます。
 デリダのさらにすごいところは、そもそもそのようなズレが、実は内的思考のなかに、すでに宿っているのだ、と指摘したことです。デリダは、【純粋な内的思考VS不純な文字】という対立を脱構築し、純粋なはずの内的思考にはすでに、ズレを起こさせる因子が存在しており、これが「差延」だ、というのです。浅田は、そのあたりを簡潔かつ要点を押さえて解説しています。さすがです。

(続く)

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