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融通無碍、あるいは、相撲の歴史と「由緒」と「差別」の話 -新田一郎『相撲の歴史』を読む-

 新田一郎『相撲の歴史』(文庫版)を読んだ。

 相撲は大好きである。
 あれはすぐに決着がつく、素晴らしいものだ(ソコカヨ

 でも相撲、実際の歴史ってどんな感じか、意外に知られていない。

 フランシスコ・ハビエル・夕ブレロによると、鎌倉時代だと力士は盗人や浮浪者、恐喝者と同列の扱いであったり、相撲節会というのは、実は平安時代の天皇と宮廷人のためだけが観戦するものであったり、土俵は歴史的には比較的新しいものであったり、大銀杏髷が義務付けられたのは明治42年(1909)のことだったりする。
 こうしたことは知られていないだろう。(詳細は、この記事を参照。)

 相撲を正しく把握するには、相撲とは何だったのか、「伝統」という言葉の抽象性によってではなく、可能な限り吟味された具体的な事実にそって、知る必要がある。

 以下、気になったところだけ。



 「女性は国技館の土俵にあげない」という日本相撲協会の方針をめぐる議論を思えば、史書に記された最初の「相撲」が、いわば「女相撲」の記事であるというのは、いささか皮肉なこと (39頁)

 これは、『日本書紀』に載っている雄略天皇の話。
 「相撲」の文字が初めて登場したのが、この時である。
 神話ではなく、ただの人が相撲を取った記録というのは、これが最初である。

 エピソードを簡単にいうと、優れた石職人が、自分は失敗しないぜ、と雄略天皇に言ったので、天皇が意地悪して、采女に褌を締めさせて女相撲を取らせたら、石職人がそいつに気を取られて失敗したぜ、という内容。

 雄略天皇、マジドイヒーである。



 相撲好きにとっては甚だおもしろくないことではあるが、平安後期の朝廷が、相撲節を定例の行事として維持する努力をさほどはらっていたとは、考えられない (110頁)

 要するに、平安後期になると、宮中の公式行事として、相撲節が行われることがなくなったという話である。
 相撲節(会)は、皇室と相撲との関係を象徴するものとして、当時から今に至るまで持ち出される行事である。

 相撲節は、承安四年を最後として廃絶してしまう(104頁)。
 もちろん、相撲そのものは引き続き、朝廷周辺で行われてはいた(107頁)。
 しかし、ここで、「公式」とはいいがたくなったのも事実。

 朝廷や天皇と相撲との関係を考える際、念頭に置いておかねばならない。

 相撲は、興業でもあると同時に、日本の伝統文化を担う神事でもあり、かつスポーツでもあると、相撲の「混合性」をアツく擁護する玉木正之の相撲愛溢れる記事において欠けているのは、上記のような歴史性にほかならない。
 後述するように、この時点から、相撲の神事としての性格は薄れてくる。



 寺社における祭礼に奉納される相撲が、しだいにそこに集う人々自身のための娯楽としての性格を濃厚に帯び、祭礼本来の神事との結びつきの必然性を希薄にしてゆく(134頁)

 このように、相撲は宮廷内の神事から、奉納相撲としての娯楽に移り変わっていく。
 著者によると、「近世村落の祭礼における相撲」も、「村落の祭祀のなかで生まれたものではなく、そのはじまりの時点においてすでに『相撲』は特定の様式をもって社会に存在し、専門的な相撲人も活動」していた(136頁)。 
 中世に興行化した結果、脱神事化し、中身も専門的になっていたのである。



 江戸を中心に活躍した谷風と、もともと京坂で修業時代を送った小野川との対戦では、江戸では谷風、京坂では小野川がそれぞれ善玉となって、敵地での勝負よりも分のいい結果を残していたりする。この点も現代のプロレスと似たところであり、花形同士の取組では双方にキズがつかないように引分・預などといった勝負なしの結果が目立つようにもなる。/観客も、(略)そうした周辺の事情を承知のうえで、土俵上のストーリーを「芸」として楽しんでいた節がある。 (211頁)

 たしかに、これ、プロレスである。
 当時は、勝負「預かり」なんてのも存在したのである。
 そして、客も、こうしたプロレス的なストーリーを了解していたのである。
 少なくとも、この江戸期には。

 (ただし、当時の力士は大名がスポンサー(抱え)であり、大名の覚えがめでたくないとクビ(契約解除)になることもあったため、上覧相撲の時はガチ勝負が多かった。各大名のメンツもかかっており、ジャッジに「介入」するような事例も本書に書いてある。)



 従来かなりの数にのぼっていた引分・預などは、これを機にしだいに減少傾向を示し、大正末の個人優勝制度化に際して原則的に廃止されることになる。取り直し・不戦勝といった制度も、個人優勝制度の確立に伴って導入されたものである。優勝制度の制定とそれに伴う競技ルールの変更が、大相撲の性格を大きく変容させた (290頁)

 明治期になると、いよいよ真剣勝負の色を濃くする。
 相撲の「格闘技」化である。
 その背景にあるのは、優勝制度(特に個人優勝制度)やルール変更などがあった。
 ここに、江戸と明治以降との小さからぬ断絶が存在する。

 もちろん、これを断絶と云い切れないところで、現在もなお、問題が生じている。
 つまり、真剣勝負である(はずの)相撲において、筋書きが形成されてしまう、という今日に至るまでの事態である。
 筋書きのある肉体のドラマ(興行)なのか、それとも筋書きなしのガチ勝負(スポーツ競技・武道)なのか、この曖昧な所で揺れる相撲。
 それが魅力でもあり、危険な所でもある。



 宝暦八年、武蔵野国多摩郡八王子村(現、東京都八王子市)における興行の際におこった争論について、町奉行所は(略)今後津々浦々に至るまで「えた」の相撲見物を許さないという穢多頭弾左衛門の請証文を提出させた (221頁)

 簡単にいうと、これまで「えた」にショバ代を払っていた相撲興行側が、それを拒否するようになり、裁判で争った結果、奉行所は、「えた」側の相撲見物を許さない、という判断を下した、という流れ。
 「えた」への社会的差別がさらに強化されると同時に、相撲集団は社会的地位を上昇させた。
 誰かの地位上昇が、他の誰かの地位低下に直結する悲しさがある。
 
 実際、「興行を渡世の手段とする『相撲取』は、ともすれば賎視の対象とされがちであり、幕閣にあっては勧進相撲を「乞食の類の如く」に考える者もあった」(232頁)。
 (ここでは、「相撲衆」とかの説明は省略する。)

 この状況に対して、「上覧相撲の儀などを経て相撲興行が社会的地位を上昇させるに従って、相撲を「下賤」「失礼」とする露骨な言説はしだいに影をひそめてゆく」(232頁)。
 つまり、将軍の上覧によって、差別を脱していくのである。
 そして明治になると、今度は天皇の天覧に頼る(←重複)。

 人の上に作られた人間の力を頼ることで、人の下にいる人間が引き上げられる、この力学。
 この力学が大日本帝国でどのように利用されるに至ったかは、よく知られているだろう。 



 「相撲は武道である」とか「朝廷の相撲節の故事を伝える」「だからその他の興行物とは違う」という含意を持った主張は、そうした宿命から逃れようとする相撲興行集団の主張だった (232頁)

 なぜ相撲はあそこまで、自分の伝統にこだわるのか。
 それは、そうした伝統にこだわる言葉を発しなければならないほど、差別されていたからである。
 興行を生業とすることじたい蔑視されていた時代、そんな時、理論武装をせざるを得なかった。
 そうした理由で、「武道」、「故事」といった由緒(言説)が必要だったのである。
 (吉田司家の話は、ここでは省略する。)



 江見水蔭の起草した披露文に「相撲は日本の国技なり」とする一節があるのに年寄尾車(元大関大戸平)が着目して、「国技館」の名称を提案した、といわれている。相撲を「国技」とする言説が世間にひろくおこなわれるのは、実はこれより後のこと (288頁)

 相撲が「国技」と言われるようになるのは、実は明治時代の話である。
 「国技」よりも「国技館」の方が先立つ格好である。

 「国技」という言葉もまた、前述したように、蔑視からの脱却の為のものだった。



 中世には相撲節に由緒を求めた奉納技芸として、江戸幕府のもとでは故実に荘厳された勧進興行として、また近代には「日本的」なるものを象徴する大衆娯楽として、相撲はそのときどきの社会情勢によって人々の支持を求めてさまざまに装飾を変えてきた。 (299頁)

 宮廷の神事だった相撲は、徐々に奉納技芸として専門職化していき、江戸期には更に理論武装を進めて由緒正しい興行として、そして明治以降は「日本」を象徴する武道(としての娯楽)として、道を歩んでいく。
 先ほど紹介した玉木の議論に抜けているのは、こうした相撲の歴史的変貌に他ならない。

 ちなみに、敗戦時には、「相撲協会側も、戦前・戦中の『武道』から一転して『相撲はスポーツ、競技である』と積極的に主張している。この融通無碍、これこそが相撲であった」 (299頁)。
 相撲は生き残るために、つねに変貌する。
 節操がないからこそ、相撲はが様々な改革を成し遂げてこられたのも事実だ(吊り屋根を取り入れた相撲の偉大さ!)。



 正直、1995年の古式大相撲のようなポストモダン的なイベント(詳細上記タブレロ氏記事参照)を臆面もなくやっておいて、今でもなお伝統()を盾に自分らの「体質」を変えようとしないのは、どうかと思う。
 だが、改革のために一つ一つのシステムを変えていける、いい意味で変わり身の早い「伝統」はこれからも続けていって欲しい。
 固執するなら、似非伝統ではなく、融通無碍な変化を厭わぬ精神の方だろう。
 相撲は「国技」ではなく、変貌する楽しい存在だと思う。

 次は何になるんでしょうかね、相撲って。
 ・・・プリキュアだろうか(イミフ



 大相撲社会の仕組みは依然として大量採用・大量挫折を前提として構築されており、減少分の穴埋めの要求が外国出身者の採用意欲に結びつく。 (365頁)

 最後に相撲界の問題点について一つ。
 いっぱいあるのだが、その一つがこれ、この変わらない体質である。
 
 まるで芸能界みたいな、大量に採用して大量に落としていくシステム。
 不況期は活躍できていたブラック企業みたいでもある。
 だが、これは大量採用が可能な時だけ通用するシステムであり、もし大量採用が望めなくなったら、システムは破たんする。
 そんな供給不足の時に行った措置が、相撲界のシステム改革ではなく、外国人採用だった、というのが、いかにも日本的な感じである。
 嗚呼、相撲、日本の相撲。

 だから変われ、相撲よ、お前ならできる。
 そう、プリキュアに!(二度目



 (未完)
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「天皇にしても、ほかの権威にしても、国民にとっては与えられたもの」と大平正芳は書いた。 -福永文夫『大平正芳』再読-

 福永文夫『大平正芳』を読んだ。
 大平について、以前、阿片の件でブコメをしたので、久々に本書を読んだ。
 
 amazonで評者さんの一人が引用しているように、「大平は極端を嫌い、矛盾する事象に楕円のバランスをとり、粘り強い対話を重視した。また政府の役割を限定していく、小さな政府の先鞭をつけた政治家」だった。
 バランサー型政治家であり、小さな政府を志向した人だった。
 某小泉氏や、現総理とはえらい違いである。

 小さな政府。
 では、どんな「民」(民間、市民)を彼は考えたのか。

 以下、面白いと思ったところだけ取り上げる。

 (なお、同じ著者だと、『占領下中道政権の形成と崩壊 GHQ民政局と日本社会党』も重要である。)



 大平は卒論・「社会職分と同業組合」で、トマス・アクィナスの政治思想の根幹である「社会全体の共通の目標」を取り上げた(31頁)。
 その論文において、この目標を実現するためには、社会の一構成員が受け持つ役割を意味する「社会職分の原則」と「協同体思想」が重要と説く。

 この「社会職分の原則」と「協同体思想」からの影響が、大平にはある。
 (トマスの思想は、「共通善」というコミュニタリアンの思想の源泉であることは、知られている。)
 各々の存在が与えられた職分を全うすることで、「協同体」全体の繁栄を目指す、というあり方である。

 同時に、アメリカの同業組合にも着目し、「国家と個人を媒体する組織」としてとらえた。
 「社会職分」と「協同体思想」の具体的なアイデアの一つがこれである。

 キリスト教民主主義的なもの、そして、共同体主義(コミュニタリアニズム)的なものが、大平の政治思想の根っこにある。
 そして、個と全体を媒介する存在を重く見ており、その一つが、「組合」だった。
 (大平は自身の卒論に対してコメントしている。こちら(pdf注意)を参照あれ)



 敗戦後、大平は、政策提言的メモを残している。

 そのメモによると、当時の大蔵省の考えと同じで、敗戦しても国の信用は失うべきでなく、国債は償還すべきという方針だった。
 その財源のために、官業の払い下げを提案した。
 アメリカからの物的援助を仰ぐ必要から、政治的民主化により、日本の国際的信用を回復し、世界世論を緩和することを求めた(51、52頁)。

 敗戦後に大平は、価格統制をやめ、直接税から間接税への重点を移行し、地方財政の自治性の促進し、組合の経営参加の推進(組合員の持ち株奨励)することを唱えていた。

 リベラルか、ソシアルか、と言えば、おそらくリベラルに該当するはずである。
 ただ、間接税重視は既にこのころからのものであったし、組合員が経営参加することも奨励している。
 大蔵省的な均衡財政主義者と要約したくもなるが、そこからはみ出るものもある。
 (大平の場合、財政均衡主義者たち(「信任の妖精」)とは、発想のスケールが違う。)

 「国家と個人を媒体する組織」を重視する大平にとって、政府より民間という姿勢は当然であるし、一方、地域や「組合」の重視もまた当然ではある。
 それが大平の政治スタンスである。



 池田勇人はもともと安保騒動の時に強硬派であり、弾圧政策を主張していた(84頁)。

 池田がハト派っぽくイメージされるのは、首相の時の政策のせいであるが、実際の池田は違うのである。
 試験に出ます(違



 大平はこう書き残している。
 占領軍が日本古来の権威をすべて砕くことを指向していたのに、日本人の抵抗が意外なほど弱かった。
 理由は何か。
 「天皇にしても、ほかの権威にしても、国民にとっては与えられたもの」にすぎない。
 自分で思考し、血みどろになって戦い取ったものではなかったからではないか(133頁)。
 そう自問自答している。

 そして、人はまず、家庭と地域に帰り、自分がどうすべきか考えよ、と勧める(実際、大平は、マイホーム主義を否定も軽蔑もしていない)。

 保守本流の政治家・大平は、戦前の軍国主義や皇国主義を肯定することはないし、現日本国憲法にも肯定的だった。

 まず、家庭と地域がある、という、「国家と個人を媒体する組織」が彼の発想の根幹にある。



 1975年の公職選挙法改正では、定数不均衡の是正のために、議員定数を20名増加が唱えられた(197頁)

 現在は、定数不均衡の是正のために議員定数を減らせ、という時代であるが、この時代の方がよほどマトモである。



 大平は、家庭が経済や社会制度上の不備を十分吸収できる対応力を持つことを唱えた。
 自立自助の精神や相互扶助の仕組みなどを守りながら、生活の質を向上させていくことが出来ると考えていた(238頁)。

 ただし、政府が家庭に介入することはすべきではないし、政府が望ましい家庭のあり方を示すことも適当ではないと考えていた。
 あくまでも、政府の役割を、 家庭基盤を充実する総合的計画を策定し、雇用や健康、住宅や余暇、教育等に適正な施策を行い、環境を整える ことに限定した。

 まさに、キリスト教的民主主義である。
 ここらへんは確かに、2014年の政権党とはえらい違いである。
 マジでえらい違いである。

 そして、「家庭基盤を充実する総合的計画を策定し、雇用や健康、住宅や余暇、教育等に適正な施策を行い、環境を整える」政策の一端が、「田園都市構想」である。
 (ただ、田園都市構想って、正直よく分からんのだが(こなみかん )

 (上記の「雇用や健康、住宅や余暇、教育等に適正な施策」を行うため、大平は、一般消費税を導入することで、将来の財政力の発動、国の積極的な活動に備えようとした、と著者は説明している(274頁)。) 



 こちらのブログの記事によると、日本のスウェーデン政治の研究は、「1967年から、東海大学の松前重義氏を中心に、大平正芳元首相、土光敏夫第二臨調会長、藤牧新平(社会党本部書記)などによって研究が始められていた」そうな。

 スウェーデンは「組合」の強い国であり、コーポラティズムの国であるから、大平にとって矛盾はしないのだろう。



 2014年8月2日、一部訂正

「兵士は天皇のために死んだ」という建前が消えた戦後 -小沢郁郎『つらい真実 虚構の特攻隊神話』再読-

 小沢郁郎『つらい真実 虚構の特攻隊神話』を再読した。
 これで何度目か。
 すでに他のブログさんで取り上げられている( これとか、これ。あとはこれも )が、「特攻」を知る際、読んでおきたい本の一つだ。

 とりあえず、書いておきたいことだけ。



 大西瀧治郎が発案したとされる海軍の特攻作戦だが、実際は、中沢佑作戦部長は、神雷部隊の編成に同意していた。
 (この部隊は、特攻兵器「桜花」の専門部隊である。)
 そして、大西の特攻隊編成以前に、軍令部レベルで、体当たり戦術が海軍戦術として公式に採用されていた。
 大西が「発案」というのは、正しくなかったのである(116頁)。
(もう少し詳しい話は、こちらのブログさんの記事をご参照あれ。)



 戦前、海軍省は、天皇のために特攻隊員は献身して死んだ、というふうに書いた。
 だが戦後になると、天皇のためとは言われなくなり、家族や同胞を含む民族のために死んだ、と言われるようになった。
 「天皇」が隠ぺいされたのである(121頁)。

 戦前には、「家族のために死ぬ」という兵士の論理を、軍側が拒否した事例がある。
 「俺は家内のために死ぬんだ」と言い残して戦死した特攻隊がいた。
 その話を報道班員がとりあげようとした。
 すると、上官が「けしからん」と書き直しを命じた。

 靖国神社は「国民」のために死んだ人間を祀っているのではなく、「天皇」のために死んだ人間を祀っている。
 「天皇陛下万歳」という言葉の意味と使われ方を、もう一度噛み締めてみるべきだ。



 陸軍特攻隊第一陣万朶隊の指名者だった少将今西六郎は、「志願者を募れば全員が志願するであろう。指名すればそれでよろしい」と述べている(127頁)。

 志願制とはいったい何だったのか。



 夜間攻撃の特殊訓練に打ち込んでいた美濃部正少佐は隊員たちにいった。
 「貴様ら、これができないと特攻に入れるぞ」
 全員が特攻を志願したならば、ありえぬ言葉である(131頁)。

 なお、美濃部正は、ニコニコ大百科にも名前が載っている。



 特攻の「闇」を真っ正直に書いたことで知られる高木俊朗。
 彼が体験した「ぐう畜」エピソードがある。
 
 菅原道大。
 大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』にも名前が載っている、特攻の責任者である。

 そんな彼が戦後のインタビュー時に、命令口調で高木に要求した。
 特攻を書くのもいいが、自分が慰霊をしている特攻観音のことも、大いに書いてもらいたい(160、161頁)。

 すぐ地獄に落ちるべき言動である。



 1946年、マニラの戦犯容疑者収容所で、武藤章はパナイ島関係者に訓示している。
 曰く、日本陸軍のために、士官学校を卒業した者が非戦闘員の殺害(マニラ虐殺事件)を命令したなどと、絶対に言ってはならぬ。
 高級将校たちはこの方針によって、何も知らず存ぜぬで通した。
 結果、命令に従った下級将兵を見殺しにする結果となった(187頁)。

 出典は熊井敏美『フィリピンの血と涙』となっている。

 ちなみに、のちに東京裁判で死刑判決を受ける武藤であるが、先の「マニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人補佐として出廷し山下らの弁護につとめた」(Wikipediaの武藤の項目より引用)。
 


 (未完)

山県有朋の処世から、陸軍が投げた大ブーメランまで -大江志乃夫『日本の参謀本部』を読む-

 大江志乃夫『日本の参謀本部』を再読した。
 もう古典になった気もするが、まだまだ読むべきところは多い。
 ちなみに、Apemanさんも感想を書いている

 面白かったところだけ。



 山県が(略)その地位を保持することができたのは、情報政治に負うところが大きい。山県は近代日本きっての情報政治家であった。 (28頁)


 山県が情報政治家として成功した原因のひとつは、(略)そのダーティーな職責を果たした人物を決して使い捨てにはしなかったことにあるといえよう。森鴎外もその一人であったといえるかもしれない。 (30、31頁)


 諜報、情報の人間として、山県有朋が出世したのはよく知られている。
 その秘訣が、後者の引用部である。

 少なくとも山県は、これのおかげで、暗殺や失脚の恐怖におびえることなく済んだ側面がある。
 使った人間に恨まれなければ、例え他の人間に恨まれたとしても、そうそう揺るがない、ということでもある。

 一方、諜報の世界において、上司の不慮の死によって使い捨てにされたのが石光真清である。



 軍籍を去って日露戦争開戦まで特別任務に服した石光真清歩兵大尉も田村の死によって、日露戦争後の陸軍から見すてられた一人であった。 (72頁)


 このブログさんの記事から引用するに、
 「日露戦争後、石光を待っていたのは苦難の道であった。ロシア留学の際、今信玄と呼ばれた参謀本部の田村怡与造に将来悪いようにはしないと言われていたこと、また同僚の陸軍士官連中の焚きつけ(としか思えない)もあり、石光は軍籍を去っていた。」
 彼は上司の不慮の死のせいとはいえ、報われなかったのである。



 情報操作・情勢作為によって自己の政治的地位を高めてきた山県のもとでそだった情報将校たちは、正確な軍事情報の入手よりも、情勢を作為するための謀略に重きをおく傾向をつよめた。 (112頁)


 一方で、その山県が招いた弊害もある。
 すなわち、「作戦の立案者がみずから情報を取捨することの危険性」である。
 満州や大陸で何が起きたのかは書くまでもない。



 ドイツ参謀本部の前身は戦時に編成される兵站部であった。 (55頁)


 近代大衆軍隊の成立が事態を一変させた。(略)人口密度がたかいヨーロッパの農村を戦場とするかぎり(略)食料の現地調達が可能かつ不可欠となり、(略)主要な機能は、兵站から分割された大兵力の合理的な管理運用に変化した。 (56頁)


 (注:日本には)軍隊の忠誠をつなぎとめるものが兵站であるという歴史の経験がなかった。 (56、57頁)


 これが、日本の参謀本部が一方で兵站を軽視した背景である。

 ドイツ参謀本部の原点とは兵站であった。
 それに対して、日本の参謀本部は、その歴史的経験を持つことがなかった。
 先の大戦での日本側の兵站の軽視の一端は、ここにある。



 日露戦争で陸軍の大山総司令官の起用がうまくいったために、大山は日本型将帥のモデルとされるに至った。 (101頁)


 これもよく知られていよう。
 すなわち「将帥たるもの、作戦に関しては幕僚を信頼し、一任して口を出さず、意思決定の責任を負うだけという態度」は、日本型の組織の上司の理想像として、語られがちだ。

 だが、史実を見ると、注意が必要になってくる。

 実際、児玉総参謀長の不在中に起きた「沙河の会戦」では、「大山総司令官は情勢および幕僚の討議の内容の報告をくわしくもとめ、みずから総司令部スタッフの掌握につとめた。 児玉総参謀長が総司令部にあるときとは別人の観があった」。
 スタッフの長である児玉が不在の時には、非常時ということで、自分からバシバシとスタッフの任務もこなそうとした。

 普段は児玉にスタッフの任務を預けていた大山だったが、いざとなれば、やれる意思があり、能力があった。
 だが普段は、トップの権限とスタッフの任務の分担に気を配った。
 自分が部下の権を侵すことによる混乱を避けたのである。
 (ちなみに、「児玉総参謀長もまたトップの権限とスタッフの任務を峻別した」が詳細については本書を当たられたい)

 いざとなれば自らスタッフ側に回る能力がなければ、実は、日本型組織の長は務まらない。
 もしそれができなければ、無責任体制が蔓延する。



 参謀総長が天皇の裁可をえて奉勅命令を発することによって、はじめて国外への軍事力発動が可能となる。しかし、天皇の裁可をえるには、事前に閣議が出兵費用の支出を承認していることが必要であった。統帥権独立といっても、予算の臨時支出を閣議が承認しなければ軍も動きがとれなかった。 (151頁)


 これが統帥権独立の一側面である。
 内閣はある程度抵抗できた。

 そこで、参謀本部は次の手を使った。
 「軍事力の発動という既成事実を先行させたのちに内閣にたいして出兵費用の支出を要求した」(153,154頁)のである。
 既成事実を作ることで、無理を通したのである。

 現場の暴走は、既成事実の作成から始まる。



 日露戦争のロシア陸軍の敗因の主要な原因が、一八七七-七八年の露土戦争でロシア軍がトルコ軍の歩兵火力に苦しめられたにもかかわらず、ロシア軍の銃剣突撃の無敵の威力を信じつづけて火力戦を軽視したことにあると指摘したのは、ほかならぬ日本陸軍であった。 (145頁)


 有名な話だが、特大ブーメランである。
 上記リンクで、Apemanさんが指摘しているように、「日露戦争時の日本軍は『編成、装備、戦法がロシア軍にまさっていた』とし、『精神力』についていえば『むしろロシア軍の方が戦場では勇敢であった』」わけだが、「ノモンハン戦争」では、立つ位置が逆になる。

 (「ノモンハン戦争」については、森山康平『はじめてのノモンハン事件』が入門として薦められるが、この本のAMAZONのレビューにあるように、「両軍の死者数だけで、日本軍は惨敗ではない、というような論調が目立ち始めているが、死傷者数のみでこの戦闘を捕らえて良いわけがない。この時の関東軍の目標はなんであったのか、停戦時にどちらに有利な決定がなされたか、一目瞭然である。」というのが重要である。)



(未完)

とりあえず、京の都は「日本的」ではないよね、みたいな話 -渡辺浩『日本政治思想史』について-

 渡辺浩『日本政治思想史』を読んだ。
 かなり面白い。
 過去に著者が行ってきた講義が原型となっているためか、初心者にもわかりやすく(こっちは初心者ではないが)、江戸の政治思想(政治だけではないけど)が、よく理解できる良書。
 江戸期の「思想」が現代人にとって奇異なものではなく、ちゃんと相応に納得できる部分があることがわかる。

 以下、興味のあるところだけ。



 それぞれに自分らしく生きることが、それ自体として良いことだなどとは、儒学者は考えない。(略) ヒトラーがヒトラーらしく生きたことの結果を知らない者がいるだろか (16頁)

 これは、儒学の説明において述べられた一節。

 自分らしく個性を生かそう、という場合、たいてい善いところしか想起されないが、個性は、必ずしも善いところばかりではない。
 とうぜん悪いところは矯正しようとするだろう。

 とすれば少なくとも、何らかの「善」を想定せざるを得ないのは確かだ。
 人に共通するような「善」を想定せざるを得ない、というのが、儒学から学ぶべき(最小限の)主張だろう。
 (問題は、何が善か、悪か、という話なのだが。)

 なお、儒学において、人らしさの基本原則は、「道」と呼ばれる。
 そして、その歴史的条件に応じた具体化として、個々の「礼」があると考えられている。



 「イエの親は必ずしも実の親ではない。婿養子や嫁にとっては、両者は異なる。その場合、当然、現在属するイエの親への『孝』が優先する。」
 「石田梅岩 (略) が、弟子に、もしも実父が養子を殺したら、養子としてどうすればよいか、問われたことがある。その答えは、(略) 心情的にはつらくても、善き社会人としては親殺しをすべきだというのである。」
 「譜代の武士ならば、主家に『忠義』を尽くすことが『家業』であり、つまりそれがイエのためだった。 (略) 武士組織の極端な腐敗を阻止した一因であろう。」  (以上79、80頁) 

 
 なぜ、忠孝のうち、日本では前者が優先されるのか、の話である。

 中国の儒学の場合、孝の方が最優先である。
 それは本書のほか、島田虔次『朱子学と陽明学』とかを読んでくれれば分かる。

 で、日本の場合、忠の方が優先される。
 血族のつながる親ではなく、「イエ」を優先すべし、というのが、日本の社会の特徴となっているからだ。

 そして「イエ」(御家)優先であったがゆえに、血族による縁故主義が蔓延りにくかったのである。



 朱子学は、こうして、この世を超える超越者も、いかなるあの世も信ずることなしに、専らこの世に内在しつつ、存在・人間・統治のすべてにわたる見事に一貫した体系を構築し、実践を迫った。 (133頁)


 こういわれると、朱子学って、実はすごい学問なのだなあ、と思う。
 詳細は本書をあたってほしいが、ここまでの思想的体系性は、現代ではたぶん不可能だろう。
 それくらいすごい。



 天下の人心が統治者から離反するならば、天下の人が湯王・武王となって、放伐してかまわず、そうすべきなのである。仁斎が『俗』に従えというのは、いかなる時でも柔和に従順であれということではない (151頁)


 仁斎学の知られざる一面である。
 もし、天下の人心が離れたら、政府を打倒しても別にいいよ、という論理を述べているのである。

 実は仁斎学はただの処世術ではなく、過激さをも孕んだ学なのである。



 平安京の、王宮を北に置き、正確に東西南北に直線道路が走るという都市プランは、典型的に中国的であり、京都を『日本的』な都市の代表のように思うのは錯覚である。城下町こそが、『日本的』である。それ故、地方の城下町を『○○の小京都』などと呼ぶのは幾重にも誤謬である。 (215頁)


 言われてみるとそうだよな、うん。
 実際、ある江戸期の儒者が京の都を「中華」の都市として考えていたことも、本書で触れられている。
 


 徳川中期以降は、百姓は商人との売買も盛んにしている。 (略) そこで、商人が独占的な特権(「株」)を許されて百姓にとって不利な売買をしているとなれば、関係する村々が連合して訴願することもあった。文政六年(一八二三)には、綿問屋停止を求めて摂津・河内の一〇〇七の村が一致して大坂町奉行に訴願したという。(略)数え方にもよるが、九〇件近くの例があるという。電子メールもパソコンも無しでそれを組織する高度な社会的技術を、村人たちは持っていたのである。 (242頁)


 ネットもないのに、既にこれだけのことができたのである。
 今の労働者も、これぐらいのネットワーク性を発揮できないものか。

 ところで、当時パソコンも無しに、どうやって、伝達しあっていたのだろうか。
 伝書鳩か(違 。



 現代の儒教的な掟・仏教的な習俗にも恭しく従うのが『古の道』である。(略)仏教の虚妄を重々承知の上で、仏壇に手を合わせ、法事もしきたり通りに催す。それがかえって『古えの道』に沿っていることになるのである。実際、彼の家には大きな仏壇があった。 (271、2頁)


 これ、実は、本居宣長先生についての説明である。

 彼は表向きは、世間に順応して生きたのである。
 その内心に、ファナティックな思想を隠して、である。
 このイロニカルな生き方は、まるで、隠れキリシタンのようだ。

 彼の墓も、実は二重仕掛けになっている。
 詳細はウェブで検索してくれれば分かるが、彼の世間向きの顔と裏(古学者)の素顔との使い分けは、墓にまで及んでいたのである(本居家の菩提寺の「参墓」と、彼の"本当"の「奥墓」の対比)。



 儒学的教養の浸透の結果、今や、実力による制圧と土地の給付(「利」!)による主従関係よりも、官位授与による君臣関係こそ「義」だと、往々信じられたのである。自前の正統性理論の構築をしなかった公儀は、正面からそれを決然と否定することもできなかった(新井白石のように、『古代以来の天皇の王朝は滅亡した。徳川家は直接に天命を受けており、その徳川家が北朝を『共主』として戴いているのだ』という歴史と正統性との解釈をとっていれば、この窮地には陥らなかったであろう)。 (391頁)


 なぜ、江戸幕府は崩壊したのか、の理由の一つである。

 うん、どうみても、公儀(=幕府)が悪いw



 『立身出世』の可能性がほとんど無かったのが、下級武士である。彼等の大多数はそもそも意義を実感できるような仕事はしていない。武勇も才能も、活かす機会は無い。内職に出精して手間賃は増えても、武士としての出世は無い。努力のしようさえ無いのである。 (309頁)

 

 ペリー以降の動揺と瓦解の主な駆動力は、既存の体制内で鬱憤を募らせていた武士たち、とりわけ下級武士たちの、自己と他者の改革と破壊への衝迫であろう。 (略) 新政府の構成が示すように、これは、主に下級武士による革命だった。 (401頁)


 町人や百姓に比べて、時代を経るごとに立身出世の道が狭くなる下級武士。
 不満は募るばかり。
 彼らの不満、これこそが江戸幕府を倒す原動力となったのである。
 もう、こんな下級武士として生きるのは嫌だ、こんな生活いやだ、とにかく世の中変えたい、と。

 こう考えると、維新が起こらない方がおかしいような気もしてくる。



 

 太陽の女神のお告げといっても、耶蘇の話ほど荒唐無稽でもあるまい。『文明国』にはそういうものも必要なのだ。おそらく彼は、心中、そう思っていたのである。 (419頁)


 伊藤博文に関する説明である。
 「太陽の女神」とはアマテラスのことであり、大日本帝国(憲法)にある天壌無窮とかの話をしている。

 キリスト教に比べたら日本の神話なんて荒唐無稽じゃないし、でも、文明国はみんなそういう「宗教」ってやつがあるんでしょ、みたいなノリである。
 こんなノリで「国家神道」を枢軸とする宗教体制を作り上げたのが、大日本帝国だった。

 西欧諸国の場合、国によって様相は異なれども、教会(カトリックなど)と世俗勢力(国家その他)の戦いの中で、少しづつ「世俗化」を果たしていくというのが大まかな流れだ。
 だがしかし、そうした背景を考慮せずに、その歴史的文脈をうち捨てて、宗教を作成ないし再編成して、これを導入しようというのは、いつかボロが出る。

 そしてボロが出た。
 (この大日本帝国の結末については、御存知の通りだ。)



 真理が一つなら、学派としての政党も絶対に複数である必要は無いことになる。 (略) 理義への強烈な信念は、必ずしも『多事争論』や多元性の愛好とは結合しない。時には、真理を体現する一派の支配を理想とするような言さえ彼に吐かせたのである。 (468、469頁)


 中江兆民の話である。
 ルソーの後裔としては、こうした考えが現れ出るのは、無理なからぬところである。

 ルソーの場合、議会という各階層・各団体の利害調整の場には比較的否定的であり、それよりも「一般意思」による全体の一致を目指していたが、このような思想的傾向を、兆民も継いだのである。
 ハンナ・アレントが否定しそうな思想である。



(未完)

満洲の棄民、あるいは、裏切られた「戦場の花嫁」について -東志津『「中国残留婦人」を知っていますか』を読んで-

 東志津『「中国残留婦人」を知っていますか』を読む。
 ジュニア新書と思って侮るなかれ。
 良書である。

 ほかにも読まれるべき個所をいくつも含んでいるのだが、ここでは、数か所のみ引用とコメントをする。
 (要するに実際に本を手に取ってくれということだ。)
 

「開拓移民が渡った先で与えられた土地の多くは、もともとは中国人のものでした。彼らが苦労して開墾した農地に日本人が入植したのです。土地や家屋を奪われた中国人は、その後、小作や苦力(日雇い労働者)として日本人のもとで働くことになりました」 (6頁)

 これは著者による解説である。
 ここでいう中国人とは、満州人を含む中国人を指している。
 まず基本的なことだが、満州国とは、このような土地の収奪によって成立している。


 結婚を前提に募集をおこなえば、応募者が見込めないと考えた為政者たちは、本当の目的を伏せて人を集めていました。そうした事業に応じて満州に送られた女性たちは、まず、「女性義勇隊訓練所」と呼ばれる施設で開拓移民教育を受けることになっていました。 (27頁)

 これが、「大陸の花嫁」の実相である。
 たいていの女性たちは、その内容を、つまり、結婚が目的であることを知らされていなかった。
 この本に出てくる栗原貞子さんも、その一人だった。


 広大で豊饒な土地では、誰もが豊かに暮らしている、それが栗原さんの思い描いていた満州でした。(略)しかし、今、目の前にある光景は、それとはかけ離れたものでした。あまりの落差に、栗原さんの満州への憧れは、またたくまにしぼんでいってしまいました。 (38頁)

 栗原さんいわく、「ああ、これは失敗したなぁ」

 夢を見させて人を「移住」させるのは、北朝鮮帰国事業を思わせるものがある。
 (北朝鮮帰国事業については、菊池嘉晃の中公新書などが参照されるべきだろう。)


 うちの事情が事情だから私、帰るんだ! って言うと、『ああ、帰るんだったら憲兵隊に連れて帰ってもらいますから』って、こう言われる (44頁)

 栗原さんの証言。
 結婚を訓練所の所長から迫られた時の一幕である。
 「憲兵隊に連れて帰ってもらいます」とは、つまり、「国家に背いた非国民のレッテルをはられるのと同じことでした」(同頁)。
 数か月で帰国できると聞かされていたのに、そこに定住して結婚を強制された栗原さん。
 その強制の仕方が、上記のものである。
 彼女はやむなく結婚を受け入れる。

 目的を伏せて人を連れてくる、そして、そこに定住を強制し、結婚も強制する。
 これは、拉致の一種である。
 (拉致についてはこの記事も参照されるべきだろう。)


 農家での下働きや粗末な食事の辛さに加えて、当時、栗原さんを苦しめていたのはシラミでした。避難以来、お風呂に入ることのできなかった栗原さんは、身体中がシラミだらけになっていました。 (略) 栗原さんは、避難する時、お腹に、小さな日の丸の旗をお守り代わりに巻いていました。(略)ところが、何カ月と経つうちにその日の丸の赤い部分がシラミの卵で真っ白になってしまったそうです。栗原さんは情けなくて涙が出たといいます。 (95頁)

 結婚後、敗戦。
 関東軍に置き去りにされて必死で逃げた栗原さん。
 一緒に逃げた仲間たちは、置き去りにされたり、自分の嬰児を殺したり、絶望して心中したりした。
 弱い立場の者、子供や老人から、次々に死ぬ。

 捕まってソ連軍の兵舎での環境の酷さに耐えかねた栗原さん。
 今度は脱走し、脱出先では中国人農家で下働きをして、何とか生き延びていた。

 上記は、そのときの栗原さんの描写である。

 「軍隊は国民を守らない」という歴史的実例の一つを、関東軍が作り上げたわけである。
 愛国教育を受けて志願して(だが騙されて)満州に渡った愛国少女、それが栗原さんだった。
 その国から受けた仕打ちが、白くなった「日の丸」である。


 手の中にいる赤ん坊は、これまで自分たちをさんざん痛めつけてきた敵国の血を引く子どもです。ところが長勝さんは、そんなことをおくびにもださず、ひたすら赤ん坊の命を守ろうとしてくれるのでした。 (103頁)

 

(注:長勝さんいわく)「戦争は、上(国家の責任者)の人間たちがやったこと。置き去りにされた日本人は、我々中国人と同じ被害者だ。その生き残りの命を粗末にすることはできなかった」 (104頁)

 その後、中国人農家の男性(長勝さんという。)と再婚した栗原さん。
 その時の話である。

 栗原さんは結婚した日本人男性との間に子供がいて、妊娠している状態で脱走をしていた。
 逃げた先で、出産をした。
 栗原さんに日本人の血を引く子供がいるのを承知で、結婚をし、その子を育てたのが長勝さんである。
 これがどれほどのことであったか。

 ここでは引用をしないが、文革期に残留日本人が差別を受けたことも、この本では取り上げられている。
 これが、戦後中国において、一番つらい時期だったと語る残留日本人は多いという。


 栗原さんに限らず、身元引受人になることを肉親から拒否された人は少なくなかったといいます。 (略) 日本政府は『帰国に関しては個人の問題』として、中国残留日本人の帰国問題を、国家の責任として捉えず、積極的に取り組もうとはしませんでした。 (150、151頁)

 

 政府が、これを国家の責務と認め、補償や帰国後の生活支援などの対策を講ずるようになるのは、日中国交正常化から二〇年以上も経ってからのことです。 (同頁)

 国交回復後、何とか日本へ戻ろうとする栗原さんだったが、政府は冷たかった。
 著者いわく、「政府の対応は遅すぎました」(161頁)。
 これが愛国心を奮って行動した人間に対する仕打ちである。


 役所で応対した人は、身元引受人がなく、国に認められていない栗原さんたちのことを、「中国の乞食」とまで言い放ったそうです。(略)「その時、日本という国がどういう国なのか、よくわかりましたよ」 (155頁)

 家族で帰国するために、栗原さんたちが自費で「渡日」した後、支援してくれた人物がいた。
 それが千野さんである。
 彼は、満蒙開拓青少年義勇軍の一員で、シベリア抑留経験者でもある。
 「その時、日本という国がどういう国なのか、よくわかりましたよ」とは、千野さんの言葉である。

 この件について、栗原さんは「棄民ですよ。ほんとにそうなの。」と述べている。

 戦前も戦後も、棄民だけはやめようとしなかった。
 一つレールを外れた人間を見捨てる癖は、きっと今も治っていない。



(未完)

何で日本は入学試験が厳しいシステムになっているのか、というお話。 -天野郁夫『試験の社会史』を読んで-  

 天野郁夫『試験の社会史』を読んだ。
 正確には再読なのだが。

 興味深かった所だけ。



 まず、試験と競争の歴史について。

 実は、競争と結びついた試験は中国の科挙に始まる(27頁)。
 科挙の存在が、欧州の啓蒙思想家たちに注目された歴史的事実は、よく知られているだろう。

 たしかに、西洋の大学にも試験はあった。
 しかし、この大学は、学問をする同業「組合」の色が濃い。
 組合であり、メンバーシップが重視されていた。
 他の徒弟関係を軸とする「組合」のように、メンバーになるための資格制度だったのが、この資格制度には競争の要素はなかった。
 あくまで、ペーパーではなく、対論を裁定する実習くらいしかなかった。



 本題。

 日本の戦前の教育制度について、基本的なこと。
 
 大まかにいうと、明治期の日本の教育制度(もちろんエリートコースの場合)は二階建てだった(157、158頁)。
 一階の小中学校と二階の大学は別世界で、大学は「日本の中の西洋」でありつづけた。
 (ここらへんについては、Wikipediaのこの記事の図を参照あれ。)

 この二つの間に、外国語主体の「予備教育」があった。
 日本国の試験地獄が展開されるのは、なにより、この「予備教育」(予備門、高等中学校、高等学校など)においてであった。



 では、なぜ予備教育が必要だったか。
 二つの外国語の能力が必要だったからである(272頁)。
 それが帝国大学入学に必要な条件だった。

 一方、日本人教師が日本語で授業を行う「専門学校」の場合は、さほど外国語について高い能力は必要なかった。
 (さっきのWikipediaの記事の図を参照。)

 井上毅は、こうした日本語による専門教育機関こそ本当の「大学」であるべきであり、帝大はむしろ研究や研究者養成に特化すべきだ、と考えていた。
 この考えを抱く人々は当時においても少なくなかった。



 しかし、当時の若者たちの目は、強く、帝国大学への道に向けられていた(273頁)。
 それは、制度がもたらすインセンティブによるものだった。

 官僚などエリート候補者を全国から吸い上げるために、帝国大学を頂点とする系統に、国家が集中的に資源(予算や人員)を投入して特権を付与して育成したことが、その背景にあった。
 実際、試験免除や就職先に大きな差があったことが、本書には書いてある。



 それだけではない。

 全ての段階の学校が一斉に作られた日本では、上級の学校はそれぞれ独自に、自分の学校の教育レベルにあわせて入学者に要求する学力の水準を定め、試験によって学力をはかって、入学者を決めなければならなかった(353、354頁)。
 急ごしらえの改革で、一斉にスタートしたため、そうせざるを得なかったのである。
 入学前に能力で選別をしておけば、その学校にとっては、落後者を出すリスクが減る(身も蓋もない説明の仕方だが)。

 だが、その後も入学試験は廃止されなかった。
 前述のとおり、近代化を担うエリート校である帝大の場合、学術の水準において欧米諸国に引けを取らないよう、入学者に要求される学力が高い水準に設定されたからである。
 「二階建て」の落差を埋める方法として、中学校や高等学校も厳しい入学試験をせざるを得なかった。



 さらにさらに。
 
 学校が立身出世のもっとも重要なルートだと認知されてくると、富裕な平民層を中心に、上級学校への進学を目指すものの数が急速に増えていった。
 だが、財政難に苦しむ政府は、上級学校、とくに高等学校や帝国大学の収容力をなかなか増やそうとしなかった(355、356頁)。
 結果、押し寄せてくる受験者の波をさばくためにも、入学試験は無くてはならないものだった。

 こうした理由によって、日本の選抜試験において、入学試験が軸になったのである。
 「急ごしらえの改革が、その背景にあったのである」みたいな話。

(未完)

下の「身内」を「殺害」して、上の者はおめおめ生きのびた。 -保阪正康『「特攻」と日本人』、大貫健一郎, 渡辺考『特攻隊振武寮』-

 保阪正康『「特攻」と日本人』と、大貫健一郎, 渡辺考『特攻隊振武寮』を読んだ。

 気になった所だけ。



 まずは『「特攻」と日本人』。
 著者の見解について、幾つか気になる点はあるのだが、それでも賛同できる部分は多かった。 



 昭和十九年の十月、台湾沖航空戦でのこと。
 第二十六航空司令官の有馬正文は、艦隊に特攻して戦死する。
 著者曰く、「日本で初めての特攻作戦を行ったのは、実は四十九歳の有馬だったのである。」(171、2頁)

 しかし、有馬の体当たり攻撃は、一般に広まることはなかった。
 有馬は軍事指導層であり、もしこの考え方が一般的だったら、軍事指導者たちが率先して体当たり攻撃をしなければならなかったからである、と著者は書いている。

 指導者たちは、特攻しない。



 陸軍航空本部は、昭和20年5月末に知覧基地で「特攻隊員の心理調査」を密かに実施している(56頁)。
 戦争の最終段階になっても「ますます決心をなすに甚大の努力を要する」隊員は「約三分の一あり」と記載されていたという(引用元原文はカタカナ漢字交じり)。
 これは生田淳『陸軍航空特別攻撃隊史』からの情報。

 その生田は、戦隊長以下全員が特攻となるなら喜んで行くが、特定人員だけというのは納得できないという心情もあったようだ、という風に書いているという。

 一方、著者(保阪)曰く、「この調査結果は当時の建て前の中での調査にすぎないが、それでも三分の一は不本意に思っているとするなら、実は大多数の特攻隊員が納得していなかったと思える。」と書いている。



 昭和20年1月6日の陸軍特攻について。
 侍従武官だった吉橋戒三の日記(未発表)には次のようにある。
 (以下の引用元原文は、カタカナ漢字交じり)
 「体当り機のことを申上たる所 御上は思はす 最敬礼を遊はされ 電気に打たれたる如き感激を覚ゆ 尚戦果を申上けたるに『よくやつたなあ』と御嘉賞遊さる」(52頁)
 
 この場合の「感激を覚ゆ」の主体はこの場合は吉橋である。

 特攻は天皇も容認した作戦であった。
 ブラック軍隊にふさわしい大元帥である、という感想しかない。



 陸軍特攻の万朶隊を見送った、当時整備兵だった人物の手記がある。
 昭和19年11月22日の午前に、その特攻は行なわれた。
 万朶隊の九九式双発急降下爆撃機 三機は、機種に五メートルの起爆管を伸ばし、五百キロの爆弾を抱いて時速四百キロで体当たり攻撃をすることになっていた。

 陸軍の場合、特攻用に爆撃機を改造していた。

 手記によると、
 「二番機担当となった我々は前日から、まずできるだけ機体を軽くするために操縦装置と無線装置を残して爆撃装置、射撃装置はむろん小さなものまで撤去することで、後方機関銃のボルトを外しながら、敵機と応戦もできない姿に怒りがこみあげて力が入らない。」(68、69頁)

 飛べない豚はただの豚だというなら、戦えない戦闘機や爆撃機は、一体なんだろうか。



 ボートに爆薬を積んで体当たりをする「震洋」は、当初は脱出装置も考えられていた。
 だが、体当たり攻撃を容認する空気の中で、特攻兵器に変わった(170頁)。
 
 こちらのブログによると、「海軍中央部は、「回天」 と同様、「震洋」 においても最後の段階 (敵艦船への突入寸前) で乗員の脱出を強く望んでいた」。「だが、海軍中央部は脱出については特別の準備をすることもなく 「震洋」 の建造を進めた。」



 次に、『特攻隊振武寮』について。

 特攻生還者の大貫氏の証言パートと、NHKの渡辺氏による特攻を解説したパートに分かれている。



 慎重論を唱えていた幹部がいた中で、特攻にこだわったのは、東条英機と、彼のイエスマン・後宮淳であった。
 ちなみに、東條らは、ある時期まで、特攻を艦船相手でなく、B29等の爆撃機に対する作戦と考えていた(49頁)。

 A級戦犯が祀られている靖国神社は、やはり更地に(最低限、分祀)すべきと思う。



 大貫氏によると、報道部員が押し掛けてきて「ただ今の心境は」と聞いてきたことがあったらしい(143頁)。
 『「特攻」と日本人』によると、自分たちをダシにして記事を書く報道に対し、特攻隊員は、それが不愉快だったことを書き残している。

 今でも特攻隊を賛美して、金を儲ける小説家とかがいるが、同類ではないか。



 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』によると、当初、万朶隊は特攻隊であっても、必ずしも死を前提としていなかった(70頁)。
 実際、フィリピンにあるすべての飛行場の場所が記された地図を隊員たちに配り、爆弾を命中させて帰ってこい、と当時の責任者、岩本益臣大尉は命令している。

 だが、同じく『陸軍特別攻撃隊』によると、岩本大尉の部下・佐々木友次伍長は、戦艦を体当たりで沈めてほしいと、参謀から命令されている(71頁)。
 別に必中攻撃でなくていいだろうと反論する佐々木に、別の参謀長は、「佐々木の考えはわかるが軍の考えということがある。今度は必ず死んでもらう、いいな」と述べた。
 特攻機は爆弾を切り離し、何度も攻撃できるように、改良されていたにもかかわらず、である。

 なにこのブラック軍隊。

 ちなみに、佐々木伍長は、8度の出撃にもかかわらず、ことごとく生還している。



 片山啓二氏(学徒出身の特別操縦見習士官だった人物であり、「振武寮」に入った一人。)によると、彼ら学徒兵には、特攻参加の意思表示の用紙が配られている。
 だが、「俺は希望せずだったのに指名されてしまったという同級生が何人もいました。」(75頁)

 大日本帝国における「志願」は、実際はこんなものである。



 大貫氏によると、戦闘機の操縦士は1000時間操縦してやっと一人前という(91頁)。
 だが、大貫氏自身は、400時間以下だった。

 特攻作戦が泥沼化すると、200時間程度の操縦経験者でも突っ込まされた。

 最後の方になると、100時間くらいの操縦経験でも突っ込まされた。
 100時間だと離陸して飛ぶのがやっと、という有り様である。

 特攻とは、身内に対する「殺人」だが、未熟な兵士にやらせるのはその最たるものである。



 大貫氏によると、特攻は実は難しい(93頁)。
 ハイレベルな技術を求められた。

 特攻は通常300m程の上空から米艦隊めがけて急降下するのがよいとされていた。
 理想の角度は45度とされていたが、それでも時速550kmほど出て、舵が利きづらい。
 この作戦では難易度が高すぎた。

 そこで、海上をすれすれで飛び、米艦隊のどでっぱらにぶつかる作戦に切り替えたが、それでも高度な技術が必要だった。
 当時の大貫氏の上官・藤山隊長(職業軍人)ですら、上手くいかなかった。

 この事実が明らかになる前後から、特攻への拒絶意識が広がって行く。
 藤山隊長でさえ、おれはこんなことのために戦闘機乗りになったわけじゃない、と言ったという。



 倉澤清忠について。

 彼は、特攻作戦から生還した大貫氏らに対して、寮にて出会いがしらに、
 「なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ」
 「そんなに命が惜しいのか。」
 と罵った人物である(206頁)。

 寮での朝食時、倉澤が前日の深酒で酒臭い息を吹きかけながら、
 「おまえら、軍人のクズがよく飯食えるな。」
 「そんなに死ぬのが嫌か」
 それが毎朝、続いたという。

 朝から酒を飲んでいることもあり、片手には必ず竹刀を持っていた。
 大貫氏たちが食欲もわかず、箸をつけずにいると、今度は、
 「なんで飯を食わない? 食事も天皇陛下から賜ったものだぞ」(209頁)

 パワハラである。



 実は大貫氏らは、帰還したにもかかわらず、沖縄作戦で飛び立った日付で、戦死公報が出されていた(211頁)。
 軍籍からも抹消されていた。

 特攻で死んだ(殺した)はずの者たちが存命していた。しかも少なくない人数。
 特攻を命じる者たちの為す矛盾が凝縮された場所、それが「振武寮」だった。



 戦後一度だけ、仲間たちと一緒に倉澤を殴りに行こうという話になった(282頁)。
 大貫氏曰く、「慰霊祭ではいつもでかい顔をしていたからね」。

 慰霊祭のときに仲間と一緒に、倉澤をしょっ引いて、自分が大貫だと明かした。

 すると、「あのときは悪かったと詫びるんだ。あの鬼のようなやつがとても小さく見えて、殴る気がすっかりうせてしまった」



 大貫氏は戦後、陸軍の上層部には恩給が復活していた事実を知る(255頁)。

 司令官や参謀、そういった連中が軍人恩給を貰って戦後を暮らしていたのである。

 軍人恩給は、将校なら12年以上、下士官・兵士は10年以上、軍にいればもらえる。
 だが、下の者たちは勤続年数が短く、そもそも、殆どが死んでしまった。

 これが大日本帝国の軍隊であり、その戦後における姿である。
 


 最後に、大貫氏の言葉。

 「喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘。」
 「陸海軍あわせて四〇〇〇人の特攻パイロットが死んでいますが、私に言わせれば無駄死にです。特攻は外道の作戦なのです。」(292頁)

(未完)

湛山と憲法と平和とワイシャツと私 -増田弘『石橋湛山』を読む-

 増田弘『石橋湛山』を再び読む。
 リーダブルだし、面白い。

 気になった所だけ。



 湛山は新兵として苦労を重ねている(17頁)。
 入営時に60kgほどあった体重は48kg台まで減り、在営中ついに回復しなかった。

 湛山は軍隊に在籍した一年間に、戦争への嫌悪の情を深くすることとなった。
 実弾演習にも恐怖感を覚えた。

 彼の平和への思想は、そうした実体験にも基づいている。



 当時作られようとしていた明治神宮に対して、かれは何といったのか(27、28頁)。

 神社ぐらいで、「先帝陛下」を記念できると思っているのか。
 ノーベル賞にならって"明治賞金"を作れ。

 こんな風に提言しているのである(「愚かなるかな神宮建設の議」が出典)。

 いかにもプラグマティックな石橋湛山、と言えるだろう。
 


 尼港事件の報復措置として、日本軍は、北樺太を占領した(46頁)。
 米国は日本に猜疑心を抱き、日米関係は悪化した。
 これに対して、湛山は、日本政府側の姿勢を厳しく批判している(出典は「日露衝突の意味重大」、「尼港事件の悪用者」)。

 尼港事件については、いろいろ言われたりするが、同時代の反応のひとつとして書いておく(尼港事件については、この記事も参照されたし)。



 戦前、基本的に日本政府に批判的姿勢を貫いた湛山。
 たが、当時の南京新政府が不平等条約破棄と臨時弁法実施を宣言し、日本側に日華通商条約の破棄を一方的に通告したときには、湛山も怒った(88,9頁)。

 だが、米国は早速中国の関税自主権の回復を認め、蒋介石政権を承認した。
 その後、英仏もこの動きに追随した。
 湛山は、この米国の姿勢にも怒っている。

 まあ、その後、やはり拡張主義的な日本政府のやり方に対して、批判的な姿勢に戻るのだが。
 ともあれ、これは湛山の主張の中では珍しい事例であるので、一応書いておく。



 戦後の話。
 1959年、キャンプ・デービッドでの米ソ首脳会談での「雪解け」を、湛山は、「冷戦」の終わり、平和共存体制として、肯定的にとらえた(227、8頁)。
 そして、日米と緊密な関係をしつつ、日中・日ソの協調関係をも、同時に築こうとした。

 日米新安保は是認した湛山だったが、一方で、安保と憲法の矛盾を認めたうえで憲法の遵守を訴えた。
 「冷戦」時代には非現実的だった第九条は、平和共存時代の今日には現実性を持っている、と論じたのである。

 改憲指向だった彼の外交姿勢は、「護憲」(カギカッコ付)へと向かったのである。

 湛山が生きていたら、彼は九条改憲を認めなかっただろう、多分。
 湛山の晩年の外交姿勢については、姜克実『晩年の石橋湛山と平和主義』なども参照。



 最後に、こちらの記事から引用。

石橋湛山『池田外交路線へ望む』一九六〇年

全人類の四分の一にも達する隣の大国が、今ちょうど日本の明治維新のような勢いで建設の途上にある。それをやがて破綻するだろうと期待したり、また向こうから頭を下げてくるまで待とうとするような態度が、はたして健康な外交であろうか。(以下略)

 ちなみに、この「引用文は、一九六〇年八月、病も癒えた湛山が日ソ協会の会長に就任するにあたって朝日新聞に寄せた論考から」のものである。

(未完)

戦後になっても、靖国神社がついに己自身を克服できなかった件 -赤澤史朗『靖国神社』を再読する-

 赤澤史朗『靖国神社』を再読する。
 (たぶん)知られざる良書である。

 いつもどおり、興味のあるところだけ取り上げていく。



 「靖国神社の祭礼には、競馬やサーカスなどの娯楽が付きまとい、多くの観衆が集まった」というふうに、庶民にとって靖国神社が親しい存在だったことを説明する研究がある(20頁)。

 だが、戦前の靖国神社は、神社が強力な軍の管理下に置かれていたし、また例大祭などの祭典に正式に参列できるのは、軍や国家の代表者だけであって、庶民はもとより、遺族すらも参列できなかった。
 戦前期には、祭礼の合祀に際して、遺族は合祀祭への参加を許されず、かろうじて招魂斎庭から、本殿に向かう御羽車を拝んで見送ること、祭典終了後の昇殿参拝が認められただけであった。

 戦前における靖国神社の遺族に対する位置づけは、実はこのようなものである。
 遺族会として勢力が強くなるのは、戦後のことである。

 ところで、上記の「庶民にとって親しい存在だったことを説明する研究」とはだれが書いたものだか分かるだろうか?w
 「靖国」と名前の付くだいたいの書籍に目を通していれば、それはすぐに分かる。



 戦前にも靖国批判は存在していた(23頁)。
 例えば、臨済宗の僧侶・角張東順次角張東順は、次のように批判する(1924年。「極東の迷信国」より)。

 靖国神社の祭神は軍事的侵略にも関係する「国家的色彩ある祭神」であり、ここには、世界性も普遍性もない。
 「神」というのは世界的・普遍的な価値の体現者でなければならぬはず、と。

 この批判からは、大正期の普遍性志向が、うかがえる。
 いやあ、靖国の傾向って、今も変わってませんなw



 かつて、1951年には、靖国境内で「総評等加盟の日本平和国民会議が赤旗を立て労働歌を歌い平和大会」を開いている。一万人集まったらしい(88頁)。
 今から考えると信じられないかもしれないが、当時はそういう時代だった。

 たしかに靖国側は、サンフランシスコ講和条約の締結に賛成していた。
 それでも、当時の靖国関係者は平和を唱えていた(89頁) 。
 そのことは、当時の関係者の発行した資料から分かる。

 戦後初期の靖国神社の平和主義への転向は、十分に自覚的に行われたものではなかった(71頁)。
 そのことが、後の靖国神社と遺族会のなしくずしの再転向を招くこととなる、と著者はいう。
 実際その通りであろう。

 つまるところ、戦後のある時期まで靖国側は「平和主義」と何とか折り合いをつけようと努力していたが、しかし、神社に内在する国家志向・旧帝国志向との齟齬が1960年ごろからしだいに大きくなり、遂に後者のベクトルが専らとなった、という話である。



 もともと、国立戦没者墓苑の構想は、戦後初期の時、マッカーサーが靖国神社とは別に非宗教的な「無名戦士の墓」を建設すべき、という「勧告」をしたことに発するという(110頁)。
 これは、村上義一「墓苑の趣旨」(1967年)が出典。
 あんまり信じられないが、一応書いておく。



 もし戦後の日本の国家が、戦後補償の範囲を広げ、靖国の合祀対象もそれと一致し、金銭補償と合祀が合体して、国内の民間人犠牲者や旧植民地人にまで及んでいたら。
 もしそうだったとしたら、靖国は総力戦段階に相応しい国家主義的な追悼施設に変貌して、現在以上に政教分離上の厄介な問題を引き起こしていたかもしれない(255頁)。
 しかし、彼らは、民間人犠牲者を補償と合祀対象から除外し、旧植民地人犠牲者を補償の対象から外した。
 このことは、それらの人々を反戦平和主義の方向へ向かわせることとなったのである。

 靖国神社への合祀というのは、戦前から「『国』に殉じた者」という基準にもとづいていたが、この神社の根幹を、変える事はついに出来なかった。

 よーするに、日本国と靖国神社は「オウンゴール」しちゃったのである。

(未完)



(未完なのに追記)
 ブコメに対して一応の返答めいたものを書いておきます。

lotus3000  結局国家理念とは何かという、一番の劇薬の問をのみこまなかったツケなんだろう。しかも左右どちらも全体主義的傾向が強かったし。

 「左右どちらも全体主義的傾向が強かった」云々という論点についてはおいておいて、「結局国家理念とは何かという、一番の劇薬の問をのみこまなかったツケ」という点については、ドイツでの事例と比較して論じられるべきでしょう。

wkatu 神道は仏・儒・キリスト教に加え国家主義とも習合したが、民主主義とだけは習合しなかったという話を思い浮かべた。

 これが歴史的に事実であるか否かについてはあえて避けて通りますが、戦前の「国家神道」と靖国神社の存在に対して、あの葦津珍彦がどう関わったのか、という論点については避けては通れません。前者はめんどくさいのでググっていただくとして、後者についてはこれを御参照あれ。

「謝罪」、責任をきちんと認めるということ -中尾知代『日本人はなぜ謝りつづけるのか』について-

 中尾知代『日本人はなぜ謝りつづけるのか』を読む。
 以前、日英和解の記事が話題になって、それで本書を再読した(二度目)。
 タイトルはアレだが、いたってマトモな本。
 こちらの書評が一番丁寧である。

 気になったところだけ。



 ある捕虜の未亡人について(39頁)。

 彼女の夫は、捕虜時代の後遺症で次々に病気を発症した。
 そのため、彼女の人生はほとんどが、病院通いと介護で費やされた。
 しかし、病院費用の領収書を持って行政の福祉課を訪れても、相手にもされなかった。

 こうした死亡者リストに入らずに存命した者でも、多くの者が心身衰弱の後遺症で早世している。

 そして著者は思い出す。
 母校の高校の恩師でシベリア抑留の経験者が、ふとした風邪で早世してしまったことを。
 「一度徹底して痛めつけられた身体は、外見からはわからない後遺症を抱える」。
 「捕虜」の問題とは、戦争終結で終わっているのではなく、戦後の後にも続いていたことに、思いを届かせねばならない。



 英国捕虜だった人物は、「教えてくれ、どうして、日本人は病人にあんなに冷たいんだい?」と述べる。

 戦争が終わり、彼らが目にしたのは、放置されている日本兵だった(41、42頁)。
 戦時中に自分たち捕虜に冷たい日本軍は、自分らの兵士にも冷酷だった。
 そのことに驚き、日本側の考え方が理解できないまま六〇年も気になっていた、という。

 別の元捕虜曰く、「上司がヒラの兵士を殴り、兵士が朝鮮人の軍属を殴り、軍属と兵士が捕虜を殴る、そういう構図でした。ぼくたちは、最底辺にいたわけですよ」。
 ではその頂点とは誰だったのか、という『神聖喜劇』の問いを、思い出すべきなのだろう。



 基本的なことだが、日本政府が述べてきた用語は「お詫び」、「遺憾」、「反省」ばかりであり、英蘭中米などに戦争に関わる声明を出す際、「謝罪」("apologize"等)のような言葉を使用した例はない(64頁)

 「遺憾」とか「悔やむ」といった言葉は、"regret"や"remorse"が訳語とされるが、しかし、こうした語というのは、自分が傷つけた責任ある相手に言う言葉ではない(95頁)。
 相手に対して加害行為を行なった主体が被害者へ行なうのは、「謝罪」であって、「遺憾」云々なわけがない。
 ここで問われるのは、責任を認める、という行為だろう。

 日本の場合、謝罪するとそれが「最終的な敗北」として、例えば店をたたむ、責任者が辞める、あるいは責任を取って自殺、といった事態を伴う(96頁)。
 そのように社会的に「要請」され、そうした社会的規範を内面化しているケースが多い。
 そうして、責任は結局、うやむやになる。

 しかし英米の場合(たいていは)、謝罪はしても、そして責任を認めても、辞職はしない。
 ここに認識のズレがある。

 「謝罪」というのは、行為主体としての責任を認めることによって、新たな関係を開いていくポジティブな行為である、と一般的にはいえる。
 それを、身体を張って「水に流す」必要があるだとか、謝罪をしたら損をする云々だとか、そのようにネガティブに考えてしまうところに、認識のギャップが生まれる。



 多くの捕虜にとっての謝罪は、非人間・モノとして扱われた自分が、人間として認証され、対等な存在として証明されることである(97頁)。
 そうした尊厳の回復によって、関係を築くことが、和解の意義だろう。



 民間人による謝罪の「代行」について(138頁)。
 日英間で民間交流の中で、戦時の捕虜への「行為」に対し、謝罪が行なわれることもあるが、そこには死角も存在する。

 ここで交わされる「謝罪」は、元捕虜にとってはうれしくないこともないが、本来、責任のない人々が次々に謝るだけなので「大丈夫です。あなたのせいじゃありませんよ」と返す以外にない、困惑する経験でしかない。
 責任主体が曖昧なままだ。

 そうして、責任主体であったはずの日本政府や日本軍の姿(責任)は、盲点となってしまう。
 また、日本側が理解を求めている収容所問題(アーロン、シベリア)などに、元捕虜が想像を及ぼすことも止めてしまう(144頁)。
 そこに死角が出来る。

 そしてそれだけでなく、西洋の植民地支配の責任も免罪されてしまうか、死角になってしまう。
 そういう構図を、これらの謝罪は「企図せずして作り出す」(203頁)。
 善意で行なわれるものが、かえって覆い隠してしまうものもある、というわけだ。



 英国の戦争責任観について。

 例えば英国人兵士の場合、身分の上下差が激しく、植民地出身の兵士に対しても、同士的感情やパトロナイジングな感情を抱いているケースが多く、帝国主義は問題視されない(201頁)。
 植民地主義を反省する契機も見当たらない。
 彼らの場合、当時既にインドやマレー半島は植民地化されていたため、その出来上がった植民地に職を求めたり赴任したりした人間は、自分たちが植民地支配に加担したという意識が希薄なのである。

 日英和解の陰に隠れがちなこういった問題も、著者は取り上げている。
 そして、日英和解を、こうした問題にいかに開いていくべきなのか、ということも、論点としてあげている。



 「空爆や原爆についても、その下にいた一人一人の「人間」が、どういう気持ちでいたのか、それを細やかに英語にして伝えるべきである。/英国にいると、日本人はやはり個別性のない、集団に見える。だからこそ、人間としての思いがどうだったのかを伝えることは必須になる。」(226頁)。
 これに付け加えるべき言葉はない。



・・・本来なら、以上で十分なのだが、少しだけ書いておきたい。

 例えば、「英の反日退役軍人が和解式典 - MSN産経ニュース」という産経の記事だが、「反日」という語の使い方に、明らかに不自然さを覚える。
 この「反日退役軍人」の団体というのは、本書にも出てくる「ビルマ・スター」という団体だ。

 「反日」って言葉じゃ、そもそもなぜ彼らがそうした姿勢を持つに至ったのか、という根本を覆い隠してしまうだろう。
 なんでも、「反日」、「反日」、ってこれじゃあ、ジコチューにも程がある。



 さらにもう一つ言っておくと、本書のアマゾン評価が酷い。
 この本自体は、読む限りいたってマトモだが、誤読しているレビューが多くの支持を集めているらしい。

 そりゃ、レビュアーが何と思おうとそりゃ勝手だが、書評だっつってんのに、自分の御意見を開陳して悦に至るのは、流石に止めた方がいい。
 誰がそれに該当するのかは、あえて言わないでおこう。

 例えば、「著者はドイツと英国の和解をうらやましく思っているようだが、アホちゃうかと思う」だの、「あんなもの「政治ショー」の類いだ」だのと書き記されているが、抜けているのは、このレビュアーの方だろう。
 本書の第3章に英独和解に関する記述があるが、正直「この程度もできねえのかよ」って感じの記述でしかないし、理想視もしちゃいない。
 この評者は、本書を斜め読み程度しかしていないと思われる。

 あと、「和解は極東軍事裁判ですべて終わっている。昔から「罪を憎んで人を憎まず」というだろう」だのと訳知り顔に書いているが、これも恥ずかしいことこの上ない。
 本書をマトモに読めていないことが露呈しているからだ。
 このレビュアーこそ、日本的「謝罪」観に囚われまくっていると思う。

 「著者は「水に流す」のは日本だけのやり方で、他国には通用しないなどと馬鹿なことを言っている」などと書いているのも同様だろう。
 そもそも「水に流す」ってのは、実際の所、責任主体がその責任をきちんと認めることなく、その者が辞職したり、自らの命を絶ったりするなどして、責任そのものをウヤムヤにする行為だからだ。
 誤読だけでなく、「寛容の原理」ならぬ「"不"寛容の原理」を適応するという、実に最悪なレビューだ(あと、自説がウザかったw)。

 「恵子ホームズさんらによる「民間外交」を、あたかも「真の和解」にとっては障害であるかのごとく難癖をつけている」などと書いてあるのもあるが、これもやはり誤読だろう。
 正確には、その「民間外交」の善意とその成果を一応は評価はしている。
 ただ、その手法からこぼれおちるものについて、指摘をしている。
 問題は、「民間の和解」にもたれかかって、日本政府が「お詫び」だけで「謝罪」をしてこなかったことであり、それが有益だったはずの「民間の交流」を大いに害したってことだ。

 人間は、ここまで「不寛容の原理」を適用した書評が書けるってのが良く分かったw



 あと、著者自身が、アマゾンレビューを含む書評(難癖?)に、応答している
 ご一読あれ。

(未完)

戦後憲法を擁護するに至った左派 -戦後の政治の二つの軸について- 松尾匡『商人道ノスヽメ』を読んで

 松尾匡『商人道ノスヽメ』を読む。
 一応は、良作。

 本書で解説される「商人道」は、山岸俊男の説を"参照"する形で書かれている。
 山岸の説に関しては、ここと、ここの疑問点を紹介しておきたい。
 個人的には素朴な疑問として、①その人の出身階層とか出身の地方とかで、結果は違うんじゃないの?、とか、②日米以外の比較はちゃんとしたの?、してないとだめなんじゃないの?、とかが思い浮かぶ。

 著者の松尾先生の論調は、基本的に「商人道」の称揚に(自覚的に)偏していて、参照されるジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』に比べると、正直バランスに欠けるんじゃないかなーという印象はある。



 本書では、戦後の憲法をめぐる政治の歴史も解説されている(小熊英二『<民主>と<愛国>』が主に参照されている)。
 正直な話、それに対する著者の解説は、「商人道」の原理を押し出しし過ぎているような気味があるので、ここでは書かないw



 本書における、戦後憲法をめぐる政治史に関する箇所をまとめると、次のようになる。

 当初、戦後憲法に対しては、保守政党はもちろんのことだが、実は、共産党も新憲法に反対であり、社会党も批判的だった(220頁)
 平和主義も民主教育も、実は、共産党は嫌っていた。

 資本主義打倒のための戦争は肯定し、革命教育のためには民主教育も反対(教師の「指導性」の擁護)、というのが共産党の立場であり、教育基本法にも反対だった。

 しかし、日教組は、共産党の方針に反対し、戦後民主教育と教育基本法を擁護することとなる(220頁)。
 社会党は、1950年代になると、左右の論客が参加した「平和問題懇談会」の主張の影響で、党内の右派左派ともに護憲へと傾く(221頁)。
 
 その一方、50年代に入って保守政権は、教育委員会委員会の公選制度の廃止、イエ制度の復活を目指す民法改正案や、戦前の内務省を復活させる法案を国会に提出し、改憲も目指した。
 改憲は、再軍備のみならず、天皇の元首化、知事公選廃止、天皇による国会停会制度の導入を打ち出し、集会・結社・言論の自由や男女平等などの条項が再検討の対象となった。
 これらの流れに対抗して、ようやく共産党は、護憲の方針を打ち出す(221、222頁)。

 当初は左右共に、日本国憲法には反対(批判的)であり、いずれ改憲してやる気でいたにもかかわらず、結果的に現在まで存続してしまったという逆説。
 保守勢力同士の妥協の産物としての仏国第三共和制が、実に末永く持続してしまった事実にソックリな事態である。

 戦後当初の内閣(例えば、片山、芦田内閣)の時は、社会党と日本民主党が、吉田茂の自由党と対抗していた。
 吉田自由党より芦田の民主党の方が、ずっと右寄りだったが、社会党と民主党は共に、国家による統制経済の志向が共通しており、連立することができた。
 この時期の政治的軸は、イデオロギー的な問題ではなく、経済問題だった(223頁)。
 ところが結果的に、日本の戦後の政治的な軸は、経済ではなく、安全保障、外交、憲法へと移行することになった。
 前回の記事で書いたとおり、遠因は日本の総力戦体制の名残だろうし、占領軍側の方針も影響していただろうと思う。



 なお、大嶽秀夫によると、1967年時点で、安保・防衛・天皇制の問題に関しては国民の間に保革の対抗軸がはっきり観察されるが、「減税or社会福祉」だと上記の回答とまったく相関がないらしい(223、4頁)。
 とすれば、少なくともこの時代から既に、大まかに言えば、①「保守・減税」派、②「保守・社会保障」派、③「革新・減税」派、④「革新・社会保障」派がいたことになる。

 ①が、現在流行の「小さな政府」が好きな右寄りな人々。
 ②が、かつて主流だった「往年の自民党」な人々。
 ③が、90年代以降跋扈し始めた、「リベサヨ」な人々。
 ④が、欧州とかに普通に見られるタイプの「社会民主主義」な人々。

 90年以降の政治の迷走とは、②の衰退であり、①の躍進であり、③の跋扈であり、④の不在に他ならない、と本書を読みながら考えた。

(未完)



 (未完なのに追記)
 ブクマコメントに、

norton3rd 俺が新聞読めるようになった頃は社会党はモサさんヌマさんの時代を経て護憲だったが共産党は『自主憲法制定』だったと思う 2012/04/02

とのお言葉が。
 
 なるほど。
 モサさんヌマさんっていうのは、鈴木茂三郎と浅沼稲次郎両氏のことですね。

 念の為の補足です。
 
 1945年の行動綱領で、人民による自主憲法制定をうたっていた日本共産党は、1958年の行動綱領で、方針転換を明確にします。
 曰く、

 党は、日本人民の民主的権利をうばいさろうとするすべての反動的なくわだてとたたかい、議会制度・地方制度の改悪、憲法改悪に反対する。

 と(http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/platform/platform/p07th.htm)。後ろの方に、「天皇主義的・軍国主義的思想を克服し」云々とは書いてありますが、自主憲法自体はこの段階で引っ込めているのですね。

農村が「革新」的だった頃 -あと、自民党の「社民主義」の背景について- 雨宮昭一『占領と改革』を読んで

 雨宮昭一『占領と改革』を読む。

 本書の要点は、戦前戦後を貫く「協同主義」の存在。
 この存在については、こちらの書評をお勧めしたい。

 「協同主義」というのは、つまり「ソシアル」(俗にいう"リベサヨ"ではなく、欧州的な、増税と社会福祉を提唱し、「大きな政府」を擁護する社会民主主義)のこと。
 つまり、市場主義と所有権と自由主義を優先する「リベラル」に対抗する、非・市場主義(反、ではなく)と社会福祉と平等主義を優先する「ソシアル」を指す。
 (ただし、著者の言う「協同主義」のニュアンスは、欧州におけるソシアルとは、少し意味がずれている気がするが。)



 本書の流れをざっくりまとめると、以下の通り。

 戦前戦中を通じて、総力戦に臨む軍部とつるむ、協同主義(社会民主主義)勢力。
 対抗するのは、市場原理を優先するリベラル一派(と、観念右翼や皇道派といった反動勢力)。
 戦争を推進したのは、どちらかといえば前者だった。
 
 戦後、この協同主義(社会民主主義)は、日本進歩党→民主党の系統、日本協同党→国民協同党の系統にも引き継がれる。
 その後、国民民主党で、両者が合流するに至る。

 そしてこれが、最終的に自由民主党に合流して、協同主義の潮流が自民党に入ってきた、というわけ(リベラルとソシアルのアマルガム!!)。
 
 政党の対立軸がリベラル VS ソシアルにならないで、再軍備の是非や米ソとの関係、"護憲or改憲"で割れてしまった(保守路線 VS 革新路線)ことは良く知られているが、その背景をなしているのが、上の政党の流れである。
 (この辺は、大嶽秀夫『日本政治の対立軸』の第一章あたりも、読んでおくべきところ)

 ・・・まあ、今回書きたいのはこれとは別のことですが。



 50年代は、工業化社会へと突き進む時代だった。
 この工業化推進は、保守・革新が対立することなく進められた政策だった。


 敗戦後の日本は、軍からの帰還組、軍需工場から解放された20代前後の若者で溢れていた。
 彼らは、同一世代による民主的な青年団を地域ごとに結成し、社交ダンスや農村劇などの「農村文化運動」を行う。
 ちなみに、55年ごろまでは、小中学校の教師も、村の青年団に加入するのが慣わしだった
そうな。
 
 農村は、保守の地盤というイメージが強いが、少なくとも当時は、農民組合や民主的な青年団の活動が盛んで、農村のコミュニティも、革新側が主導権を持っていた(183頁)。
 その流れが変わるのは、55年ごろ、農産物の自由化、保守主導による農業基盤の整備などに伴い、くらしが一変し、市場メカニズムが労働と生活に浸透してからだった。
 それまで農村民主化のリーダーだった人物たちは、この時期、自民党へ移っていく。

 農村の「生活保守」化は、農村の「近代化」に伴って為されるに至った。
 農村が革新的であった頃が、一時的とはいえ、日本には存在していたのである。

内向きな「戦争責任」でやり過ごした戦後六〇余年の歳月 -波多野澄雄『国家と歴史』を読む-

 波多野澄雄『国家と歴史』を読む。
 この著者がどんな人物であるかを知っておく限りであれば、この本は、悪い本ではないと思う。



 戦後においてもなお、昭和天皇が継続して在位したことは、国外において、「過去の軍事侵略について日本人が罪の意識を感じているように見えない理由の一つ」となった(34頁)。

 この著者の記述は、Saki Docjrillの論文を参照して書かれている。
 Saki Dockrillについては、細谷雄一先生が、ブログで記事を書いている
 「現在のイギリスでもっとも活躍するイギリス外交史研究者は誰か、という話をすれば何人かの方はサキ・ドクリル先生の名前を挙げるでしょう」という程の研究者だった。



 前に、東京裁判について、「判決だけ受諾したんだ プンスコ」と言い出す人物が現れる事案が発生した。

 この問題は要するに、外務省が、「判決を受諾」と訳せばいいところを、「裁判を受諾」と訳したことに起因している。
 なぜこんなことをしたのか。
 日暮吉延『東京裁判の国際関係』は、「判決を受諾」だけだと、パール判事らの少数意見が排除されちゃうから、あえて国内向けに「裁判を受諾」と意訳したんじゃないの?と書いているらしい(40頁)。

 もしこれが正しいとすると、せっかくの外務省の好意を、かの人たちはぶっ壊しちゃったことになるw



 1970年代の日中国交正常化の件。
 中国政府は、侵略戦争の責任と反省を前提として、賠償放棄を決めた(82頁)。
 中国側にとって、歴史認識の問題と、賠償問題はセットとなっている。

 この点を捉えずに歴史認識の問題を軽んじると、ろくなことにならない。

 そりゃ、日本側が歴史認識をぞんざいにすりゃ、中国側が怒っても無理はない。
 
 (日台の政治関係を切ることもまた、賠償請求放棄の基礎条件だった。この点に関しては、こちらの記事も御参照あれ。)



 欧米の戦争犠牲者補償制度は、一般市民と軍人・軍属を平等に扱う「国民平等主義」が共通の特徴となる。
 そして、自国民と外国人を区別せず、全て戦争犠牲者に平等な補償と待遇を与えるという「内外人平等主義」もまた、共通の特徴となる(97頁)。

 
 一方、日本の補償立法の中心となる恩給法と遺族援護法は、上記の国際的な基準から逸脱している。
 恩給法なら支給額は、退職時の俸給と在職年数で算出されるが、軍人の場合、在職時の階級で差が出る。
 さらに、外地戸籍法の適用者だった、朝鮮、台湾などの旧植民地出身者はハブられている。 

 美しい国ニッポソの光景。



 日本政府はずっと、侵略戦争という国際的批判を「厳粛に受け止め」はしたが、自ら侵略戦争と認めることはしてこなかった。
 村山談話の場合も、戦争遂行の結果(被害)に対して、公的立場として表明・謝罪はしたが、国家補償の根拠となるような戦争責任の所在については、判断を回避している(187、188頁)。

 こうしたダブスタを支えてきたのが、「平和」という主張である。
 すなわち、平和憲法・平和国家を作って過去の戦争を清算した、という便利な主張である
(129頁)。
 随分とまあ、内向きな論法といわざるを得ない。


 
 「一億総懺悔」の悪質な使用法について。

 戦争が全ての国民を動員した総力戦であるなら、一般市民の戦争被害者にも補償をすべきだ、という主張がなされたとき、政府が持ち出したのが「国民受忍論」だった(162頁)。
 要するに、国民が戦争に走った指導者を許してしまったんだから、国民の結果責任だよ、受忍しようよ、という「総責任=無責任」論だった。

 これもまた、随分と内向きな議論
だろう。



 著者は、2007年4月の二つの戦後補償裁判の判決(「中国人強制連行・西松建設裁判」と「中国人『慰安婦』裁判」)についても書いている(213~217頁)。

 この二つの裁判は、最高裁が、被害の事実を認定し、被害者の肉体的・精神的靴の大きさにも言及しているが、結局のところ個人の賠償を認めなかった。
 それは、サンフランシスコ講和条約の枠組みは、日比や日印などの二国間の協定・条約も規定するという考えによるものである。
 個人の請求権などは相互に放棄するというサンフランシスコ講和条約の考え方が、上記の協定・条約の前提になっている、という主張だ。
 しかもその協定・条約の中には、講和条約の当事国ではなかった中ソの共同宣言や共同声明も含まれる、というかなり踏み込んだものである。

 当然、中国政府側、そして日本の法曹関係者は批判している。
 中華人民共和国は、講和条約の当事国ではないし、請求権放棄は政府だけであって、個人請求権も残存しているはずではないか、と。

 この最高裁の判断は、確かにムチャブリだと思うし、内向きな"御用判決"だという感想しかない。
 この判決の背景も、「企業や国が自発的に対応するものを除けば、旧被害国の国民による請求権の行使によって『予測困難な過大の負担を負わせ、混乱を生じさせる』」と著者がまとめるように、自国民への(恩着せがましい)優しさに溢れている(217頁)。

 実際の所この裁判の意味は、「すでに六〇年以上も前の歴史問題の法的判断には限界があり、司法の場に持ち込まないよう歯止めをかけたのである。問題は政府と国民に投げかけられたといえる。」と書いているように、司法はこの問題にタッチしません、ということであり、政府と国民で何とか解決しろ、ということである(217頁)。

 当時の報道を見ても、「サンフランシスコ平和条約によっても個人の請求権が完全に消滅したわけではないが、裁判で賠償を請求することはできなくなった」とか「ここでいう請求権『放棄』は、裁判上の権能を失わせるにとどまる」とかしか書いていない(これとか、これ)。

 この個人賠償(と請求権)をめぐる問題は、結局、政府にボールが投げ返されているんだが、政府側はそれを見て見ぬフリをしたい、というのが現状。

【小文】 「市民社会=市民団体」のなかに、「労働組合」は入りますか? -あるいは、東欧革命の解釈をめぐって-

 植村邦彦『市民社会とは何か』という良本がある。
 マトモな書評は他にもある(そうでないものもあったw)ので、詳細は、そっちを参照された方がいい。
 
 今回は、その一部について。
 第八章の中でこういうくだりがある。

 曰く、
 マイケル・ウォルツァーも、ユルゲン・ハーバーマスも、東欧革命における市民団体の役割から、「市民社会」の再定義を試みている。
 んで、国家権力に対して相対的に独立した領域として、「市民社会」を考えている。
 でもでも、東欧「社会主義」諸国において、政府は経済の領域においても、国営企業の雇用主として、労働者に対立していたはずである。
 ポーランドの「連帯」(労働組合だぜw)を見れば分かるように、政府への異議申し立てとは、労働条件をめぐる階級闘争でもあった。
 でもさ、ウォルツァーも、ハーバーマスも、経済の領分(企業と市場)をハブって、政治の領分(政治的公共圏)における政府への異議申し立ての担い手としてだけ、「市民社会=市民団体」を位置づけているんじゃね?

 著者の言わんとするところは、以上の通りだ。
 「個々の国民が政治的世界の天国にあっては平等で、社会の地上的生活にあっては不平等になるようにしたのは、歴史の一進歩」と喝破したマルクスが聞いたら、どんな顔をするだろうか。

 「市民団体」云々の話をするとき、そこでは、労働組合はハブられている。
 「市民社会」云々の話をするとき、そこでは、「社会の地上的生活」における「不平等」の話は、ハブられてしまう。
 別に無視されているわけじゃない。
 でも、「市民社会=市民団体」の話になった途端、見えなくなってしまうのだ。




 この問題については、またいつか考えることとしよう。

(恐らく続く)
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