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なぜ日本は女性ホームレスが「少ない」か。あるいは、「自立」・「自律」再考 -丸山里美『女性ホームレスとして生きる』について-

 丸山里美『女性ホームレスとして生きる』を読んだ。

 珍しい女性ホームレスを扱った本書だが、その実態を論ずるだけではなく、女性ホームレスの存在を通して所謂「主体性」への批判的吟味にまで達している。

 そもそもなぜ、日本は女性ホームレスが「少ない」のか。

 例えば、他の先進国の場合、DVなどを理由にシェルターに逃げ込んだ人も、統計的にホームレスに当てはまり、そのため女性ホームレスにカテゴライズされる人が多いのに対して、日本の場合は統計に入らないため、数が少なく算出される。
 また、日本の雇用制度の帰結として、男性の場合、労働者として福祉の網から外されやすいのに対して、福祉制度の保護(生活保護)を比較的受けやすい女性は、その分ホームレスになりにくいかった。
 こうした理由から、女性がホームレスとして(統計的にも実質的にも)表れにくい、という日本の事情が、本書では説明されている。
 (日本の雇用形態の場合、女性は男性に養われるのが前提となるような設計のため、女性は例え家庭内で虐げられている場合でも、その婚姻関係のもとに忍従せざるを得ないケースが少なくなかったという事情も、本書には書いてある。)

 だが、彼女たち女性ホームレスは、数は少ないながら、それでもなお、存在していた。
 本書は彼女たちに焦点を当てることで、日本のホームレス研究に新しい視角を与えるだけでなく、人の「主体性」そのものをも再吟味しようとする。
 用いられる理論は、既知の書物・議論によって構成されている。
 しかし、それが女性ホームレスの具体的な存在に触れることによって、見事に活性化している。

 以下、簡単に面白かったところだけ。



 ギリガンは、女性が選択に際してしばしば示す躊躇や逡巡を、(略)背後には、他者の要求にこたえることを長年期待されてきたために、自分で決断してものごとを実行していくことに対して、女性は自信を持ちにくいのだと考えるのである。  (248頁) 

 ギリガンとは、「ケアの倫理」について提唱した人物である。
 「ケアの倫理」とは何か。

 こちらの記事が、本書の当該箇所を引用している。

 曰く、ギリガンは、「『ハインツのジレンマ』と呼ばれる、有名な道徳性の発達指標」にたいして疑問を抱いた。
 このジレンマは、「癌にかかった妻を救うために、夫のハインツは高価で買えない薬を盗むべきか否かを問う」ものである。
 それによると、「男の子のジェイクは薬を盗むべきだとはっきり答え、財産と生命を比べて生命の方が尊いと判断し、これを権利の問題へと修練させていく。
 女の子であるエイミーは、薬は盗むべきではないが妻を死なせるべきでもないと自信なさそうに答え、薬屋が二人の事情に配慮しないのがよくないのだと言って、これを責任の問題として解釈した」。

 そして、「従来の発達理論においては、人間の発達は他者を気遣うことから、規則や普遍的な正義の原理にしたがう つぎの段階に漸進的に発達すると想定されて来たために、エイミーはジェイクよりも未成熟であると解釈されてきた。
 だがギリガンは、発達段階をはかるものさしが男性を規準につくられており、伝統的に女性の徳だと考えられてきた他人の要求を感じ取るという特徴こそが、女性の発達段階を低いものにしてきたことを指摘した」。

 以上の内容である。

 従来の倫理(「正義の倫理」)は、選択と決断を重視し、権利の問題に焦点を当て、抽象化された規則や普遍的な正義の原理にしたがうのを良しとしてきた。
 それに対して「ケアの倫理」は、戸惑いや逡巡に留まって、利害の異なる具体的な他者の要求を感じ取り、気を遣うことを良しとする。
 これら原理は、前者が主に男性に当てはまり、後者が主に女性に当てはまるものとされ、従来は前者が注目されがちだったのを、ギリガンは後者に焦点を当てた。
 (ただし、ギリガンも述べているが、男性にも「ケアの倫理」の特徴を持つ人はいるし、その逆もあり、基本的に男女を問わない。これは、本書の引用にあるように、本質主義的にではなく、構築主義的に考えられるべきだろう。)

 著者は、この(主に女性に見られがちな)「割り切れなさ」や「選択のできなさ」を主体性に関する議論の出発点としている。
 
 (なお、本書ではあまり触れられていないが、「ケアの倫理」では、問題の解決の仕方もまた重要なポイントである。
 例えば、先の「ハインツのジレンマ」を例に挙げると、「ケアの倫理」だと、ただ逡巡するだけでなく、盗まずにお金を借りるとか、もっと別の仕方を考えてうまく調整するとか、選択肢を増やして現実と折り合うという創造的な側面がある。
 この点については、こちらのサイトの記事もご参照いただきたい。)



 あらかじめすでに自立した人間がいるわけではない。むしろそれらのサポートがあってはじめて、彼女たちの自立能力は形成されるのである。笹沼弘志がいうように、「あるモノに出会い、それが自己の欲するものだと気づくことが多々あるように、むしろ、ニーズは後追い的に構成されるものである。精神的自律能力は、助言による選択肢の創出により、初めて涵養されるのである。まず精神的自律能力があってそのあとに選択がなされるのではなく、自覚なく選んでしまった「選択」という実践を通じて初めて精神的自律能力なるものが形成されるのである」 (252、253頁)

 これは、笹沼弘志『ホームレスの自立/排除』の本書からの孫引きである。
 ニーズ(欲しいもの、必要なもの)は、人にとって最初から明確であることは、実はまれである。

 何を欲していたかは、人から指摘されたり、それを得た後になって、判明することが多い。
 ニーズは、たいてい、後追い的に、気づかされるものだ。
 (市場的ニーズをその観点から把握して説明した本として、三宅秀道『新しい市場のつくりかた』などがあるが、今回の話とはあまり関係がない。)

 精神的自律能力というのも、同様に後追い的なものだ。
 自覚なく選んでしまう実践を通じて、初めて、精神的自律能力が涵養される。
 自律とは孤立とは異なる。
 自律能力とは先天的にあるのではなく、身に着けて終わるものでもなく、常に醸成され続ける「過程」である。

 そして、このような「自律」の性質にこそ、「支援」の存在理由はある。



 支援策を利用して野宿生活を脱却することなく路上にとどまり続ける、本書で見てきたような女性野宿者たちを、「自由意志と選択する能力が備わった人格によって」野宿生活を選択していると単純には考えられないからこそ、「女のおしゃべり会」のような取り組みは長く続けられている。 (254頁)


 たとえ保護という名のもとでも、野宿や売春をやめよという呼びかけをすることではなく、野宿や売春をしていても、どのような自分でありたいのか自由に想像し、それが尊重されるための領域を確保するよう、取り組んでいくこと  (255頁)


 主体とは、あらかじめ自立してあるようなものではなく、むしろ長いプロセスのなかで現れてくるもの、つまり、野宿をやめて居宅生活に移るという選択を、その後長い時間のあいだ、失敗もしながら他者とのかかわりのなかで維持していく、その終わりのない過程の中にこそ現れると考えるべきではないだろうか。 (260頁)



 彼ら、彼女らは、単に怠惰な存在なわけでもなく、主体的に自立した個人でもない。
 前者なら、見捨てるべきだ、という議論になるか、かわいそうだから救おう、という議論にしかならない。
 後者なら、自分で選んだ選択なら、別に助けなくていいよね、という議論にしかならない。

 そうした二項対立ではとらえられないものを、著者は見ようとする。
 (だから、ジュディス・バトラーの「エージェンシー」の概念などを登場させているし、ドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域への権利」についても話が及ぶ。)

 そこにあるのは、選択する能力が備わった人格によって野宿生活を選択している「主体である人」ではなく、支援を受けながら能力を身に着けていって、どう生きるかを選択しようとする「主体になる人」とでもいうべき存在だ。
 なりたい主体になるために、急くことなく、じっくりと選択をできるために、そして、その選択が尊重されるためにこそ、継続的な支援が必要になる。
 (引用部にある「女のおしゃべり会」の詳細については、本書を当たられたい。)



 本書を読んで、この時になされた議論を再興しようと思ったが、また別の機会にする。



 (未完)



 (未完なのに追記)
 いくつか、ブクマについてお返事(?)を書いておこう。

ricenoodles  青空ホームレスも実はホームレスたちのなかでの社会があって、それがまた結構ガチガチな排他性があるから女性は弾かれやすいって事情も聞いたことあるなあ。ホームレスとて一人では生きられないからね

 そこらへんの事情も本書に書いてあります。
 そして、そうした現場において、女性たちが生き抜く方法は、一様ではないこともまた。

spamalot 近所に一人いる。そこらへんで排泄するので、いろいろと驚きます。あと、地域の細かいトラブル情報などをよく握っている。市役所の人が困り果ててる。

 このブクマのお方と市役所との関係の方が気になりました(ソッチカヨ

fatpapa 働ける人よりも累犯障碍者同様、知的障害がある場合の受け皿の方が問題。日本の場合、善し悪しは兎も角水商売や風俗という受け皿があり、軽度なら風俗で働けるゆえ男性よりホームレスの選択は少ないと思われる

 「AよりもBを救え」論法は、あまり好みません。
 (なお、精神病患者については、この記事で、さらに児童自立支援施設の子供たちについては、この記事で扱ったことがあります。)
 女性の場合、指摘されている理由でホームレスになる数が少ない、というもの、本書で触れられています。
 ともあれ、一読をお勧めします。
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「ジョブ型正社員」は、先ず隗より始めよ、みたいな話。  -濱口桂一郎『若者と労働』に対する感想-

 濱口桂一郎『若者と労働』を読んだ。
 著者の本(ただし全部新書!)を扱うのは、三冊目となる。

 本書は、
 日本のメンバーシップ型雇用の歴史的成り立ちと、現在抱えている問題点とを、
 「入社」というまさにメンバーシップ型雇用社会に特徴的な事柄を糸口にして平易に解説し、
 (この平易さは、著者も新書三冊目となって説明がこなれてきたのと、担当編集者の力量とによるものだろう)
 一方、日本以外の社会で通常行われているジョブ型雇用も対比としてその実態を詳しく説明し、
 最後に、現在生じている日本の雇用の問題点に対する「処方箋」として、
 ジョブ型正社員という正規でも非正規でもない第三の雇用形態を提唱する、
 という内容である (たぶん)。
 
 ラクレには、『日本人はどのように仕事をしてきたか』という中身の詰まった本もあるが、これについては以前、感想めいたものを書いた。

 気になった所だけ(長い)。



 第一次世界大戦後の大規模な労働争議を経て、日本の大企業は渡り職工を切り捨て、企業内で養成した子飼いの養成工を中心とする労務管理制度を形成する(62頁)。
 この時期になって、それまでまちまちだった養成工の採用年齢や採用時期が、統一されてくる。

 新卒定期採用制は、このころから形作られ始める。
 学校を卒業したばかりの若者に企業負担で教育訓練をし、彼らを企業内で職長等にまで昇進させる仕組みの出発点だった。

 一方、ノンエリートの一般職工は、原則として期間を定めた臨時工として必要に応じて採用され、一定期間勤務すれば、その一部が本工として登用された。
 だが、大半は臨時工として景気変動に対応して雇止めされ、本工たちの雇用のバッファとして機能した。
 
 以上は大企業のお話しである。
 中小企業は、渡り職工的世界がまだ濃厚に残っていた。

 この濃厚な格差(いってしまえば「分断的統治」)は、労働運動に対する対策の結果によるものである。
 (中国でも「分断的統治」に似ている現象はあり、この「臨時工」問題については、梶谷懐先生の記事を参照のこと。)

 戦後もメンバーシップに基づく本工の内部労働市場とジョブに基づく臨時工の外部労働市場という二重構造が再び出現している(65頁)。
 臨時工が大規模に本工に登用されるのは、高度成長が始まり、急速に労働力不足になってからのことである。

 こうした戦後日本における雇用形態の成り立ちは、景気(を原因とする人手不足)などの循環的問題にも、影響されている。
 忘れられがち(?)なので、一応書いておこう。



 1950~1960年代には、経営側と政府が同一労働同一賃金に基づく職務給を主張し、労働組合はそれに対して極めて消極的だった(88頁)。
 だが、1969年に、日経連が年功制を高く評価して、その構図は転換する。

 さらに、1960年代には職種と職業能力に基づく近代的な外部労働市場の確立を目指していた政府の労働政策も、1973年の石油危機を契機に、企業内部での雇用維持を最優先させる方向に大転換する(117頁)。
 大量失業を引き起こさないために、遂に政府側も、労働市場にあった現実を追認することになったのである。
 ここでも景気が重要な要素となっている。
 
 なぜ、当時の労働組合は職務給に否定的だったのか。
 詳細は、著者のブログの記事のこれを読まれたし。

  簡単にまとめると、「戦後の労働組合は戦前の労働組合運動よりも、工場委員会から産業報国会へと連なる企業内従業員組織の系譜を引いて」おり、「共産主義に傾いたメンバーシップ型急進主義が主流」ことが要因としてある。
 「当時は、少数の経営幹部を除き、課長クラスの職員までみな組合員になっていたので、組合側に経営実務のノウハウがあり」、「労働組合の争議手段として、労働組合が経営者に代わって自主的に生産活動を行う生産管理闘争が広く行われた」と、戦争(戦時体制)を引きずっている。

 たしかにこうした状況を経れば、職務給よりも、その後完成する職能給の方が、親和的になるだろうとは思う。

 



 実は、日本の労働省は戦後ずっと、ジョブ型の政策をやっていた(57頁)。
 1948年からアメリカ労働省方式に基づき、職務分析を開始し、その成果を職務解説書として職種ごとに取りまとめた。
 それが173冊に及び、『職業辞典』が作成された。

 ジョブ型の場合、何よりまず、職種単位でのその職業能力に着目した求人と求職者との結合の適格さを念頭に置かざる得ない。
 そのため、このような辞典が発刊された。
 ジョブ型の場合、「人間力」なる抽象的な概念で能力を問うのではなく、必要な能力を具体的かつ厳密に問う。

 職業分析の成果は、その後どうなったか。
 「時代は既に後述のメンバーシップ型労働政策の時代に入っていたが、その間『職業ハンドブック』を何回も刊行、改定するなどが行われた。やがて時代の流れが再び変化し、外部労働市場志向の政策が復活してきた2006年には、ネット上にキャリアマトリックスという職業解説サイトを開設し、多くの人々の利用に供してきた」(出典はここ)。
 その後、後者は事業仕分けで廃止されている。



 厳密に能力を問うのは、学校も同じ。

 欧米社会では、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身に付けたかを、厳格な基準で付与される卒業証書を判断材料として判定される(128頁)。
 恐ろしく具体的(日本の基準だと)。
 本当なら、日本もこれくらいやるべきなのだろうが、メンバーシップ型である日本の雇用社会では難しい。

 以前、charis先生が、濱口桂一郎『新しい労働社会』に関して、「日本の大学には実に多様な学部」があり、「文学部は全体のたった5.9%を占めるだけ」であって、「工学部、医学部、歯学部、薬学部、看護学部、教育学部、家政学部、芸術学部などがあるが、これらの学部は、法学・経済学部に比べると、はるかに卒業後の職業に直結していないだろうか?」と問題提起したことがあったが、上記の欧米社会との違いが考慮されるべきだろう。

 まあ、そもそも、企業側の人材への需要と大学側の人材の供給との間にミスマッチがあるのを防ぐために、大学の学部定員に対してマンパワー政策(つまり、企業側の需要にあわせて、学部側の定員を増減させること)がなされるべきだと思うのだが、さて、どうだろうか。
 (このマンパワー政策については、矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』の最後辺りで触れられていた、ような気がする。)



 というか、そもそも職業教育への比重自体が、違う。
 その最たるものとしてドイツの事例が、本書において挙げられている。

 ドイツのデュアルシステムの場合、座学と実習の両方とも重い、たいへん本格的な組み合わせである。
 ドイツの場合、今では高等教育機関の半分以上は、アカデミックな大学ではなく、デュアルシステムで勉強しながら技能を身につける専門大学だ(176頁)。

 特徴的なのは、デュアルシステムで実習している生徒や学生は、卒業したら、その実習している企業に就職するとは限らないという点である(175頁)。
 このシステムの主体は地域の業界団体であり、会員企業が業界全体の労働者育成のために若者を見習として受け入れている。
 「これはやはり、ギルド的な業界のつながり」があってのことだろう、と著者は言う。

 では、ギルド的なつながりのない日本の場合、どのようにすればいいのか。
 (ただ、金子良事先生は、「別に日本にもギルド的組織がなかったわけではなく、明治期に壊したんだよね。最後まで残ったのが鉱山の友子同盟だと思います」、と述べている。)



 年功賃金制は英語でセニョリティ・ベースト・ウェイジという。
 年功をベースとした賃金、という意味である。

 欧米ではセニョリティを、解雇されない順番に用い、日本ではそれを職務と切り離された賃金の決定に用いる(107頁)。
 ここに重大な違いが生まれる。

 日本では、中高年労働者の賃金がセニョリティに基づいてその仕事に比べて高くなっているので、実際にリストラが行われるときには、中高年労働者から退職勧奨がされるのである。
 ジョブ型の欧米の場合、リストラは若者からなされるのとは対照的である(特に欧州の若年層の失業率を見よ。)。
 年齢で大きく賃金が変わらないなら経験豊富な奴を雇う、じゃあ経験が浅い(あるいは、無いやつ)は、当然雇われにくい。

 ジョブ型雇用社会とは、ジョブを厳格に問うゆえに、弱年齢者・職業経験の浅い者にはきつい社会である。
 その対策として、職業訓練、職業教育が重視される。

 もっとも、セニョリティは基本的に在職している年数によるので、一度会社が倒産したら再就職したら在職年数は一からやり直しである(ような気がする)し、また、衰退産業に在職していた中高年の場合、やり直しが相当厳しいと思うのだが。
 北欧諸国のような、アクティベーション政策をやっている国の場合には、また違うのだろうか。
 (中高年が他の産業・業界に移る場合の実態などが、知りたい。)



 1987年と比べ、20年後の2007年は非正規雇用が大幅に増えている。
 ただし、増えたのは、臨時型の非正規雇用ではなく、常用型の非正規雇用である(246頁)。

 つまり、常用型であるにもかかわらず、雇用側が就労コスト等を理由に、非正規にとどめられている者が大半、というわけである。

 延々と非正規にとどめられるくらいなら、中間の雇用形態としてジョブ型正社員 (いうまでもなくジョブ型正社員は無期雇用)がありうる、というのは一応もっともなことである。
 ジョブ型正社員とは、職務や勤務地、労働時間などが限定される代わりに、その職務(ジョブ)がなくなった場合には、整理解雇ができるポジションのこと。

 「正規社員」と聞こえはいいが、「ワークライフ"イン"バランス社員」とも言えるのである。



 ジョブ型正社員の場合、リストラ時に残業削減の余地は無い。
 そのため、そうした場合には、直ちに整理解雇となる。
 ただし、労働時間を減らして賃金を分け合うワークシェアリングはあり得る(262頁)。
 (ただし、このワークシェアリングがめんどくさい問題であることについては、著者のブログ記事のこれを参照。)

 また、彼らは賃金は時間単位で計算される。
 (この点はやはり、ジョブ型に近い)

 彼らは職務給だが、若年期には、勤続による習熟に対応した一定の年功的昇級がなされる。(35歳くらいまでだろうか。)
 ただし、その教育訓練も、その職務系列の上位に昇進するためのものに留まる。
 つまり、社長へ至る幹部クラスにはなれない(≒ならなくてもいいw)ということ。

 こういう道が、確かに、あっていいはずである。



 ところで、整理解雇しやすくなったということは、ジョブ型正社員の場合、再就職中の対策はどうするのだろうか。
 (もちろん、整理解雇を口実にした首切りにも、監視の目が必要である。)

 また、仮に時間単位で給与を計算する場合、これまでメンバーシップ型正社員に与えられてきた、企業による「福祉」はどうするのだろうか。
 メンバーシップ型雇用の場合、中高年になってから益々必要になる住宅や養育・教育の費用を、国ではなく企業が引き受けてきたわけだが、それならジョブ型正社員の場合はどうなるのか。
 企業側が継続して引き受けるのか、それとも国が社会福祉で何とかするのか、それとも放置プレーを決め込むのか。

 ただ、樋口美雄先生の言う通り、つまるところ、「転職したいと思えるような職種や賃金などの労働条件がよい魅力的な産業を生み出せるかが課題」であり、「ニーズにあった人材を育成できるよう職業訓練の充実も問われている」。
 はたして、どうなることやら。

 とりあえず、山下ゆ氏が述べているように、「国や地方公共団体等の公的セクターが、この無期への転換を積極的に進め、年功賃金ではない「ジョブ型公務員」を生み出して行かないと、この改革はうまくいかない」だろうし、「厚生労働省がハローワークの職員の雇用などで率先してこうしたことをやれ」という話になる。
 そういえば、清家篤先生は賃上げ対策について「政府ができるいちばん手っ取り早い策は公務員の給料を上げるということ」と言ってたと思うが、上掲のような対策も、是非「隗より始めよ」でお願いしたい。

 (未完)

雇用の常識、探ってTRAY・戦後日本の雇用編 -海老原&荻野『日本人はどのように仕事をしてきたか』雑感-

 海老原嗣生・荻野進介『名著で読み解く 日本人はどのように仕事をしてきたか』を読む。

 戦後に出版された(日本の)雇用系「名著」の中身と、その本の歴史的な存在意義を解説している。
 だが、それだけではなくて、その「名著」の著者たちの「コメント」(反論?)も掲載している。
 とても勉強になるだけでなく、フェアな書物でもある、といっていいだろう。
 著者側と、読者側のスタンスや考え方の違いを踏まえて読むのが、この本を楽しむコツである。

 この著者の一人については既に、ここの記事で書いたことがある。

 興味のある所だけ。



 戦前では旧制大学を卒業して職員として入社した新入社員の初任給は、50代の熟練工員の三倍以上だった(21頁)。
 それだけではない。
 職員は月給制に対して、工員は日給制。
 各々で、使えるトイレや売店も違い、売店で売られている品目も差がついていた。
 片や内地米、片や植民地の外地米である。

 まさに身分制度。
 ここらへんを踏まえないと、日本の当時のブルーカラーの怒りも伝わってこないだろう。



 欧米の工員、ブルーカラーの場合、ギルドに端を発する組合に参加する権利があり、横のつながりがあった。
 業務独占権が組合には半ば認められていたし、新規参入を阻むことも出来た。
 また、会社を首になっても、組合を通じて、他の企業に簡単に転職できるメリットなどもあった。
 ところが、日本には、こうした仕組みはなかった(22頁)。
 ・・・正確には、当時の政府に潰された、という感じだと思うが(戦前にも「友愛会」ってのがあっ(ry。

 こうした歴史的背景が、日本で企業別組合が強くなっていく遠因となる。

 ところで、欧米以外の場合、ギルドってあったんでしょうかね?
 知っている人は教えてください(こなみかん。



 アベグレンの『The Japanese Factory』(邦題:『日本の経営』)は、そのまま英訳すると「日本の工場」というタイトルであった。
 この本は、同時代1950年代の日本の工場、それも、数千人規模の超大手企業に力点が置かれていた。
 当時の総労働人口の多くて5%程度を対象にしていた(27頁)。
 たった5%である。

 アベグレンのこの書物は、むしろ、その後の日本の雇用形態・経営形態の「予言」的な、あるいは「自己成就」的な書物だったのである。

 (「アベグレンって誰?」ってひとのために、念の為説明しておくと、彼は、戦後日本の企業が発展してるのは、「終身雇用」、「年功序列」、「企業内組合」の三つのおかげじゃね?、と、いち早く唱えた人である。)



 楠田丘式の「職能資格制度」に対しては、バブル崩壊後、一時期評価が下がったことがあった。
 給与の下方硬直性のために、働かない中高年を生み出したのではないか、という批判である。

 だが、楠田はすでに、1974年の自著において、他の部署に異動して2年経っても能力を発揮できないなら等級を洗い替えすべきだし、職能自体も、2年ごとにこまめに見直すよう書いている(80頁)。

 1970年代にすでに書かいたのなら、弁明としては十分だろう。

 念の為書いておくと、楠田は、日本の「賃金システム研究の第一人者」であり、「職能資格制度」の生みの親でもある人物。
 「職能資格制度」は、今現在の職務や役職とは独立に、従業員が持つ(と会社が認めた)能力に応じて、「資格」(等級)を付与する制度である。
 この制度によって、年功序列と社内配置転換を基礎とする日本型人事制度は可能となる。
 メンバーシップ型の雇用制度においては社内配置転換が不可欠であり、たとえば別の職務に移ったときに大きく給与・待遇などが変動(減棒)しては配置転換も上手くいかない。
 そこで、この制度がある。



 小池和男の研究によると、日本の企業の大小での給与格差は、欧米と著しく大きくはない(104頁)。

 まあ、こういうのは、公的な社会保障とか込みで考えないといけないわけだが。
 はてさて。



 欧米の場合、勤続年数が短い層も厚いが、勤続年数10年、20年という長期雇用層も厚い 。
 理由の一つはセニョリティが確立され、勤続年数が長いほど、首にならないためである(105頁)。

 しかも、小池『アメリカのホワイトカラー』によると、米国でも、課長クラスでは、圧倒的多数が内部昇進である(106頁)。

 意外にも、欧米においても、勤続と昇進は、こんな感じである。
 セニョリティについては、熊沢誠『労働組合運動とはなにか』でも、けっこう重視して書かれてある。
 いい本なので今回の本とあわせてご一読願いたい。

 ちなみに、OECDの統計でも、40代男性の転職率は、欧州各国で5~10%。
 50代男性の勤続年数は平均が20年を超える国が多々ある(301頁)。
 思いのほか、他の国も、結構長く勤続・定着をしていたりするのである。



 島田晴雄は、過剰となったホワイトカラーの管理職層をリストラしろという当時の風潮に異議を唱えている(177頁)。
 『日本の雇用』が出版された1994年の話である。

 要は、働き盛りのときには貢献度より低い賃金を支払われていたのに、中高年になって解雇するのは、事実上の契約違反だ、というのである。
 それに企業にとっても、彼らは貴重な人的資本であり、その喪失は中長期的に損失になるので、むしろ彼らの能力の活用や再開発に力を注ぐべきだ、という。

 だが現実には、島田の意見は容れられず、企業は年功カーブを修正し、40代以降の定昇の廃止をして対応した。
 つまり、企業側は、「契約」を、後出しで修正したのである。

 島田先生の当時の意見が真っ当過ぎて吹いたw



 1980年以前には、米国でも賃金は成果でなく、現在のポジションに対して支払われる(職務評価による序列主義)傾向が強かった。
 その後、米国企業は、20~40あった職務等級を廃止し、4~6段階の等級を設定する制度をとった。コンピテンシー(競争力の源泉となる実力)の考え方である(209頁)。

 この「コンピテンシー」の功罪については、そのうち考える事にしよう。



 非正規社員1700万人超という言説に対し、著者は反論する。
 うち主婦が900万人、主婦除く60歳以上が250万人、学生が150万人である、と(241頁)。

 まあ、これは、著者(ここでは海老原氏)がいつも言っていることなのだが。

 問題になるのは、上記のどれにも当てはまらない「世帯主なのに非正規」というシングルマザーを中心とした労働者たちである。
 そういった人々は、「日本型雇用社会」のなかで、事実上、置き去りにされてきた。
 やがて、「大卒なのに非正規」という新卒が世に出回り始め、それが広く知られるようになったとき、「非正規型雇用」の存在を危機とする世論は、一気に沸騰することとなった。
 ここらへんも、本書に記載がある。

 (それでもなお、正規・非正規に関わらず、長時間労働があったりだとか、会社の「外」の社会保障の脆弱さ、ゆえにパワハラ等に逆らいにくい状況であるだとか、問題はぎょうさんあるわけだが。)

(未完)

年休100%消化方法と、残業がデフォな労働慣行という厚い壁(ニッポンの雇用を考える) -水町勇一郎『労働法入門』雑感-

 水町勇一郎『労働法入門』を読む。
 実に良くまとまっている。
 そして、著者の人柄も良く出ているように思う。

 例えば、「労働審判審査って何?」とかいっちゃう人は、さっさとこれを買うなり借りるなりして読むべき。

 興味のわいたところだけ。



 会社と労働者との間の労働契約は原則的に、労働者の働く義務であり、会社が賃金を払う義務である、という契約であって、働くことは労働者の義務ではあるが、権利ではない。
 そのように日本の裁判所は、判断している(xii頁)。

 日本のメンバーシップ型の雇用の場合、賃金が発生している限りは、会社から何もしなくてもいい、なにもするな、と命令されたとしても、甘受せねばならない(他の法に触れない限りにおいて)。
 つまり日本の場合、ある労働者が、具体的に何か仕事をさせて欲しいと頼んでも、会社側が何も仕事を与えないことは、原則的に認められる。
 一方ドイツとかだと、労働者が会社に働かせてくれと求めることができる。

 日本では、中身が決められた労働が義務なのではなくて、メンバーである(所属する)ことが義務みたいなものとなっている。
 
 だから、上記のような完全な「飼い殺し」も、日本では発生しうる。
 改めて考えると、これは実にヘンな光景ではある(きちんとした背景があるにせよ)。



 実際の裁判例を見てみると、日本の整理解雇法理は、それほど厳格で硬直的なものではない。
 個々の状況に応じてある程度柔軟に判断されている。

 整理解雇の四要件をそのまま全て当てはめたものはむしろ少数であり、人員削減の必要性のみを考慮するものや、それに加え、配転の可能性や手続きの妥当性を考慮して判断するものが多い(57頁)。
 人員削減の必要性が疑われる場合、解雇は大抵無効になる。
 同じ職務についていた奴が、何故か解雇されなかった場合などが、それにあたる。

 解雇法理の実際は上記のようなものだが、よく実態以上に厳格なものだと間違われたり、悪質な場合は、解雇規制緩和を喧伝する輩に酷く誇張されたりする。
 後者に関しては、経済学者とか、エコノミスト()とか、自称経済学者()とか、そっち方面に多い気がする。



 日本の年休消化率が低いのは、労働者に年休の時季指定権を与えている日本の制度に原因がある。
 欧州諸国では、年休時期を決める権利は基本的に会社側にある。
 会社が年初に、労働者の希望を聞きながら年休のカレンダーを作成し、労働者はそれに従って年休を100パーセント消化する(133頁)。

 日本の場合、無給の休暇となって、給与が減額されるのを恐れて、結局有給を取れないケースも勿論あるだろうが、大抵は、周囲に気を遣って取れないケースが大半だろう。
 そういう意味で、この方法は十分検討に値すると思うが、どうなんだろ。



 もし日本で、(EUのように)労働時間(所定内労働時間+残業)の法的制限をかけると、これまでのような、不況の時は残業を減らして雇用の調整を行って解雇を回避する、といったことが難しくなってしまう(145頁)。

 ならば、(究極的には)所定内労働時間に手をつけるしかないわけだが、こういうのは各企業の労使協議で、時限的な所定内労働時間短縮を決めることを認めるしかない気がする。
 つまり、好況の時は、法で制限された労働時間でのみ残業労働を行い、不況の時は、労使が協議して所定内労働時間を必要程度短縮する、というふうにする。
 結局、労使協議がものをいうけれども、悪い解決策ではないと思うがどうだろうか。

 (追記)
 この残業のレゾンデートル的問題の焦点は凡そ二つあり、一つは、残業代をデフォルトで生活設計している日本の労働者(家とか教育のローンのせいかしら)の問題であり、もう一つは、正規・非正規でどのように調整に線引きを行うのかの問題、だろう。
 後者の問題の焦点も、究極的には、前者に帰結するように思いますけれども(その一例として、hamchan先生のブログの記事を御参照あれ。)

「そして、謎は残った」・・・日本の雇用に潜む二重構造 (あとは職業教育について) -濱口桂一郎『日本の雇用と労働法』を読んで-

 濱口桂一郎『日本の雇用と労働法』を読む。
 内容は、前に書かれた新書である『新しい労働社会』と重複する箇所が多いが、前著が欧州との比較を意識しつつ、日本の目指すべき「新しい労働社会」への構想が書かれていたのに対して、本書は、日本の戦前~現在までの日本の労働における、法と判例を紹介し、その二つのギャップを埋めることを目的に書かれている(はず)。

 気になった箇所だけ。



 労務については、ローマ法的な債権契約な性格という考えと、ゲルマン的な身分契約な性格、という大まかな二つの見方が、歴史的にある。
 で、労働者保護の問題意識から、雇用関係の身分的性格を強調したのが、末弘厳太郎。
 この労働法の元祖の影響もあって、日本では、雇用を債務契約として捕らえることはあまり積極的ではなかった。

 これが戦後メンバーシップ型の判例法理が発達した原因の一つかもしれない、と著者は書いている(37頁)。

 この何気ない箇所が実は重大である旨を、金子良事先生は、本書の書評で書いている。
 (その後続く、著者と金子先生とのやり取りも要チェック)
 ここら辺、誰かに詳しく書いて欲しい所であり、実際、「末弘厳太郎の話も出ていましたが、初期の労働法学者が契約原理を曲げてまで就業規則の普及をめざした事情についても、もうちょっと書いてほしかったような気もしました」とコメントされておられる方もいた。

 ちなみに、「末弘厳太郎が日本の労働法の元祖であるとともに法社会学の開祖でもあるという位置にいる」にもかかわらず、「日本の法社会学というそれなりに確立した学問分野において、労働の世界はほとんどその対象として取り上げられておらず、事実上欠落」している(この記事)。
 また、「多くの労働法学者の関心が集団的労使関係の、それも労働基本権に集中し、団結権とかスト権とかばかり論じられているところでは、そういう労働組合もあまりないような中小企業の個別労働関係に着目した研究というのはほとんど見当たりません」とも(この記事)。
 ここら辺の「どうしてこうなった orz」に対する解説が、今もなお待たれている(結局、大企業と中小企業との二重構造を背景とする「報道バイアス」ならぬ「研究バイアス」に帰着してしまうのかも)。
 
 この記事を読むと、何だか、「一億総中流」論の成立とかにも関わっているようにおもうのだけど。



 急進的な労働運動を抑制するため、1949年に労働組合法が改正され、労働協約が自動延長できなくなり、経営者の一方的な破棄によって無協約状態が広がっていく。
 その結果、日本では、労働協約ではなく、就業規則が強い影響力を持つことになる
(45頁)。

 是非、労働協約の自動延長をデフォルトにするようお願いしたいところだが、この就業規則の強さというのは、水町勇一郎『労働法入門』のいうように、労働者整理解雇しにくくした「代償」(等価交換w)的な意味ももっているので、話は簡単ではない。



 1950~1960年代に大規模な配置転換が装置型産業で起こる。
 この労働需要を殆ど、旧工場の労働力を配置転換して満たすやり方を取った(81頁)。

 労働者は、子飼いで長期雇用システムの中で昇進・昇給していたので、その道から外れるのは、低賃金の中小の労働者や臨時工のなかに放り込まれることを意味しており、選択肢はなかった。
 しかし一方、労働側は、配置転換を受け入れつつも、労働条件の維持を要求し、実現した。


 日本のメンバーシップ型の雇用の背景の一つにあったのは、こうした「大企業と中小企業という対立軸」なのだろう、と、こういうのを読んで思う(またも「二重構造」か)。

 他国の「雇用と労働法」の歴史との比較というのが、今後必須になってくるのかもしれないが、EU内部でさえその歴史は多様なのだから、難航を極めるだろう。



 戦後、新制高校が設けられ、戦前の実業学校は職業高校に移行した。
 しかし教育界では、「普通教育が偏重され、職業教育を不純物と見下す発想が強く、職業高校は沈滞」
 こうして"みんな普通科に行けるようにしよう"という考え方が広まり、職業高校は、普通科にいけない「落ちこぼれ」の集団と見なされるようになった(100、101頁)。

 『新しい労働社会』と重複する箇所であり、ここら辺の教育界側の思惑については、苅谷剛彦『教育と平等』も参照されるべきところか。

 この件については、著者が以前紹介した田中萬年先生の論文も必読だろう(ここで紹介している)。
 曰く、「戦後にアメリカの学校制度をモデルにしたが(略)アメリカではわが国のように職業(専門)高校と普通高校を明確に分離しない、いわゆる総合制高校である。そこではわが国のすべての高校の内容が修得可能なのである」。
 実に重要な指摘である。

 実は、田中先生はその当該の論文の最後で、「職業教育には財源が膨大にかかる。江戸幕府より困窮していた明治政府は、職業教育を施策できなかった。」とも書いておられる。
 日本における職業教育の弱体化は、上記の「上部構造」的な歴史的経緯のみならず、財政という「下部構造」的な側面も与っていた可能性がある。

 戦後すぐに「財政が膨大にかかる」職業教育はできず、その他「上部構造」的な経緯もあって、職業教育は盛り上がらなかった・・・みたいな仮説を、誰か検証してくださいw



(追記。2013/11/5)
 上の、戦後日本において職業訓練が盛り上がらなかった原因については、ブコメでgruza03氏が書かれているように、「旧帝と四年工・大学(二部)。職業高校出身と労働組合内の序列。階級差別を生んだ労働運動の現実とその脱却としての普通教育偏重への傾斜と職業訓練蔑視」という、階級の壁も、背景にあると思われる。
 ここらへんは、苅谷剛彦先生案件だろう。
 で、末弘厳太郎ら「初期の労働法学者が契約原理を曲げてまで就業規則の普及をめざした事情」については、こちらのブログさんの記事で、次のように解説されている。
 「就業規則は工場という部分社会の慣習法であるとした末弘厳太郎」が「法規説を採った理由は、当時、使用者の恣意的な労働条件決定や変更が横行する工場内において、経営上の必要性と職工の(大体の)承認を条件に就業規則自体の法律的効力を肯定し、もって使用者の横暴を律するところにあった」。
 「形式的な契約説は無力であり、実態に即した法規説による労働者保護こそが必要であると末弘は考えたのであろう。しかし(以下略)」と話は続くが、続きは引用元ブログの記事を御参照あれ。

有能な人材は有効に使おうね、の話 -あと、天下りについて- 沼上幹『組織戦略の考え方』を読む

 沼上幹『組織戦略の考え方』を読む。



 組織あるあるだが、優秀な技術者ほど根回しみたいな雑事まで大量に集中しちゃって、結果的に有能な技術者がコンセプトを考えるなどの「創造的」な仕事に費やせる時間が少なくなってしまう(52、53頁)。
 だから、上司は彼らにのしかかる雑事を減らしてあげる「勇気」が必要になってくる。
 この手際が、上司の力量を見る一つのバロメータになる。

 著者曰く、1つの課の仕事の8割くらいを一人の人間が処理しているということが、日本の組織ではざらにあるらしい(多分正しい)。
 でも、会社のエースの数というのは、どの会社でも限られている。
 だから、トップマネジメントで重要なのは、誰が社内のエースかをよく認識し、彼らには本当に重要な仕事しかさせないようにすることだ(137頁)。
 いや、難しいんだけどね、これ。



 とっても重要なことは、ボトルネックへの意識だ。
 例えば、技術者が慢性的に忙しい会社があるとする。まさに、技術サイドがボトルネックになっているわけだ。
 そのとき営業サイドが、張り切ってしまうとろくなことにならない
(53頁)。
 張り切りすぎて、「(自称)会議」とかで技術者たちの時間を奪ってしまったり、仕入れた「顧客情報」を分析もせずに大量に丸投げして手間取らせたりしてしまうからだ。
 (もちろん、逆のバージョンもありえるけど。)
 営業が頑張れば頑張るほど、研究開発の納期が遅れる。この逆説。
 組織あるあるだ。



 天下りについて。

 良く良く考えれば、何にもしないで役員給与だけもらい続けられるほどの強靭な神経の持ち主なんて、ほとんどいない。
 それなりに「自分は役に立っている」という自己認識を求めてしまう
ものだ。
 そう思いたいわけだ。
 天下った人間にだって、当然、プライドはある。
 人間だもの。

 そこで、天下った人間は、自分の貢献が大きいように見せるために、ある行動に出る。
 「キツネの権力」を発揮することだ(201頁)。
 要は、自分の出身団体の権威を借りて、今の会社とのパイプ役として、しゃしゃり出ようとするわけだ
 私が両者の間に立てばうまくいく、という振舞いをしたがるわけだ(実際はいなくてよいケースもあるのだが)。
 自分の出身団体の権威を借りる、まさにキツネ。

 こういう振舞いに出た場合、組織はかき回される。
 両者のパイプになるどころか、両者の間の障壁になってしまうわけだ。
 そいつがいることで、両者の意思疎通は疎外され、マトモな議論もできなくなる。

 天下りは、そいつを雇うこと自体のコストよりも、両者の間のジャマになることで発生するコストの方が、長期的には大きい。
 (もちろん、天下った奴が有能な場合はまた別だ。)
 気をつけたいところですな。

「ミクロ」に関する解釈はともかく、マクロの方は納得。 -海老原嗣生『学歴の耐えられない軽さ』を読む-

 海老原嗣生『学歴の耐えられない軽さ』を読む。



 著者は、「企業人となってから生かせるような学問 (略) もし、そういう学問を教えてくれる大学があったなら、社会人になる予定の学生たちも、喜んで勉強をするだろう。その証拠に、企業で即生かせる内容が主流の理系学生は、同じ大学生でも「ここまで勉強するか」というほど勉学にいそしんでいる。/そうして彼らの多くが教授推薦・学部推薦などで早々に進路が決まる。」というふうに書いている。

 うーんどうだろうか。
 第一、それだと、文系に教授推薦がないとおかしいわけだから。
 学生が求めているのは、企業へのパスであって、「企業人となってから生かせるような学問」じゃない。
 理系学生があれだけ勉強するのは、それが教授の評価=企業へのパスに直結するからだ。
 げんに、著者自身が既にそう書いているんだし。



 著者は、大学はいっそ「補習の府」になるべきであり、いっそこうしたカリキュラムを、と大胆に提言する。
 「社会人に必要な教科を各学部から拾い上げ」る。
 内容は、 「地誌」「ビジネス英語」「簿記」「税務」「価格理論」「マーケティング」「労働法」「商法・会社法」「特許法」「給与・社会保険・年金計算」「組織心理」「経営文学(経営を扱った小説など)」「商業金融」などを集め」、 「基礎力として、小学校社会・算数、中学英語の復習を、一般教養過程に盛り込む」のだという。

 基礎としての「復習」というのは、大学の現状を考えた場合、決して悪い提案ではないと思う。
 ただ、科目がw
 「経営文学」は正直、不要だろうし、それにどーせ、ほとんどの学生が営業にまわされるのだから、もっと営業向けの科目に絞り込んだ方がいいと思う。
 それに、科目が何だか、大企業向けになっている気がする。
 中小企業の営業職なら、もっと泥臭いことを教えた方がw
 こういったカリキュラムは、もっと企業側(むろん中小企業を含む)の意見を反映させた方がいい気がする。
 本気でやるなら、ね。

 (まあ、もっとも、こうした改革が必要になるのは、比較的下位の大学になるんだろうなあ)



 著者曰く、「すでに今の大学生(特に文科系)は学問などはほとんどしていないのが現実だ。大学での専攻について、就職活動の面接でまともに語れる学生などいない」。
 そして、「こんな体たらくよりは、簿記なり会計なり民法なり、といった「ビジネス寄りの学問」でも、真剣に学んだほうが学問の府として意義はある」。「「会社で必ず役に立つ」「将来の自分のキャリアを広げる」こうした触れ込みがあれば、学生たちも本気で学ぶことになる」。

 うーん。どうだろw
 それだと本来なら、商学部が過当競争になってるはずなのでw
 大学改革という点に関しては、以前取り上げた、矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学』をお勧めしたい。
 結局、卒業を難しくすれば、嫌でも学生は勉強せざるを得ないわけですから。
 問題はそれをどういうシステムでやるかってはなしだもの。 



 本書の魅力は、マクロのデータを使って論じる所だ。これには勝てない。
 正直、「ミクロ」に関する著者の解釈は若干怪しいけど、マクロの方は、納得せざるを得ない。



 例えば、「高卒相応の職場」が減っているという指摘だ。
 自営業は、生産年齢人口の減少幅を大幅に上回る減り方をした。
 そして、「円高・グローバル化により、工場の海外移転が起き、製造技能工という受け皿が縮小」した。
 職場はもう、販売・サービスだけだ。
 「高卒相応の職場」が今の社会にはない。
 なぜこのような現象が見逃されてきたかといえば、高卒の人間自体が減少したためだ
(代わりに大卒が増えた)。
 「高卒就職者は、1985年から2005年までの間に、なんと7割以上の減少を見せた」のである。



 製造業派遣についても述べている。
 曰く、「製造業派遣の就労者は60万人前後と推測され、就労者全体に占める割合で言えば、0.8%程度」しかない。
 実はこの多くは、「構内請負業」として90年代よりずっと同じような待遇にて就労していた」のであり、「雇用形態名称を「派遣」に変えただけ」というのが現実である。
 もっというと、その源流は、50年代にまでさかのぼれるという。
 つまり、製造業派遣というのは、新しいようで実は古い問題である。

 それより注目すべきは、「製造業従事者自体が20年間で1397万人から1065万人へと激減した」ことである。
 産業形態が大きく変わってしまっているのが如実に分かる。

タダで生きることの知恵、そして、タダで即戦力を得ようとする愚かさについて -松本哉『貧乏人の逆襲!』・雑感-

 松本哉『貧乏人の逆襲! -タダで生きる方法-』を読む。
 実に実践的。
 そして、説得的。



 野宿の際は、サングラスかけて寝るのも手である(26頁)。
 起きてるかどうか、分かりにくいから。
 実際効果的だ。(夜なら、まずバレない)
 


 ヒッチハイクの方法。
 道端で行き先書いたスケッチブックを掲げるよりいい方法。
 ドライブインやパーキングエリアあたりで停まっている車に頼んでみる(42頁)。
 「OO方面へ行きたいんだけど、途中まででいいから・・・」的な頼み方が、効果的らしい。
 急にヒッチハイクがしたくなったら、こっちをお勧めするw



 ビラを印刷する際は、市や区の施設を使うのが手っ取り早い(51頁)。
 紙は持ち込みで、印刷機だけ貸してくれるシステムが、多い。

 料金は結構安い。印刷屋の半分くらい。
 アビジラを作りたくなったら、是非ご使用あれw



 町内会などが行う、「防犯パトロール」について。
 不審者を見つけて警察に通報するだけのパトロールに、著者は批判的だ(77頁)。
 「警察の手下」でも出来るようなことであって、「自治」の風上にも置けない斯業だからだ。
 本当の「自治」なら、自分たちで問題を解決しなきゃ、と。
 コソ泥を見つけたら、捕まえて説教しろ。これが自治の理想じゃないか。
 「なんでもかんでも警察じゃ、自治能力がゼロになってしまう」という著者こそ、コミュニティの真の何たるかを知っている。




 著者が警察にパクられた、例の事件。

 どうも大学を、「学生が自由に学問や研究、自主活動をする場」から、「企業の即戦力を養成する場」に変えようというたくらみのようだった。なんだ、バカバカしい。こっちは金を払ってんのに、なんで都合のいい人材養成なんかされなきゃいけないんだよ。それだったら逆に金をよこせ、こら! (100-101頁)

 少なくとも、
 金を支払う側が学生(どーせ、奨学金という名の学生ローンw)である以上、学生の要求こそ優先されるべきであり、企業はむしろ、金を支払うべき立場でさえあることは、否定できない
 企業は、自分たちが行うべき社内職業訓練費用までをも、大学に転嫁する、という格好だからだ(相応の質の人材を大学側に求めるだけならまだしも、"即戦力"ってw 中途雇えよw)。
 つーか、学費高すぎだろ。

 大学を「企業の即戦力を養成する場」にするなら、①大学授業料への公費投入を増やして、家庭の負担軽減を図り、②その上で、企業側も「即戦力養成」のために大学に一定のお金を出す、といった改革が必須だろう。
 それが可能になってやっと、大学を「企業の即戦力を養成する場」にすることは、最低限正当化できる。
 即戦力?じゃあ、金払えw
(ここら辺の議論は、前回の記事もご参照あれ。)


 
 伝説の、「3人デモ」や、「すっぽかしデモ」についても、記述がある。
 脱原発デモでも、そろそろ、これをやるべきじゃないかw?



 最後に。
 著者は、自分がお勧めする店や集団を紹介したあと、こう述べている。 

 好き勝手にやっているということは、自分の力で何とかやりくりしているということでもあるので、「なんか面白いことをやってくださいよー」っていう消費者スタイルで近寄ったら、つまみ出される可能性もある。

 これは、「素人の乱」に対しても同じことが言えるかもしれない。
 「素人の乱」に対して、「「なんか面白いことをやってくださいよー」っていう消費者スタイルで近寄っ」ちゃいけない。
 自分から動かなくちゃいけない。

 自戒。

消費者代表の問題と、再度、職業教育について 濱口桂一郎『新しい労働社会』(8)

■労働者代表を、政治的決定プロセスへの参加させる■

 労働者代表と消費者代表を一名ずつ参加させ、その間の真剣な議論を通じて日本の社会経済政策を立案していくこと (210頁)

 これが著者の提案です。本書執筆当時、経済財政諮問会議には、民間として経済界から二名、経済学者二名というメンバーのみの出席でした。しかしこれは、ステックホルダー( 利害関係者のこと )の均衡に反してしました。結果、「グローバル競争の激化から企業側からの負担返上の要求が、「経済財政諮問会議」において労働側の代表がいないまま」一方的に内閣に提出されたのです。(注1)
 「労働政策は政府・経営者・労働者の三者の合議で決めるという「産業民主主義の伝統」こそ大切にすべき」なのに、「経済財政諮問会議や規制改革会議という名の「哲人政治」がまかり通り、ステークホルダー(利害関係者)を排除した「単純明快で威勢のよい議論」」ばかりがまかり通ったわけです。この【不正】を是正するために、労働者代表の出席が必要なのです。
 労働者代表の積極的関与、という点は、前稿にて言及したとおりです。

■消費者代表も、政治的決定プロセスへの参加させる -そして協同組合へ-■
 「濱口さんは、あくまでもコーポラティズム的な枠組みの中で労組ができるだけ幅広い労働者の利害を代表していくことが基本だと考える。私もそれが現実的だと思わないわけではないのだが、ただそこでは、利害が考慮される単位は職場や組合という集団であることが前提になってしまっている(と言わざるを得ないと思う)」(以上、「ステークホルダー民主主義の射程」『on the ground』様)。このような指摘がでています。これに対して著者は、既に応答しているように、消費者としての利害の代表というものを視野に入れているようです。ゆえに、消費者代表も出席することを、提唱されているのです(詳細「きはむさんの拙著に対するコメント」の記事参照)。
 だとすれば、前回書いた内容にあるとおり、労働組合の強化・再編に並行して、協同組合の強化・再編も考慮される必要があるはずだと思います。実際著者は、協同組合の存在についても言及しています。ただし触れているのは、労働者協同組合(ワーカーズコープ)のことです。これも重要な協同組合の一種です。(注2)
 「「協同労働」は、働く人々が出資し、経営にも参画する働き方のこと。民間企業とは違い、雇用する側と雇用される側を区別しない。70年代から公園の管理や清掃、介護・子育て、配食サービスなど地域に密着した分野で、労働者協同組合(ワーカーズコープ)として広がった。全国で3万~4万人が参加しているとみられる」(原典「働く人が出資、経営も参加 「協同労働」法案提出へ」『asahi.com』様)。このような労働者協同組合の存在は、企業と労働組合の話に集中していた議論へ、一石を投じるものでしょう。(注3)

■【消費者】と【消費者代表】のあいだ■
 さて、消費者代表の件に話を戻すと、一つ問題があります。消費者代表をどうえらぶか、という点です。日本生協連、主婦連合会、全地婦連、全国消団連等の消費者団体から、代表候補が選出されるのでしょう。もし代表者を選ぶなら、一層民主的なプロセスを踏むべきです。そして、もし諸団体による選出者が、消費者代表として認められるなら、消費者団体と日本全土の消費者との間に、より強い協力関係を作るべきでしょう。労働組合と労働者との関係にまでは行かなくても、なんらかの関係構築は必要のはずです。


(注1) ちなみに、「規制改革会議」という会議も、この世に存在していました。この会議もまた、「経済財政諮問会議」同様、労働者たちの代表が参加していません。しかも、「内閣府設置法に基づく規則で定められた議事録が3年間にわたって作成され」ないで、「全体を要約した「議事概要」としての資料しか残っていない」うえに、「議長の宮内はこの件に関し、一切の説明も責任もとらないまま」終わったという、民間なら首が飛ぶはずの【ぬるま湯会議】です。外は猛吹雪になったのに。(以上、Wikipediaより引用

(注2) もっと広く、連帯経済のことも考慮する必要があります。NPO、フェアトレード、地域通貨、マイクロファイナンスなどの連帯経済を、ここで考えざるを得ません。

(注3) 労働者協同組合に対しては、「組合員は経営者でもあるので労組法や最低賃金は適用されず、劣悪な労働環境の温床となりかねない」という懸念も表明されています(「「協同労働の協同組合法案」への反対論」『EU労働法政策雑記帳』様)。


(追記)
 以前、職業教育の問題については、すでに以上の二点に言及していました

 ①:「多少とも専門的な職業教育」については「民間に任せるのが望ましい」という意見に対して、「素早くかつきめ細かな対応という点では、民間をメインにする方に、軍配があがる」と判断した。
 ②:「企業内訓練に奨学金を与えること」は、次のように判断する。日本では、教育界側が職業的レバレンスを放棄していたのを、やむなく企業側が負担していた経緯があり、その点から言えば、企業内教育訓練への奨学金は、基本的に教育界側が負担すべきですが、実情としては公的に負担せざるを得ない。代替として、教育界は、公的負担させた分の「お返し」を、社会に還元する必要がある。

 まず、②について書いておくと、「教育界は、公的負担させた分の「お返し」を、社会に還元する」といっても、やれることは、限定されるはずです。なので結局、教育界側はやはり、職業教育を推進していく他ない、と考えます。
 問題は、①です。「多少とも専門的な職業教育」については「民間に任せるのが望ましい」ということは、どの程度正しいのか、ということです。もちろん、それはどのような専門性か、どの程度の専門性か、ということにもよります。ここでは、なぜ公的な職業教育が重要なのか、という視点から書いてみようと思います。必要だとすれば、それはなぜか。
 その理由の一つは、取りこぼしを防ぐ、という点です。つまり、職業を得る機会を得られなかった人を一人でも減らすという目的のために、国が【積極的】に関与する必要性がある、ということです。そしてそのために、職業教育は正当化される、というわけです。民間に任せた場合、そこから漏れる人々が発生する可能性が比較的高くなります。
 効率・円滑さよりも、円滑さゆえに排除される人を防ぐという目的(正義)を優先する、ということだと思います。もちろん公的な職業教育を行っても、ドロップアウターは出てしまいますが(フィンランドにさえも、存在することは周知の事柄でしょう)。
 【積極的】に、というのは、例えば権丈先生が例としてあげているように、「例えば先ほど若年層などで、生活保護を受けざるを得ないような人とか、いろんな話があるんですが、そこを待っているのではなくて、ヨーロッパだったら、道を歩いている人に職業訓練を受けたくないかと言うような、そういう能動的なことをやっていきながらやっているんです。だから、あれはものすごくお金がかかることで、そこまでやらないと余り意味がないのではないかなというのがあります」というような姿勢のことです。
 もう一つの理由は、現金給付にして民間に任せた場合、経済格差が出る可能性があるということです。現金給付とサービスとどっちがいいのか、という問題です。
 現金給付重視だとどうなるのか。保育分野の場合、「行政が保育に対する責任を負わなくなっていくので、その隙間を埋めるために民間業者が保育という分野に参入してきます。その結果、支払うことができる金額によって受けられるサービスが異なるという、市場の論理に保育もさらされることになります」(「ベーシック・インカムが現在の日本では使えない4つの理由(「POSSE」vol.6より)」『労働組合ってなにするところ?』様)。
 これは医療・教育にも同じことが言えます。サービスでの方が現金給付よりもよい場合、というのがあります。今回の職業教育のケースも、同じことではないでしょうか。平等性の確保という点から言えば、公的なサービスとしての職業教育の方が、有効です。
上記二つの理由を理解してもなお、効率性を重視して民間への委託を重視される方もおられるかもしれません。それはそれで、一理あると思います。しかし、「積極的労働市場政策そのものが非効率かどうかを決めるのは容易なことではない。この政策は、失業した人がある産業から別の産業に移るのを容易にしたり、求職者の能力を高めて、労働市場におけるその人の魅力を高める、という、いわば労働供給側の政策」であるという記事を参照すべきです(「効果を失った積極的労働市場政策 」『スウェーデンの今』様)。
 「経済全体の総需要が低下し、雇用先がないような状況で、なかなか効率が上がらないのは、最初から当然のことなのである」から、重要なのは、「その効率性を高めるために、その政策だけに限らず総需要の創出といった労働需要側の政策とうまく併用して行くべきではないか?」というわけです。どちらの政策を取るにせよ、デフレ退治は必須です。

(了)

労働組合強化のために -EUの事例から-  濱口桂一郎『新しい労働社会』(7)

■労働組合強化のために -EUの事例から- ■
 「そこで現に働いている人たちがそこのルールを作っていくべきだと思っています。そのためには、そこで働いている人たちがその場で団結しなければしょうがないのですね」という著者の主張を叶えるには、どうすべきでしょうか(「S/Hさんのアマゾンレビュー 星4つの理由」『EU 労働法政策雑記帳』様)。労働組合・労働者代表制を、どう制度的に整えるべきか。
 「労働組合の強制設立、強制加入に近いことまであえて」言及した著者は、過半数組合となった企業内組合に、どのような制度によって権利を付与するのでしょうか(「拙著批判のつぶやき」)。
 まず前提として、「近年ヨーロッパにおいても団体交渉を企業レベルや事業所レベルに分権化する傾向が強まってきており、欧州委員会も2007年には欧州労使協議会を企業レベル団体交渉の場として活用する方向に向けた法制提案を行う予定にしている」ことが重要です(「労働者参加に向けた法政策の検討」連合総研『労使コミュニケーションの新地平-日本における労働者参加の現状と可能性』)。欧州でも、交渉のレベルを、企業や事業所に置くようになったようです。詳しい事情はわかりませんが、著者の主張は必ずしも、先進国では、時代遅れではなく、むしろ時流に乗っている模様です。
 では方法を(勝手に)考えましょう。

 ①「まず、派遣労働者の参加を認めましょう」
 例えば、「ドイツでは、派遣労働者は派遣3か月以降は派遣先の労働者代表選挙に参加し、集会や面談を行うことができるほか、苦情処理も利用できる」そうです(「派遣法をどう改正すべきか-本丸は均衡待遇」『世界』3月号原稿 )。最低限まず、取り入れるべきでしょう。派遣労働者も、一定期間過ぎれば、メンバーとして扱う必要があります。これは、これまでの主張から当然のことです。
 「「雇用の流動化」の裏返しとして働きつづける権利が脆弱だから職場で労組に加入しても組合差別以外の理由を付けて簡単に辞めさせられてしまう」というなら、制度で縛ってしまえばいいのです(「雇用流動化肯定論に欠けた人権の視点」『ナベテル業務日誌』様。制度だけで解決する問題ではないとしても、です。

 ②「労働組合のない企業にたいして、ナショナルセンターは介入しよう」
 更には、「企業外の労働組合(産業別組織又はナショナルセンター)による援助連携を労働者代表委員会に組み込んでおく必要がある。具体的には、経営側から協議を受けた場合の職場討議の遂行や意見集約方法、法制的な知識についての研修などが考えられる」(前掲「労働者参加に向けた法政策の検討」)。確かに、「経営側から協議を受けた場合の職場討議の遂行や意見集約方法、法制的な知識」のようなテクニカルな事柄は、特に労働組合のない企業において実に労働者たちにとって有益です。
 現在でも労働組合の無い中小企業等においては、こうした「介入」は十分有効に働きます。これは、「EU指令においては「外部の専門家の援助を受ける権利」という形で規定されている」そうです(前掲「労働者参加に向けた法政策の検討」)。これが明示的に規定される必要があります。(ただし、零細企業だとこれも難しいのですが)
 なお、「欧州労使協議会指令は大きな進展ではあったが、フレデリング指令案と違って国内の中小企業は対象に含まれていないし、欧州会社法案とは異なり参加の規定もない。これら積み残し部分の実現は依然として課題であった。これらが最終的に成立に漕ぎ着けたのが昨年2001年であった」、と欧州でも、中小企業にまで範囲を拡大するのは容易ではなかったようです(「EU及びEU諸国における労使協議制の発展」『「月刊自治研」2月号原稿』)。長い道のりですが、これは労組再生に不可欠です。

 ③「組合への便宜供与を与えよう」
 「日本では1949年労働組合法が組合への便宜供与を不当労働行為として制限しているが、スウェーデン法はむしろそれを義務づけている」(「EU一般労使協議指令の実施状況」『生活経済政策』10月号原稿 )。瑞国では、必要な時間は有給で組合代表の活動を行うことができ、時間外に及んだ場合も使用者負担です。日本においては、企業内労働組合の新設・躍進のために、せめて、「任務遂行に必要な時間は有給で組合代表の活動」を行うことできるよう取り計らうべきでしょう。これだけでも、組合に取り組むインセンティブはあがります。(「労使委員会であれば便宜供与が可能である」のですが。)

 ④「労働者代表に対して、情報提供・協議の義務を定めよう」
 EUの一般労使協議指令では、使用者は労働者代表に対して、情報提供・協議の義務を定めています。「労働者代表のいかなる意見に対しても理由を付した回答がされるべきこと、そして使用者の権限内である限り、「合意に達する目的をもって」協議すべきことが規定されて」います(「企業のリストラも結構、しかし労働者代表との事前協議が必須!」『月刊連合』2002年7月号原稿)。「使用者側から一方的に言いたいことを言って問答無用という訳にはいかない」わけです。
 では、一般労使協議指令が出た当時の、EU諸国の事例を見てみましょう。つまり、この指令が出る以前でもこれくらいは行っていた、ということです。
 フランスは最たるもので、「労使協議会は、資格ある会計監査人を呼んで、これが会社会計、連結会計、会計予測の年次検査を実施し、経済的理由による大量解雇の際に執られる措置を分析し、緊急の権利に基づいて会社の経営状況に深刻な影響を及ぼすおそれのある状況について報告書を作成し、この報告書を会社の監査役及び取締役会に提出するといったことのために会社の監査役と同等の情報にアクセスする権利を認められている」(以下前掲「EU及びEU諸国における労使協議制の発展」)。深く会社経営に関与しています。
 オランダでは、労働組合に「不健全な経営の疑いに基づき商工会議所の専門家によって審査する権利が認められ」ています。ポルトガルの場合、「労働者委員会に予算と事業計画を診察し、意見を述べる権利がある」とのこと。
 労働組合が労働者委員会を兼ねるようになった暁には、最低限当時のポルトガル並みの事をすべきでしょうし、やがて「労働者代表のいかなる意見に対しても理由を付した回答がされるべきこと、そして使用者の権限内である限り、「合意に達する目的をもって」協議すべき」ことが、義務付けられるべきです。

 以上、制度的に、どうすべきかを見てきました。大切なのは、「合意に達する目的をもって(with a view to reaching an agreement)」という文言です。労使協議の内容を空疎にしないことです。企業内組合を強化する目的は、これに他なりません。道のりは遠いのですが。
 ( 労働者側の経営参加については、ここでは省略しました。)

(続く)

利害を怖れないこと、ポピュリズム批判と労組について 濱口桂一郎『新しい労働社会』(6)

■労働組合再生のために -企業内への包摂か、業界・職種同士の連帯か-■
 現代の日本において労働組合は、メンバーを正社員に限定しており、非正規労働者や管理職などの人々は排除されています。この問題をどうすべきでしょうか。
 著者は次のように主張しています。「過半数組合は自発的結社としての労働組合であるだけではなく、一事業場の全ての労働者の利益を代表すべきある意味で公的な性格を持つ機関であると考える必要があるように思われる」(出典「過半数組合論の必要性」『労働法律旬報』2008年6月下旬号)。そしてそのために、「まず要求されるのは、メンバーシップを企業内のすべての労働者に開くことであり、管理職や非正規労働者の加入を認めなければならない」ことです(「連合総研『労使コミュニケーションの新地平-日本における労働者参加の現状と可能性』第1部第5章」)。企業内組合に、包摂化する戦略というべきでしょう。
 この方法に対しては、反論が寄せられています。
 例えば、「中小企業で働く人々や請負などのフリーランサー、非正規労働者などの受け皿として、著者も取り上げている個人加盟のコミュニティユニオンのほか、産業別労働組合やいっそギルド的な職種別労働組合という可能性は模索されていくべきなのではないかなと思います。」との反論です(「「新しい労働社会―雇用システムの再構築へ」濱口 桂一郎 著」『Kousyoublog』様)。著者の意見は、たしかに旧来の大企業に存在する企業別組合の方向性としては、間違っていないはずですが、いざ実行しようとすると、相当な難題です。
 その理由の一つが、個人加盟のコミュニティユニオンや、産業別労働組合、職種別労働組合等の存在です。「今これほど労働問題への関心が高まっているのはユニオンが「騒いだ」からこそであり、主流の組合は腰が重いのが現状です。また、民主的な組合運営の模索を長年行ってきたのもユニオンなのであり、そうした活動を軽視して「新しい労働社会」を展望することはできないと考えます」という指摘があります(amazon書評における「S/H」さんの書評より)。
 「主流の組合は腰が重い」という指摘に対して、これらの組合がどのように対処するのか。「メンバーシップを企業内のすべての労働者に開く」事を目指すには、まずこれを問うことが必要です。
 なお、「S/H」さんの書評は、「企業別労組の枠を乗り越える「地域ぐるみ」の運動を展開した」高野実と「「経営の中に入り込む」ことによる企業別組合の補強(内包化)を主張」した大河内一男を対比させて、この問題をより明瞭にしています。著者の方針は、当然大河内の流れを汲むものです。
 このように【積年】ともいうべき対立に対して、どのように解決を見いだしていくべきなのか。企業内組合に包摂するとすれば、どうやっていけばいいのか。著者としては、漸近的にできるだけ多くの企業の組合に対して、「メンバーシップを企業内のすべての労働者に開く」よう働きかけていく事を提唱するのだろうと思います。(注1) 制度的にどうすべきかについては、後々触れる予定です。

■利害を怖れないこと、あるいはポピュリズム批判について■
 では何故著者は、企業内労働組合の枠組みにこだわるのでしょうか。それは、戦後日本が企業内労働組合を中心として、労働組合の体制を打ち立てたから、という理由だけではありません。

 社会システムが動揺して国民の不安が高まってくると、一見、具体的な利害関係から超然としているように見える空虚なポピュリズムが人気を集めがちになります。これに対して利害関係者がその代表を通じて政策の決定に関与していくことこそが、暴走がちなポピュリズムに対する防波堤になり得るでしょう。 (208頁)

 具体的な利害を避けないで、これらのぶつかり合いや、すり合わせの重要性を説いています。もし、「改革」することが「痛みを伴う」のならば、それは上から降ってくるのではなく、互いに利害をぶつけ合って、そしてその中で合意し、それに伴う痛みを、引き受けるべきだ。著者の述べるところはこれでありましょう。
 巷間に流行るベーシック・インカム論が、ともすれば、利害関係者同士による葛藤を忌避するためのものになってしまっている気味もあります。その点でも、著者がこの「BI論」に批判的なのは、無理なからぬことです。
 「社会運動的なユニオニズムというのは、私はある種のポピュリズムになってしまう危険性があるのではないかと思います。つまり「煽り立てる」ことが主たる役目で、それを受けてあるべき規制を国家権力がやるという話になってしまう。」このように著者は述べています。利害関係により密接なのは、勤め先の当の企業であるわけですから、これは理屈として間違っていません。
 ただし、著者はアクティベーションを支持されており、当然労働者の雇用は流動化する以上、企業内労働組合を社会的な枠組みとするならば、労働者はいくつもの労働組合を渡り歩くことになります。企業内労働組合に何度も入りなおすとなった場合、「新参/古参」の間での対立は懸念されないのでしょうか。
 上のようなものならまだしも、場合によっては、結局「正規雇用/非正規雇用」の階級を、組合内部に持ち込むだけに終わる可能性もあります。退職している間、組合から漏れるという難点をどうカバーするのか、という問題もあります。
 もちろん、企業内組合に包摂する目的には、同じ組合に内部化することによって、互いの利害を摺り合わせる機会を設けることも含まれるのですから、ネガティブなことばかりでもないのでしょう。

(続く)


 (注1) 実際、成功事例はあるようです。広島電鉄の労働組合の場合、「会社側は、すべて職種と職責に応じた職種別賃金制度の導入を提案し、組合はこれを受け入れたのです。その結果、高年齢、長期勤続の正社員の賃金、退職金は大きく引き下げられました。正社員と契約社員が不利益分配という連帯を実現したのです」(「橋口昌治さんの拙著批判について」『EU 労働法政策雑記帳』様)。

(追記) 本稿についてはおそらく、前掲「橋口昌治さんの拙著批判について」での、「きょうも歩く」さんのコメントが重要な意味を持つはずです。
 「正社員組合であり、仕事を守るために非正規労働の導入に関する規制を取り払い、非正規労働者の組織化を加盟組合にハッパをかけ、かつうちがとりこぼした非正規労働者に対してユニオンがストライキを打って闘えば正社員組合として若干の負い目を感じたり組織内の批判を克服しながら支援行動をしている労働組合の立場からすると、hamachan先生の言っていることはあれかこれかの議論ではなくて、まったくその通りだと思っています。」 
 首肯します。

社会保険と労働時間 -ベーシック・インカムを唱える前に- 濱口桂一郎『新しい労働社会』(5)

■ベーシック・インカムと、労働における「承認」の側面■
 著者は、労働を社会からの承認を受けるのために必要なものと考えています。そのため、社会的承認の機会を奪うベーシック・インカム論には否定的です。曰く、「怠惰の報酬を社会一般に要求するならば、それは直ちに怠惰ではなくても無能であるがゆえに社会から排除されることの報酬に転化してしまうと思っています。そしてわたしが「いけないこと」と考えるのはそういう社会的排除の正当化です」。(「攝津正さんの拙著に触発された感想」『EU 労働法政策雑記帳』様) 。「働かない=無能者」というレッテルによって、「class 階級」を顕在化させたくないというのが、意図のようです。
 もっと端的には、「働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう」と著者は述べています(「働くことは大事である。だからこそ働くことを報酬にしてはならない」『EU 労働法政策雑記帳』様)。①社会的な承認のため、②生存のため、どのみち問われるのは、「働かないで社会で生きることは許されるのか」、という問題です。萱野稔人は、「労働にはこうした承認の次元が含まれていることで社会と深く関ることができるのですがベーシックインカムはそれを断切ってしまう」と述べているようですが、その言葉は、上の認識を追認するものです(「maturiのブックマーク」『はてなブックマーク』)。
 労働における「承認」の側面を傷つけずに、我々の人生をよりよくするいい方法は無いでしょうか。これについては、最後に書きましょう。

■ベーシック・インカムは、貧乏人に冷たい?■
 もちろん重要なことは、ベーシック・インカムの条件が、「年金・雇用保険・生活保護などの社会保障制度、公共事業を廃止する事」を前提にしてしまう点です(「ベーシックインカム」『Wikipedia』)。ベーシックインカム論とは、急場において困った人を事実上「放置」する制度でもあります。経済的に個人一人ではまかなえない場合、その人の負担は過重になります。
 保育施設とか学校等のインフラや、そのサービスに携わる能力ある人員等、市場経済においては採算が取れないサービスなどは、どうするのでしょうか。特に医療の場合、どうしてくれるんでしょうか。寄付?まさか。
 少なくとも、貧乏人にはリスクが高そうです。ベーシック・インカム論というのは、財源も問題にされますが、もしこのまま「年金・雇用保険・生活保護などの社会保障制度、公共事業を廃止」してしまうのなら、随分冷たい制度となります。これに賛成される方は当然、これらの難点を踏まえた上で、ベーシック・インカム論を主張せねばなりません。
 たぶん、NPOと寄付によって、何とかされるのでしょう。しかし合衆国的な「世知辛い中での互助の精神」を、どうやって日本で構築されるのか。教会のような互助の精神を支える組織が無い日本で。(注1)疑問です。知ってる方はおしえてください。

■負の所得税の検討をする前に、英国労働史に学ぶ■
 「ベーシックインカムとまではいかなくても、給付付き税額控除とか負の所得税とか社会手当とか、いろいろ方法はあると思います」と宮本太郎氏がおっしゃられているように、他に最低限所得保障の方法はあるわけです(「宮本太郎『生活保障』-ちょっと難しすぎるという人のために」『ブログ・プチパラ』様)。
 しかし、これらの制度を推進するには、壁もあります。「19世紀イギリスのスピーナムランド制度は負の所得税の近いが、その経験が示しているのは、経営者による安易な賃金切り下げや解雇が横行してしまうことである」。(「「負の所得税」批判」『毎週評論』様)。
 これは、権丈先生も指摘されています(「勿凝学問237 いま流行りの給付付き税額控除とスピーナムランド制度というまずい政策」『勿凝学問』様)。経営者がピンはねしちゃうぞ、というのです。実際、労働者たちは、反動的な新法により苦しめられます。先生は、制度設計するなら、インセンティブに気をつけて、と教訓を述べてます。
 それならば、労働者たちを救ったのは一体なんだったのか。先生曰く、社会保険でした。ロイド・ジョージが、苦しむ労働者たちのために、「国民保険法(健康保険と失業保険)」を制定したのです。失業保険に関しては世界初の制度です。ありがとう社会保険。
 「イギリスは、古くから「友愛組合」という名の共済組合が発達しており、労働者の生活もわりあい恵まれていた」という点も重要です(「社会保険」『Wikipedia』)。しかも遡ると、「協同組合(消費者の利益を守る運動が中心) 友愛組合(同じ労働者で掛け金を出し合い疾病、年金の対策)労働組合(労働条件の向上と掛け金からの相互扶助)が誕生してくる。」とあるように、同じ頃に、相互扶助によって消費者と労働者の権利向上を目指す団体までも、生まれてきたわけです(「介護福祉士・社会福祉士が覚える歴史」『介護福祉士・社会福祉士の受験対策』様)。
 もし歴史に学ぶことを重視する方がおられるのなら、ベーシック・インカムとかよりも先に、「協同組合(消費者の利益を守る運動が中心) 友愛組合(同じ労働者で掛け金を出し合い疾病、年金の対策)労働組合(労働条件の向上と掛け金からの相互扶助)」のことを再考すべきかもしれません。しかしそもそも、こういう「介護福祉士・社会福祉士」には常識的な事柄を踏まえた上で、ベーシック・インカム論は論ぜられているのでしょうか。

■労働時間削減という、より現実的な「夢」■
更に歴史に学ぶなら、やるべきことはまだあります。ベーシックインカムによって、「労働は、最低限度の生活を起始点として、必要な分だけ賃金を得る方式であるという考えがある。この前提では仕事と余暇の割り当てを自由に行えるという点から、多様な生き方を認めるという思想とも取れるという意見がある」のですが、その前に、労働時間を減らすこと、考えたことありますか?(前掲「ベーシックインカム」『Wikipedia』)
 すでに、(1)で論じたとおり、著者はEUに倣い、労働によって人が死ぬことを非常に懸念しています。この方向は無論、正しい。どうせならもっと、労働時間を減らしてみるのはどうでしょうか。思い切って。もちろん、それで生活がまかなえるのか、とか、国内GDPが減る、などの反論は予想されます。
 ただし、ためしに英国の歴史に学ぶなら、「1840 平均的労働者 イギリス 3105~3588時間」だったものが、「1987 平均的労働者 イギリス 1949時間」になっています(参考「昔の人の労働時間はどのくらいですか?」)。技術革新とか、植民地から収奪した富とか、そういうものが関係するのは当然のことです。しかし、これらの変化が、労働組合などの活動によって、そして彼らを背景とした政治的潮流によって成功したことは言うまでもありません。目標として、やってみる価値は十分あります。(注2)
 現実的には、ベーシック・インカム論よりも、労働時間削減の方が、歴史的には容易です。まずは、本書第1章を読み、「一日最低連続一一時間の休息期間くらいは、最低限の健康確保のために導入を検討してもいい」と唱えることからはじめてみればいいのではないでしょうか。まずはこれが前提です。それから、労働時間のいっそうの削減のために、働きかけてもいいはずです(まずは一日7時間労働にしてみましょう)。(注3)
 労働時間の削減なら、労働の「承認」の側面を傷つけずにすみます。意外に、あまりこういう主張は無かったと思います。労働の破棄は無理でも、その時間の削減ぐらいは考慮されてもよいのではないでしょうか。どうせ夢を見るのなら、比較的叶えやすい現実的な夢を抱いてみたい、などと思うのです。

(続く)


(注1)「日本では企業の社会活動の伝統もなければ、NPOの力量も依然として非常に脆弱であり、その運営費はほとんど税金による支援である。そもそも日本では、NPOの大前提となる寄付文化が皆無に等しい」という、「ベーシック・インカム的な福祉国家の可能性」(『毎週評論』様)もご参照ください。

(注2) 「全員総出でサービス残業なければ競争力を維持できないような企業こそ淘汰され、単位時間当たりの生産性が高く、競争力を持つ企業を支援し労働者を吸収させるという方向性もあるのではないでしょうか」と、「本気でサービス残業を無くすためにすべきこと」(『keitaro-news』様)という記事は主張しています。
 拙稿は、このような主張を支持します。そして、労働者へのダメージを最小限にする形で企業の淘汰を進めるためにも、拙稿(3)で述べた「生活保護制度の見直し」が必要だと考えます。

(注3) 著者は、「島田陽一先生の「正社員と非正社員の格差解消の方向性」」(『EU 労働法政策雑記帳』様)において、「日本の正社員が諸外国に比べて異常なまでの長時間労働を強いられている一つの原因は、時間外労働の削減を雇用調整の手段として活用するという確立された規範にあり、そのため、いざというときに削減できるように恒常的に残業するという行動様式が一般化した面があります。」と述べています。
 本稿にて主張した、労働時間削減の実現のためには、やはり(2)で指摘した日本的雇用慣習の見直しが必要のようです。具体的には、①家族の扶養や医療・福祉を、企業の賃金ではなく、社会全体で支えるようシフトすること、②雇用調整をしやすくする代わりに、失業中からでも「再チャレンジ」可能な制度を構築すること、少なくともこの二つが挙げられます。詳細は、本書をご参照ください。


(追記) よく考えたら、1日七時間労働ということは、1日一時間休むわけですから、週にして約五時間、月にして約二〇時間、年間約二四〇時間になります。二四〇時間を、1日八時間労働分に換算すると、30日間の休暇と同じことになります。実にバカンス並。
 蓋し、労働時間削減よりももっと現実的な方策として当然、有給休暇取得の向上を、まず提起すべきでした。まずはこちらを先に目指しましょう。
 ただしこの世界には、「日本は有給は取れませんが祝日が多すぎます」などという主張もあります。そんな御仁には、次の反論が有効です。「日本に真の意味でのワークライフバランスは訪れるのか? 」という記事を使いましょう。
 曰く、「「祝日が多い日本は休み過ぎ論者w」はちらほら見かけるけど、せいぜい日本の方が5日くらい多いだけだぞ(2010年の祝日は日本15日、シンガポール11日、西オーストラリア州10日)。たかが祝日が5日多い代わりにサビ残、休日返上当たり前、1日で1.5~2日分も働かされるような劣悪なクソ労働環境が横行してる」とのこと。
 「休む日=頭を冷やす日」であることを、「日本は有給は取れませんが祝日が多すぎます」と主張する御仁に、教えてあげたいものです。

(更に追記) 
 そもそも、「管理職の権限はマネジメントの為にあるのです。うまく人を裁けないなら管理職失格」なわけです(「なぜ、だれも休むことができなくなるのか」『keitaro-news』様)。この問題の責任の一端は、管理職が負う必要があります。それを踏まえて、この問題は論じられるべきでしょう。
 「休まず働くことが競争力という人もいますが大きな誤解です。多くの時間にコミットする日本の労働体系は効率が落ちにくいブルーカラーのみ適応されます。頭脳労働のホワイトカラーには適応すれば、やらなくても良い仕事を増刷し、非効率に陥り生産性は極端に落ちることにつながります。」というお言葉も重要です(前掲より引用)。休まず働けば何とかなるという20世紀以前の思想は、考え直す必要があるのです。

(もっと追記) ベーシックインカムと生活保護などの手当ては、決して対立するものではなくて、両立するものです。宮本太郎氏もいうように、「就労所得を引き上げるアクティベーションと並行する形で、給与比例型の保障と底上げ型の所得保障とを連携させていくことが重要です」(「生活保障の再生とアクティベーション」『RIETI』様)。

「職業教育」を日本の戦後労働史から考える(長い注付) 濱口桂一郎『新しい労働社会』(4)

■「公的給付」の中身、そして「宿題」■
 前稿で取り上げた公的給付の中身について、まず書きます。著者曰く、

 欧州諸国の福祉国家とは、年金や医療といった日本と共通する社会保障制度だけではなく、育児、教育、住宅といった分野においても社会政策的な再分配が大規模に行われる社会でもありました。 (123頁)

 日本は、「育児、教育、住宅といった分野」をも企業が負担してきたわけです。(もちろんこれは広義の「大企業」のみのお話ですが。)著者が公的給付というとき、述べているのはこうした分野に対する給付です。この点については既に拙稿(2)で書いてしまったことと同じですので、これ以上は述べません。
 蛇足ですが、「新しい労働社会」の創出のためには、当然、「育児、教育、住宅といった分野」を読者が視野に入れなければいけないことは言うまでもありません。これは、こうした分野に少なくとも関心を持ち、そこで起こっている問題を把握し、できれば提言について他者の意見を参照・批判しつつ考察すべし、という意味です。本書は、随分と宿題の多い本なのです。

■「再チャレンジ」としての生活保護制度の見直し■

 多くの長期失業者や若年失業者が、雇用保険制度と生活保護制度のはざまで無収入状態に陥っている (158頁)

 前稿で述べたように、日本においては、労働しないで生活保護を申請した方が、労働するよりもトクになってしまうという矛盾が生じるケースが少なからずあります。これは何故なのかを、著者は書いています。
 前者には給付日数に制限があります。その一方、後者は事実上無一文でないと受けられません。要するに二つの間に溝が存在しているのです。ワーキングプアに、社会的過重を負わせないためには、この二つの福祉的制度の、はざまの制度が必要になります。

 近年の欧州の傾向としては、(略) 就労可能な者に対しては金銭給付をしながら(再)就職を促進していくというのが大きな流れになりつつあります。 (158-9頁)

 著者は、次のように提案します。日本でも生活保護制度を見直して、就労可能な人の場合、ある程度資産を有していても受給を認める代わりに、求職活動を義務付けることがいいのではないか(167頁)、と。溝の架け橋として、「再チャレンジ制度」とでも言うべき制度を提言しているのです(「再チャレンジ」という名称は好きになれませんが)。(注1)
 なお、著者は高齢者への教育訓練にも、言及しています。「個々の職務のための教育訓練という明確な目的をもって考えれば、5年程度の収穫期間であっても十分教育訓練コストをかける値打ちはあると考えることもできる」(「これからの新たな雇用システムとは何か」『エルダー』2010年3月号)。
 費用対効果の点、そして高齢者にも労働を働きかけることになる点の二つにおいて、賛否分かれるところです。この二つの問題を結んでいるのは、著者にとっての「労働」の意義の問題です。これについては、次稿以降にて書くことになるでしょう。

■職業教育を、日本の労働史から考える■

 奇妙なのは、「能力・適正・進路による選別」を非難しながら、同時に「生徒を○×式テストの成績によって振り分ける進路指導」を批判していたことです。 (139頁)

 これは、日教組の「教育多様化」の考えに対する批判です。著者が指摘しているのは、職業教育の「能力・適正・進路による選別」を非難した以上、一元的なテストの成績による篩い分けは避けられないのではないか、ということです。どのみち、「選別」・「篩い分け」は避けられないのに、そこから目をつぶったわけです。
 また、著者は次のことも指摘しています。高校での職業教育の必要を否定する日教組の方針は、企業内人材養成と極めて親和的な発言ではないか、と。この方針によりなおざりにされたのは、職業教育、日本の高校教育における「職業的意義(レリバンス)」でした。
 戦後から高度成長期まで企業側は、「普通科ばっかりつくってんじゃねえよ、俺たちに役立つ職業高校を作ってくれ、下らん文科系大学ばっかりこさえてどうすんだ、職業専門大学作れよ、って感じ」で主張していたのですが、上記のような教育界の反応の鈍さもあって、結局自分たち企業で職業訓練を内部化した、というわけです(「職業能力ってなあに?」『EU 労働法政策雑記帳』様)。著者は、「企業内人材養成」が諸所の理由でなされなくなりつつある現在には、公的な教育機関も、職業教育を担わざるをえないことを述べているのです。(もちろん、高校のうちからの学内教育と実地の職業訓練の併用(デュアルシステム)をすれば、全てが解決するわけでないことは、著者も述べるとおりです。)
 本書において、若干物足りなく思うのは、やはりEU諸国との教育システム及び職業教育の中身の比較だったように思います。例えば、これらの国々での、文学部や経済学部などの職業的レバレンスは日本と違うのか、とか、各国の職業教育制度から日本が学べる最低限度の教訓は何か、などの事柄です。ただし後者に関しては、各国で制度が異なるため、単純な比較が難しいことが想像されます。(注2)


(注1) 大久保幸夫『日本の雇用』も、「第二雇用保険の提案」として、似たようなアイデアを持っているようです(「「雇用問題」への読者の間口が広くなる!」『ブログ・プチパラ』様)。
 なお、重要事項として、デンマークの場合、解雇予告期間は、「公務員とホワイトカラーは解雇予告期間が6か月」だそうで、日本とはひどい差があります。ここの部分を変えていく必要もあるようです。詳細、「デンマークの労組の解雇規制要求」(『EU 労働法政策雑記帳』様)参照。

(注2)その点で、「社会連帯型人材育成モデル」(『EU 労働法政策雑記帳』様)は参考になりました。
 なお、ドイツのデュアルシステムについては、「デュアルシステムでの教育内容が法律で細かく決められているので、急速な技術革新に法律の改正が追随できず、教育が産業界のニーズに対応できていない。特に、最近の知的産業に対応できていない。」という問題点も指摘されています(「デュアルシステムの問題点」『CNET Japan』様)。素早くかつきめ細かな対応を、行政に任せることの難しさが指摘されているようです。
 この点について重要な指摘を、『インタラクティヴ読書ノート別館の別館』様の「ワークフェアとベーシック・インカム」という記事が行っています。
 「外部効果の大きい基礎的な公民教育ならともかく、多少とも専門的な職業教育となると、まず公平の観点からすれば、それは基礎的な教育に比べて外部性が少なく、その費用については受益者負担を基本とすべきであろうから、民間に任せるのが望ましい。公的介入は民間の奨学金などの形で行えばよいだろう。(企業内訓練に奨学金を与えることは可能か? 結局それは企業への雇用奨励助成金ということになってしまうのか?)効率の観点からしても、民間業者の適応力の方に期待したいし、官の役割は監督程度にとどめた方がよいのではないか。
 専門的な職業教育の場合、やっても実際の仕事にどの程度効果があるかどうか分らないし、それなら公的介入として、「民間の奨学金」という形での補助にして、「民間業者の適応力の方に期待」したほうがいい、というご意見です。確かに、素早くかつきめ細かな対応という点では、民間をメインにする方に、軍配があがると思われます。(もちろん、民間の奨学金が結果的に、「教育訓練は、NOVAみたいな民間の学校がやってくれるから、そこにお金をじゃぶじゃぶ流せばいいよ、という社会」を生んでしまうことは、防がれるべきです。 詳細「能開大が「ムダ」であるという思考形式の立脚点」(『EU労働法政策雑記帳』様)参照 )
 問題は、「企業内訓練に奨学金を与えることは可能か? 結局それは企業への雇用奨励助成金ということになってしまうのか」という点です。この点を問うために、「日本型雇用システムの複層的「変容」と若者への自己矛盾するメッセージ」『EU 労働法政策雑記帳』を見てみましょう。
 1990年代以降の日本の雇用システムの変化として、「非正規労働力の拡大、正社員への過剰要求、専門職の未形成」が挙げられています。本件で重要なのは一番目の問題です。「雇用柔軟型と呼ばれる企業メンバーシップのない非熟練型労働力の拡大」です。彼らの場合、「手厚い企業内教育訓練を受ける見込み」はありません。少なくとも、彼らに対しては、官の監視を条件として、「企業内訓練に奨学金を与える」ことは正当化されると思われます(現に存在する?)。
 本書の経緯をたどると、教育界側が職業的レバレンスを放棄していたのを、やむなく企業側が負担していた。1990年代以降、企業側が非正規労働力者に対してはしなくなった。なのに、教育界側は、相変わらず負担する気が無い。となると、企業内教育訓練への奨学金に対しては、教育界側が負担すべきです。ただし、今回も奨学金は公的に負担せざるを得ないでしょう。さらにただし、教育界は、公的負担させた分の「お返し」を、社会に還元する必要があるはずです。

(追記) 本件、「 「メモ」「人間力」「職業能力」「学校教育」」(『インタラクティヴ読書ノート別館の別館』様)もご参照ください。
2010/3/14 一部追記済

(もっと追記) 職業教育の問題については、さらに「消費者代表の問題と、再度、職業教育について 濱口桂一郎『新しい労働社会』(8)」で、続きを書きました。ご参照ください。

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「新しい労働社会」をシングルマザーの視点から考える 濱口桂一郎『新しい労働社会』(3)

■非正規労働問題の解決について■

 (引用者注:EUの有期労働指令では)本来臨時短期的でない業務に有期契約を用いることで解雇規制を潜脱することを防止するため、有期契約の更新に正当な理由、一定期間の上限、一定回数の上限を定めることとしているのです。(93頁)

 もし違反すれば、無期契約と見なされ、法律上は、雇止めは解雇と見なされます。
 日本では「一定期間を超えた有期契約の雇止めという事態に対して、勤続期間に応じた一定率の金銭の支払い義務といった法的効果を与える法制度を作ってしまう」方がいい、と著者は提案しています(97頁)。この「雇い止めに対する金銭解決の導入」というのが、ずばり第2章の肝といえるでしょう。ではなぜ、金銭による解決を著者は、提案するのでしょうか。
 著者に対する賛成意見から、そのメリットは理解できます。「企業にとって解雇のコストが明確になるので、かなり採用しやすくなる。社員の側も、半年分もらえることが確実なのであれば、解雇を受け入れる心理的なカベも低くなるだろうし、実際に半年分あれば、転職や起業のための余裕も出てくる」(「中小企業では解雇規制が有名無実になっているとして、それは中小企業と解雇規制のどちらが悪いのか?」『Zopeジャンキー日記』様)。互いにとってメリットがあることが、金銭解決を推す理由なのでしょう。「転職や起業」をするチャンスという問題については、第3章でも触れられます。
 しかしそれだけではありません。「世の中では、解雇とか雇止めというのは、あちこちで山のように行われているわけです。そういったところでは、金銭で解決どころか、びた一文も払わない形でそのまま雇用が終了するというのは幾らでもある。」と著者は述べています(「『経営法曹』161号に私の座談会録」『EU労働法政策雑記帳』様)。現状を考慮した上でのことのようです。(注1)

 非正規労働者が就労を開始したときの水準は正社員の初任給を下回らないものとし、その後は定期昇給の最低ラインを下回らないものとする (103頁)

 非正規労働者問題の解決の方法の一つとして、著者はこれも挙げています。
 著者によると、「EUの有期労働指令には「期間比例原則」(pro rata temporis)が定められている。上述のように、欧州の賃金制度は基本的に職種と技能水準で決められているが、採用から一定期間は勤続期間に比例した年功的昇給が行われることが少なくない。」とのこと(「日本型雇用システムで正規と非正規の均等待遇は可能か?」『生活経済政策』2009年5月号)。
 これは、多くの人にとって賛同できるはずの主張です。

■「新しい労働社会」をシングルマザーの視点から考える■

 日本のシングルマザーの就業率は八〇%以上と世界的に見て驚異的に高く (155頁)

 「05年に実施された国勢調査によると、シングルマザーの人口は118万人。厚生労働省の発表(06年度)では、シングルマザーの就業率が84.5%と、男女の合計57%よりも高かった。しかし、半数以上が非正規雇用。」とのこと(「シングルマザーだから雇いたい」『asahi.com』様)。日本において、社会のしわ寄せを最も受けているのは、実は彼女たちだといえるのではないでしょうか。子供を含め、一家の家計を預かっているのに、非正規雇用しか、働く場所が無い。負担の重さと、所得の見返りの薄さの点で、日本社会においてしわ寄せを受けているのは、彼女たちであるはずです。(もちろん、親世帯の助けを得られるか否かなども、考慮すべき対象ではあります。)
 だが問題は、もっと深い。これは本書にも書いてある事柄ですが、「働いているひとり親の貧困率が働いていないひとり親の貧困率より高い国は、OECD加盟国でも日本とトルコ、ギリシャだけだ(出所・OECD日本経済白書)。シングルマザーの環境に関しては、日本は先進国とは言いがたい状況だ」(「広がる働く女性の格差【上】 シングルマザー(1)」『東洋経済オンライン』様)。働かない方が、働くよりも、見返りがよい。労働者として、この上ない不公平があります。
 著者は、「現在の日本では、法定最低賃金額が生活保護の給付額を下回っている。市場の中で頑張って働いている人は不健康で非文化的な生活に甘んじなさいといっているようなものだ。」と、この現状に批判的です(「2つの正義の狭間で」『EU労働法政策雑記帳』様)。このことは、シングルマザーを含む「ワーキングプア」全体に対して述べられています。そして、「現実に日本型雇用システムに入らない家計維持的な非正規労働者が増大している以上、(略)賃金でそこまで保障できないのであれば、それは端的に公的な給付であっていいのではなかろうか。」と公的給付を提案しています(「日本型雇用システムで正規と非正規の均等待遇は可能か?」『生活経済政策』2009年5月号)。公的給付の中身については、次稿にまわします。
 本書の書評において、彼女たちの存在に視線を注いだものは、そう多くありません(ほとんど無いかもしれません)。しかし、彼女たちは、(他の立場の人々に比較しても)労働者として最も重い負担を、社会の中で強いられている存在ではないでしょうか。その意味で本書は、シングルマザーの立場から読まれる意義が十分あります。
 戦後ずっと、最近の「格差」・「貧困」問題が大きく提起される以前から、彼女たちが、一定の割合として日本の社会に存在していたことも、その意義を高めます。
 本書の対象とする読書層の問題もあります。本書は果たしてシングルマザーたちに届く書物なのか、という点も、考慮すべきかもしれません。即断できませんが、本書が岩波新書という比較的「アッパー」な読者層を対象としており、学術的な質を落とすことの無いスタイルゆえに平易な書物ではないのも事実です。本書において、シングルマザーに焦点を当てた書評が少ない気がするのも、これと無関係なことではないのかもしれません。

(続く)

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「正社員」というレール、中小(零細)企業という路傍 濱口桂一郎『新しい労働社会』(2)

■本書のおさらい。「正社員とその家族」というレール■
 第2章について触れる前に、あらかじめ本書の肝について、おさらいをしましょう。
 本書が指摘する日本の雇用制度は、次のようにまとめられます。
 日本では、特定の職務に規定されない、組織のメンバーとして長期雇用されます。①長期雇用制度、②年功賃金制度、③企業別組合。以上の三つは、この雇用制度から必然的に導き出されます。特定の職務が存在しない分、給与は「残業、転勤、配置換えなどを厭わない会社への「忠誠心」「やる気」が評価され、勤続年数がそうした忠誠心の指標になるから、結局、年齢という尺度で賃金が上昇していく」(「濱口桂一郎『新しい労働社会』(1)」『charisの美学日誌』様)。(注1)
 この制度の問題点は、【正社員と専業主婦】というレールに乗った人は手厚く保護を受けるが、そのレールにまだ乗れていない人、乗れなかった人は、保護が手薄くなることです。「主婦と学生のアルバイトをモデルとした「非正規労働」には低賃金を押し付けるという構造が、昔は大いに合理的であった」(同上)。本書は、この制度がもはや現実に適合していない点を問題視しています。
 以上の枠組み自体は、「拙著の序章で示している認識枠組みは、労働研究者の中ではごく普通に共有されているものの一種であって、たかが10年前に池田氏が博士論文を書いて始めて提示したようなものではありません。」と述べられています(「池田信夫氏の「書評」」『EU労働法政策雑記帳』様))。専門家と非専門家との間の認識のギャップ、といえるでしょう。新書というものが、二つの存在の架け橋であることを、改めて思い知らされました。

■中小零細企業という路傍■
 ただし、この日本的な雇用システム(モデル)はあくまでも、大企業の話です。「小さな会社の正規労働者では非正規労働者とあまり変わらなくなるのである。ということで、日本型雇用システムの特徴が成立する正社員の数はある意味では500万人から700万人にしか適用されない恵まれた少数例に過ぎないといえる。その10倍以上の労働者は日本型雇用システムとは縁のない労働環境にある。 」と、「書評 「新しい労働社会」」(『千田孝之のホームページ』様)という記事は指摘しています。
 本書において、中小企業の正社員は、どう位置づけにあるのか。この位置づけは、難しいところかもしれません。ただ、中小の中でも零細企業の正社員たちは、レールに乗れなかった存在、と位置づけるべきでしょう。
 著者は、大企業と中小(零細)企業との差異について、次のように言及しています。解雇の容易化=雇用流動化で日本はよくなる、という主張に対しての著者の反論です。「この手の議論は、(自分がいた)大企業を日本社会のすべてだと思いこんで、中小零細企業の実態が頭から欠落しているところに特徴があります。」と指摘し、「解雇規制をなくせばブラック企業が淘汰されるどころか、現実に限りなく解雇自由に近い状態が(労働者保護面における)ブラック企業をのさばらせている面もあります。」と警告しています(「クビ代1万円也」『EU労働法政策雑記帳』様)。ここから著者は、第2章でもふれることになる「解雇の金銭解決問題」にも言及していますが、この問題については、次回にしましょう。
 ともあれ、本書は、「正社員/非正社員」という構図だけでなく、「大企業/中小企業/零細企業」という構図からも、読み解かれるべき書物なのです。

(続く)


(注1) 前回(1)として書いた内容は、本書の想定の範囲内であったわけです。自身の未熟さを思い知らされます。


(追記) 大企業の社員と中小企業の社員との賃金の格差については、「1. 中小企業の賃金水準の実態について」(『2009年版 中小企業白書』内)をご参照ください。

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