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説明責任は、制度としてここまでやる必要がある。 豊永郁子「小沢一郎論」(下) (2)

■「複雑性の縮減」という政治家と政党の役割■
 シュミッターとカールという学者は、民主主義のためには、政治的行為者の行動に一定の予測可能性が必要である、と指摘しているそうです(239頁)。著者はその主張を肯定し、民主主義には、政治家の行動がある程度予測できる必要があるといいます。
 政治家は予測不可能な行動を慎むべきである(230頁)、という著者の指摘は大変重要です。著者にとって、政治家とは、不確定要素の多い政治の世界において、その「複雑性」を縮減する役割を果たす存在です。
 同じことが、政党にも言えます。著者は、変転激しい政治事象の海にあって、政治の世界に一定の予測可能性を保障してくれる存在として、政党を位置づけています(232頁)。そして、このような「複雑性」を縮減する役割を果たし切れていない日本の政治家・政界に、厳しい目を向けています。
 これらは、卓見というべきでしょう。何で政党があるのか、何で政治家が必要なのか、これが端的な回答なのです。

■「選挙に勝てる」ことしか考えないのは、職業放棄?■
 「国民に受ける、受けない」とか、「選挙に勝てる、勝てない」などの基準を、政治家が判断基準にすることについても述べられています(234頁)。
 このような振る舞いは結局、国民が政治家を品定めする機会を奪い、国民と政治家の間にダイアローグを構築するのを妨げます。また、政治家はこのとき、自分の考えを語りえないことを白状しているのも同然なのです。極端なはなし、自分は何も考えず、ひたすら「国民」に耳を傾け続ける。このような嫌われたくない症候群の"意気地"のない政治家を国会に送り出す国民とは……。
 ともあれ、このような融通無碍は結局、「複雑性」を縮減させるどころか、増大させてしまいます。

■「説明責任」とは、ここまでやらないといけないらしい。■
 著者は注の方で、「説明責任」についても書いています。この概念はもともと、1980年代、サッチャー政権時代に発生したものです。大臣が、議会に対してだけ説明を行う責任を負うのでは不十分だ、という考えの下に、その範囲は拡大したのです(236頁)。説明を行う責任を負う範囲が、この時期議会から、その他利害関係者、そして国民へと拡大します。
 では、適切な「説明責任」とはどのようなものか。
 例えば、①事実情報が公開されていること、②有権者(もしくは、その上位機関)がその評価を下せること、③これによって、その主体(政治家)が然るべき承認や制裁を受ける機会を含んでいること、などです。言い訳を一方的に言って、それで果たされるようなものではないのです。
 情報公開や、有権者による評価といった点は、予想される範囲でしょうが、③の「然るべき承認や制裁を受ける機会」というのが特に重要です。説明責任とは、そこまでやらんといけません。
 以前書いた拙稿より引用(「インタゲ成功のための制度的保障」より)。

 説明責任とは説明する責任があるという意味ではなく、その説明が説得的なものでなければ、中央銀行総裁をはじめとする政策委員会のメンバーの辞任あるいは免職を伴うものでなければならないという意味である。 (173頁)

 要するに、説明責任というのは、制度的にそのメンバーの任を左右できることが前提なのです。日本の政党はさっさと、制度構築を急ぐべきじゃないですかね。民主党も民主党以外も。

(おしまい)

2010/10/02 改題済
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