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「国民読書年」という"キモさ"、「活字離れ」な割にネットで活字が読まれすぎている時代に 蓮實重彦『随想』(1)

・ 蓮實重彦『随想』新潮社 (2010/08)

■「攻撃的」な随想■
 『随想』というタイトル。表紙には、「エッセ・クリティック」とあります。無論、これは、ロラン・バルトの同題の書物から来ているのですが、当時のバルトは(後の彼と比べて)結構戦闘的でした。
 なんせ、ロブ=グリエにバタイユにブレヒトにと論じておられた若い頃のバルトなのですから。で、『随想』の著者ですが、御歳にもかかわらず(?)、今回も結構攻撃的です。
 例えば、ノーベル文学賞をめぐるマスコミの大はしゃぎを批判する冒頭の章では、村上春樹信者である某レヴィナス研究者を、きっちり実名を挙げて批判していますし、中村光夫とルーアンへ向かいフローベールの草稿を閲覧した際の「思い出」を記した章では、中村の自身の仏語「能力不足」発言を真に受けた某文芸批評家に対して、これも実名を挙げてあなたとは違うんですとばかりに反論しています。まあ、これくらいなら優しいものですし、『小説論=批評論』の頃よりは、随分丸くなられたと思いますけど。

■問題はむしろ活字があまりに多くの人によって読まれていること■
 しかし、本書において最も攻撃的に批判されたのは、とある団体です。(ちなみに、その引用された文章の酷さから、最も読み進める速度が速かったのはこの章です。どうでもいい話ですが)
 「国民読書年」(「国民毒暑年」?)に興味がないといいつつも、「多少の税金-平成二十一年度は「機構」に九,一四七,六〇〇円が一般会計が支出されている-」と数字を挙げずにはいられないご様子ですし(242頁)。本人の言うとおり、事業仕分けの担当者のようには、言い募らないのも確かですが。
 しかも、この団体の理事長に対して、「元衆参両院の議員で児童文学者でもあるという」人物は「「出版文化産業振興財団」なるものの理事長」でもあり、「「幼い」有害図書から保護する法案を提出そびれたほかにこれといった実績もない」とこき下ろしています。この理事長サマ、なんか児童書を書いてるらしいんですけどね、まあどうでもいいや。
 さてさて。著者は、現在地球に暮らす人々がこんなにまで活字に接している時代は人類史上なかったと述べ、インターネットだって大半は活字なんだから、問題はむしろ活字があまりに多くの人によって読まれていることであって、「読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ」(243頁)こそ検討すべきじゃないのか、と述べています。だのにその某団体は、電子媒体による読書は読書じゃないといわんばかりに、その現実を無視している、と。御大にこんな正論を吐かせるとは、実に度胸のある団体ですな。(ちなみに、御大は、全国紙の定期購読はもう20年も前にやめたらしいです。)

■「言語力検定」と「建築力検定」、両方キモい。■
 この団体の名前にしても、「マンガじみた」名称であり、団体名にこんなのを何のためらいもなく採用してしまう奴らに「言語」の問題なんぞ任せらんないだろ、とモブ・ノリオの意見に賛同しつつ述べています。確かに、この団体名は「キモい」ですな。しかもこの団体は、よりにもよって「言語力」不足などとまたもやキモいことを主張し、「言語力検定」などとという漢字検定よりも下劣で金の臭いがする手段で解決をはかろうなどと考えていやがるのですが、著者は無論そんな意見には与しません。
 社会において教育的な刺激を受けることというのは、つまるところ異なるものの豊かで多様な共存(ジャン・ルノワール!?!)を許容する風土であって、試験などにある合格や不合格といった線引きとは一切無縁であり、間違えさえも成長の契機となるような時間のかかるものだと、著者はいうのです。またも正論を吐かせるのか、この団体は。
 著者が正論をはかないといけないくらい、この団体のサイテーっぷりはすさまじい。ノーベル賞騒ぎに熱心なマスコミに呆れることから始まった本書は、最後にキモい団体への隠せぬ憤りで終わります。最後の章という重要な所で御大をこんなに怒らせた団体に、呪いあれ。
 ところで、この団体の立ち上げた「国民読書年」の推進委員会の座長は、御大が大学へ招聘した建築家です。これってどうなのよ。建築家だから許したほうがいいのか、どうなのか。とりあえず、安藤さんには「建築力検定」を創設していただきたいと思うのですが、どうでしょ。

(続く)
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