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反「教祖」・反「男性中心主義」・反「起源」としてのゴダール -ゴダールの贅沢さについて- 蓮實重彦『ゴダール革命』

 『ゴダール革命』を読む。
 一部の文章は既にネットにアップされているため、ネット上にあるものは、それを用いるものとする。



 以下、「ゴダールの孤独」の章より


 

リチャード・バートンとシルヴィー・ヴァルタンを主演に迎えるという当初のアイディアに固執し、そのための厄介な資金集めやスケジュール調整などを時間をかけて行なっていたとしたら、『気狂いピエロ』という美しい作品など生まれはしなかったからである。たまたま彼の身近にいたアンナ・カリーナとジャン=ポール・ベルモンドでさっと撮り上げてしまったがゆえに、ゴダール特有の色彩がとりわけきわだった

 このように、ゴダールは待たない。
 というか、待てない。
 良く知られているように、彼は綿密な準備といったものとは無縁な作家だ。

 

 映画は「人民戦線」にも、「スペイン内戦」にも、「レジスタンス」にも、「アウシュヴィッツ」にも遅れて到着することしかできなかった。フィクションを撮っていた偉大なる監督たちは、ルノワールでさえ、この時期、「現実の復讐を統御しえなかった」からである。生誕の瞬間にはかろうじて維持されていた時間との正常な関係はたちまち崩れ、映画は、遅刻の常習者として20世紀を生きるしかなかった

 映画は、現実に対して、常に遅れてきた。
 いや、ゴダール自身もまた、遅れてきた。
 

 ゴダールがその一翼をになっていた「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは、まさに『サンライズ』以前にマルセル・カルネの『霧の波止場』やクロード・オータン=ララの『乙女の星』を知ってしまった者たちの、映画に対する居心地の悪さを「決算」する試みにほかならなかったからである。事実、『映画史』の「3B」の章で、ゴダールは、その居心地の悪さこそが「ヌーヴェル・ヴァーグ」のアイデンティティだったと明言している。

 いうなれば「転向者」(途中で"道"を知り、変更した者)としての居心地の悪さから、ヌーヴェル・ヴァーグが、そしてゴダールが、始まった。
 「もっと早く知っていたら」という感覚なら誰だって持つけど、それを忘れずに自覚し続けた人間はそう多くはない。
 ヌーヴェル・ヴァーグの一派のすごさは、そこにある(はず)。

 

 すでに神話化されている監督と製作者との対立は、だから、芸術か金銭かという不毛の二者択一にはとうてい還元しがたいものなのである。作品の「存在」を当然視するのが製作者だとするなら、監督にとって、それは決して自明のものではない。映画作家が向き合っている「不在」の光というものが、製作者の目には映るはずもないからである。だから、製作者は、撮影の遅れを、システム上の計算によっていくらでも回避できる人為的な事故だと確信するしかない。

 プロデューサーは判ってくれないw
 作品とは何かという根本的な問題(非対称性)。
 確かに、監督という作り手にとっては、作品は常に自分の手で修正・更新されるべきものとしてあるけど、製作者にとっては、まずは観客へ向けて公開・販売するものだ。
 この立場の違いは、実に深刻だ。
 (ここら辺の対立及び協調については、蓮實『ハリウッド映画史講義』も参照されたい。)

 ランシエールは、ゴダールに対する反駁可能な視点の一つとして、「物語的な状況に完全に由来する感情的な負荷」によってそうした細部がきわだつにすぎず、「画面の絵画的な特性によってではない」と書いている。なるほど、この主張は、一般論としての映画解読には妥当しうるかもしれない。だが、ゴダールにとってはまったく役に立たない指摘だというしかあるまい。というのも、「アルフレッド・ヒッチコックの方法序説」がごく簡潔にいっているのは、「物語的な状況に完全に由来する感情的な負荷」の増大などにつきあっている暇は自分にはないという「性急」さの擁護と顕揚にほかならぬからだ。

 ランシエールの言い分ももっともだが、ゴダールにとって、「物語」などどうでもいい。

 「性急」なゴダールは、ヒッチコック的なサスぺンスなどにひとかけらの興味もしめしてはいない。抒情詩人ヒッチコックが得意とする愛の成就に向けてのゆるやかなメロドラマ的展開にもいかなる関心もしめしてはいない。 (略) 彼は、その周到な組織化にほかならぬヒッチコックの演出そのものに惹かれたりはしない。 (略) 『映画史』における「アルフレッド・ヒッチコックの方法序説」は、トリュフォー的なヒッチコックをも「決算」する試みとして受けとめられねばならない。

 ゴダールのヒッチコックに対する愛し方は、他の人のと違う。
 ゴダールは、何かを隠すことによってストーリーを進めようとする技法は、好まない(アンチ・サスペンス!!)。
 「隠すことの拒絶」(181頁)こそ、ゴダールの信条
といえるだろう。

 (「隠さないこと」という主題は、阿部和重『ABC戦争』での蓮實の解説にも通じるかも。)

 ゴダールは、自分自身のうちにさえ後継者を持たぬまま、なおも「孤独」である。

 誤解されやすいが、ゴダールほど、「教祖」的ではない人もいない。
 彼は『映画史』で、自分とともに映画の歴史を終えようとさえした人物だ。
 自分で歴史を終わらそうなんて、教祖というより、神に近いだろw



以下、「老齢であることの若さについて」(『フォーエヴァー・モーツアルト』論)より


 この蘇生は、驚くべきことに、二重に推移する。まず、瀕死の状態から、キャメラの被写体たりうる女優への遺骸のよみがえりがある。それと同時に、息をふきかえした女性が、サラエヴォで絶命したカミーユへと変貌するといういま一つのよみがえりがある。実際、異なる女優によって演じられていながら、二人はまったく同じ台詞をしゃべるし、まったく同じ横縞の帽子さえかぶっている。それぞれがまったく異なっているが故に、この二つの存在は、あたかも永劫回帰のように同じなのである。

 類似(≒ 同一)という、反起源性。 

ここには、現実の映画作家ゴダールとその虚構の登場人物である映画作家ヴィッキーとの間の、奇妙な相互浸透ともいうべき現象がみられる。二人は、いかにもゴダール的な接続詞「と」で並置されてさえおらず、彼らの間には、ブレヒト的な「異化効果」も、エイゼンシュテイン的な「弁証法」も機能する余地がない。死骸からよみがえった女優とカミーユとのように、ゴダールとヴィッキーは、それぞれ異なっていながらも同じなのである。たがいの一部を融通無碍に交換したり、貸与しあったりしているようにさえみえる。(略)妥協とは無縁のこのやわらかさは、ゴダールが『映画史』を代償にして初めて身につけたしたたかさにほかならない。『JLG/自画像』の歴史の孤独がここに希薄なのも、そのためである。

 孤独だったゴダールは、類似(≒ 同一)へと進む。
 そこに、起源にこだわる姿勢はない。


 (ここら辺は、蓮實によるマキノ雅弘への言及、例えば、『随想』の当該の章をも参照されたし。
 ゴダールとは違うものではあるが、マキノにも「類似」がある。
 相異なる両者に、通じ合うものがある。)
 
 なお、ゴダールがいざ起源に拘ると、いきなり"マネこそ映画の起源"とか『映画史』で語ってしまったりする。
 詳細、蓮實『ゴダール・マネ・フーコー』を参照。



以下、本書のその他の箇所より



 ナタリー・バイ曰く、「ほかの映画の撮影は時間に追われ、スタッフ全員が殺気立っているのに、光線の加減で一日そっくり休んでしまうゴダールと一緒に仕事をしていると、途方もなく贅沢な気分になってくる」(196頁)という。
 なのに、ふと気まぐれに撮ったシーンを見ると、叙情溢れる画面になっていると、ナタリー・バイは続ける。

 この発言は、黒沢清の指摘にも繋がるだろう。



 黒沢清曰く、「どんな女優であれ、パレスチナ・ゲリラであれ、まったく同レベルで見せる」。「生々しいと同時に謎めいている顔」、それは、「ゴダールの「フィクション」を作る力のものすごさ」である(216頁)。
 つづけて曰く、「五分くらい見ていても絶対大丈夫というような、普通であればキャメラをずーっと長く回してしまう」そういう「ものすごいカットをばっちんと切って、次に飛んでしまうという一種の贅沢感があります」(218頁)。

 ゴダールの天才、そして、ものすごさ。
 そして、贅沢さ。
 彼の撮った女たちは、どれもキマってる。



 「あらゆる映画作家は、他人の映像、他人の音響、他人の言葉でしかないものと向かい合うことで初めてキャメラをまわすことができる」とゴダールを蓮實は評する(150頁)。

 ゴダール自身の「映画という複製」への対応については、『ゴダール・フーコー・マネ』を参照されたし。
 ゴダールは、実に、「映画という複製」に自覚的な作家だった。


 
 黒沢清曰く、「タルコフスキーはすごいなあとは思いつつも、ギャグがない。ギャグがないのが最大の欠点」だが、「ゴダールにはどんなものでも必ずギャグがある。みんなに向かって開かれた映画なのだと思える」という。
 そして、「ストローブ&ユイレは、見ようによっては全部がギャグのようにもかんじられますが(笑)、いちおう真面目に作ってある」(220頁)。

 もちろん、両者が作ったのは、ギャグ映画ではない。
 笑いとそれ以外の感情が同時にわきあがってしまうような、得も言われない映画だろう。
 喜劇的であると同時に悲劇的であるような、涙と笑いが同時に沸き起こるような感覚こそ、ゴダールの映画であり、ストローブ&ユイレの映画だといえる。
 (ストローブ・ユイレの映画に対する評価は、『ゴダール・マネ・フーコー』の章を参照すべし。)


 『群像』10月号で、蓮實重彦が、テレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』をすんごく批判していた。
 その批判の要点は、あたかも「教祖」として監督が振る舞っている(同調か拒絶かの択一を迫る)こと、「男性主義的」(女の撮り方がなってない)であること、「起源」というものに拘泥してしまったこと(よりにもよって映画で!!)、にあると思われる。

 蓮實の批判点を明確にするため、彼のゴダール監督への評価と比較すると、ゴダールがテレンス・マリックとは対極にあるような作家だと分かる。

 ゴダールほどの非教祖はいない(あのギャグは一応全世界に開かれているw)し、女の撮り方こそゴダールの真骨頂だし、複製としての映画というものに誰より敏感だったのだから。
 蓮實が、あんだけ批判したのも、まあ、無理ない。
 


 最後に。
 『『ツリー・オブ・ライフ』見るくらいなら、『エッセンシャル・キリング』見た方がいいw
 常考。
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