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名文の解剖、あるいは対比的な綴り方 -宮脇俊三『時刻表2万キロ』について-

 つぎの清水浜と、そのつぎの歌津はいずれも小さな漁港であった。家が少ないからホームを埋めつくすほどの人はいない。そのかわり手足を動かすことができるから、いろいろなことをやってくれる。けさ仙台で読んだ地方新聞によると、きょうのために一ヶ月も前から踊りなど練習していたという。焦茶色に日焼けし海風に鍛え抜かれたおばさんたちが、花笠をかぶって一列に並び片足を上げて踊る。なんだか申し訳ない気がする。しかしその顔は嬉々としていて、駆り出されの翳りは微塵もない。
 短いスカート姿の、バトンガールのような女子高生のチームもいる。増加をつけたタンバリンをくるくる回してそれが一段落すると、こっちに向かってお辞儀などするから恐縮してしまうが、顔立ちの整った子が多く、色も白かった。この少女たちが、どうしてあのおばさんたちのようになるのかと思う。
 東京の新聞には、また赤字線が増えたと批判的な記事が載っている。しかし地元はこのとおりである。地元の人たちは鉄道の開通を喜ぶが、みんなマイカーを持っているから、ほとんど乗ろうとはしない。国鉄側にしても列車を一日五往復しか運転させないのでは、大いに利用してくださいとは言えない。
 開通日のお祭りが終れば、風光のよい三陸海岸の新線を、わずかな客を乗せたディーゼルカーが淋しく走るだけになるのだろう。国鉄では気仙沼線の赤字係数の計算はちゃんと出来ており、七二五の見込みであるという。
 むずかしい問題ばかりだが、私には、駅頭で妙な踊りを踊る日焼けしたおばさんたちの顔だけが、たしかなものに思われる。



 上の文章は、宮脇俊三『時刻表2万キロ』(1978年)の250、251ページから引用した。
 この名著の最終章、気仙沼線の章から抜粋した (「第14章 気仙沼線 開通の日」)。
 その後の著者と気仙沼線との関係は、他のブログで取り扱われていたので、そちらを参照された方がよい。

 昨年の大地震で気仙沼線がどうなったのかについては、あえて書き資する必要もないだろう。

 引用文は、開通した当日の情景。
 著者の目には、このように映ったらしい。

 「この少女たちが、どうしてあのおばさんたちのようになるのかと思う」と言う一文については、あえて触れないで置こう。

 「地元の人たちは鉄道の開通を喜ぶが、みんなマイカーを持っているから、ほとんど乗ろうとはしない。国鉄側にしても列車を一日五往復しか運転させないのでは、大いに利用してくださいとは言えない」という文章は、当時から既にそのようなことが言われていたことを示している。

 それにしても、上の文章は、実にスムーズにキーボードで打てた。
 文の一つ一つがリズム良く短くまとまっていて、大変うちやすい。
 書きとめていて、引っかかりや淀む所がないのは、流石、名文と言うべきか。



 具体的に見ていくと、例えば、「家が少ないからホームを埋めつくすほどの人はいない」と、「そのかわり手足を動かすことができるから、いろいろなことをやってくれる」というふうに、「から」という、理由と結果の対句的な文章をつづっている。
 このリズムが、この人の真骨頂かもしれない。

 「この少女たちが、どうしてあのおばさんたちのようになるのかと思う」という、少女とおばさん、白と焦茶の対比。

 「東京の新聞には、また赤字線が増えたと批判的な記事が載っている。しかし地元はこのとおりである。」という、東京の新聞と地元の情景の対比。

 「地元の人たちは(略)」と、「国鉄側にしても(略)」という地元と国鉄の対比。

 そして最後には、「私には、駅頭で妙な踊りを踊る日焼けしたおばさんたちの顔だけが、たしかなものに思われる」という、片方の「選択」でしめる。
 流石『史記』の読者と言うべきなのか、対比によってリズムを作っているわけだ。


 この方法、皆さんも是非ご家庭でお試しください。

 (未完)
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