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「自伝」の書き方、あるいは「物語」による精神分析的回復と執筆の作法 -石川美子『自伝の時間』を読む-

 石川美子『自伝の時間―ひとはなぜ自伝を書くのか』を読む。

 本書の紹介にあるように、

わたしはなぜ今ここにいるのか。ロラン・バルト、プルースト、スタンダールなどのフランス自伝文学が物語る、愛する者を失った「喪」の苦悩のなかから求める「新たな生」。ひとはなぜ、いかに自伝を書くのかを考える。

というのが本書のキモとなる。

 上に挙げられた作家たちの自伝というのは、自分自身のこと(自分だけが知っている自分の真実、など)を、ひたすら書くというようなものではない(自分だけが知っている真実を描こうとした典型が、例えばルソー)。

 そうではなく、自分が今ここにいることの意味や、今に至るまでの時間を描くことが、大きなテーマとなっている。

 「わたしはなぜ今ここにいるのか」という問いが開く、「愛する者を失った「喪」の苦悩のなかから求める「新たな生」」こそが、彼らのテーマだった。

 以下、気に入った所だけ。



 本書の最大の主人公は、ロラン・バルトである。
 そのバルトについて。

 ロラン・バルトは、ジッドの『日記』に憧れて、日記の文学的作品を書こうとする。
 しかし、うまくいかない。
 書いて最初は良く思えても、見返すとガッカリする、という。
 日記は自分が書き留めておきたいことをも裏切ってしまうような、形式である、と(97頁)。
 誰にも覚えがあると思う、日記を書いていて、しばらく経って読み返してみたら、とてもじゃないが読めたものではなかったことが。

 そこで、バルトは『パリの夜』という、日記を書く。
 ある日の出来事を、当日にではなくて、翌日になって書く。
 しかも、過去形で。

 こうして過去形で書くことによって、「喪の時間」が動き出す。
 母の死に苦悩していたバルトは、「新たな生」を、「時間」を導入する(98頁)。

 そしてバルトは、事実上遺稿となる、そのスタンダール論において、「イタリア旅日記」について書いている。
 曰く、スタンダールは、生き生きとした断片的な感動を直接的に書き記そうとしているけれども、陳腐な、空疎な、表現にしかなっていない。
 断片的な感覚を捨て去って、物語の脈絡に委ねた時に、愛や情熱はその表現方法を見出すだろう、と(99頁)。

 物語(の脈絡)という形式によって、息苦しい自分と自分との間に、距離を作る。
 そして、断片的な感情や感覚を、整除し、一つの流れの中に位置づけることによって、「新たな生」を生きる。
 密着し続ける自分との間に距離を作り、ばらばらで刹那的な感情や感覚を整除することで、生を回復する。
 (どこか、精神分析を思わせる。)



 上記のごとき「自伝」では、私という自己よりも、むしろ「時間」を生きること、他の人の死を受け入れて生きること、自分が変容していくこと、そういったことを描こうとする。
 では、その時、どのような執筆的工夫が必要か。

 スタンダールやシャトーブリアンやプルーストは、「自伝」において、どのように描いたか(164頁)。
 まず、主人公たちは、冒頭、周りに誰もいない空間にいる所から、描かれる。
 そして「レミニサンス」を経験する場面では、今は亡き愛する誰かの残していったものが登場する。
 それを通じて主人公は、啓示を受け取ることになる

 (ちなみに、「レミニサンス」とは、例えば、プルースト『失われた時』の「マドレーヌ」の場面を想起せよ。)

 冒頭の孤独が、レミニサンスでの啓示を準備することになるわけだ。
 主人公は最初、まず孤独である必要があり、そして、最終的に、誰かの遺品を通じて「啓示」を受け取り、孤独な時間から解放される。
 まさに、「「喪」の苦悩のなかから求める「新たな生」」である。

 彼らの自伝において、冒頭で「私は~で生まれた」などと書かれないのは、それが冒頭に必要な孤独感を排してしまうからに他ならない。

 自伝における「時間」という重要な存在と、それを描くための工夫、というのがお分かりいただけただろうか。

 (未完)
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