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斎藤茂吉の「異化」的作歌法と、近代における『万葉集』利用 -品田悦一『斎藤茂吉』を読む-

 品田悦一『斎藤茂吉』を読む。
 著者は、『万葉集の発明』を書いた人。
 前著もそうだったけど、面白い。
 茂吉だけでなく、それ以外の主張も面白い。

 気になった所だけ。



 茂吉の訛りは酷かった(32頁)。
 彼の晩年の歌の朗吟を聞けば分かるが、結構訛っている。

 同じく同郷の友人たちの訛りも酷かった。
 (「酷かった」という表現は、山の手中心主義な気もするけど。)
 彼らは、結果的に文筆に自己表現の道を見出す。
 そして、茂吉は「書く人」となった。
 (ここら辺の問題意識については、小林敏明『廣松渉』における、廣松の文体と「周縁性」の問題と共に考えられるべきだと思うが、まあ、また今度考えよう。)



 茂吉は、朗吟より黙吟の方が効果があると考えた(44頁)。
 「肉声の干渉が回避されるという意味ではむしろいっそう純粋に感得できる」というわけだ。
 肉声は時に、肉声以外の要素を、殺してしまう。
 (黙吟の意義(朗吟への批判)は、確か、荒川洋治も述べていたと思う。)
 


 茂吉が万葉の古語を好んで自作に用いたのは、格調のためではないし、まして、万葉歌人の心に同一化しようとしてでもなかった(38頁)。
 単に、自分の「内的節奏」(リズム)に合致するからだった。
 そう著者は言う。

 実際、茂吉は、万葉以外にも、『山家集』や『梁塵秘抄』の古語、近代の俗・流行語、さらには、西洋語にまで手を出している(39頁)。
 日本の言葉の歴史上、かつて一続きの文を構成したことのない複数の語が、三十一音のうちに同居している(110頁)。
 実に画期的、そして、実に不協和音的。
 茂吉は、時空の異なる言葉を用いてして作歌していたのである。
 塚本邦雄があれほど茂吉にこだわった理由はここに存する。

 端的な例を挙げると、1929年作・『たかはら』収録の一首。
 「荒谿(あらだに)の上空を過ぎて心中にうかぶ“Des Chaos Tochter sind wir unbestritten.”」



 少なくとも、『赤光』や『あらたま』前期までは、『万葉集』は、新奇な言葉の宝庫であって、作歌の規範では必ずしもなかった(40頁)。 
 
 その狙わんとする所は、この世界を見慣れぬ世界として再現すること、つまり、「異化(非日常化)」だった(103頁)。

 万葉調とは最初は、彼にとって「異化」の手段であり、彼が本当に「万葉の人」となるのは、後年になってからである。
 (詳しいことは、本書を。)



 『万葉集』では日常会話で「かへる」「つる」と呼ばれているものを、「かはづ」「たづ」と呼んでいた。
 また、『万葉集』はほぼ全て和語でなっており、漢語は組織的に排除されているが、その和語も、漢詩文に典拠を持つ「翻訳語」がかなり含まれている。
 例えば、「つゆしも(露霜)」、「しらゆき(白雪)」、といったものである。

 『万葉集』の言葉は、漢語や俗語との相対関係のもと、日常語とは位相を異にすることばである(63、4頁)。
 別に、話し言葉でも何でもなかった。

 しかし、明治の知識人たちはそうは考えず、万葉歌人は基本当時の話し言葉をそのまま用いて作歌したと考えた。
 土着の、民俗の、純粋な、といった、『万葉集』に対する「古代幻想」のようなものが、この時期からいっそう浮上しはじめる。



 茂吉は、大のウナギ好きだった(97頁)。
 実際、1941年12月には、15食は食べている。

 昨今ウナギが減ったのは茂吉のせいである(違



 ドイツ語のVolkからは、王侯貴族が排除されていたにもかかわらず、日本語「民族」の概念からは、「天皇から庶民まで」含まれていた(160頁)。

 ドイツの場合、文明という普遍を享受する支配層は「民族」にカテゴライズされず、被支配者の「文化」こそ、固有の民族精神を具現するとされていた。
 例えば、民族の一体性を称揚し貴族階級を批判した、かのフィヒテの「民族主義」がある。
 「民族主義」(ナショナリズム)は、もともと、自由と平等(脱階級・階級闘争)と結びついた思想だった。

 だが、日本流の「民族」理解では支配層と非支配層との対立が骨抜きとなって、両者の文化的連続性ばかりが強調されていった。

 どうしてこうなった。
 (また今度考える。)



 『万葉集』の戦争利用の様相について。

 戦中、「防人」という語が、大陸や太平洋の島々へ出征する兵士たちを「歌う」表象として、短歌などで使用されたことはよく知られている。

 だがもともと、古代の防人は、平時における国境警備兵であって、出征はしなかった。
 出征する将兵は妻や妾の同伴を禁じられていたのに対して、防人は、本人の願い出で許可されるのが定めだった。
 しかし、戦中は、誰もそれを言わなかった(265頁)。

 ちなみに、折口信夫は、サイパン島での敗戦に際して、「遠の皇土の防人の命を思い」と歌っている。



 そもそも防人歌自体、万葉集の中では4500首程度のうち、100首ほどである(266頁)。
 しかも大部分は、家郷を離れて旅する辛苦を歌っており、忠勇を歌い上げた作は、極少数である。

 しかも上記の事実は、すでに1943年の川田順『愛国百人一首評釈』で、指摘されている(293頁)。
 (ちなみに、そんな川田は、戦争詠の多さで茂吉と並び称された人物である。)



 この事実は、次のように正当化された。
 防人たちはこうした真実を吐露し、心から悲しんだ末に覚悟を決め、立派に任務を果たしたのだ、と(294、5頁)。
 政府などによる政治的プロパガンダに否定的だった論者たちも、このような「文化主義的」論法で兵士を納得させることで、戦争に加担した。

 「当局の誘導と一線を画そうとした多くの論者にとっても、『万葉集』は美しい日本文化、優秀な日本民族の表象にほかならなかった。」。
 これを守り抜かなくてはならない。
 そうした意志を出征する兵士たちも持った(その一人が近藤芳実である)。

 「『万葉集』を生み出した日本文化」は命がけで守るに値する、という「文化主義的国民歌集像」は「皮肉にも、人々の戦争遂行の意思を根深いところで支えてもいた」。
 時に文化は人を殺す、それも、何かを守ろうとする雑じり気のない精神が、ある。

(未完)
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