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「孝」による側室制度の正当化は現代でも可能か? 【短評】

 古田博司『東アジアの思想風景』によると、「白居易は、家では妓女をたくわえて遊んでいた」らしい(41頁)。農民の貧困や王朝の腐敗を絶句に託して政治批判をする一方、このようなことも行っていたようです。あらま。同じ振る舞いは、かの王献之も同じであったらしく、さらに、朝鮮の李退渓までも同じ事をやっていたようです(42頁)。
 このような振る舞いは、どのようにして正当化されるのでしょうか。それは、儒教の「孝」の概念によってです。子孫の継続が孝ならば、妾や妓女を禁ずるわけはない、という理屈です。世継ぎ第一、家の存続を重視する儒教からすれば、まあ無理もありません。なるほどこれは、側室制度を廃止したせいで、男子の世継ぎ問題に困るようになった、天皇家にも通ずる問題ですね。

 しかし、現代の、そして将来の医療テクノロジーがあれば、側室がいなくても、妓女をたくわえなくても(もっというなら、正妻不在であってさえも?)、子孫の継続は可能になるでしょう。これまで、「孝」の概念によって正当化可能だった、側室制度や、女性を囲う制度。この「危機」にどのように対処すべきなのでしょうか。ヒントは、上の書物に隠されています。
 曰く、パウロは、情欲に悩まされて信仰がおろそかになるよりは、妻を迎えてもよい、と「恋愛好き、情交好きのコリントスの人々に必死で訴えかけた」(43頁)。本当はパウロは、信仰のためには、妻帯さえも許したくないと考えていました。しかし、これを貫徹すると、布教に不都合がある。そこで、やむなく、妻帯を認めた、と。要するに、布教の都合からです。
 儒教の方でもいっそ、情欲に悩まされて礼が損なわれてはいけないから、側室を持つことを許す、という風にしてはいかがでしょうか。まあ、よく考えればこの理屈だけだと、正妻だけならともかく、側室の正当化は難しいのですが。【側室もいないと情欲に悩まされてしまう】という理屈なら、正当化は出来るでしょうが。しかしその場合、儒家は、どんだけ性欲が旺盛なのか。「腐儒」とはまさにこのことです。
 側室制度を正当化したい儒家は、とりあえず、これに対する理屈をひねり出して欲しいですね。もう出していたら、教えてくださいな。

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