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物語から少し離れて 蓮實重彦『文学批判序説』(3)

 著者にとって、物語でない、物語から逸れてしまう要素とは何でしょうか。それは、「虚構の磁場」の章で語られていた、「日常言語」と「詩的言語」に明確な境界線などなく、せいぜい、「事件として環境を垂直に貫くできごと」だけがある、という言葉であるはずです。例えば、「物語」に偽装して密かに「物語」そのものを「骨抜き」にしていく上記の優れた小説を読むときに、「事件として環境を垂直に貫くできごと」が現れるでしょう。
 それにしても、本書で、お褒めの言葉をいただくのはほとんど、小説、あるいは、小説家のエッセイ・批評、批評家の小説です。なんとまあ、批評家の批評は損な役回りを果たしています。ある意味、それは、蓮實自身の「批評」にもいえることで、小林秀雄にも吉本隆明にもいえることです。
 もちろん、蓮實はそのことに気づいているのであり、『映画 誘惑のエクリチュール』にも書いていたように、きまって批評は敗北するのです。ただ、小林や吉本と違ったのは、本書が「物語」への怖れと畏れと誘惑(!)に自覚的に書かれていることであり、それが、本書が、「読みにくい」といわれたとしても、決して「退屈」ではない理由なのです。

(了)

(どうでもいい追記)
 ネットを見ると、いくつか蓮實の小林秀雄論に対する言及が見られます。例えば、「蓮實重彦をこえて~宮岡秀行ロングインタビュー」では、「小林秀雄の文体に潜む権威主義を、『本居宣長』を例にとりながら、「通俗性」という言葉を小林に投げつける蓮實さんの身振りから、自己の優越性を主張しようとする病を、蓮實重彦自身も共有してしまっている」、「つまり、何かを肯定するために何かを否定する身振りが、好きではないんです。」という発言が見られます。
 果たして、蓮實の身振りから「自己の優越性」を見出せるのかどうかは、疑問です。この小林秀雄論は、否定というより、単なる駄目出しでしょう。第一、小林のことを蓮實は、優れたベルクソンの読み手とさえ述べているのです。要するに、小林に対し、ベルクソン論での勢いはどうした、と述べているといえるでしょう。これは吉岡さんの考えすぎです。
 もうひとつ、「2006-03-05 小林秀雄の宣長論」『整腸亭日乗』様)では、「『本居宣長』は円環的構造を持っており、冒頭から読むべき書物で、仁斎や中江藤樹、さらに徂徠についてかなりの頁を割いているのは、それなりの必然性があることを、あえて排除している。」と述べています。
 もし円環的構造なら、冒頭から読まなくても、いつでも始まりと終わりにたどり着けるのですから、別にどこから読んでもいいはずです。蓮實が嫌ったのは、その(ヘーゲル的な?)円環的構造そのものだと解することもできるでしょう。また、「仁斎や中江藤樹、さらに徂徠についてかなりの頁」を無視したのも、単に必要がないからでしょう。蓮實の小林論は、つまるところ、お前の修辞はつまらん、という一言で乱暴に要約できるのですから。
 さらに、「『本居宣長』はテクストではない。「テクスト」なる表現は、現代的「からごごろ」であることは、小林秀雄の読者なら誰もが知っている。」という文ですが、蓮實は小林批判のなかで、「テクスト」という言葉を一回でも使ったことがありましたかどうか。仮にあったとしても、上記のとおり、蓮實の小林論は、「お前の修辞はつまらん」の一言であって、「からごこころ」云々はどうでもいいのです。「対象と同化する姿勢、つまり己を消す=無私の精神ではじめて「古学」に接近することが可能となる。」という通俗性に、蓮實の物語論は抗っていたはずなのです。

(了)

TAG : 小林秀雄 蓮實重彦 本居宣長

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