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「神学」的なプロレス? と ニヒリズムという【意味という病】 /入不二基義『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想』

 著者の方法論じたいは、あまりにも単純です。その応用がしかし、鮮やかなわけで。難しくは無いはず、なのに、立ち止まって考えてしまう。難しくないし、おおよそ、結論は見えていることなのに。今回は見所、というか、面白いと思えたところを幾つか。

 プロレス自体が、つねにプロレスを否定する運動でもあった。(210頁) 

 プロレスとは、本物(=最強)と虚構(=最強の振り)との間で存在するもの。常に、本物・真実へと引き寄せられていくが、しかし本物(=最強)には到達できない。それでも、いつまでも虚構であることを否定し続けて、なおも本物(=最強)へ漸近することを志向し欲望する運動。この自己否定の運動こそプロレス自体の持つ構造、というわけです。
 しかも皮肉なことに、そのような本物(=最強)を追及するその行為においてしか、本物(=最強)は、示されない。「現実は必然的に限定されたものとしてのみ現われる」。いつまでも届かないけれども、しかし届かんと行為するそのときにのみ、本物(=最強)は、不在として、その存在が示される。
 惹きつけてやまないけど、決して到達することはない、しかも到達しようと振る舞うときにだけ、それは不在として、その存在が示される。こうしてみてみると、「これ」は神様そのものではないでしょうかね。だとすると、プロレスは神学的なんですね。

 ニヒリズムとは、生の無意味さ自体のことではなく、無意味さということ自体を意味化してしまわざるをえない「病」のことなのである。(177頁)

 意訳すると、「やべえ、生の無意味さを一度意味化しちまったら、もう逃れらんねえ、意味ってやつぁ、どこまでも追いかけてきやがる」 みたいな感じでしょうね。さっきは追う立場で、今度は追われる立場かよ。
 生に意味は無いけど、生の輝きや快楽を持ち出して、意味の無さを忘れたいなどという主張に、著者は反論します。「私たちの「生」は何かの「ため」の手段ではなく、今・ここの「生」を十分に味わうこと自体が、豊かに生きることなのだ」という生の自己目的化さえも、やはり意味である、と。つまり、結局生の無意味さから逃れようとしているだけだ、ということです。
 「ニヒリズム=生の無意味さ」じゃなくて、それを意味化して楽しく忘れたいと思うことこそが、ニヒリズムなわけです。まさに、【意味という病】。
 じゃあどうすればいいのよ、という話ですが。私的言語みたいに、喚いたって手遅れです。もう意味からは逃れられません。(詳細は、同じ著者の『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』をご参照ください)
 おとなしく、ニーチェの能動的ニヒリズムのように、仮象(=意味)と戯れるしかないのかもしれません。そういえば、ニーチェは自分の病気をも思索の糧にした思想家でした。【意味という病】の処方箋は、やはりニーチェですかね。
 まあ結局、病とうまくやってくしかありません。

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