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誤解されがちなウェーバー的責任倫理 豊永郁子「小沢一郎論」(下) (1)

雑誌『世界』2010年8月号より

■小沢批判というよりも、優れた日本政治論です■
 本論は、「小沢一郎論」という題名で、確かに小沢氏への批判の側面が濃いのも事実です。しかしむしろ、日本政治全体に対する批判、という趣が、「下」では強いように思います。
 実際、小沢氏を、周囲の人間は手段として扱ってきた観さえある、と著者はいいます(233頁)。彼を具にして、「剛腕」といったイメージを実態以上に膨らませ、それを周囲の政治家は利用してきたのではないか、というのです。
 著者は「下」で、日本の通俗的なマックス・ウェーバー解釈を正すことを通じて、日本政治全体を論じています。「上」については今回は省略し、「下」について思うことだけ書いていきたいと思います。

■権力そのものを目的にする勿れ■
著者は次のように言います。
 ウェーバーにとっての権力というのは、闘争の結果、獲得するようなものではない。そして、溜め込めるようなものではない、と。つまるところ、それは、もののようには所有できないものなのです。
 むしろ権力とは、ウェーバー曰く、各場面で形成される「チャンス」である、と(225頁)。溜め込むことの出来ないものなのです。
 権力というのは、物のように溜め込める存在ではなく、そのつど形成していく存在なのです。これは、権力をかき集める自体を至上命令にしてしまった政治家への批判です。著者は、権力自体の獲得自体を目的にしてしまう政治を、批判しています。

■誤解された責任倫理■
 責任倫理という概念が、ウェーバーにはあります。しかしこれは、日本( 特にその政界 )では誤解されがちな概念です。責任倫理が、結果・目的のためなら手段を選ばなくてもよい、という政治家へのフリーハンドを与える概念だとして、誤解されているのです。実際はそうではない、というのが著者の主張です。
 では、本来の責任倫理と心情倫理とはどのようなものか(226,7頁)。
 ウェーバーによると、心情倫理というのは、自分のよき心情のままに行動せよ、と命じる概念です。その結果、行為者は手段に頓着しなくなってしまいます。それは、意図や目的のためなら、暴力をも正当化して、辞さないものです。意図や目的のためなら手段を選ばない、というのは心情倫理の方です。
 それに対して、本来の責任倫理は、あらゆる結果に対して行為の責任を問うものです。それは、その責任の重さゆえに、手段の選択と行使に縛りをかけます。身動きが取れなくなるのです。
 政治家は、手段によって生じる結果に配慮することになりますし、だから行為は縛られます。それでもなお、なんとか進む道を見つける。これがウェーバーの求めた責任倫理なのです。フリーハンドどころか、むしろ拘束具のような存在が、責任倫理です。

(続く)


(補足) 心情倫理と責任倫理は、「前者においては心情の純粋さの程度で倫理性の程度が左右され、後者においては行動の結果への配慮の程度で倫理性の程度が左右される」と述べ、「政治家は自らの心情の表出に禁欲的でなければならないのである。そうでないと国民に迷惑が及ぶ」と作田啓一は要点を抑えています(はてなキーワード「責任倫理」項目より)。

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