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"非・非実在女性"の快楽のために、あるいは「べ、別にフェミはポルノ嫌いって訳じゃないんだからねっ!」の確認 守如子『女はポルノを読む』

守如子『女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム』青弓社 (2010/02)

以下、本書を読んでの取り留めのない雑感です。

■抑圧された女の快楽と、「主婦/娼婦」という階層■
 女性たちは、マスターベーション一つをとってみても、「彼のため」という言い訳を必要とします。例えば、他の女性向けグッズショップのインターネットサイトでは、「彼のために自分磨きを頑張ります」という言葉がマスターベーションの理由付けの主流を占めるといいます(p14)。男性がそのような言い訳を必要としないのに、です。
 この非対称性はなんでしょうか。ここに、女性と男性との社会的な「格差」があります。
 あるいは。例えば、子供たちにポルノグラフィを見せないのが「母親の責任」であるとするような議論が存在します。
 快楽的な性に対する否定性を、女性は持たされます(p236)。性的な快楽を女性は抱かないし、抱くべきではない、という見えない社会的縛りのようなものが存在するのです。性的な欲求を顕示してしまう女性は、一段低い存在として処遇されます。
 ここに、「主婦/娼婦」という階層分けが存在します。無論、ここでの「主婦」とは既婚女性に限りませんし、ここでの「娼婦」とは狭義のセックスワーカーにとどまりません(前者は、「淑女」と言い換えられるでしょう)。家庭の秩序の枠内で性的に抑制・抑圧されつつ、一段高い地位の(しかし男性より一段低い)役割を負う女性と、家庭秩序の外で男性の性的「需要」を満たしつつ、社会から一段低い存在として処遇される女性たちに、大まかに分かれる、と定義できるでしょうか。
 女性は、このような「主婦」・「娼婦」以外のアイデンティティを持たされることがありません。女性たちは、「娼婦」に転落しないためにも、「主婦」として、快楽的な性に対する否定感を、社会的に表明せねばなりません。この構造の中では、女性たちは自分の性について語ったり実践することは難しいですし、まして、ポルノグラフィを自由に読んだりすることも困難です。
 著者は、「女性=ポルノグラフィ嫌悪・批判的」というレッテルを批判し、女性たちもまたポルノグラフィを享受する存在であることを強調します。そしてどのようにそれが受容されているのかを論じています。

■必ずしもポルノグラフィに否定的ではないフェミニズム■
 フェミニストは必ずしも、ポルノグラフィに否定的なわけではありません。それに肯定的だったり、却ってそれを戦略的に導入しようとするフェミニストもいます。フェミニズムは常に多様です。
 例えば、ゲイル・ルービンは、フェミニズムはポルノと戦う代わりに、検閲に反対し、買売春の脱犯罪化を支持し、セックスワーカーの諸権利を支持し、人間の性的な多様性が適法であることを主張すべきである、といいます(38頁)。ポルノと闘わなくても、ポルノの製作過程で発生する性暴力と闘えばよい、というのです。『ジェンダー・トラブル』の著者ジュディス・バトラーも、ポルノグラフィへの検閲には批判的です。
 また、日本のフェミニズム団体は、必ずしもポルノグラフィに否定的ではないのです。というより、ポルノグラフィ自体は置いておいても、その取締りに国家が介入することに対して否定的なのです。
 例えば日本の「行動する女たちの会」は、多元的で豊かな表現を作り出すこと、そして批判の自由を確保することを重視しました。行政による取締りを推進せんとするフェミニズムの道徳主義陣営とは、違う主張を持っていたのです(54頁)。
 フェミニズムの団体の中には、ポルノグラフィ検閲に賛しているグループもいます。しかし、そうしたフェミニストたちの行為は皮肉にも、文化的・宗教的保守派の思惑と一致してしまいました。挙句の果て、自分たちの運動によって、自身らの著作まで検閲されるという悲喜劇的出来事まで発生しています。(注1)
 フェミニズムの道徳主義陣営の”おめでたさ”はともかくとして、フェミニズム自体がポルノグラフィに否定的なわけでも、検閲に賛成しているわけでもないことは、いうまでもありません。
 以上は基本的なことですが、「フェミ=ポルノ嫌い」というレッテルはまだ存在する様なので、一応書いておきます。

■本書の読みどころ■
 本書の読みどころとしては、例えば、
・レディコミは、ヤオイの文法を根底に持つ。実は、男性同士の関係を、男女の関係に変換したのが、レディコミ漫画というジャンル(76頁)。
・レディコミ雑誌へのアンケートには、暴力的な描写のある漫画に対して、「こわい」という感想が多く存在する。これは、主体的な立場で作品に移入できないというファンの反応である(210頁)。
 などの内容です。
 前者は、女性向けポルノグラフィの成り立ち、そしてその需要のされ方を考える上でを知る上で重要なポイントになってきます。
 後者は、女性たちがポルノグラフィを読む際に、主体性を確保すること(つまり、性的行為が暴力的でなかったり、暴力的でも「愛」などで解釈付けができること)によって、脅かされること無く性的な快楽を享受できることを教えてくれるわけです。


(注1)詳細は、ナディーン・ストロッセン『ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性』を参照。まあ、自分たちの税金は惜しむくせに、道徳を盾に青少年の性に介入しようとする保守派は、どこの国でもウザイです。


(追記) Amazonでの小谷野敦氏の批評では、以下のように述べられています。
 「第一に、女には性欲がないとされてきたが本当かという前提だが、近代以前においては、女は淫乱であるといった女性嫌悪的言説が一般的だったことを言い添えないと、知識のない読者をミスリードするだろう。また近代以後についても、それは中産階級の言説に過ぎず、下層階級では相変わらずではなかったのか。 」、「第二に、著者も自覚している通り、女が楽しむポルノはBLとレディコミだという前提は疑わしく、男向けポルノを楽しむ女もまたいるであろうということだ。かつ、こうした雑誌の投稿欄の分析は、結局そうした雑誌類を読む層の分析にしかならず、「女性向けポルノが出現した」という事実の周囲を循環的に論じることにしかならない」。
 一点目について。要するに、「女には性欲がない」か、「女は淫乱である」しか、女性には選択肢は無かったわけです。間は、存在しないのです。本来なら、もっと選択肢があってよいはずなのです。
 二点目についても、同じく。「女が楽しむポルノはBLとレディコミだという前提は疑わしく、男向けポルノを楽しむ女もまたいるであろう」というのは、その通りでしょう。ただ、男向けポルノを読む際には、女性向けポルノの場合と同じく、性的行為が暴力的でなかったり、暴力的でも「愛」などで解釈付けができることが、女性読者が快楽を得る条件となるものと思われます。要するに、主体性を脅かされない形で男性向けポルノを読むだろう、ということが推察されます。実証は無論、されてませんが。

(おわり)

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