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プルースト『失われた時を求めて』の書き方、読み方について 工藤庸子『砂漠論』(4)

■「後輩」プルーストのパスティーシュ■
 プルーストは、さきのバルザックとフローベールのそのまた後輩に当たります。彼の鋭敏な知覚と感性は、作家の文体にも向けられています。プルーストは、優れたフローベール論を書き残しています。これをめぐって、ティボーデと論争もしており、フローベールの半過去の用法の独自性をプルーストが指摘すると、ティボーデはラ・フォンテーヌ『寓話』がすでにこういう方法をやっとるわい、と反論したりしています。
 また、作家の文体論のみならず、実際にフローベールら先輩たちのパスティーシュをものしています。どうやら、フローベールの独特の技法を使いこなせるまで、文章を書いては書き直し、練習に励んでいたようです。結構風刺的な風味を混ぜたりしていたようですが、精力的に文体練習をこなしていました。
 バルザックも、フローベールも、先人のパスティーシュやパロディをやって腕を磨こうとは考えていませんでした(159頁)。そうした発想は、「後輩」プルーストの時代だからこそ、出てきたものなのです。

■プルーストと女性性、非キャラ小説性■
 著者がプルーストに惹かれる一面は、女性的なものへの執着、その身体的なぬくもりへの希求だといいます(83頁)。食卓の描写に始まり、女性たちの衣装、使用人たちの噂話、過程の中での肉親の死去、そういったものが「男にはあるまじき異様な熱意をもって至近距離から描かれる」のです。プルーストは(少なくとも小説の語り手は)、一貫して、父権的なものから身を引いていたのです。プルーストの世界には、弱者への優しさと救いと慰めがある。そう著者はとらえます。
 そんなプルーストの人物描写は、前代のバルザックとは違うものです。
 バルザックが、人物をあれほど過剰に描写するのは、かれの『人間喜劇』の分類学のためです。つまり彼には、この性格の人間にはこういった特徴があるという前提があり、この確信にしたがって、こういう性格・職業だからこういう特徴(キャラ)を描く、というふうにやるのです。この特徴は固定的なもので、彼バルザックの目指したものは、そういった特徴(キャラクター)による人間の分類学でした。
 それに対して、プルーストは、「時が流れ、個人と個人とのあいだの距離や関係が変わってしまえば、それこそ不意打ちのように、同一人物が予想もしていなかった横顔を見せる」描き方をしました。バルザックの野心とは異なる方法です。バルザックのキャラクター分類学は、基本的に固定しており、まさにキャラ小説です。一方プルーストは、そういった固定した特徴(キャラ)を否定し、そういったものは他者との関係が変わってしまえば移ろうものであって、人間は予想もしない特徴をこちらに見せてくれるという、非固定的なものだというのです。
 プルーストにとって重要なことは、キャラクター別の分類学の作成ではなく、常に時を重ね人との関係が変わっていく中で、人々が見せるプリズムのような特徴の移ろいを書くことだったのです。バルザックがキャラ小説の偉大なる祖だというのなら(そこらへんのラノベとはモノが違うけど)、プルーストはキャラクター小説とは異なる存在に他なりません。

■『失われた時を求めて』の読み方■
 著者は『失われた時を求めて』の読み方について以下のように言います(84頁)。
 書いたプルースト本人が言っていることだが、この小説は、面白いと思うところを読めばよいのだ、と。どこで乗車しても、どこで下車してもよいテクストだというのです。同じこと、そういえば蓮實先生も『闘争のエチカ』でいってましたね。
 「忘れたり思い出したり読み返したりすることは、すぐれてプルースト的な営みではないか」。読んだ内容を忘れてしまうことさえも、読書の楽しみの一つ。なるほど。

(つづく)

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