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神=雇用者の「差別」について -『ぶどう園の労働者』への非キリスト者からの露悪的意見-

 イエス・キリストの語ったという 聖書の『ぶどう園の労働者のたとえ』です。こちらの拙稿「社会保険と労働時間 -ベーシック・インカムを唱える前に- 濱口桂一郎『新しい労働社会』(5)」のコメ欄をきっかけに、その存在を知りました。読んでいくらか感想が浮かびました。
 それなりに面白いものになったのではと思い、独立した記事にしてみます(一部改訂してます)。他のブログの記事に反応する形でかかれておりますが、別に対象のブログの記事に悪意があるわけではないので、その点はご了承ください。あくまで『ぶどう園の労働者のたとえ』に対する批評です。それどころか、該当の記事は、コメントしてくださった方が厳選した優れたものである(はず)ですから。


 「マタイ「ぶどう園の労働者」の話し」(『Good News Collection』様)

 そうなのだ。この宴会の主人は実に寛大で、最後の者も、最初の者と同じように迎えてくれる。

 これだけ寛大なら、全ての人々は午後五時に来て、可能な限り働かないようになるでしょう。神は偉大です。

 さあみんな、飽きるほどに食べなさい。子牛はまるまる肥えているではないか。
 この宴から、空腹で帰っていくものが一人でもいてはいけない。

 ならば、だれが子牛を育てたのですかね。この子牛に関する労働は誰によるものですかね。神よ、子牛を育てた人間にも、1デナリあげてます?
 そもそも。キリスト教徒が貧しきものに喜んで与えるのは、その信仰心だとか、あるいは「同じ仲間」という意識があるからでしょう。逆に言えば、「同じ仲間」という意識がない人には、喜捨はされないでしょう。また、信仰心のない「不届者」は、そもそも、金持ってても喜捨しないでしょう。

最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい

 最大の問題は順番ですね。なぜ、最初に来た人間から払わなかったのか。
 ほんのわずかにでも、働いた貢献順に差別化を図ることができれば、こんなややこしいことにはならなかったというのに。このような優先的に渡すという行為だけでも、もしかしたら、朝六時の人々は満足してくれたかもしれないというのに。
 それは、ほんの100分の1デナリでもよいのだし、ねぎらいの言葉に差をつける程度でもよかったというのに。重要なのは、差をつけること。たったほんのわずかにでも、差をつけることです。
ひとは、それだけで満足するものなのです。
 神様、あなたは、人間のことが分かっていらっしゃらない。まあ、人間じゃないものね。しょうがないよね。


 「ぶどう園の労働者」(『AX君の独り言』様)


 『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。(略)
>自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。

 そのとおり、雇い主との契約である以上やむをえない。
 ならば次以降の労働では、朝六時から働いた労働者は怠けてしまうでしょう。あるいは午後5時に来るかするでしょう。これもやむをえない。
 「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえ」です。なら、福祉のための課税に反対する金持ちの意見は「当たりまえ」です。

 ぶどう園は神の国の象徴である。朝早くから雇われた労働者は、有能な労働者、パリサイ人であり、誰も雇ってくれるものもなく、仕事にあぶれていたところ、夕方の5時ごろに雇われた労働者は、多くの場合は特に能力もなく、また病人であり、老人であろう。彼らは罪人を暗示しているのである。

 ならばなぜ、神は、「有能な労働者」に対して、「病人であり、老人」を助けることの素晴らしさを教えなかったのか。それが大切だということを、説かなかったのか。「有能な労働者」自身の意思(を神が認めるかどうか分かりませんが)によって、「病人であり、老人」や無能な者を救うことこそ、素晴らしいことであるはずなのに。
 さらにいうと、貧しきものを救う、恵まれぬものを救うという公平を、なぜ「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえ」という私欲によって、押し付けようとしたのか。
 神は、私利私欲にまみれているようにしか思えない、というのが、非キリスト者の結論です。さすが神様、自分ルールも許されます。

 雇われたものたちに対する主人の愛が如何に大きいものか、常識を超えた神の愛の深さを考えさせようとしているのであります。

 神は、「有能な労働者」の徳を育てることを放棄し、雇われた人間たちに、自分の大きさを誇示することの方を選択したのです。なんという顕示欲。「常識を超えた」だけあります。

 夕方5時に雇われ、少しの時間しか働かなかったにもかかわらず、一日分の賃金を貰った労働者は、明日もこのぶどう園で働けると知ったならば、「よし、今日の分まで、明日は働こう。この主人のためにもっと一生懸命働こう」と思うであろう。
 一方、朝から一生懸命に働いたにもかかわらず、遅く来たものと同じ賃金(主人と自分の間で契約した額だが)を支払われた者たちは、明日も同じように働くならば、明日は遅く来て、ほどほどに働いておこうか、昨日はバカ正直に働いて損をしたと思うであろう。

 なるほど、神は差別を働いたのですね。「有能な労働者」を見捨て、「病人であり、老人」や無能な者をえこひいきしたのだ、と。今度のホームルームで取り上げます。テーマは「神の差別」についてです。

 このことは神(信仰)の世界だけの話だけではない、実生活の中でも、起こっていることであります。私たちも、心しないといけないことであります。

 心すべきなのは、神(=雇い主)の方です。「有能な労働者」が徳を積む機会を潰しやがったのですから。
 ああ、もしかしてここにこそ、神への反逆の契機があったのかも。

 以上、取りとめもない感想です。
 重要だと思うのは二点。
①働いた貢献順にほんのわずかでもいいから差別化を図ること。来た順に優先的に渡すという行為だけでも、100分の1デナリでも差をつけるだけでも、ねぎらいの言葉に差をつける程度でもよかったというのに。
②神は、自分の顕示欲のために、「有能な労働者」が徳を積む機会を潰しやがったのです。賢い読者のお察しの通り、キリスト教にニーチェが噛み付いたのは、こうした人間が徳を積む機会を潰したからである、と考えられると思います。


 最後に。もしかしたら、神が真に無差別であること、平等であるということとは、こうした残酷さをも含むのかもしれません。
 キリストのたとえに含まれる残酷さと、その残酷さに噛み付いたニーチェ。そんなことを考えました。

(了)

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