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ナボコフによるフローベール変奏 -半過去という倦怠、そして「私たち」という暴力について-

■半過去という倦怠 -ナボコフによるフローベール変奏①-■
 既に、プルーストとフローベールの話をしたと思います。フローベールの文体と技巧を取り入れようとしたのは、プルーストだけではありません。プルーストを介在させる形で、ウラジーミル・ナボコフも、その技巧を取り入れようとしていました。
 ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』のフローベール『ボヴァリー夫人』論は実に見事なものです。そこで、半過去の使い方、"et"(フランス語におけるandです)のフローベール独特の使用法などを指摘しつつ、『ボヴァリー夫人』の世界に主題として連なる「重層構造」(エンマとシャルルの結婚式のケーキから、果てはエンマの葬式の棺桶までに!!)を指摘したりしています。
 さて。著者は、ナボコフ『ロリータ』において、「フローベール的イントネーション」と書かれていることに注目します。そして、"would"の頻出に、フローベールの影響を見るのです。どういうことか。
 半過去というのは、反復・習慣にも使用される語です。「あの頃はよく~したものだ」というような、過去に何度も習慣的にしていたことを表す語でもあるのです。英語では、"used to"や"would"などであらわします。
 「あの頃~したものだ」という不定期な反復の表現は、小説に時間的な幅をもたらします。そして同時に、この語は、「倦怠」をもあらわします。何度も何度も同じことが起こるわけですから。この倦怠こそ『ボヴァリー夫人』にふさわしいテーマになっています。ナボコフは自身の作品の中で、時間の幅を、そして「倦怠」を、"would"の語を用いて表現しようとしたのです。いかにもナボコフらしい、先行した文学への意識が出ていますね。

■「私たち」というあつかましさ -ナボコフによるフローベール変奏②-■
 さて、ナボコフ『ロリータ』において、最たる暴力的なことばとは何か。著者は、小説の表現の中のある語がそれではないか、というのです。"nous connumes"という語です。
 日本語訳すると、「私たちは知っていた」となります。この語のどこが、暴力的だというのでしょうか。
 この語の「私たち」とは、当然、主人公ハンバートと少女ロリータのことで、これは主人公の手記において、書かれた語なのです。そして、"connumes"というのは、単純過去が使われています。単純過去とは、通常こうした小説などに使用される過去形です。
 そして単純過去は、それが客観的・外面的な行為などに使用されます。そういう性格のため、主観を表す場合は、通常単純過去を使用しません。なのに、こうした「知っていた」という語に、単純過去を使っているのです。しかも、「私たち」です。この「私たち」に、違和感はないでしょうか。
 勘のいい方は分かっておられると思いますが、「私たちは知っている」というとき、主人公自身は「知っていた」ことは自明ですが、ロリータが知っていたかなんて、分かるはずなどないのです。なのに、「私たち」とまとめてしまう乱暴さとあつかましさ。ロリータは、主人公と語的に同化されてしまうのです。ここにこそ、最大の暴力があるというのです。
 ロリータは「さながら意思のないモノであるかのようにハンバートの主体性に統合され」、「ひとつの主語=主体が、本来なら目的語=対象であるべき別の主体を強制的に自己に一体化させてしまった」のです(136頁)。"nous connumes"、この語こそ、彼女と性的な関係を端的に示した一語ともいえるのです。
 さて、この「私たち」という語もフローベールと呼応してしまう語です。『ボヴァリー夫人』の冒頭は、シャルルが新入生として教室に入ってくるときの出来事ですが、語りだしは「僕たち」です(ただし、"nous"ではなく"on"なのですが)。つまり、教室の学生たちが主語=主体となり、その「僕たち」がシャルルを観察するのです。小説の進行に従い、やがて語り手は「僕たち」から、生徒たちを置き去りにして、透明な語り手に切り替わるのです。
 蓮實重彦は、バンヴェニストの議論を参照しつつ、この「私たち」の語は実際は「私」と「彼ら」であるに過ぎないのに、それを隠すように「私たち」を名乗った語り手は、やがて小説の背後に隠れてしまうと指摘していたはずです(『反日本語論』などを参照)。またしても、「私たち」のずるさと恐ろしさ。
 ことによったら、ナボコフは、フローベールにこの「私たち」まで学んだのかもしれません。著者は指摘していないのでそうではないのかもしれませんが、無意識的にこれをやったとしてもおかしくはないでしょう(ちなみに、ナボコフの『ボヴァリー夫人』論では、冒頭の「僕たち」への言及はなかったはずです)。作家というのは、たぶん、意識しなくてもやってしまうものです。

(終)

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