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鉄道とジェンダー 原武史『鉄道ひとつばなし』(3)

 著者は、掲題と同じ題名の章で、鉄道マニアの女性の割合の相対的な少なさに考えを及ぼし、その理由について、日本近代が軍服やひげなどの「男性性」を前面に押し出しており、それなら鉄道もその国家的価値観・軍事的価値観を帯びる、と説明・解釈しています。そして、阪急の小林一三も宝塚などでは女性を取り込んだが、輸送事業では女性を積極的に採用はしなかったと述べます。なるほど。
 ちなみに、戦時中は、日本の鉄道史上「女性と鉄道の「距離」が接近した時期」ではなかったか、と著者は触れています。男性たちが軍事に動員された労働力不足を、女性たちが埋めた時代。鉄道の世界もその例外ではなかったのです。
 ただ、本書の中にも異見を唱えたいものはあります。井上章一『パンツが見える』を挙げて、この本が、「スカートの中の「幻想」を歴史的に解体した」とし、「痴漢をなくす有効な方法といえるかもしれない」と、著者はいいます(二二五頁)。1950年代以降、ズロースがパンティに変わることで見られることへの恥ずかしさの感情が芽生えたとし、それに伴って男性がスカートの中に欲望を感じるようになったという井上章一の推測は面白く、説得力があります。
 しかし、実はパンティに男性が欲望に感じるようになったのは1950年以降のことなんですよ、なんていわれたって、痴漢が行為をやめるとは思えません。もちろん、著者も「いえるかもしれない」と述べているだけですから、そんなに責めることはできないのですが、ともあれ、痴漢というのは「歴史」にではなく、「現在」の欲望に忠実なのです。
 最後に、「占領期の鉄道 『高見順日記』を読む」の章も見てみましょう。(八七~九〇頁)高見順は、日本人が「他民族を苛めた」のは、日本人が「人間としての権利、自由を全く認められていなかったからである」と述べます。そして、占領後、アメリカ兵に「からかわれるのがうれしくてたまらない風」だったという「女性の駅員」に対して、吐き捨てるように、「この浅間しい女どもが選挙権を持つのかとおもうと慄然とした」といいます。
 「苛めた」というレベルでいいのかどうか、これは日記なのですから許容してもよいのかもしれませんが、この言葉で片付けてしまうことには、不用意さを感じずにいられません。また、日本人が「人間としての権利、自由を全く認められていなかった」という記述も、当事者としての高見を思えば責めようと思わないのですが、現在の歴史学研究を見る限り、「全く」という語にいささか納得できないことも事実です。
 もちろん高見は、「進駐軍専用車両にふんぞり返る米軍兵士と、満員の車内で押し合う日本人」とを対比させて、そこに、「占領期の権力関係」を見たり、昼間の横須賀線の「骸骨のよう」に痩せた復員兵と、夜の横須賀線のアメリカ兵と騒ぎながら「車内で痴態の限り」をつくす女たちとを対比をさせたりできる知性の持ち主です。
 ただ、その知性の持ち主が、アメリカ兵に「媚びる」と表現できるだろう行為をした「女性の駅員」に、「この浅間しい女どもが選挙権を持つのかとおもうと慄然とした」と述べるとき、そこに当該の女性への蔑視的視線が隠れていることは否定できないでしょう(ただし彼は、日記の別の場面で、上品な振る舞いをした女性を誉めています)。
 彼にとって、「選挙権」は選ばれた人の特権的資格であり、ジャック・ランシエールが後世において述べる「政治」とは無縁のものなのです。
 ランシエールについては、いつか述べたいと思いますが、ともあれ、知性の持ち主が、若者論を語るおっさんのような発言をしたのを見たところで、見切り発車で始まった本稿をひとまず終わりにしたいと思います。

(了)

TAG : 鉄道 ジェンダー 原武史 井上章一 痴漢 高見順 ランシエール

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