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究極的な民主主義は、確かに"くじ引き"だ -英米的な所有権優先主義 VS ルソー的"みんな"による法治国家主義-

 薬師院仁志『民主主義という錯覚』を読む。
 タイトルを実際の内容に即して付け直すと、『日本人が誤解している「民主主義」のあれこれ』見たいな感じかな。
 正直言うと、米国はともかく、英国の政治に対する考察が不足しているため、いまいち内容がまとまっていない気もする(内容はすごく面白い)。
 以下の内容が分かりにくいのは、そのためだ(←責任転嫁w)



 少数の代表者を人為的に(つまり投票で)選ぶこと。それだけで十分、非民主主義的である。
 そうモンテスキューとルソーは考えた。
 議会制度(間接民主主義)は、本来的には、民主主義に属さない(22頁)。

 著者はいきなり、こんなすごいことを言っている。
 まあ、実際その通りなのだけど。
 だって、支持されて選ばれた人間(立候補者)というのは、例えその人が優秀でも、その投票の結果は、全有権者の正確な縮図じゃない。
 立候補するほどの能力がなかったりする人もいるからだ。
 地盤や看板やカバンに格差だってあるだろう。
 くじ引きなら、そういった優秀じゃない人も、地盤も看板もカバンも関係なく、確率的に平等に、選ばれる。
 くじ引きとは、選挙の際に絶対出てしまう、金戦力や実務力やコネの力を、なくす手段なワケだ。


 (注:議会選挙による"間接民主主義"を、ルソーは肯定していたが、彼からすると、これは民主主義じゃなくて"貴族政"(選ばれた人間がする政治)、ということになるらしい。間接民主主義も民主主義だぜ、と主張し始めるのは、本書によると、米国の建国者たちだそうな)



 モンテスキューは、君主制を擁護していた。
 その正当化のために、君主に行政権だけはもたせようとした(32頁)。立法から追い出された君主に、せめて、執政の領域は与えよう、と。
 ケルゼンもその点を批判してた、らしい。



 三権分立と民主主義も、実は関係はない(120頁)。
 古代アテナイでは、民会が全ての意思決定を行うのであり、民会が全権を持つべきなのだから、権力を分割して、一部を民会以外の機関に与えるのは、「民主主義の一部制限」、というわけだ。
 違憲立法審査権の導入が、ヨーロッパ諸国で遅かった理由も、"民主主義≒議会"をずっと優先していたためなのだ。



 ちなみに、日本だと、地方議会と首長の関係が、大統領制のように拮抗する関係だが、
 多くのヨーロッパ諸国では、市町村議会から独立した首長はいない。首相のように、議員からの互選だ(122頁)。
 米国的な大統領方式というのは、実は欧州ではあんまりない。



 ルソーの定義する「共和国」は、君主の有無も関係なく、議会や選挙の有無も関係ない。
 実は、民主主義とも関係はない(55頁)。
 あくまでも、"全員のもの"というのが共和国[res publica]の原義。
 著者曰く、共和国とはつまり、法治国家のことである。

 そして、その共和国の法律は、多数派や権力者の利益ではなく、「全員に共通する利益」を目指す。

 分かりやすくいうと(57頁)、
 国を治めるのは国民全体の意思(「一般意思」)であり、その意思は、"法"として表現される。
 当然、その法は、国民全員の意思によって改廃される("国民主権")。
 いわば共和国とは、公道のように、私的に占有されず、みんなの利益のために作られ、みんなが使うことが出来るもの。
 但しそれを利用するには法を遵守する義務もある。
 そして、その法は、国民の意思で変えることが出来る。
  
 極端な話、上記のような"法治国家"であれば、君主がいても問題なく両立できるし、議会という手続きとも関係がない。



 イギリス(やアメリカ)の場合、法というのは、個人の自由を守るための規定のことで、他者の支配や拘束を脱するのが主目的(96頁)。これが、"法の支配"の結果としてある。
 一方、ルソーの理論の場合、全体の利益のためには、個人の自由を制限することを認めている。
 ルソーの考える"全体の利益"とは、メンバー全員の利益を考え、その中の不平等を出さない、ということを含意している。この点に注意。

 そもそも、ルソーの言う社会契約というのは、自然状態の中で人間と自然環境との間で成立していた調和的関係を、人間と社会環境の中にも成立させようとすることだった(97頁)。
 彼にとって、社会契約とは、"第二の自然"を作ることだったといえる。
 元々人は、他人に支配されず、自然界の法則にのみ従属しており、"自然"はみんなのものだった。
 対して、社会契約後の人間は、他人に支配されず、全員が従う同じ法律に従属し、"自然"はみんなのものだ。
 
 例えば、土地所有の場合。
 全員の共同のものとなるか、一定の比率で分有する、というやり方をルソーは紹介した。
 土地は社会契約の時点で、共同体に譲渡されているはずなので、原則だけいうと、土地の私有は出来ない。
 自然はみんなのもの、という関係を社会に成立させれば、土地もみんなのもの、にならざるを得ない。



 インディアンの集団的大規模移住を強制したのも、労働運動弾圧のために連邦軍を出動させたのも、ジャクソン大統領(103頁)。
 ジャクソニアン・デモクラシーで良く知られているが、実態はこんな感じ。

 この時代の米国におけるデモクラシーとは、インディアンは埒外だった。
 アメリカ的な民主主義というのは、こういう側面を持つ。
 一方、二月革命期に既に、フランスは奴隷制度の廃止を決めていた。

 図式的にいうと、奴隷制度における"所有権"(奴隷の所有!!)の維持を優先した米国と、奴隷制度における根本的な不平等(の解決)を優先した仏国。
 ここに、米仏の政治のあり方の違いがある。いいか悪いかは、別にして。

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