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遂にドストエフスキーを翻訳しなかった二葉亭四迷をめぐって 亀井秀雄『二葉亭四迷 戦争と革命の放浪者』(前編)

 亀井秀雄『二葉亭四迷 戦争と革命の放浪者』を読む。
 彼がいかにして、戦争に関わり、革命に関わり、生活をし、そのなかで文学や翻訳を行ったのか。

 興味あるところだけ取り上げる。



 坪内逍遥『当世書生気質』は、次の点で画期的だった。
 近世の洒落本の場合、視点は趣味人である達人であり、登場人物の野暮っぷりを嘲笑していた。
 それに対して、『当世書生気質』は、むしろ視点を野暮な素人に設定し、生活者的な関心から登場人物を見ていく。

 要するに、洒落本への批判を意図していたわけだ(116頁)。

 また、冒頭を見れば分かるが、登場人物の容貌を描写している。
 衣服とか身なりは前々から描写していたが、容貌の描写はそれまでの文学では殆どなかった。
 ここも画期的だった。

 
 更に主人公は神経症で、母親を欠いた小官吏の家庭で、ここも、従来の主人公とは違っていた。
 「当時の学生がいわば身につまされて読んだのもその設定に惹かれたから」だという(118頁)。

 坪内逍遥は、結構すごいことをした人だったのだ。



 では、『浮雲』の画期性は何か。
 主人公の文三は、他人に自分の気持ちを伝えることが出来ない
 。お勢にははぐらかされるし、昇には言い負かされる。
 彼は、他人にしゃべれない言葉を対自的に反芻する内的独白をするしかなかった。
 まさに、「吃音状態」(122頁)だったのだ。

 しかし著者は、内的描写それ自体は、決して文学的にそれほど価値がないという。
 言文一致体であることも、さして価値があるわけではないという。
 では、何が画期的だったのか。
 それは、「文三における他者のことばへのこだわりが上手くリアライズ出来た」こと
だという(122頁)。 

 例えば、文三に復職を勧める昇がいった「痩我慢なら大抵にして置く方が宜かろうぜ」という言葉。
 この言葉を、後々文三は、「痩我慢なら大抵にしろ」と変形して、この昇の言葉を思い出す。
 本書によると3つの場面で繰り返される。
 しかも、当初昇は、単に"痩せ我慢をせずに復職したらどうか"程度の意味で述べていたが、この言葉は、文三のなかで、"お勢たちの面前で、お前はお勢に対する欲望を痩せ我慢している、と言われた"という風に変形されて反芻される。
 他者の言葉が、主人公の文三のなかで意味がすり替わって、反芻されていく。
 このような表現を「これほど巧妙に実現したのは二葉亭が初めてであった」
(126頁)。
 この技法は、自作の『其面影』でも使われる(257頁)。



 著者曰く、この小説は、文三ひとりだけが、自意識の強い青年に描かれたために、プロット破壊が生まれてしまったと指摘する。
 他の登場人物に内面的な自省がない(要するに、悩みがなさそうで人間的には深みがない)、と言うのは正直その通りだろう。

 で、ノートに書かれた『浮雲』の草稿を読むと、実は、お勢に、自己批評する自意識を持たせる計画もあったらしい。
 ところが、それは完成版で削られた。
 著者はそれを非常に残念がっている(134頁)。

 (ちなみに、このヒロインの自意識と言う部分、嵯峨の屋お室の『薄命のすず子』という二葉亭の構想を"パクった"小説が先取りしてしまったため、二葉亭としては、これを書きにくくなってしまった、と言う事情もある (135頁)。)
 


 なぜ、二葉亭は、ドストエフスキーに手をつけなかったのか。

 ドストエフスキー作品の特徴は、作中人物の一人ひとりが、「作者」の「批評的言説を解体し呑み込みながら自立してゆく」ことだった(183頁)。
 要するに、主人公や「作者」から、登場人物が独立していこうとしてるわけだ。
 その自立化は、端役の庶民にまで及び、相互の人物が葛藤を描き出す。

 しかし、二葉亭は、そういった作品は翻訳しようとはしなかった。
 『浮雲』で見た二葉亭の陥穽が、ここにもあった、と著者。

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