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なるほど、「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)って、とても大切なんですね、分かります -山内志朗『畳長さ”が大切です』-

 山内志朗『畳長さ”が大切です』を読む。
 「冗長さ」(本書では「畳長性」と表記)をポジティブに論じる。

 なお、以下の文章自体が、本書の「冗長さ」(本書では「畳長さ」と表記)を削り取って出来ていることは、一切気にしてはならないw



 「冗長記号」(本書では「畳長記号」と表記)というのがある。
 たとえば、学籍番号などの数字の最後に、一つ余計に記号をつける、あれのこと。
 何のために必要なのかといえば、書き間違えなどがあったときに、いちいち本人に確認しなくてもいいようにするためだ。
 「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)には、誤りに備える、という意味がある。
 
 また、「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)のおかげで、ある言葉が一文字虫食いになっていても、前後関係でそれを補うことが出来たりする。
 言語に、「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)が存在することで、円滑なコミュニケーションが出来るわけだ(61頁)。

 ありがとう「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)。


 
 本書では、「マレービアンの公式」が出て来るが、これに関する誤解については、Wikipediaの当該の項目を御参照あれ。
 (この指摘も当然「冗長」(本書では「畳長」と表記)なのだ。)



 本書は、創造的な面をも担うものとして、「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)を取り上げている。

 「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」という有名な歌。
 序詞が長いことで知られるこの歌だが、実は、ひとり寝の夜の長さを聞き手に追体験させている、という意味合いがある(47頁)。
 序詞というのは、決して無駄な記号ではなくて、「散文によって時々刻々表現したのではあまりにも長くなってしまう」のを、簡潔に表現するためのもの。

 散文に比べて、短く書かざるを得ない歌。
 そんな字数の限られた歌なのにわざわざ枕詞や序詞を使うのは、こうした長々しさを表現するためだったり、あるいは、言葉に「ため」を作って歌にメリハリをつけるためのものだったりする。
 こうした冗長性(本書では「畳長性」と表記)は、無駄に見えるけど違うわけだ。



 著者は、言語における新しい表現は、「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)を前提にしているからこそ、新しい表現として登場することが出来るのだ、とも述べている(127頁)。
 要するに、新しい表現だと認識されるためには、今や新しくない表現(つまり「冗長性」(本書では「畳長性」と表記))との違いが必要なわけだ。
 新しくない表現というのは、新しい表現が理解・受容されるための可能性の条件だといえる。
 (ここら辺の指摘は、実は渡部直己『リアリズムの構造: 批評の風景』の、正岡子規論にも通じている。「月並」もまた「冗長性」(「畳長性」と表記)といえる。詳細、当該の書を参照されたし。)



 著者は、この「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)の概念を更に推し進める。
 つまり、存在というのは、「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)を帯びることによってしか顕現し得ないのではないか、ということ(58頁)。
 有限なる存在は当然、可謬的。つまり、誤りうる。ならば、それを補うような「冗長性」(本書では「畳長性」と表記)は、存在論において必須なのではないか、ということだ。

 いってしまえば、人間やモノに無駄が存在することは、実はその存在にとって本質的なことだというわけだ。



 以上、「冗長さ」(本書では「畳長性」と表記)についてでした。

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