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やっぱり、物語よりも、細部に対する記憶(執着)を選びたい。 -大塚英志『物語の体操』を読んで-

 『物語の体操』を読む。

 物語を作る気などさらさらないのに、何故か読む。
 物語など、いくらでも跡付け捏造すればいいじゃない、などと愚かなことを考えてしまう性分だがw
 気になった所だけ。



 小説を書くとき、登場人物を一度、絵にしておくと何かと便利だよ、と著者はいう(98頁)。
 
 確かに、記憶力が良い人でない限り、こうしたほうがずっといい。
 登場人物どころか、場所や舞台設定も含めて、全て、絵にした方がいい、とも思う。

 ところで、自作への挿絵を拒否し続けた作家フローベール(初代・アンチラノベw)だが、彼はこういったスケッチを残していないはずなので、彼なんかは、よほど記憶力がよかったんだろうなあ。
 彼の場合、推敲がハンパなかったのだがw

 (なお、ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』は、よき読者の要件として、記憶力がよいことを挙げている。



 村上龍は、一つの素材を常に、小説と映画という異なる領域で商品化することを自分に課してきた、と著者は言う(136頁)。
 だから、そういう意味では、コミックやジュニアノベルズの世界では脅威なのだ、と。 
 
 まあ、もっとも日本における大衆文学じしんが、すでにそういった傾向を持っていたような気もする。
 蓮實重彦『随想』は、川口松太郎の「鶴八鶴次郎」を、ポストモダンの先駆じゃないのかい、と指摘しているが、まさに、ここで指摘される村上龍の振舞いは、その系統に連なるものではないか。
 川口は、映画化狙いで書いていたわけだし。
 
 純文学だけが、文学じゃあない。
 念の為。



 小説修行の手段として、映像作品を文章化(つまりノベライズ)することの有効性を著者は述べている(181頁)。
 おっしゃる通りと思われる。

 著者曰く、小説修行としてよく「有名作家の小説を筆写していくといい」という教え方をする人もいるけど、印刷会社の植工さんや写植オペレーターたちは、古今の名作を活字や写植に模写しているのに、写植出身の小説家ってあまり聞かないよね、と。
 (まあ、これについては、筆写するときはちゃんと意識を集中する必要があるし、そのあとに自分で筆写したものを読んで研究をしないとやはり上達しないんじゃね、と思う。
 それに、写植オペレーターたちは、名作じゃないものも仕事として扱っているのでw)

 ただ、間違いなく言えることは、志賀直哉や谷崎潤一郎をどんなに筆写しても、上手くなるのはせいぜい文章くらいで、志賀以上に面白い小説は絶対書けない、ということだろう。
 筆写して上達するには、それを行う者に高い集中力が求められるが、大抵の人は、上達する前に疲れてしまうのでw
 そんなわけで、有名作家の小説を筆写するだけじゃなくて、ノベライズもやってみてね。
 (映像作品といっても、演劇でも映画でもなんでもいいはず。個人的には、これを一回見た記憶だけで、書いてみることを推薦したいw



 (追記)
 本書とまったく関係ないが、
 このナボコフの言葉

『マンスフィールド荘園』の女主人公ファニー・プライスの目の色や、彼女の寒い小さな部屋の家具調度のことは、なおざりにできぬ大事なのである。

という一言に共感する。
 いかなる小説であっても、純文学だろうとラノベだろうと、この点の当否が自分の基準になる。
 記憶力とは、細部に対する愛そのものであり、それなしには、何も始まらない、と。



 (更に追記)
 記憶力、と書いたけれども、これは、蓮實流にいえば、「動体視力」というべきかも知れない。
 (詳細、こちらの蓮實へのインタビューを参照)

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