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確かに、ドストエフスキー作品は、インテリ文学じゃなくて、メロドラマそのものですよね。 -佐藤亜紀『小説のストラテジー』(前編)-

 佐藤亜紀『小説のストラテジー』を詠む。
 深層の「意味」の誘惑を拒み、あくまでも表層にとどまり溺死せよ、とのテーゼは、とっても正統派(24頁)。
 何だか、蓮實重彦に近い気がする。



 オスカー・ワイルドは、批評家の意見が一致しない時、作家は自分自身と一致している、と言いました (25頁)

 著者曰く、もし書き手が「表現としての可能性を汲み尽くそう」という本能に忠実なら、受け手の解釈も価値判断も多様化して当然、と。
 実は、審美的判断の不一致は、むしろ「美」の条件そのものだと言うわけだ。

 判断の食い違いから、作品を評価することの面白さがある。
 この著者の考えは実に全うと言わざるを得ない。

 そう意味で言うなら、審美的判断っていうのは、"民主主義的"と言えるのかもしれない(詳細は次回を参照)。
 


 著者曰く、ドストエフスキー作品は間違いなくメロドラマであり、彼は、金と権力とセックスの三つ(メロドラマの必須アイテム)をほぼ丸ごと採用した上、人間が同じくらい必死になり残酷になり時に殺人さえ引き起こす要素、すなわち「思想」を持ち込んだ、という(67頁)。
 なるほど、登場人物の理性と平常心を奪い、感情を駆り立てるにはもってこいのものばっかりですな。

 ドストエフスキーはインテリの書物と言うより、たしかにメロドラマ(オペラを想起せよ)ですよね。
 まあ、ドストエフスキーの作品って、新聞掲載ものばっかりだったから、考えてみれば当然ですなあ。



 聖母の処女性に疑念が呈されるのを聞いたバルベー・ドールヴィイ曰く「私の前で御婦人を侮辱することは絶対に許さん」 (70頁)

 ナイスボケw



 ナボコフ曰く、ドストエフスキーが一流作家じゃない理由として、①描写を殆どしない、②下卑た騒々しさ、③どぎつい効果を挙げるために正気ではない人物を登場させたがる、と。
 だが、著者に言わせると、ドストエフスキーは全て承知の上でこうした書き方を選んだと言う(77頁)。
 「騒々しさ」は、ポリフォニー(「思想」や「信仰」の劇的な対立)を響かせるためのものだし、描写の少なさは、記述の速度を読者が眩暈を覚えるくらいに上げるためのもので、正気ではない人物を登場させるのも、メロドラマの構成上の要請によるものだ、と。
 著者は、ドストエフスキーを、「遅れてきたロマン派」と呼んでいる。
 (こういうのを見ると、"バロック的"だなあという感想を抱いたけど、あってるかな?)

 それにしても、ナボコフとドストエフスキー両方を擁護する人って、結構珍しい気がする。



 『悪霊』は、当初極悪非道の大悪人が改心して英雄的な善行を行う、というストーリーを予定していたのに、最終的に、ああいう小説になった。
 何故か?

 実態のない革命の代行者(自称)が、薄っぺらい革命思想の蔓延する共同体を躍らせ、大混乱を引き起こす、という、この『悪霊』のあらすじ。
 実は、ゴーゴリ『検察官』そのままだ。(『検察官』の場合、ある男が大権を持つ「検察官」に間違えられ、共同体に大混乱を引き起こすお話。)

 実際、ドストエフスキーは、『悪霊』の準備ノートに、フルスターコフという名前を書きとめているから、彼がゴーゴリ『検察官』を意識していたことは間違いない。
 その結果、"極悪非道の大悪人の善行"というメロドラマ的展開は、『検察官』に引っ張られて、話の流れが大きく変わってしまい、

 イデオロギーで仕切られた退屈な修身小説の代りに我々の手元に残ったのは、物語に引き摺られて収拾が付かなくなった作者の悲鳴なぞ聞こえないくらい混沌として複雑な、残酷さと滑稽さを綯い交ぜにして絶望へと転がり落ちて行く、グランギニョール趣味のジェットコースター小説

になったのだった(90頁)。

 ゴーゴリの『外套』から出て来たと自負するドストエフスキーだけど、ここにもゴーゴリの影響が
 ゴーゴリ、やっぱりすごいわw

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