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今まで言わなかったけど、中島敦『山月記』の漢詩に出て来る「長嘯」は、「詩を吟じる」って意味じゃないんだ 齋藤希史『漢文スタイル』(後編)

 またも、齋藤希史『漢文スタイル』 を読む。



 著者曰く、今の時代に必要なのって、韓愈じゃなくて、焚紹述かも、と(119頁)。
 どういうことか。
 今の「国語」の衰退をめぐる議論は、近代の「国語」以前の型の集積を訴えたりはする(『声に出して読みたい日本語』とか)けど、結局、その型へ反発する力というのは養われない。
 (型を養うこと自体が不必要なわけでは、もちろんない。)

 文章って、書けば書くほど、何かか言い切れないようなものが残ってしまうもの。
 そういう言い切れなさの中から、それに立ち向かう初発のエネルギーが出て、新しい表現が生まれる。
 韓愈は、その初発のエネルギーを古の文章に感じて、道を開いた
(彼は、単なる"いにしえの文章オタク"じゃない)。

 そんな韓愈の先駆者こそ、焚紹述だった。
 先人の一言一句を踏襲しない、と韓愈に褒められながら、後世に"分かりにくいし区切りも付けられない"と評されたこの人物。
 しかし、この初発のエネルギーこそ、今の時代に実は必要なのかも、というのが著者の言うところ。

 それにしても、この焚紹述、どんな文章を書いたんだろうw



 『漢武故事』や『漢武帝内伝』等に描かれる、西王母に武帝が不老不死の薬を求め、いつまでたっても与えてくれない、と言う話。
 ここでの西王母は、絶世の美女で、皇帝なのに意のままにならないと言う設定。
 皇帝も流石に、仙界に力が及ばない。

 ここに、皇帝が人間の男性であることの限界が、最高位の仙女としての西王母によって露呈する(185頁)。
 武帝は待つ身となり、ひたすら再訪を望むが叶えられない。
 あたかも、後宮の女たちの姿をなぞるかのように。

 
 ここに起こっているのは、「待つ身」となる存在のジェンダー的逆転と指摘できる。
 待つ身は、女性から、男性へと変転している、実に興味深い現象。
 そこには、お前も後宮の女たちの気持ちを味わってみろ、的な意思も働いていたのかも。



 中島敦『山月記』解釈について。
 彼の漢文的教養は良く強調されるのに、肝心のその素養は、ブラックボックスのように扱われ、その豊かさに読みが及ぶことは少ない(227頁)。
 教科書や文庫本、さらには、『山月記』を扱った専門書を見ても、その小説中の漢詩への解釈はドイヒーだと著者は言う。
 「嘯」の解釈が、「りっぱな詩歌を吟じる」だの、「(この苦しみを訴えようと)声をあげて詩を吟じよう」だの。

 「嘯」はもともと、口をすぼめて長く声を引くの意味
 遡ると、『楚辞』などでは神霊を招くための発声を意味していて、これが魏晋時代になると、神霊からはなれて、美しい音声を出して楽しむといったニュアンスにかわる。
 この時代から「嘯」は、世俗を超えた道術的行為だったり、世俗を離れた隠者の行為といったものへ、意味合いが変わったわけだ。
 (もちろん、詩を吟ずるって言う意味も存在するけど、これも魏晋時代になって出始めた。)
  
 『山月記』の場合はどうか。
 漢詩の最後の部分(尾聯)。
 「夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷」

 「嘯」というのは、「猿嘯」という字があるように、動物も「嘯」する。
 「嘯嘷」っていう語さえある。

 だから、そのニュアンスをちゃんと汲まないといけない。
 この場合、意味合いとして正しいのは、詩吟じゃなくて、美しく声を出す、という方なのだ。

 この部分の意味合いとしては、「人境を離れた渓山を月が照らす今宵は塵外の嘯きに格好の舞台」だけど、でもこんな浅ましい獣の身じゃ吠え声にしかならないよね、ということ。
 塵外っていうのは、俗世を離れた、という意味。
 「嘯」の意味は、隠者が(口をすぼめて長く声を引いて)美しく声を出す、ということ。
 隠者なら格好の「嘯」をする機会だけど、俺はもう虎だから吠え声にしかならないよ、という嘆きなのね。

 確かに、この解釈の方が自然。
 自分も誤解してました。

 (ちなみに、「長嘯」っていうのは上に書いたとおり、隠者のやる行為だけど、これは隠逸した人間が、自分は隠れてますよ、と意思表示するという行為。実に矛盾しているような気がするけど、まあ、そういうことだ。)



 「風景」の本義は、かぜ(「風」)とひかり(「景」)、という意味であり、目に入る景色そのことではなかった(270頁)。
 風も、景も、うつろいゆくもので、一瞬たりとも、同じではありえない。
 だからこそ、「風景」は貴いものだ。


 なるほど。



 あと、面白い所としては、「なぜ徳富蘆花は自作・『不如帰』を「ほととぎす」じゃなく「フジョキ」と読ませたかったのか」という章。
 是非ご一読を。




 (関係のない追記)
 大森,豊崎共著『文学賞メッタ斬り』(文庫版)を読む。
 改めて読んだ感想としては、
・山田詠美さんは、下手をすると、小説より選評の方が面白い。
・清涼院流水先生は、絶対、私小説を普通に書いたほうが面白い。
・ファンタジーノベル大賞は、やはりGJ。
・谷崎潤一郎賞は、確かに名作率が高い。
 こんな感じ。

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