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内向きな「戦争責任」でやり過ごした戦後六〇余年の歳月 -波多野澄雄『国家と歴史』を読む-

 波多野澄雄『国家と歴史』を読む。
 この著者がどんな人物であるかを知っておく限りであれば、この本は、悪い本ではないと思う。



 戦後においてもなお、昭和天皇が継続して在位したことは、国外において、「過去の軍事侵略について日本人が罪の意識を感じているように見えない理由の一つ」となった(34頁)。

 この著者の記述は、Saki Docjrillの論文を参照して書かれている。
 Saki Dockrillについては、細谷雄一先生が、ブログで記事を書いている
 「現在のイギリスでもっとも活躍するイギリス外交史研究者は誰か、という話をすれば何人かの方はサキ・ドクリル先生の名前を挙げるでしょう」という程の研究者だった。



 前に、東京裁判について、「判決だけ受諾したんだ プンスコ」と言い出す人物が現れる事案が発生した。

 この問題は要するに、外務省が、「判決を受諾」と訳せばいいところを、「裁判を受諾」と訳したことに起因している。
 なぜこんなことをしたのか。
 日暮吉延『東京裁判の国際関係』は、「判決を受諾」だけだと、パール判事らの少数意見が排除されちゃうから、あえて国内向けに「裁判を受諾」と意訳したんじゃないの?と書いているらしい(40頁)。

 もしこれが正しいとすると、せっかくの外務省の好意を、かの人たちはぶっ壊しちゃったことになるw



 1970年代の日中国交正常化の件。
 中国政府は、侵略戦争の責任と反省を前提として、賠償放棄を決めた(82頁)。
 中国側にとって、歴史認識の問題と、賠償問題はセットとなっている。

 この点を捉えずに歴史認識の問題を軽んじると、ろくなことにならない。

 そりゃ、日本側が歴史認識をぞんざいにすりゃ、中国側が怒っても無理はない。
 
 (日台の政治関係を切ることもまた、賠償請求放棄の基礎条件だった。この点に関しては、こちらの記事も御参照あれ。)



 欧米の戦争犠牲者補償制度は、一般市民と軍人・軍属を平等に扱う「国民平等主義」が共通の特徴となる。
 そして、自国民と外国人を区別せず、全て戦争犠牲者に平等な補償と待遇を与えるという「内外人平等主義」もまた、共通の特徴となる(97頁)。

 
 一方、日本の補償立法の中心となる恩給法と遺族援護法は、上記の国際的な基準から逸脱している。
 恩給法なら支給額は、退職時の俸給と在職年数で算出されるが、軍人の場合、在職時の階級で差が出る。
 さらに、外地戸籍法の適用者だった、朝鮮、台湾などの旧植民地出身者はハブられている。 

 美しい国ニッポソの光景。



 日本政府はずっと、侵略戦争という国際的批判を「厳粛に受け止め」はしたが、自ら侵略戦争と認めることはしてこなかった。
 村山談話の場合も、戦争遂行の結果(被害)に対して、公的立場として表明・謝罪はしたが、国家補償の根拠となるような戦争責任の所在については、判断を回避している(187、188頁)。

 こうしたダブスタを支えてきたのが、「平和」という主張である。
 すなわち、平和憲法・平和国家を作って過去の戦争を清算した、という便利な主張である
(129頁)。
 随分とまあ、内向きな論法といわざるを得ない。


 
 「一億総懺悔」の悪質な使用法について。

 戦争が全ての国民を動員した総力戦であるなら、一般市民の戦争被害者にも補償をすべきだ、という主張がなされたとき、政府が持ち出したのが「国民受忍論」だった(162頁)。
 要するに、国民が戦争に走った指導者を許してしまったんだから、国民の結果責任だよ、受忍しようよ、という「総責任=無責任」論だった。

 これもまた、随分と内向きな議論
だろう。



 著者は、2007年4月の二つの戦後補償裁判の判決(「中国人強制連行・西松建設裁判」と「中国人『慰安婦』裁判」)についても書いている(213~217頁)。

 この二つの裁判は、最高裁が、被害の事実を認定し、被害者の肉体的・精神的靴の大きさにも言及しているが、結局のところ個人の賠償を認めなかった。
 それは、サンフランシスコ講和条約の枠組みは、日比や日印などの二国間の協定・条約も規定するという考えによるものである。
 個人の請求権などは相互に放棄するというサンフランシスコ講和条約の考え方が、上記の協定・条約の前提になっている、という主張だ。
 しかもその協定・条約の中には、講和条約の当事国ではなかった中ソの共同宣言や共同声明も含まれる、というかなり踏み込んだものである。

 当然、中国政府側、そして日本の法曹関係者は批判している。
 中華人民共和国は、講和条約の当事国ではないし、請求権放棄は政府だけであって、個人請求権も残存しているはずではないか、と。

 この最高裁の判断は、確かにムチャブリだと思うし、内向きな"御用判決"だという感想しかない。
 この判決の背景も、「企業や国が自発的に対応するものを除けば、旧被害国の国民による請求権の行使によって『予測困難な過大の負担を負わせ、混乱を生じさせる』」と著者がまとめるように、自国民への(恩着せがましい)優しさに溢れている(217頁)。

 実際の所この裁判の意味は、「すでに六〇年以上も前の歴史問題の法的判断には限界があり、司法の場に持ち込まないよう歯止めをかけたのである。問題は政府と国民に投げかけられたといえる。」と書いているように、司法はこの問題にタッチしません、ということであり、政府と国民で何とか解決しろ、ということである(217頁)。

 当時の報道を見ても、「サンフランシスコ平和条約によっても個人の請求権が完全に消滅したわけではないが、裁判で賠償を請求することはできなくなった」とか「ここでいう請求権『放棄』は、裁判上の権能を失わせるにとどまる」とかしか書いていない(これとか、これ)。

 この個人賠償(と請求権)をめぐる問題は、結局、政府にボールが投げ返されているんだが、政府側はそれを見て見ぬフリをしたい、というのが現状。

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