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アデナウアーにおける「独仏の絆」的な何かの源流と、再軍備方法。 石田勇治『過去の克服』を読む(前編)

 石田勇治『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』を読む。
 良本である。

 ドイツにも、ナチ時代の過去を反省しようとする人々がいる一方、それを自虐だと切り捨てる人々がいた。
 ドイツの過去の克服は、この二つの力のせめぎあいの中で、現在に至っている(12頁)。
 アメリカ、ヨーロッパ近隣諸国、イスラエル、東側からの厳しい批判、こうした外的要因が無ければ「過去の克服」は進展しなかっただろう。

 すでに出版されて幾年か経た本であり、既に幾つも書評もあるけれども、是非一度自分の目で読んで欲しい。
 戦後ドイツの道のりについては、礼賛本も、「暴露」本もあるけれど(例えばこれとか)、きちんと当時の(西)ドイツ国内外の事情を踏まえれば、よりバランスの取れた意見を持てると思う。

 そんな中から気になった箇所を。



 まず基本的な事実だが(7頁)。
 ドイツ連邦共和国がこれまで支払った、ホロコースト等に代表されるナチ不法の被害者に対する補償金は実に1059億マルク(6兆円)である(出版当時)。
 その約8割は、外国と外国在住の被害者が受け取った。

 2000年には、ヨーロッパ各地から連行された強制労働の被害者個人を救済するために、ドイツ政府とドイツ企業の共同出資による補償基金「記憶・責任・未来」が設立されている。
 その総額、100億マルクである。
 政府も企業も法的責任は否認したが、道義的責任を根拠に補償を行うことを選択した(295頁)。



 ヒトラーについて。

 ヒトラーの人気の源泉の一つは外交にあった(28頁)。
 1932年時点での国会選挙では、ナチの得票率は33パーセントだった。
 だが度重なる外交的勝利によって、ヒトラーへの評価はうなぎのぼりに上昇する。
 内政でも同じく、大規模な公共投資がドイツ経済を立ち直らせ、失業者は急速に減少し、36年には失業者は1パーセント未満になる。

 ・・・ただし、「街頭の浮浪者や物乞いの一掃をねらって行なわれた『反社会的分子』の一斉取り締まりも、街に『秩序の回復』をもたらす措置として歓迎された」。
 これを見落としてはならない。



 行政官僚を嫌うヒトラーはナチ党や親衛隊の側近たちと個別の会合を重視し、国家政策をそこで決めた。
 ヒトラーは彼らに口頭での命令や文書による布告を与えたが、その内容はしばしば非常に曖昧で矛盾さえした。
 そこで、側近たちは、ヒトラーの支持と権限の拡大をもとめてお互いに競合し、ヒトラーの意に沿うよういっそうラディカルな行動を起こした(34頁)。

 詳細は、I・カーショー『ヒトラー 権力の本質』を参照すべきであろう(著者が当該書の訳者をやっている)。

 維新のか・・いやなんでもありません。



 第二次大戦下、ドイツ女性の就労比率は上昇しなかった。
 その理由の一つは、女性の労働動員が、ナチの理想とする女性像と矛盾したことである。
 そこで、戦争の長期化と共に深刻化する労働力不足を補充するために、ヨーロッパ各地から外国人労働者が大量動員された。
 その数、1944年時点で約760万人、ドイツ国内の就労人口のほぼ2割を占めた(41頁)。

 あけすけに言えば、ナチスは、「働く女」が嫌いだったのである。
 そのために、悪名高い「動員」がなされた。



 ホロコーストの直接的原因について。

 もともと、ナチスはゲットーに閉じ込めていたユダヤ人を、「東方」へ追放するつもりだった。
 ところがその目論見は甘かった。
 やがて、独ソ戦であてにしていた電撃的勝利は得られず、長期戦が明らかになる。
 すると、ユダヤ人をソ連の東方に追放するという思惑は現実性を失った。
 それまで隔離していたユダヤ人ゲットーでは、生活環境が悪化し、疫病が蔓延した。

 そこで、ユダヤ政策は、追放政策から絶滅政策へ切り替わった。
 ホロコーストへの道はこうして開かれた(38、9頁)。



 連合国側は、戦中からホロコーストのことを知ってたんじゃねえの、と言う話。

 ローマ教皇庁もイギリス軍上部も、ホロコーストの現実を情報として把握していながら、世界に公表しなかった。
 著者曰く、それは、連合軍の側にも反ユダヤ主義的な傾向が潜んでいたためである(44,45頁)。
 実際、イギリス政府は東部戦線でのユダヤ人大虐殺の実態やアウシュヴィッツに鉄道輸送されるユダヤ人犠牲者の人数まで把握していたにもかかわらず、一切警告を発しなかった(312頁)。



 ドイツの「憲法」について。

 ドイツ基本法では、ナチ党と手を組んでヒトラーを首相にした伝統的な保守派の政治的責任は問わず、もっぱらナチ党に巨大な抗議運動のエネルギーを与えた大衆民主主義の弊害を重大視した。
 結局、基本法の定める国民の政治参加のチャンスは、連邦議会選挙に限られ、大衆より政治エリートが活躍する政治体制が作られた(87頁)。

 上記のスルーっぷりが、長らく過去の克服を困難にした一因でもある。



 アデナウアーの政治的背景について。

 アデナウアーは、ナチによって解任される1933年までケルン市長を務めた。
 政治的にはカトリック中央党に所属していた。
 1923年のフランス・ベルギー軍によるルール占領に際しては、ラインラントのプロイセンからの分離運動に関与する。
 ゲシュタポに監視される日々が続き、44年には、二ヶ月の拘留生活を強いられた。
 戦後、連合軍によって、ケルン市長に任用される。
 「だが、フランスの協力を得て『ライン国家』創設を画策した計画が発覚して再び解任された」。
 アデナウアーにとってフランスは最も信頼すべき友邦であった。

 アデナウアーはその後、国政の道を進み、急速に重要な地位に着く(97頁)。
 1949年には首相就任にする。

 西部ドイツの政治的カトリシズムを代表するアデナウアーは、反プロイセン・反ナチズム・反共主義を標榜しており、経済原理として自由主義を支持していた(98頁)。
 彼を考える上で、そうした政治的背景は念頭におく必要がある。
 「独仏の絆」的な何かの源流が、そこにある。



 再軍備について。

 アデナウアーは、再軍備政策を実行するに当たり、7月20日事件の関係者を重用し、新しい軍が反ヒトラーの系譜を継承することを印象付けようとした。
 7月20日事件とは、「黒いオーケストラ」の件、ヒトラー暗殺未遂事件のことである。

 旧軍のエリートにとってヒトラーと一体化した過去は弱みとなっていた。
 例えば、国防軍は、ヒムラー配下の親衛隊行動部隊と一致協力してユダヤ人大虐殺を実行していた。

 アデナウアーはこの弱みを利用して、議会のコントロールを受ける新しい軍隊を創設することに成功した(125頁)。
 アデナウアーはこのようにして、「民主主義」的な軍隊を作ることに成功する。
 ・・・どこぞの国の、元幕僚長がアレなく国とはえらい違いだと思(ry

 (ドイツの再軍備については、こちらのブログさんも御参照ください。)



(未完)

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