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「急ぎすぎてはいけない」、あるいは、チベタンコミュニスト・プンツォク=ワンギェルの半生 -阿部治平『もうひとつのチベット現代史』雑感-

 阿部治平『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』を読む。
 知る人ぞ知る、プンワンの半生を綴った好著である。

 彼が何者かについては、Wikipediaの記事を見てくれれば分かる。
 (ただ、「帰国後、中国共産党の下部機関に組み込まれるが、文化大革命では民族主義者として弾圧を受け、18年間投獄される」という記述があるのだが、プンワン投獄は文革前のはずである。)
 梶谷先生による書評も、読まれるべき。
 未完だが、こちらの書評もよい。
 
 以下、気になった所だけ。



 占領されるまでのチベットの当時の政治について。

 イギリスはシムラ会議で中国のチベットに対する宗主権を承認し、チベットには自治権以上の権力を認めなかった。
 にもかかわらず、チベット政府はイギリスにも中国にも、積極的に独立を認めさせる外交らしい外交も、独立を確実にする内政の改革もしなかった。
 ラマを中心とするチベット政府首脳部にとっては宗教行事の方が国政よりももっと重要だったのである(86、87頁)。

 ダライ=ラマ5世以降、ラサ三大寺院と俗人貴族の連合政権は絶対的な統制力をもってチベット人に君臨していた。
 国家の危機と民衆の貧苦をよそに、200家族ほどの貴族社会は安穏でぜいたくな日常を送っていた(87頁)。

 プンワンが最終的にコミュニストになる素地は、ここらへんにある。

 第二次大戦は独立のチャンスであり、プンワン一派のほかにも独立を確保するためにチベット政府の改革を急ぐべきと考えるものは存在した。
 だが、それは、インドと接触のある限られた知識人とラサのわずかな貴族と僧侶だけだった(88頁)。



 基本的な事項。

 チベットはその居住地域を文化や方言の違いによって大きく三つに分けられる。
 ウ・ツァン(中央)とアムド(東北部)、カム(東南部)である(16頁)。
 カムについてはWikipediaとかを参照。



 で、占領当初の話。

 チャムド(カムの中心都市)戦役が起きた時、カムパ(カムの住民を指す)の大衆の多くは、解放軍の勝利を願っていた。
 金沙江(長江上流)の東は国民党軍閥の支配下にあり、汚職で腐敗していた。
 一方、西岸のチベット政府の支配は、より苛酷で、税金をむやみに取り立て、チベット兵は遊牧民の家畜や金品を強奪し、女性を物にすることに執着した。
 そのため、チャムド地区のカムパは東の同胞の暮らしを羨んでさえいた。

 ところが、人民解放軍は悪事を働かなかった。
 はじめカムに来た頃はぼろをまとい寄せ集めの武器を担いでいた。
 だが、人や家畜を動員したときは賃金を払い、物資買い入れの時も代金を払った(172頁)。
 解放軍によって幹部に抜擢され、のちにカム反乱に参加した人物は、そのように証言している(本書では『中国と戦ったチベット人』から、その証言は引用されている)。

 (ただし、状況はチベットの各地域で異なり、例えば、『中共夏河県党史資料』は、甘粛南部に進駐した中共と解放軍が恣にチベット人に暴力をふるい、汚職腐敗をやって反乱を誘発する経過を記述している。これも、1949年当時、少数民族地域へ侵攻した解放軍の振る舞いの一例である(56頁)。)



 方言に関して。

 1951年、中国とチベット政府の和平談判が行われた。
 この「十七条協定」交渉に、プンワンは関わる(187頁)。
 彼と共に仕事をしたプンツォ=ザシによると、アムド方言(彼の出身)とウ・ツァン方言では、文字と語彙は同じだが、発音が大きく違った。
 一方、カムのバタン出身だったプンワンだが、ウ・ツァン方言にも通じており、実質的な通訳は彼が担った。

 ちなみにプンワンは、「十七条協定」の交渉の後、毛沢東から『実践論』(表紙に毛の自筆で「平措汪傑同志 毛沢東」と書いてある)を送られた。
 プンワンはいまも、大切に保存しているという(203頁)。



 その後の占領者たちの振る舞いについて。

 中国側の占領者たちは、チベット情勢に暗かった。
 漢人将軍たちは少数民族問題、とくにチベット問題にほとんど無知であった。
 公用言語や学校教育、寺院の待遇や土地改革、制度をどのように変えるのか、幼稚な考えしかなかった。
 そんな状況ゆえに、毛沢東の指示を腕力を持って進める方法が生まれた(246頁)。

 プンワンは社会主義チベットはチベット自身が作り上げるべきであり、チベット人農牧民自身が目覚め、チベット人主導で土地改革を行うべきと考えていた。
 だがこの方法は確実ではあるが、時間がかかる。
 苛烈な革命戦争を戦い抜いた漢人将軍らに通用する話ではなかった。
 「かれらは功をあせっていた」(246頁)。

 そして内地からやってきた党員や将兵にとって、チベット反乱の鎮圧は、毛沢東に忠誠を示し戦功を上げるチャンスとなった(316頁)。



 「明鏡止水の状態の中で師匠を最も脅かすものは何ですか」
 「性急さ」
 (ウンベルトエーコ『薔薇の名前』より)



 そもそも、プンワンはなぜ、自ら作り上げたチベット共産党を解体し、中国共産党の下に入ったのかについて。
 それは無理なからぬことだった。(既に梶谷先生の書評に書いてある通りだが。)

 実際、北京側は、1947年10月に発表された「解放軍宣言」でも、中国領内の少数民族の平等と自治、彼らが「中国連邦」に加入する自由を持つことを認める、と、依然として連邦国家構想をあきらかにしていた。
 プンワンの頭に、これがあったからこそ、妥協として「チベット共産党」の地位を捨て、中国共産党の地方組織になるという格下げを承知で、雲南北部で中国共産党に参加たのである(269頁)。
 
 だが、49年9月に人民政治協商会議で採択された共同綱領では「民族の区域自治」を実行すると明記され、連邦性は否定された(270頁)。

 プンワンはそのことを知らされていなかった(272頁)。
 彼は、53年に初めて中共の決議やその他文書を読んで、初めて知ったという。

 そもそも国際共産主義運動の原則から言って、革命に成功した多民族国家における少数民族の分離独立や自決権の承認は、当時のコミュニストにとって当たり前のことだった。
 じっさい、スターリンは、ロシア帝国の植民地だった国家や地域を独立させて、1922年にはソ連の構成国とした。一応。



 占領政策の性急さについて。

 チベットにおける「民主改革」工作者たちは、一方で寺院の99%を破壊しながら、寺のラマや集落首長を晒しものにすることで、彼らにはもはや権力がないことを民衆に見せ、「積極分子」(つまり、社会の「下層階級」に指定された者たち。チンピラ等も含まれていた)に血と涙の暮らしを強いられたことを訴えさせて「政治的自覚」を促そうとした(312頁)。
 あまりにも暴力的な方法だった。

 もっと温和な統治方法はなかったのか。
 「十七条協議」を基本に、高利貸排除と借金の整理、家内奴隷の解放、そうした改革にとどめ、あとは農牧民の要求が成熟するまで待つ、という当初の方針を貫くことはできなかったのか。
 だが、毛沢東は、土地改革と上層人士からの権力はく奪を断固として決意していた(316頁)。



 プンワンが、当時の中共によって地位をはく奪され拘束されたと聞いたとき、ダライ=ラマは、中共指導層に対する見方を変えてしまった(366頁)。
 プンワンが、誠実な共産主義者であると、ダライ=ラマは知っていたためである。
 そして、彼らは、共産主義者を装う中国大国主義者以外のなにものでもない、と考えたのである(本書において、典拠は『ダライ=ラマ自伝』になっている)。

 彼のプンワンへの評価については、こちらもご参照あれ。



 文革が終了して解放された後、プンワンは次のことを主張する。
 すなわち、独立の否定、中国の支配を前提としながら、厳格な民族平等、名実ともに、民俗区域自治、自主政策を実行することである(448頁)。

 ここで、プンワンは「弁証法」を強調する(461頁)。
 少数民族の悲劇は、中国共産党が弁証法から逸脱した事が原因と言いたいのである。
 彼の弁証法の要諦は、次のものだろう。

 曰く、自分に反対する者はすべてが敵ではなく、時にはもっとも手ごわい反対者が最もいい意見を持っていることがある。
 「毛主席の晩年に犯したあやまちのひとつはこれだ」(出典はダウェイシラオの『葛然朗巴=平措汪傑小伝』)。

 (弁証法を自然科学にまで広げるのは無理だと思うが、人文科学までなら十分適応できそうである。詳細は、こちらをご参照。)



 プンワンは、民族反乱への鎮圧方法を批判しており、さらに、「みんなに話し合わせ相談して物事をきめさせる。人が批判するのを恐れるのではなく批判しないことを恐れるべきだ」といった(462頁)。
 
 陰謀詭計の政治手法、いい加減な文書を使って人を貶めようとする手練手管が存在し、肯定に哀訴してお墨付きをもらい、自分の主張を正当化しようとする「宮廷政治」が、中国共産党にあることを著者は指摘しているが(473頁)、まさに、こうした手口こそ、プンワンの主張に反するものである。



 次の点も重要である。
 曰く、民族平等が要因であって、団結はその結果である。
 民族平等を民族団結の前提にしてこそ、確固とした平等・団結・互助の民族関係を築くことが出来る。
 その逆ではない(463頁)。
 
 平等なしに、団結は無い。



 そして、プンワンは、支配の現状に古典的理論をもって、党の許容限界まで批判を試みた。
 レーニンらソビエト政府は、民族自決権に基づいて、フィンランドの独立証を代表に手渡した、と(466頁)。
 
 すなわち、プンワンはその事実を指摘して、理論上は少数民族に分離独立の権利があることを提起している。



 ほかにも、毛沢東思想をもって毛沢東批判を行った紅衛兵もいたこと(『毛沢東を批判した紅衛兵』)とか、パンチェン=ラマが『七万言書』において、1949年の革命以来の中国共産党の業績を称えたうえで、チベット人の進行と飢餓の惨状を明らかにしたことだとか、実は国共合作当時の重慶は国民党の厳しい監視下にあり、共産党側の活動環境は極めて危険だったとか、色々書きたいことはあるが、省略する。

(未完)



(未完だけど追記)
 プンワンが今年、亡くなった。
 書き足すことは何もないが、タイトルが何だか気に入らないので、改題する。
-2014/5/28-

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