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アイロニーとしての小説、あるいは、「血肉」と「生命」と「喜劇」から みる近代小説 -中村光夫『風俗小説論』-
これで何度目なのか。
意外と読まれていないんじゃないかね、この本。
『風俗小説論』に対する丁寧な書評(まとめ?)としては、全4回のこちらのブログさんの記事もご一読あれ。
中村の批評家・小説家としての仕事については、こちらのブログさんもぜひ。
こちらのブログ主様がいうように、「中村は、そのために文学に必要なのは『感覚』ではなく『思考』なのだと主張しているように思われる」とは、まさにその通りだと思う。
もちろん、フローベールやスタンダールらが、「彼等の多くは、ただ彼等よりはるかに平凡な作中人物を通じて、ともかく社会に伍することができたほど孤独な存在であった」という中村の主張が、どこまで正しいのか分からないけれど。
いつものように、気になったところだけを書いていく。
中村は、一応、志賀の小説の優れた点を認めていた。作者はどの登場人物もその場その場の背景に合わせて都合のいい断片に切り刻み、それを傀儡のように勝手に動かしているだけで、その人間としての統一と奥行は作者によってほとんど故意に無視されています。(略)武田の感性的リアリズムは志賀直哉にはない社会的な広がりを得た代償に、志賀直哉の私小説がともかく完全に造形し得た人間を見失ってしまった (111頁)
「完全に造形し得た人間」を創出した点である。
一方、登場人物が平面的である点を、武田鱗太郎は批判されている。
志賀の場合、(少なくとも主人公は)そうではなかった。
そして、感性の微妙なもつれと、細やかな陰影の描写にかけては、日本の近代小説はどの国のそれに比べても劣らぬ見事な独自の技術を開拓したと著者はいう。(85頁)。
著者は、そのように、日本の私小説を含め、日本の近代小説全般を、一応ほめている。
読み物としての美質はある。
著者は、では、何を"批判"したか。
ツルゲーネフ『ドミトリ・ルージン』との比較で、このように述べられている。「青春」の主人公は、これに反して、終わりまで最初に作者によって設定された性格のままなので、さまざまな事件が起れば起るほど、彼は生気を失ったこしらえものの姿で読後の胸に引証されるほかはありません。この長編の退屈さの根本はここから来ていると思われます。 (17頁)
主人公の変化、つまり、人物としての非「平面さ」に著者は拘る。
『風俗小説論』で著者が一番重要視しているのは、実はここではないかと思う。現代の風俗作家に驚くべき大量生産を可能にした理由は、彼等の身につけた小説技巧が、私小説によって変形されたリアリズム手法の更に固定化したもので、それはすでに文学的生命を喪ったために酷使と工業化に堪えるのです。 (67頁)
このお手軽さ。
「自然主義」の作家たちにはまだあった「エトス」が、もう当時の「風俗小説」にはなく、その小説の技巧だけが形骸として残っていることに、著者は不満を持っていた。
では、その「エトス」とは何かといえば、「自然」(自然主義)へのこだわりである。
彼らは、「自然」に拘り、それを突き詰めていこうとした。
その結果、この日本の作家たちは、「自己」のことを微細・執拗に書くことで、「自然」に迫ろうとした。
それは西欧の自然主義のやり方と違う、というのが、中村光夫の意見だった。
(蓮實重彦によるインタビュー(蓮實『饗宴Ⅱ』所収)に対して、中村が答えるところによると、問題にしているのは、西欧の近代(自然主義)文学と日本のそれとの混同である。)
西欧の自然主義は根本において、「科学」重視であり、作家は人間や社会に関する一般法則から出発し、普遍的な真実を求める思想家として行動した(70頁)。
彼らは「自然」を追求することで、一般法則をもとに、社会と他人を書いた。
著者も自然主義における「科学の過信」を指摘しつつ、それが与えた効能(つまり、「一般法則から出発し、普遍的な真実を求め」たこと)を述べている。
例えば、フローベールは、エンマをもっとも蓋然的な一般性を持つ人間として創造した。
ゆえに、「ボヴァリー夫人は私だ」と明言した一方で、「『ボヴァリー夫人』には何も本当のことはない。それはまったくのつくり話だ」と言い得たのである(71頁)。
だが、日本の自然小説は、一般法則を描くことに向かわずに、「自己」に向かったのである。
そこには、「他者」が欠けていた。
日本の「私小説」の方向性を突き詰めると、こうした隘路に行きつく。平たく云えば彼はここで「自己」を「自然」の法則またはリズムの体現者と云いたかったのですが、まさかそうとは云いかねたのです。(泡鳴はこの点を花袋とちがって無遠慮に云い切っています) (80頁)
言い切れない花袋に対して、泡鳴は「俺が(この世界の)ルールブックだ!」と堂々と表明してみせた。
「神秘的半獣主義」の問題にかかわるが、これ以上深追いしない。
ともあれ、中村光夫にとっての「小説」というのは、その方面とは別のものだった。
前の二作とは、「青春」と「破戒」を指す。竹中時雄は前の二作の主人公にくらべて、はるかになまなましく生きた人間であり、同時に滑稽な存在です。(略)不幸にして作者がこの主人公の姿の滑稽さにまったく気付いていない (51頁)
もちろん、本当に花袋が主人公の滑稽さに気づいていなかったのかといえば、そうではない。
(詳しくは、前回の記事参照)
ただ、中村の『蒲団』批判から、逆に彼が求めたものが読みとれる。
漱石の生み出した人物たちに関する説明である。現代までも文学的生命を失わないのは、彼等が漱石が生涯を通じて育てた人生に対する観念から生みだされた子供たちであり、観念的な手法を通じながら作者の血肉をわかたれた存在であるからです。 (14頁)
私小説にありがちな、作者と密着したタイプの主人公はダメだという一方、「観念的な手法を通じながら作者の血肉をわかたれた存在」ならいいというのである。
著者は作家と作品の関係を、これでもかとばかり、気にしている。
藤村の『破戒』の話である。抱月がこれを我国の文芸界に画期的な「新発現」と呼んだ所以は、(略)この作の主人公と作者とが互に内面の苦悩によって結ばれている点であった (24頁)
ここでも、「主人公と作者とが互に内面の苦悩によって結ばれている」ことを重視している。
「観念的な手法を通じながら」というのが重要である。
「浮雲」の本田やお政お勢などの副人物が、主人公の文三と対等の他人として、単なる「類型」以上に溌剌と活写されている (中略) 藤村には二葉亭にあったようなユーモアも自己に対するアイロニーもなかった (32頁)
後者の鍵括弧は平野謙の指摘である。「青春」の作者が主人公を上から見下していたに反して、「破戒」の作者が主人公と同じ悲哀を呼吸していた点にある反面、この作者と主人公の距離の近さが、小説構成の「必要以上に藤村自身の主観的感慨を以て丑松の心理を塗りつぶしてしまった」 (33頁)
小栗風葉の書いた「青春」の主人公は、「観念的な手法を通じながら作者の血肉をわかたれた存在」ではなかった。
著者は主人公と距離をとりすぎている。
だが、「破戒」の主人公は、逆に主人公との距離が近すぎる、というのである。
「観念的な手法を通じ」るという、距離が足りない。
適切な距離を著者は求めた。
(なお、 「「浮雲」の本田やお政お勢などの副人物が、主人公の文三と対等の他人として、単なる「類型」以上に溌剌と活写されている」というあたりについては、亀井秀雄による批判がある。こちらの記事もご参照あれ。)
この、ツンデレのようなもの。作者がその親愛する主人公の弱点を遠慮なくつき、その言行を厳しく批判しながら、結局彼を暖いアイロニーで包み、「読者の深い共感を買う」プロセスを想像していた筈です。問題は結局作者とその分身たる主人公の距離、彼の自己批判にかえって来ます。 (50頁)
中村光夫にとっての小説のミソは、ここにあった。
主人公に対して、手加減せずに批判するけど、一方で、親愛の温かい「アイロニー」がある。
(勘のいい人ならわかると思うが、『ヒューモアとしての唯物論』の作者の意見に近い。正確には、『ヒューモアとしての唯物論』の作者が中村光夫の考えに学んだ、というべきなのか。)
著者は、こうした自己批評に重きを置く。自己批評の力は近代小説家がどれほど持っても持ちすぎることのない才能 (略) スタンダールが(略)百年後の現代になお広く迎えられる秘密は、彼の自己批評の鋭さと正確さにあると思えます。 (15頁)
主人公の分身は自分である以上、当然、自己批判が不可欠になる。
他者との「劇」としての小説を中村は欲していた。少なくとも自然主義以後の小説では、構成とは筋の起伏を工夫することではありません。それは作品の主人公に対して持つ作者の人間的批判であり、言葉をかえて云えば、彼の意識の限界を作者が明確に意識することによって、他の作中人物に彼と対等なそれぞれ独自の生命を浮き彫りにすることなのです。 (41頁)
主人公を「アイロニー」の距離感に置くことによって、「他の作中人物に彼と対等なそれぞれ独自の生命を浮き彫りにする」狙いがあった。
(幾分か、バフチンのポリフォニー理論を思わせぬでもない。)
著者にとっての小説とは、自己批判であり、主人公に対するアイロニカルな距離であり、そうした批判によって他の人物の生命を浮き彫りにするものであった。
ではそうした主人公と他者(たち)との間に何が発生するのか。
著者は書く(49頁)。
目覚め来る生活の願望と周囲の社会との衝突は、喜劇としての側面を持つ。
近代を代表する個人は、コミックな存在であり、逆に彼から見れば、社会全体がコミックである。
よって作者は、滑稽の要素なしに、このテーマを生かし、主人公の現実の姿を把握することは不可能である。
青年を主人公とした近代小説の傑作、『赤と黒』や『感情教育』は、すべて喜劇的要素を重要な構成分子として持たぬ者はない。
なのに、風葉「青春」、藤村「破戒」、花袋「蒲団」、いずれの作品も、作者は主人公に対してまったくアイロニーを持たず、滑稽の分子は完全に排除されている。
たとえば、後藤明生という作家の貴重さが、この「喜劇」(正しくは「他人」と「笑い」と批評性)にあることはいうまでもない。
中村が小説を書くときに、「です」「ます」調を使用しなかったことについては、また別途考える必要がある。
いつか書く予定。
最後に、中村光夫の批評家としての慧眼については、デビューした頃の石原慎太郎評も、御一読願いたい。(但しブクマのみ残存。リンク先は既に書籍化されてしまった。)
(未完)
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