スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

外国人犯罪とグローバル化 番外編(3)草野厚『政権交代の法則』

■来日外国人犯罪増加・凶暴化論へ反論してみよう■
 来日外国人犯罪増加・凶暴化論への反論、早速やってみましょう。

凶悪犯(殺人・強盗・強姦等)における来日外国人の割合は2004年で5.6%とされていますが、一般刑法犯の2.3%に比べると、2倍以上です。

 2004年時点での、日本全体での一般刑法犯の検挙人員は約38万9千人で、内凶悪犯が7519人で比率約2パーセント。来日外国人の一般刑法犯検挙人員が8898人で、内凶悪犯が421人で、約4.7パーセント。確かに、比率は来日外国人のほうが大きいようです。来日外国人の一般刑法犯のなかには、「凶悪犯」が多い、といえないこともないようです。
 しかし、外国人登録者数で計算した場合は、どうでしょうか(「外国人登録者数」を使用せざるを得ない理由については、。ここを参照)。2004年時点での外国人登録者数は約197万人です。ですから、凶悪犯の比率ばかりを考えすぎるるのもどうかと思います。
 計算すると、外国人登録者数の中における一般刑法犯検挙人員の割合は、約0.45%で、外国人登録者数における「凶悪犯」の割合は、約0.021%。枕を高くできる割合ですよ。くれぐれも、適切な認識と対処を、願う限りです。 (注1)

■80年代後半における外国人犯罪とグローバル化の関係■
 次に、こんな意見

過去10年だけではなく過去20年を調べてみますと、来日外国人の一般刑法犯は、84年が1,301人、94年が6,989人、04年が8,898人です。 過去10年で27%増ですが、20年前から比べると6.83倍です。

だそうで。「日本の刑法犯のうち“来日外国人”の占める割合ですが、84年0.29%、94年2.27%、04年2.29%。 過去10年では変わりませんが、過去20年では7.9倍となります。」と言う意見も同じでしょう。
 20年というスパンで考えよ、ということでしょうか。「図録外国人犯罪の推移」(『社会実情データ図録』様)を見てみましょう。
 確かに、87年から93年にかけて急激に、来日外国人の一般刑法犯の検挙人員が4倍に増加し、日本全体の一般刑法犯の検挙人員の割合も、0.5%から2.4パーセントに増加しています。87年の外国人登録者数が約80万人から、20年後に約130万人に増加していますが、割合は、やはり、来日外国人の一般刑法犯の検挙人員の方が増加しています。
 しかしこれを、単純に増加云々と大騒ぎするのは早計でしょう。むしろ、これはこの時期から来日外国人に「質的」な変化が起こったと見るべきです。上記の「図録外国人犯罪の推移」では、「港湾を出入りする貨物の中で国内貨物と貿易貨物との動きから1984年をグローバリゼーション元年」と述べています。
 このころから、日本もいやおうなしにグローバル化の波に巻き込まれ、外国人労働力を頼る社会構造を持ち始めたと見るべきでしょう。そして、流入してくる外国人の質的変化や、これまでいた外国人の日本における環境の変化が、このときあったと見るべきでしょう。単純に来日外国人犯罪の凶悪化云々を言う前に、先にこのように考察せねばなりません。次回、これを検討しましょう。

(続く)



(注1) 当たり前のことながら忘れがちな、大多数は犯罪に関係していない人だ、という事実を再認識するには、「在日コリアンを追い出せば犯罪激減?その1」(『ホンマかいな在日特権?』様)をお読みください。曰く、

すると在日コリアンで犯罪と無関係(としておきます)に生活をしている人の割合は全体の99・3%となります。/一方、日本人は99・7%が無関係とります。/(※再犯率や懲役中の人数などを考慮するとこの数字よりかなり少なくなるでしょう)/その差は0・4%です。/1・004倍です。

とのこと。当たり前ですが、重要な事実です。大半の外国人は、犯罪に関係しておらず、それは、日本人とたいして変わらないことなのです。

2009/1/10 内容修正済

TAG : 来日外国人 犯罪 グローバリゼーション

外国人犯罪「凶悪化」はほんとうか 番外編(2)草野厚『政権交代の法則』

■「凶悪化」の実態■
 「特に凶悪犯罪等が犯罪白書で問題視されている」という風にWikipediaでは言われています。実際どうなんでしょう。
 過去データですが、警察庁統計の中の「来日外国人犯罪の検挙状況(平成16年)」によると、平成12年から16年まで、「全凶悪犯検挙人員に占める来日外国人凶悪犯検挙人員の比率は、ここ数年4%台後半から5%台半ばで推移していて、来日外国人の凶悪事件だけが突出して増加しているとはいえない」のです(「外国人犯罪は増加したか② イメージの拡散」『かわもと文庫』様)。また、

「来日外国人」による凶悪事件の増加とは、ほとんどが強盗事件の増加だといえるが、凶悪犯罪全体をみてもやはり強盗の比率が55%と突出しており、ここでも全強盗検挙人員と来日外国人のそれとはある程度の連動を示している。

とも(同上頁)。来日外国人の凶悪強盗事件の増加云々の「お話」の実態はこんなもののようです。少なくとも、平成12年から16年までは、そんな事実は見受けられません。
 ちなみに「警察庁のデータ」をみれば、平成11年から15年まで、「来日外国人の凶悪犯罪のなかで、不法滞在者のそれが増えているという事実もない。」のです(同上頁)。
 「「外国人犯罪増加・凶悪化」のウソ 」における図も参照してください。93年から06年にかけての、「一般刑法犯検挙人員における来日外国人の推移」です。グラフにすれば、こんな様子です。なんですか、この差は。

■「外国人犯罪」の実態について■
 では、外国人犯罪の「凶悪化」は実際のところ事実なのでしょうか。
 浜井浩一氏の論考「日本の治安を脅かす外国人犯罪の実態」を見てみましょう。孫引きで、「治安悪化論争?っていうかなんていうか・・・」(『女子リベ  安原宏美--編集者のブログ』様)を参照すると、
 「来日外国人による殺人及び強盗の検挙人員」は、「どちらも1990年以降上昇傾向にある」。しかし、「殺人の総検挙人員、強盗の総検挙人員の中で見ると」、強盗犯の場合、総検挙人員の上がり方が、来日外国人による検挙人員の比ではありません。言い訳しようのないくらい、「日本人」の強盗犯の方が増えています(もちろん、この時の「強盗犯」の定義に注意が必要ですが)。
 殺人の場合でも、その上下自体は対応を見せていませんが、やっぱり総検挙人員の方は、「日本人」の方がはるかに上です。殺人の場合、総検挙人員が80年代後半に下がり、92年ごろからまた少し上昇していますし、それとは別の動きとして、来日外国人の検挙人員は、98年に少し上がっていますが、また元に戻っています。
 では、来日外国人の犯罪の実態は、どのようなものか(同上頁)。

かれらの多くは、不法入国を斡旋する蛇頭に200万円以上の借金をして日本に不法入国している。刑務所で得られる作業賞預金は、月平均4000円程度であることを考えると、とても割りにあうものではない。また、彼ら不法入国者は、いつでも国外に逃亡できるように考えている人も多いが、蛇頭は、入国の面倒しか見てくれない。中国系の不法在留者が帰国するためには入国管理局に出頭するしかない。

随分、想像と違っています。むしろ恐ろしいのは「蛇頭」の組織の論理の方です。がんばって取り締まってください、といっておきましょう。

(続く)

TAG : 凶悪犯罪 来日外国人 外国人犯罪 浜井浩一 蛇頭

「来日外国人の犯罪」を問題にする前に 番外編(1)草野厚『政権交代の法則』

■来日外国人の「犯罪」■
  「来日外国人による犯罪も、過去一〇年間で二倍になったことが犯罪白書(〇七年版)からも読み取れる。」(207頁)と述べています。なんか、アバウトな言い方です。本当でしょうか。軽く調べて見ましょう。
 まず確認しないといけないのは、「来日外国人」という概念は、とても「扱いにくい概念」であり、これを「用いた不完全な統計は、情報操作の手段となりやすい」ものだということです(「来日外国人 | ジローの用語解説」『みしゅっくonline』様より)。気をつけないといけません。

■むろん、日本人の犯罪の方が多いです■
 wikipediaの「外国人犯罪」の項目では、「昭和から緩やかに増加していた来日外国人犯罪は平成10年から平成16年まで急増」したといっています。しかし、「朝日新聞と「外国人犯罪」報道。オバマとブッシュと茶化しと差別」(『多文化・多民族・多国籍社会で「人として」』様)をみると、どうもそうとはいえないようです。
 全体では、日本人の刑法犯検挙人員の方が、「来日外国人」の刑法犯検挙人員を数的に圧倒しているからです。まず先に、そっちを議論する方が優先というのが前提です。お忘れなく。
 そして、「コムスタカ─外国人と共に生きる会」の中島真一郎氏の発言、「一般的に犯罪問題でデータとして使われる刑法犯検挙人員で、『来日外国人』は2%程度、『不法滞在者』は0.4%程度しか占めておらず、その構成比は小さく、最近10年間で見るとほぼ横ばいか減少傾向にありますから、日本の治安悪化の要因とはなっていません」 というのを読みましょう(「根拠に乏しい自民党選挙公約-治安対策-」『JanJanニュース』様)。
 グラフを見れば、圧倒的です。これに関連して

外国人犯罪増加」という言い方がなされることがあります。でも「日本人犯罪増加」という言い方はされません

という言葉は至言です(「外国人犯罪は作られる!」『外国人冤罪事件から日本が見える』)。要するに、先に問題として取り上げる順序を考えましょうね、ということです。

■定義自体に限界アリ■
 犯罪における定義についても、幾つか注意も必要です。
 例えば、通常、被害者のいない犯罪が大半を占める「特別法犯」は、認知件数が不明のため、「特別法犯」と「刑法犯」を合計する「総検挙件数・総検挙人員」は使いません。なのに、「来日外国人」犯罪統計では、「総検挙件数・総検挙人員」が使われています。」(中島真一郎「「外国人犯罪」の宣伝と報道」『コムスタカ』様)。
 さらに、「検挙件数」にも問題があります。「来日外国人刑法犯」の「検挙件数」は、「日本全体の刑法犯と比べて、異常とおもえるほど余罪のカウントが多くなされて」おり、日本人に比べ余罪(ここでは、「自販機荒し」や「車上狙い」などの非侵入盗)が多く計上されているため、客観的な指標としてはつかえません前掲中村論文を参照)。「外国人の入国者数よりも検挙数の方が上昇している」云々と書いている人もいるようです。「検挙人員」があんまり変わっていないのを見忘れたようですね。計上された余罪が多いから、件数が多いのです。
 また、「来日外国人刑法犯検挙人員」も、警察の取り締まり方針に左右されやすいものです。「万引き」や占有離脱物横領(主に、放置自転車の無断使用)の摘発強化を考えるべきでしょう(少年犯罪の「増加」の原因になったやつです。前掲中村論文を参照)。ゆえに、

日本社会における「来日外国人」や「不法滞在者」による犯罪の増減を示す指標として、「日本全体の刑法犯検挙人員」に占める「来日外国人」あるいは「不法滞在者」刑法犯検挙人員の構成比の10年間、あるいは15年間など一定期間での推移で、その動向を一般的に把握する以上のことはできないと考えています。

とおっしゃるわけです(中島真一郎「「治安悪化」のスケープゴートとされる外国人」『コムスタカ』)。

(続く)


(注1) 「朝鮮籍、韓国籍の受刑者は日本国籍の犯罪者の6倍ということだ。」とかいっている某サイトがあることを、以前紹介しました。その原因について、不法入国者(「特別法犯」者)が入っているからだ、とかつて述べましたが、実際は、これが原因ではありません(こちらの勘違いです)。
 要するに、使うデータ事態に問題があります。実際は、日本に居住している以外の外国人の数を考慮するべきでしょう。直接足さなくてもいいですが、滞在時間の分を加算するなどの方法は考慮に値するはずです。
 そもそも、労働人口の割合が比較的多くなるはずの外国人居住者数の事情を無視しています。つまり、彼らが日本に来る際、独身者の割合が比較的多く(ゆえに労働可能人口はの割合は高くなる)、結婚した場合も日本人の配偶者である可能性が少なからずあるため、子供が日本国籍を取る可能性が一定度残るのです(ゆえに、労働可能人口の割合は高くなる)。「善良」な外国人の場合、帰化する可能性なども考慮されるべきです。
 労働可能人口の割合が高いということは、自ずと犯罪を犯す可能性の比較的高い年齢層の割合が、大きくなる、と理解すべきでしょう。
 せめて、後の拙稿で見るように、その点を考慮した統計を参考とすべきです。

2010/1/10 一部内容修正済

TAG : 来日外国人 犯罪 検挙件数 検挙人員

保守(ホシュ)主義へのイロニカルな礼賛 斎藤美奈子『それってどうなの主義』(3)

■教育基本法について(の続き)■
 なるほど。実に素晴らしい意見だと思います。まず、「左翼教師」に、生徒に「平素は国旗・国歌を無視する「心」を教え続ける」方法を暗に教えてやり、第十条の「教育は,不当な支配に服することなく・・・」と言う条文がまだ抵抗拠点として残存していることも教えてやる、この懐の大きさ。なんという、人間の大きさなのでしょうか。
 「国家の担う国民教育の目的は,国家の存立と不可分」という風に、一見保守主義ないしホシュ主義的なことを述べておきながら、「祖国への愛」は「他の全ての人間愛を包含する崇高な愛として把握されなければならない」、という狭量なホシュ主義者どもとは一線を画す態度です。風呂敷が大きいです。
 しかも、自らドジッ娘振りを見せ付けることで、左翼勢力どもから批判される隙間を作っておき、彼らを育ててやろうという、実に教育者の鏡たる態度です。
 では具体的に、「ドジッ娘」振りは、どこに発揮されているのでしょうか。それは、教育勅語を引いて、「国家の危急時には率先して義勇を以って国家を守る国民を育成することによって「天壌無窮の皇運を扶翼する」」と述べつつ、「キケロの考えは、我が国の教育勅語の中で述べられている人間愛の体系と同じなのである。」と述べる点です。
 確かにキケロは、「友情や親子の愛や夫婦の愛が大切なことは我々は知っている。しかし、「祖国への愛」がなければ,それら大切な人間愛も結局は無意味なものとなる。」と述べているかな、と思います。
 しかし、よく考えたら、キケロは共和制主義者のはずで、教育勅語の「皇運」重視とは相容れないはずです(共和主義と君主主義ですよ)。ここを重視しないとキケロかわいそうじゃね?、キケロなら天皇制ハンタイとかいうんじゃね?、というツッコミを左翼勢力にさせるために、からだを張ったボケないし「ドジッ娘」振りを披露したわけです。自らを踏み台にしてでも、敵の育成を買って出る、このわけ隔てない姿勢は、実に感動的です。
 この文章を呼んで感動しなければなりません。「祖国に危機が迫るときに、我関せずと逃げていれば、恋人を守ることも放棄することに」なるなら、恋人と一緒に逃げればいいんじゃね?、という突っ込みをしちゃいけないし、宮崎哲弥のナショナリズム論に比べてつまんねー、という風な説得力ある批判もしてはいけません。
 ちなみに、このブログの主は、どうやら何かの議員さんだそうで、そんな方のいる議会はさぞかしすばらしいのだろうなあ、とおもいました(棒読み)。

■男性の子育て自慢について■
 「子育て(に参加するオレ)自慢ができるのは、糟糠の妻に支えられた、恵まれた階層の男の特権だったりもするのだ」(250頁)と著者は述べています。こういう男性は、たいてい教員やマスコミ関係の職業だったり、妻が公務員や教員などの固い職業だったりするのです。要するに特権というわけです。著者は、子持ちの女はみんなやってることなのに、男性がやると特別に賞賛される現状を批判しているのです。
 もちろん、彼らの特権を批判し、廃止すればことたれり、という問題でもありません。すでに述べたように、【恵まれてるあいつらの待遇落とせ、ではなく、恵まれてない俺らの待遇引き上げろだっていいはずじゃないか】ということです。子育て自慢の男たちを黙らせる一つの方法は、子育てに参加する男性を増やすことです。そのためには、彼らの特権・待遇を廃止するのではなく、社会的な制度・システムを改変して、他の男性たちの【待遇】を引き上げることでもいいのです

 あとは、見所をダイジェストで。
 川端康成『雪国』に出てくる新潟の女たちの言葉について、著者は、「山出しの現地語」を川端が使わなかったことについて、「叙情性を壊すと考えた」のではないかという、【差別】疑惑を抱いています(325頁)。『古都』の千重子には京言葉を許しているのですから、この疑いは、ほぼ確かなものといってよいはずです。一ついえることは、川端康成の文学において、新潟弁が占める位置がないということです。
 足が25センチある田嶋陽子と、足が21センチある金井美恵子の各々の不満。から、「規格外」となる存在を排除する日本の姿勢をあぶりだす筆遣い(238頁)は、鮮やかというほかありません。「川魚は生で食べても、まな板には抗菌を求める」(126頁)という風潮批判も含めてです。
 「ブランドバッグに群がる女の子たちのことは平気でバカにするくせに」、自分たちの腕時計は「自己表現」とか言う「言い訳」(295頁)への憤りも、喝采したくなるほど素晴らしいです。腕時計がナンボのモンじゃ!

 最後に、一件余談。著者は、中学生向けファッション雑誌の文の引用に対し解説して、「ぱよっ♪(っていうのはこの手の雑誌につきものの飾り言葉ですから気にせずに)」(220頁)とあります。この「ぱよっ」というのは、某声優さんの御言葉と関係があるのでしょうか(たぶんないと思いますが)。

(了)

TAG : 教育勅語 キケロ 子育て 川端康成

自然離れと教育基本法 斎藤美奈子『それってどうなの主義』(2)

■自然離れについて■
 通常、子供の自然離れの原因としては、子供の周りの自然の少なさが、よく指摘されていました。しかし、著者は、岡田朝雄氏の意見を引いて(192頁)、次のように言います。「1970年代以降、列島改造論によって開発が進むとともに、「生き物を捕ってはいけません。観察するだけにしましょう」というキャンペーンがはじまった」、と。
 要するに、自然保護の運動が、かえって子供から自然に接する機会を減退させたというわけです。このような意見は、昆虫採集の推進派、あるいは擁護派によって唱えられる言説のようです。真偽のほどは、虫については詳しいとは言いがたい身の上ですので、今回は、「日本昆虫協会」のホームページを紹介するに留めて、話を終えたいと思います。無論、トップページになど、リンクしませんが(このふざけた理由については、こちらをご参照ください)。

■教育基本法について■
 教育基本法にある「態度」という表記について、「心は外から読めないが、態度は目で見てチェックできる」から、「態度」は「心」よりたちが悪い(122頁)とも述べています。単語レベルの違いでも、これだけ違うのです。
 で、ウェブの意見を見てみると、「態度を養う」という表記についていろんな意見がある模様です。基本的に、「態度を養う」への批判は、例えば、
 ①「この「態度」っていうのは誰が判断するのか?/国家にとって態度が悪ければそれは罰せられるということなのか?/例えば、「君が代を元気な声で歌う」ことや「天皇陛下万歳と叫ぶこと」が、「わが国の郷土を愛する態度」って決められてしまえば、そこに逆らうと罰せられるということなの?」という、『つぶやきいわぢろう』様のご意見。
 ②「「態度を養う」という規定によって、心の中にまで国家や行政が入り込んでくることになります。」という、俵義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)氏のご意見。
 以上、このような意見があるようです。前者は、国家の恣意的な判断を疑い、後者は、「態度」への介入を通じた「心」への国家への介入を警戒しているようです
 『眞悟の時事通信バックナンバー』様は、別の理由で批判をしているようです。
 まず、自身が出席した検討会での意見を挙げます。どうやらこの会合のメンバーは、「態度を養う」の表記について、「「教育の目標」とは,そういう「態度」をさせることであって「心」とは別物だということにならないか。」と警戒しているようで、「卒業式で左翼教師が生徒に国旗・国歌を尊重する「態度」をとらせるが、平素は国旗・国歌を無視する「心」を教え続けることも,「教育の目標」に適合することになるではないか。」と述べ、「左翼」の行動を警戒していることが伺えます。
 さらに、第十条の「教育は,不当な支配に服することなく・・・」という文言についても、これを「楯にして、例えば左翼的偏向教育も,それを是正しようとする意見は「不当な支配」として排除して続けることができたのである。」という風に不満を漏らしている様子です。
 で、このブログの主様のご意見は、「国家の担う国民教育の目的は,国家の存立と不可分」というもので、「改正案は、この教育と国家の運命との不可分の関係を押さえていないので,教育における「国を愛する心」の位置付けができていない」というお考えのようです。
 そんで、キケロの意見、「友情や親子の愛や夫婦の愛が大切なことは我々は知っている。しかし、「祖国への愛」がなければ,それら大切な人間愛も結局は無意味なものとなる。」を引いて、「現在の我が国においても、「祖国への愛」は他の全ての人間愛を包含する崇高な愛として把握されなければならないと思う。」と述べています。
 では、これに対して、検討しましょう。

(続く)

TAG : 自然離れ 昆虫採集 斎藤美奈子 教育基本法

「あいつの待遇落とせ」ではなく、「俺たちの待遇上げろ」 斎藤美奈子『それってどうなの主義』(1)

斎藤美奈子『それってどうなの主義』白水社 (2007/02)

本書の内容については、『一本釣り BOOK&CINEMA』様も書評されています。
 本書は、文の集成ですので、その本から何を取り上げたかで、その人の興味なども分るかと思います。ちなみに、先の評者は、次のように書かれています。

「拉致と連行」「空襲と空爆」といった硬い話題から、芸能人の結婚会見で聞く「奥様の手料理」は?、(女なら当たり前なのに)育児をするパパになると「翔んでる男」になる不思議とか、新潟出身の彼女ならではの「桜の咲かない入学式」「雪国はつらいよ」などハっとする視点が書かれている。

では、本ブログも、選んで何か言ってみることにしましょう。

■国旗掲揚について■
 国旗掲揚は通常日の出から日没までだし、学校の入学式とかで、校長が登る壇上の壁に張ってある日の丸も、「不敬千万」(15頁)と指摘する著者は、「世界中の国旗・国家(原文ママ)に対するマナーとルールを先に教えたらどうなのか」、「学校に強制する前に、身内である官公庁の旗の揚げ方を見て回ったほうがいいと思うぞ」(16頁)と、ルールもろくに知らない【ホシュ】どもを批判しています。
 間抜けな自称保守など【ホシュ】の一言で十分でしょう。【サヨ】という蔑称もあるわけですし。常識と教養のない自称保守どもは、以後、【ホシュ】と呼ばせていただきましょう。広まることなどないと思いますが。
 ちなみに、国旗掲揚の方法については、「国旗掲揚方法」という頁が、参考になるはずです。こちらも参照

■原子力問題について■
 著者は、まず、原子力の事故の場合、その被害が市町村を超えるのに、名前に惑わされ、「対岸」のことに思えてしまう自体を指摘した後、原発に反対する人々への提案として、【東海村OO】という名前ではなく、【茨城OO】などと呼ぶことで、より当事者意識を引き起こす戦略を語っています(136頁)。

■公務員バッシングについて■
 「市の職員にスーツ代を支給したといって怒るけど、それを盾にとれば、私企業の営業マンのスーツ台こそ会社が負担しろよ、という理屈だって成り立つ」(103頁)と指摘しています(実際にやってる企業もあります)。著者の言いたいのは、【恵まれてるあいつらの待遇落とせ、ではなく、恵まれてない俺らの待遇引き上げろだっていいはずじゃないか】ということです。
 こんな風なことをやるのは、自分より待遇いいやつを、引きずり降ろそうとすることに比べ、待遇良くないやつらが団結なり協力するなりして、自分らの待遇を引き上げようと努力するより難しいからでしょう。ニーチェのルサンチマンの縮小版と見るべきなのでしょうか。
 前項では、名前さえ変われば、結構それにかかわる人の意識も代わるということを述べていました。それを、この話題にも適応しましょう。
 公務員へのバッシングの問題が持ち上がるのは、要するに、公務員を叩いても、自分の待遇は下がりこそすれ上がることはない、という意識が、叩く側に欠けてしまっているからでしょう。少なくとも、叩いているときには、それを忘れてしまうからでしょう。
 公務員と、叩く人々との間に、何か当事者意識を生起させるような(団結してみんなの待遇を上げていくという意識を持たせられるような)、そんな名前はないでしょうか。労働者?国民?市民?どれも難しいかも。
 これには、新しいことばが必要です。正直今のところ思いつきません。国民というのが、一番手っ取り早いのですが、このことばは、「国民」ではない外国人労働者を排除する可能性も秘めています。もっと包摂可能な概念が求められます(、というわけでこれを現在募集中です)。
 もちろん、当事者意識を持てるような、団結意識を持てるようなことばを作ったところで、単純に問題は解決しません。しかし、これは始まりの一歩となるはずです。

(続く)

TAG : 斎藤美奈子 当事者 国旗 原子力 公務員 バッシング

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。