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小津・ゴダール・女たち 蓮實重彦『映画論講義』(2)

■小津は躍動する■
 試みに、「無声映画と都市表象 帽子の時代」という章を見てみるとどうなるか。この章では、映画における帽子の位置づけを、グリフィス、バルネット、フォード、ムルナウらの映画における帽子をたどることで探求しています。無声映画が、大衆社会が成立しつつある都市を帽子で表象しており、それがトーキー出現以降なくなっていったのは、大衆社会自体の爛熟によるものだ、と要約できる本章において、小津作品が出てきます。
 そのひとつ、『その夜の妻』では、和服姿にソフト帽をかぶらされる妻が描かれており、この取り合わせは、著者が「痛ましい」というジャネット・ゲイナーのかぶる田舎じみた帽子以上に、本章の作品の中で特異なシーンとなっています。名監督たちの映画のなかで、一際畸形なものとして目立っているはずです。
 「「白壁のゴダール」から「ランプシェードのゴダール」へ」という章でも同じことが言えます。60年代のゴダールが、陰影のない白壁を頻出させ、ソフト帽を女性の頭に乗せ続けたのに対して、80年代のゴダールは、陰影をもたらすランプシェードへを登場させるようになり、ソフト帽を女性のではなく、ゴダール自身の頭へのせていく、と要約できる本章でも、小津は登場します。
 ゴダールよ、お前より先に、すでに女性の頭に男性もののソフト帽をかぶせた映画監督がいるのだ、と。ゴダールの、光源と帽子をめぐる本章において、小津はやはり特異点となっています。ゴダールのランプシェードについて、それに惹かれた人間としては、もっと多く言及したいのですが、ここではそれを自粛しましょう。
 ともあれ小津映画は本書において、時に畸形な、時に先駆者的な存在として振舞っています。「ある場違いな「出会い」について 賈樟柯の『世界』に触発されて」の章では、小津映画の音楽までもが、賈樟柯の映画に出現することに言及されているのですから、本著での「小津」という存在の、章を跨いだ躍動振りには眼を向けるべきでしょう。
 さて、では、本書ではどのように小津は扱われているのか。小津映画について「小津安二郎とその「憤る女性たち」」の章では、娘を嫁にやるという「父」の立場ではなく、嫁にやられる「娘」の立場から読み解いています。著者は、それを映画の画面を見ることに忠実になることで、遂行しているのです。娘が布きれを首筋から振り払うとき、その「憤り」が見えてくる。
 この細部は、「父」の映画が、「娘」の映画でもあることを、教えてくれるのです。それは、この細部が、はっきり映画のプロットに関るというよりは、プロットの進行の上で見えにくくなる性質のものであるため、著者さえもなかなか気づかなかったものでした。しかし、このような運動的細部があるからこそ、映画は人をひきつけるのです。
 また著者は、小津作品に登場する女たちの、ものを拾い上げる動作が、身体的優位を誇示するものだとしています。女が男の着ていたものを拾う動作を、たやすく男女差別だといってしまっては、映画を見たことにならないのです(そのはしたない振る舞いは、著者が本著のインタビューで述べていた、「現実」や「表彰不可能性」をばかりつぶやくことと同じで、はしたないのです)。映画を見ることとは、自分が抱いてしまう先入観を、自分の瞳によって突き破る試みにほかなりません。
 本著での、「小津」という存在の章を跨いだ躍動振りに応答するかのように、小津映画の女たちは、眼を凝らせば、小津映画への先入観を覆すような躍動する運動を行っています。本著において、「小津」は躍動しています。

(続く)

TAG : 小津安二郎 蓮實重彦 映画論講義 ゴダール

「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」と葛藤の気配 蓮實重彦『映画論講義』(1)

蓮實重彦映画論講義』東京大学出版会 (2008/9/27)

 本著は、『整腸亭日乗』様が述べているように、30年前の『映像の詩学』のリメイクとして捉えることのできるだろう「口語篇」です。
 もちろん、「シンポジウムや講演会のほとんどが、DVDやVHSによる作品の抜粋上映をともなうもの」であり、「いささか「講義」めいたもの」だというのですから、「著作」という表記自体、その点で不実ですが、一応これが「書かれたもの」である以上、これ以降「著作」の表記をさせていただきます。

ジャック・ベッケル擁護、または複数の葛藤■
 まず著者は、序章である「「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」について 映画史のカノン化は可能か?」の章で、近年の若い観客から、映画史家や批評家まで、映画的・映画史的な知識への無知が蔓延していることを語り、それへの対抗として、映画史的「カノン」(絶対に映画においてみておくべき古典的作品)を提示すべきかどうか、を問うています。
 それに対して著者は、「何かによって権威づけられている作品をみて、無数に存在している作品の中からしかるべき数の作品に限定し、それを自分の周りにおいて置けば安心だと思うような風潮」(11p)を指摘し、問題は映画史的な知識への無知以上に、一つの権威に安住して、それで事足れりとすることの方により根深い問題を見ています
 「複数の声が欠けると、たった一人の人間の言葉に反発したり、その言葉を頭から信じてしまったりという貧しい状況に陥りかね」ない(14、15p)のです。
 だからこそ著者は、息苦しさを開放するためには「カノン」は提示するなんてことをしちゃいけない。複数の視点(著者にとっての、南部圭之助、植草甚一、飯島正の三名!)に触れることで、それによって自分の強張りから解放されることが重要だ、というのです。共闘ではない、複数の声によって。
 著者もまた、複数の声のひとつとして、こちらを扇動してきます。「ジャック・ベッケルを擁護せよ」、と。ジャック・ベッケルへの世界的な無視に対し、著者はいらだちながら、このベッケルに対する連綿と続いた事実上の批評的無視を指摘します。生誕100年でも、本国はベッケルについてほとんど何もせず、そこで、自分自身が、しかも日本で、国際シンポジウムを行うこととなります。
 かつて著者自身が、先に挙げた批評家たちから、ハワード・ホークスを肯定してもいい、アメリカでのフリッツ・ラングを肯定してもいい、と学んだ体験と同じように、私たちに、ベッケルを素直に肯定してもいい、と呼びかけるのです(ただし、著者の声は、いつにもまして「どす」が効いています)。「ジャック・ベッケルの旗のもとに」という文章で、彼の作品に偏在する、「平手打ち」の主題を論じながら、それを行います。
 蓮實重彦は、複数の声のひとつとして、こちらに、向かってくるのです。
 もちろん、蓮實重彦はそんなに甘くありません。彼は、なによりも、教育的な「抑圧」の人でした。彼の映画への厳しさは、本著の青山真治との対談で、いかんなくさらけ出されています。複数であることとは、無差別とは別なのです。
 少なくとも、「複数の視点」とは、映画に関する秩序を形成するのではなく、映画に関する葛藤を投げかけるもののことでしょうから、「複数の視点」がこちらに与えるのは、「権威」による安住ではなく、諍いのはじまりに他ならないはずです。「複数の視点」とは、それを受け入れるか否かを問う暴力的葛藤を生むものでもありますし、それを肯定したとしても、ほかの人との間に闘争的な諍いを生むこともあります。著者は、いつでも、このような葛藤を生む扇動を行っています。
 「「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」について」の章での言葉を、まともに受け取ってはならないのです。ベッケル擁護も含め、本書の言葉にはどれをとっても、待ち受ける葛藤の気配が漂っています。

■安住なき動体視力
 また、著者は映画史的な無知・教養のなさを肯定しているのではありません。著者は、「リアルタイム批評のすすめ」というインタビュー記事(ネットで見れます)で、「映画においてはデジタル化が進みどの時代の作品でも観られるという幻想に冒されつつあるが、たとえばプリントが消失してしまった作品は観られない」として、「知らない作品があるということに人々は楽観的になっているとする」と批判します。
 見たい映画を見るために自ら動こうとしない、この不幸を著者は指摘しています。「現在は、自分がまだ何を知らないかということを知らないまま生きてしまうことが可能な時代なのだ」というその声は、やはり「権威」という語彙には収まりきらないものです。映画とかかわることにおいて、「安住」など縁の遠い言葉なのです。
 だからこそ、「「自分はホークスを知らない」とあるとき思い立った人がホークスを見ることができれば、それはすごく刺激的な体験だ」と著者は言うのであり、本著は、ハワード・ホークスを、ジョン・フォードを、ジャン・ルノワールを、小津安二郎を、溝口健二を、グル・ダットを、ダニエル・シュミットを、クリント・イーストウッドを、彼らを擁護し、彼らの映画へと人々を扇動するのです。
 その方法はいうまでもなく、著者自身さえ完全には理解していない映画というもの、無数の細部からなっているこの存在の、せめてある細部に触れていくことで、その映画を目覚めさせることです。映画の「動体視力」による擁護、これにほかなりません。

(続く)

TAG : モンゴメリー・クリフト 蓮實重彦 複数 映画論講義 ジャック・ベッケル 動体視力

物語から少し離れて 蓮實重彦『文学批判序説』(3)

 著者にとって、物語でない、物語から逸れてしまう要素とは何でしょうか。それは、「虚構の磁場」の章で語られていた、「日常言語」と「詩的言語」に明確な境界線などなく、せいぜい、「事件として環境を垂直に貫くできごと」だけがある、という言葉であるはずです。例えば、「物語」に偽装して密かに「物語」そのものを「骨抜き」にしていく上記の優れた小説を読むときに、「事件として環境を垂直に貫くできごと」が現れるでしょう。
 それにしても、本書で、お褒めの言葉をいただくのはほとんど、小説、あるいは、小説家のエッセイ・批評、批評家の小説です。なんとまあ、批評家の批評は損な役回りを果たしています。ある意味、それは、蓮實自身の「批評」にもいえることで、小林秀雄にも吉本隆明にもいえることです。
 もちろん、蓮實はそのことに気づいているのであり、『映画 誘惑のエクリチュール』にも書いていたように、きまって批評は敗北するのです。ただ、小林や吉本と違ったのは、本書が「物語」への怖れと畏れと誘惑(!)に自覚的に書かれていることであり、それが、本書が、「読みにくい」といわれたとしても、決して「退屈」ではない理由なのです。

(了)

(どうでもいい追記)
 ネットを見ると、いくつか蓮實の小林秀雄論に対する言及が見られます。例えば、「蓮實重彦をこえて~宮岡秀行ロングインタビュー」では、「小林秀雄の文体に潜む権威主義を、『本居宣長』を例にとりながら、「通俗性」という言葉を小林に投げつける蓮實さんの身振りから、自己の優越性を主張しようとする病を、蓮實重彦自身も共有してしまっている」、「つまり、何かを肯定するために何かを否定する身振りが、好きではないんです。」という発言が見られます。
 果たして、蓮實の身振りから「自己の優越性」を見出せるのかどうかは、疑問です。この小林秀雄論は、否定というより、単なる駄目出しでしょう。第一、小林のことを蓮實は、優れたベルクソンの読み手とさえ述べているのです。要するに、小林に対し、ベルクソン論での勢いはどうした、と述べているといえるでしょう。これは吉岡さんの考えすぎです。
 もうひとつ、「2006-03-05 小林秀雄の宣長論」『整腸亭日乗』様)では、「『本居宣長』は円環的構造を持っており、冒頭から読むべき書物で、仁斎や中江藤樹、さらに徂徠についてかなりの頁を割いているのは、それなりの必然性があることを、あえて排除している。」と述べています。
 もし円環的構造なら、冒頭から読まなくても、いつでも始まりと終わりにたどり着けるのですから、別にどこから読んでもいいはずです。蓮實が嫌ったのは、その(ヘーゲル的な?)円環的構造そのものだと解することもできるでしょう。また、「仁斎や中江藤樹、さらに徂徠についてかなりの頁」を無視したのも、単に必要がないからでしょう。蓮實の小林論は、つまるところ、お前の修辞はつまらん、という一言で乱暴に要約できるのですから。
 さらに、「『本居宣長』はテクストではない。「テクスト」なる表現は、現代的「からごごろ」であることは、小林秀雄の読者なら誰もが知っている。」という文ですが、蓮實は小林批判のなかで、「テクスト」という言葉を一回でも使ったことがありましたかどうか。仮にあったとしても、上記のとおり、蓮實の小林論は、「お前の修辞はつまらん」の一言であって、「からごこころ」云々はどうでもいいのです。「対象と同化する姿勢、つまり己を消す=無私の精神ではじめて「古学」に接近することが可能となる。」という通俗性に、蓮實の物語論は抗っていたはずなのです。

(了)

TAG : 小林秀雄 蓮實重彦 本居宣長

小説論≒物語論 蓮實重彦『文学批判序説』(2)

 物語を人が語るのではない。物語が人に語らせる。人はこのとき、客体であり、間違っても主体などではない。人はそこから逃れられない。だから物語に従順に振舞いながら、その関係の「あやうさ」を現出して見せること。中上健次と後藤明生は、そんな物語自体を模倣しようとする「倒錯的」な方法を試みた。
 では、ほかの作家はどうでしょうか。「物語」の視点からみて、古井由吉はどうでしょうか。「翳る鏡の背信 古井由吉の『水』をめぐって」の章は次のようにいいます。古井の作品に出てくるのは、「死」を迎える、といういかにも「物語」的出来事ではなく、「死からはいつも拒絶され、死と歩みをともにしえない無力感」ばかりだ。死は、「「物語」のあいまいな間接性しか持たず」、「恐ろしいほど遠くのできごととしてある」のに、「不実な「鏡」の反映によって」「近さの錯覚を呼びさます」。
 古井作品でも、「死」という物語的存在は、遠い距離をもった存在のまま、しかし、それと離れつくすこともできません。古井は物語に対して、あいまいで不安定な距離をおき続けることで、応対します。
 宮川淳はどうでしょうか。『宮川淳著作集』への書評で著者は、「ブリコラージュ」や「引用」という「全体化(分析と総合)」を拒絶した「断片」の、「荒唐無稽な複数性の戯れ」を肯定する姿を評価しています。しかしその一方、詩や絵画を論じたのに、小説や映画は論じなかった点も、指摘します。著者は、「小説や映画」の潜む「物語」の不純さに、宮川はついて行けなかったのではないか、といいます。
 中村光夫はどうか。中村光夫『ある愛』への書評の中で著者は、彼の小説がいかにも批評家の小説だとでも言うような批判がされるのに対して、「小説らしい小説がもっともらしく書かれ、また読まれ続けている風土としての日本文学を、鋭く批判した」と言ってのけます。巷の「小説」のいかにもという感じの「日本文学」への収まり具合をこそ、中村は批判しているのだ、と。もっともらしさこそ、「物語」そのものです。
 物語は「説得」します。なぜか、物語とは、「絶対」的なものではなく、「相対」的な言葉を媒介として行き渡るものだからです。「小林秀雄『本居宣長』 方法としての嫉妬」の章は、六〇〇頁を通してひたすら宣長について「説得」し続ける小林秀雄を批判しています。著者は、小林の使う修辞に目を配って、「相対」と「絶対」の対比を主旋律として、ポール・ド・マン的(?)批判を加えます。
 「絶対」的なものなら説得などせずともよいはず、なのに、修辞的技巧(「宣長といふ謎めいた人」、「伝説の肉体」)や否定的な媒介者(宣長のことを「誤解」する人々)を持ち出して、読者を説得にかかるのは、小林の言う内容がどこまでいっても、「相対」的に過ぎないからだ。この、書かなくてもよいことを書いてしまった小林秀雄は、「説得」をすることで、「物語」を語ってしまったのです。
 吉本隆明の著作二篇への批評では、「媒介」と「無媒介」という、「相対」と「絶対」とをキイワードに、惜しいところまでいったのに、ドゥルーズに追い越され、「批評」に追い越される吉本の後一歩の様子が描かれています。

(続く)

TAG : 古井由吉 蓮實重彦 中村光夫 小林秀雄 本居宣長

「物語」批判、または書物の退屈さについて 蓮實重彦『文学批判序説』(1)

蓮實重彦『文学批判序説 小説論=批評論』河出書房新社 (1995/08)

 書物は「読もうと思えば誰もが読めてしまう」退屈なものである、と「物語=書物=文学」の章は述べます。当時でも現代でも、おおよそ世の中が、読みにくいものを嫌い、読みやすいものをありがたがる世の中にあって、著者はそういいます。これはなぜなのか。
 「読もうと思えば誰もが読めてしまう」のは、それが、「物語」そのものだからに他ならない。「物語」によって、語っている人間が、読んでいる人間が、支配されてしまうからだ。そのように、「物語としての法 セリーヌ、中上健次、後藤明生」の章は述べます。書物の退屈さとは、物語の退屈さに他ならない、と。
 物語を人が語るのではない。物語が人に語らせるのだ。人はそこから逃れられない。打ち勝つことなどできない。物語の勝利は、司法の場や、権力の場にさえ響き渡っている(「権力」さえも「物語」に従属する!!)。物語は決まって勝利する、と。
 人は語るのではなく、物語に、言葉に、語らされる。これをひとつの主題として、本書はつづられていきます。セリーヌは物語の犠牲者そのものだった。ではどうしたらいいのでしょうか。
 勝利・敗北という、支配・被支配関係の転覆によってではなく、あくまでその関係に従順に振舞いながら、その関係の「あやうさ」を現出して見せること。例えば、中上健次と後藤明生は、そんな物語自体を模倣しようとする「倒錯的」な方法を試みます。すなわち、「物語の他動詞的な圧制を模倣」することで、戦略的に応対しようとするのです。
 本書は、この二人の作家を特権的人物として遇します。例えば、「中上健次論 物語と文学」の章を見てみましょう。
 片や、女陰や河川のごとき「密着」と、片や男根や焔のごとき「距離」という、中上作品に一貫する二つの記号に、引き裂かれていく『枯木灘』の主人公は、片や、甘美ながら息苦しくもある「密着」する言葉・物語や血縁に犯され、片や、不可視ながらあたりに偏在する視線と噂・物語の「凝視」に犯されます。そして、この二つの間で中吊りになって荒れ狂うしかなくなります。
 彼は、自然との無媒介な合一によって、なんとかこの二つをやり過ごそうとしますが、あえなく、近親相姦と父親殺しという「物語」に捕縛されます。やがて、「父」の物語から息子「秋幸」の物語へと譲位が完成し、やはり物語が勝利します。反復される物語の暴力性を語る主人公が、物語に暴力的に犯されていく、この痛ましさに著者は目をそぐのです。
 一方、「『挟み撃ち』、または模倣の創意 後藤明生論」の章はどうでしょうか。後藤の『挟み撃ち』では、物語自体を模倣することで、物語にお決まりの「欠落の提示とその充填」、すなわち、喪失したものが回復するというあのお決まりのプロットを回避しにかかります。これも確かに物語だが、そうたやすく物語の勝利に貢献などしてやらない。記憶の「空白」は埋められようとするが、埋められないまま、逸脱と回避ばかりが続いて、「空白」の周りを迂回するだけです。
 この二人に、著者は「物語」への「抵抗」(という風にいってしまうと、これもいかにも「物語」に似てしまうのですが)の実践を見るのです。物語の支配からの、「卒業」も「退学」もしないこと、せめて、物語の支配から「遅刻」をすること。

(続く)

TAG : 物語 蓮實重彦 中上健次 後藤明生 挟み撃ち 枯木灘

『反=日本語論』は志賀直哉を救う 安藤健二:『封印されたミッキーマウス』(3)

 確かに志賀は、「日本の国語が如何に不完全であり、不便であるか」を「四十年近い自身の文筆活動」の中で「痛感して来た」と述べてます。
 しかし、そんな不完全なはずの言語に四十年近くも付き合うことができたのですから、「無上」というのはいいすぎでしょうが、「快適な環境」という蓮實の表現は、適切というべきでしょう。そもそも、あらゆる文学者を含む言語の使い手は、自分の言語の不完全さに思いを抱くことがあるでしょう。志賀のこのぼやきは、贅沢者が、もっと高級な物をほしがる様に似ています。蓮實の主張は、「欠如」(およびその「充填」)ではなく、「過剰」を肯定した彼自身に相応しい主張なのです。「日本語で良い文章が書け」ても、「フランス語で書」きたいとつい思ってしまうことは、十分ありえます。また、そもそも「文章」や「文学」において、「良い」というのはどういうことなのか、そういった点をまず検証すべきでないでしょうか。
 さて、森有礼が「一挙に日本語を廃棄しようとした」、という大杉の主張については、別の機会に検討しますが(直裁にいえば、この指摘は大杉の無知によるものです)、いずれにせよ、大杉の蓮實への批判は、妥当とはいいがたいようです。
 だとすれば、蓮實の主張に対して指摘せねばならないことは何か。それは、志賀の荒唐無稽ぶり自体ではなく、その不徹底ぶりです。
 フランス語を公用語として選んだ理由を、フランスという国の文化の進歩度で決めてしまったのは、諒恕できなくはありません(現代において、この理由によってフランス語を肯定する人は少ないでしょう)。また、かれが、「私自身は今の国語以外には出られない」としてフランス語を使うつもりがないことも、諒恕しましょう(志賀の主張を「夢」とする蓮實の主張は、これによって補強されるでしょう、出ないと救いようがありません)。
 しかし彼がフランス語を、「尺貫法」や「メートル法」の比ゆを使って、「小学生の教育」への配慮を始めてしまったとき、「夢」を見る人・志賀は、教育評論家・志賀へと変貌します。あくまで、「尺貫法」や「メートル法」という、「ものさし」としての言語の側面ばかりを見るにわか評論家志賀は、フランス語と日本語との荒唐無稽で突拍子もない夢の遊戯に、考えを及ぼしえないのです。かれはそのとき、「夢」を見忘れたのです(はっきり言ってしまうと、志賀は真面目ぶって、つまんないのです)。
 では、「夢」を見忘れていた男を救うのはなにか。それは、たとえば藤枝静男の「コウゴウのキンタマ」であり、『反=日本語論』において、"chercher"という言葉を言い換えるのに、「迎えに行く」ではなく、「探す」といってしまった子息・重臣の振る舞いでしょう。日本語内の、またはフランス語と日本語との、荒唐無稽で突拍子もない言葉の夢の遊戯が、志賀の不徹底さを救うのです。
 志賀の「夢」、ことによったら志賀自身さえも気づかなかった「夢」は、藤枝の小説の一片や、蓮實の息子の言葉によって、顕在化したといえるでしょう。その意味で、『反=日本語論』とは、荒唐無稽な夢を忘れた志賀を、ほかの言葉や登場人物たちが救う「救済」の書でもあるのです。要するに、志賀直哉をこうしてイジり倒した蓮實は、優しい人なのです。

(了)

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TAG : 志賀直哉 蓮實重彦 丸谷才一 大杉重男 反=日本語論

蓮實重彦による志賀直哉擁護 安藤健二『封印されたミッキーマウス』(2)

 Wikipediaでは、蓮實重彦が志賀を擁護している、と説明がありました。具体的には、どのようなものだったのでしょうか。鈴木や丸谷が志賀の主張のずさんさに対して真面目に反論したのに対し、蓮實は、そのずさんともいうべきところを擁護します。
 残念にも、手元に、蓮實が志賀を擁護した一章を含む『反=日本語論』がありません。ですので、今回は、あるブログでこれに言及しているものをもって、蓮實の主張の代用とさせていただきます(「わかれゆくゾケサたちのドゥバド」『クマカカの架空の楽器庫』様より)。
 蓮實は、藤枝静男の小説『欣求浄土』の、主人公の幼年期のエピソードに言及します。その内容は、

「金剛石も磨かずば/珠の光は添わざらん」とはじまる歌をコウゴウのキンタマをうたったものだと思いこんでいた」(「わかれゆくゾケサたちのドゥバド」)

というものです。そして蓮實は、上記のエピソードに触発されて次のようにいうのです。 

「われわれの日々の言語体験は、知識と無知、正確さと誤謬、理性と非理性、正常と狂気といった、ただもううんざりするほかはない二元論そのものを遥かに超えた豊かな混沌としてあるはずなのに、あたかも、それが知識による無知の充填、正確さによる誤謬の修正の場であるかに事態が進行して」しまっていることを指摘したいだけなのだ、と。(「わかれゆくゾケサたちのドゥバド」)

そして話題は志賀のフランス語公用語論に移ります。
 

蓮實は、「荒唐無稽」な志賀の日本語放棄論を「飽きたからでも、厭けがさしたからでも、不便だと思うからでもなくそれを無上に快適な環境として住みついているが故に、あるとき「日本語」ならざるもののさなかで目覚めてみたいと思う書く人の夢」として肯定するのだ。(「わかれゆくゾケサたちのドゥバド」)

 日本語に「無上に快適な環境として住みついているが故に、あるとき「日本語」ならざるもののさなかで目覚めてみたいと思う書く人の夢」として、志賀の荒唐無稽さを肯定するのです。
 確かに、蓮實の藤枝静男への言及は心を打ちます。(注1)
 しかしながら、志賀の発言を読むと、蓮實の発言を完全には首肯できません。では、肯定できない点は、どの点でしょうか。
 その前に、一度、批評家である大杉重男の志賀、丸谷、蓮實への批判を見ていくことにしましょう。(大杉重男/森有礼の弔鐘──『小説家の起源』補遺(抄))。
 「朝鮮語を日本語に切換へた時はどうしたのだらう」という志賀の主張を丸谷才一は批判しています。この志賀批判に対し、大杉重男は、丸谷の反論の不用意さを指摘しつつ、こう述べます。

現実に何世代かに渡る強制的な教育があれば、人はある言語を捨てて別の言語に移り得る。志賀の言葉が示しているのは、今ここで日本語を使っていることの根源的偶然性である。この偶然性は英語や朝鮮語やフランス語その他どのような言語を使っている人々にも等しくつきまとっている。

つまり、言語という、私たちにとってたやすくは他の言語に切り替えがたい存在も、しかし、時間・世代を経れば、自発的・強制的にかかわらず、移り変わりうるのです。この点の指摘は示唆に富みます。
 では蓮實への批判はどうでしょうか。大杉は、先の蓮實の主張を批判し、次のように述べます。

志賀は「日本の国語が如何に不完全であり、不便であるか」を「四十年近い自身の文筆活動」の中で「痛感して来た」と述べているのであり、日本の国語を「無上に快適な環境として住みついている」のではない。



(続く)

(注1)藤枝静男に対する蓮實重彦の批評については、「蓮實重彦」(『藤枝静男 年譜・著作年表』様)もご参照ください。

TAG : 志賀直哉 蓮實重彦 丸谷才一 大杉重男

志賀のフランス語公用語化論 安藤健二『封印されたミッキーマウス』(1)

安藤健二『封印されたミッキーマウス 美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード』洋泉社 (2008/05)

 この本についてはすでに、優れた書評が存在しているので(たとえば、『積ん読パラダイス』様など)、ですので、今回はあまり言及されない内容について書き記そうかと思います。
 封印された12のエピソードを取材したルポからなるこの本ですが、ウェブ上で取り上げられるのは、「捏造された日本人差別 タイタニック生還者が美談になるまで」の章と、「ミッキーマウスのタブー 大津市プール事件と著作権問題」の章ばかりです。
 ほかの章は、短かったり、著者の既刊の本と内容が重複しているために、言及されないのだと思います。今回は、この本の中でも、「封印」というほど知られていないわけではない志賀直哉のフランス語公用語論を扱った章を取り上げたいと思います。これは、本の最後の章にあたる「「フランス語を日本の公用語にせよ!」 志賀直哉の爆弾発言を追って」で取り上げられています。
 Wikipediaの志賀の項目では、この話題が出てきています。

 日本語を廃止してフランス語を公用語にすべしと説いたこともしばしば批判されている。批判者の代表として丸谷才一を挙げることができる。これに対して蓮實重彦は『反=日本語論』や『表層批評宣言』などの中で志賀を擁護した。


 では、本書ではどのように、志賀のフランス語公用語化論は取り上げられたでしょうか。
 著者は、志賀を扱ったこの章で、実際の志賀の問題の文章「国語問題」を原文で読み、言語学者の鈴木孝夫や「評論家の丸谷才一」の志賀への批判を紹介し、さらに、一貫して志賀がフランス語公用語化論を展開していた事実を突き止め、「国語問題」発表時の志賀の他分野への論旨のむちゃくちゃなエッセイを紹介しながら、最終的に「なぜ志賀がこんなことを言ったのか」という問いについて解答を出さないまま文章を終わらせます。そこから浮かび上がるのは、志賀の無茶で無責任な発言振りばかりです。

(続く)

TAG : 志賀直哉 蓮實重彦 丸谷才一

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