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健康優良児たちは、戦争へ行った -北澤一利『「健康」の日本史』を読む(後編)-



 西欧の解剖図。
 こういうのは、一般的にたくましく均整のとれた身体が描かれるもの。
 これは、特定の人物を標本にしたものではなくて、人間を代表するモデルなのだという(137頁)。
 というのは、解剖図における身体は、人の個人差等の要素を完全に取り除き、全ての人間に共通する特徴だけを抽出して記録しないといけないからだった。

 その共通の特徴だけを抽出しても、別に、もっと太ってたり痩せてたりした身体を選んでいいはずなんだけど、あえて均整の取れた身体を選んだってわけだw
 西欧的な理想の身体ってのは、こういうものだった。(古代ギリシアとかの彫刻の影響かしら。)

 マネキンとかも、そういう思想に基づくのね。



 徴兵検査、そこでは当然、合格しないためにごまかす人間が現れる。
 明治8年の徴兵検査規則から既に、「詐術」といって、病を偽る受検者の問題に触れているほどだ(190頁)。

 その「詐術」のなかで一番手軽かつ多く行われたのが、視力を偽ることだった。
 陸軍では、それらの「詐術」に対して、「看破法」というマニュアルを作成していた。
 
 効果的なものとして、例えば「癇癪」を偽る人間に対してのもの。
 それは、「本当の癇癪の場合、パシチンソン氏がスコットスヌナッフの粉末をひと匙鼻孔に吹き入れると激しく噴しゃする療法があるから、ただ、激しい疼痛を生じて一日危篤に陥るような療法なんだけど」と受検者にウソを言う方法。
 こういうと、病気を偽った人間なら白状するだろう、というわけだ。
 難しい医学用語を使って脅すこの方法、結構使えるかもね。

 ちなみに、視力を偽る人間に対しては、焦点距離が異なるめがねをかけさせて、結果を見る。
 近視を偽る人間ならどんな反応をしたらいいか戸惑うためだという(193頁)。



 日本近代において剣術を救ったのは何か。
 それは西南戦争だった。

 この戦争において官軍の主力となったのは、徴兵軍だった。
 しかし政府はこれを補うため、地方で職にあぶれていた士族を警官である「巡査」として採用する。
 これを前線の薩摩兵と戦わせた。
 で、戦争後、多くの人間は警察に残り、警視庁も巡査の訓練に剣術を採用することとなった。
 こうして剣術は警察の中で生き延びることに成功するのだった。

 
 新撰組の斎藤一も、警察で生き延びたわけだし、納得ですな。



 「健康優良児」について。

 昭和5年、朝日新聞社が、「健康優良児」の審査を行った。
 身長、体重、胸囲、座高、栄養、疾病異常などの項目や、
 走力、聴力、投力などの項目、
 病欠日数、学業成績、普段の行いなどの項目、
 果ては、分娩状況、哺乳状況、歩行を始めた年齢月、祖父母以下の家族の年齢や健康状態、死因、家族の経済状況などの項目に至るまで、広範囲に審査した(224頁)。

 文部省は朝日新聞社と協力し、各地方の予選から全国大会に至るまで、学校を通じて行わせた。
 これには学校側の名誉も関わっており、積極的に参加した。
 学校のみならず、子供にも家族親戚田中にも大変な名誉とされた。 

  
 んで、そんな健康優良児だが、戦争を始めると、どうなったか。
 健康優良児として選抜された男子はいち早く招集された。
 太平洋戦争中、国民全体の死亡率が0.4%、日本陸軍全体で18%。
 そんな中、健康優良児たちの場合、追跡できた限りで、50%が亡くなっている(227頁)。

運動会と、学校という制度に関して -北澤一利『「健康」の日本史』を読む(前編)-

 北澤一利『「健康」の日本史』を読む。



 『時事小言』での福沢先生の発言。

 この時代になると、福沢先生は、信頼できる人種として士族に注目する。
 士族は優秀で国のためになるから、という理由で。
 んで、それ以外の「百姓町人のやから」は「社会のために衣食を供給しているだけ」であり、いうなれば「国の胃袋」だとする。
 一方、士族は「脳や腕のごときもの」らしい。
 そして「胃袋の働き」は重要だが、「胃袋の健康のみを保って、脳と腕との力がたくましくない」のは「動物にたとえるとブタである」(57頁)。

 何のことはない、プラトン以来続く西欧的な、頭脳階級と肉体労働階級の分離ですなw 
 


 新渡戸稲造センセの野球dis論(111頁)。
 明治44年の話。

 新渡戸先生曰く、野球というのは相手を「ペテンにかけよう、計略に陥れよう、塁を盗もう」とする遊びであって、「米人には適するが英人や独逸人には適しない」し、日本人にはなおさらだという。
 「英国の国技蹴球のように鼻が曲がっても顎の骨が歪んでも球にかじりついているような剛勇な遊びではない」。

 多分新渡戸センセのいう「蹴球」ってラグビーとかを含む「フットボール」ことなのかな。
 まあ少なくとも、今のサッカーとかの方が、ずっとフェイントとか「ペテンにかけよう」としてるんだから、日本人には不向きなんじゃないんすかw
 新渡戸センセの米国観も面白いw




 明治期、運動会は、地方の農村などの閉鎖的なコミュニティーに浸透する。
 その効果は絶大だった。

 当時の学校のほとんどは運動会を行えるだけのスペースがなく、大抵神社の境内で運動会が行われた。
 神社の境内は元々、住民たちが祭りを行うコミュニティの中心であり、運動会という未知の行事に対する住民の警戒を解くのにもうってつけの場所だった。
 で、結果的に、運動会は学校の明るく愉快な一面を宣伝するのに一役買うことになった。

 学校という近代的な制度を日本中に広げることに貢献したのだった(118頁)。
 著者曰く「旗拾い競争などをみたり参加した子どもたちが、学校に通いたくなる気持ちが想像できます。」

 「制度」というのは、こういう楽しい一面から広まるケースが多い。
 新しい制度を広めたい方は、この教訓を生かされてはいかがでしょうかね。



 16世紀後半、宣教師のフロイスは日本について、興味深いことを書いている。

 西欧の人間は散歩を、健康によい気晴らしだと考えているが、日本人は散歩をしないしそれを不思議がっており、単なる「苦労とか苦行」とかと考えている、と(125頁)。

 当時散歩のような非労働的な運動は、有害なものとして見られていたというのだ。
 なるほど、散歩は有害なので外に出ないようにしようかなw

体罰が少なかった江戸期において、それでもなお・・・

■権力者の恣意 VS 民衆の恣意 ?■

 江戸時代の法体系こそ「依らしむべし、知らしむべからず」の方針がとられ、刑法はその裏をかく行為が警戒され、この典型で非公開であった (某書より引用)


 
■親よりも君主優先、な日本国 orz■

 親に対する孝(行)と君に対する忠(誠)が矛盾する場合、中国では孝を優先させたのに対し、日本では忠を優先させるべきこととする。この考え方が定着してくるのはすでにふれた四代将軍家綱の頃かららしい […] さらに、中国では治者階級が被治者に対し、忠を要求することが少ないが、わが国では、しばしば庶民の奉公人に対しても、親方・主人への忠誠を尽くすよう布告し、 […)] 違反した場合は、刑法上特に厳罰に処した。 (某書より引用)



■薩摩名物・残酷☆生胆取り■

 「生胆取り」 […] 罪人の処刑日に、刑場に集まり、首が飛ばされた瞬間、 […] 死体を奪い合うもので、 […] チャンピオンシップは、一番下敷になって死体に取り付いていた者に与えられ、その者は […] 死屍を一睨して、 […] 生胆を抉り取るという。薩摩藩出身の維新の元勲もみな一度はこの経験があるという (某書より引用)



■体罰が少なかった江戸期において、それでもなお・・・■

 当時多数存在した継母・継子の関係や、徒弟(丁稚)奉公・農村(特に若者組)・遊女・やくざの世界では、体罰が多く行われていたことは引例に暇がないほどである。 (某書より引用)

戦前における高齢者虐殺事件の一例

■満州国の新京で逮捕、ケースもありました■

 満州や朝鮮に簡単に逃走する少年がいるのも戦前の特徴で、ほんとにひとつの国でした。 (某書より引用)



■戦前の高齢者虐殺事件■

 七七歳の老人である斎藤内大臣にはなんと四七発も撃ち込んでいます。それもすでに何発も撃って倒れているところへ六三歳の夫人が「撃つなら私を撃ちなさい」と夫の上に覆い被さっているのに、その身体の下に銃口を差し込んでさらに撃つなんてことをやらかし […] 八一歳の老人である高橋是清は撃った後に銃剣で何度も切りつけています。 (某書より引用)



■戦前からの大いなる伝統・学級崩壊w■

 授業中に教室を歩き回ったりする<学級崩壊>は最近のことだと思っている方が多いみたいなのですが、戦前の小学校ではわりと当たり前のことでした。 (某書より引用)



■「高校」時代からナベツネはナベツネだったw■

 読売新聞社の渡邉恒雄会長なんかは、東京高等学校一年生(満17)だった昭和一八年一一月に、記念祭の校庭での盆踊りで、校長や生徒主事(生活指導の教師)、配属将校を集団で袋叩きにしています。 (某書より引用)



■教養、及び歴史学の存在理由■

 実態というものは、漠然としたイメージではなくひとつひとつの事実を検証してみて初めてわかるものです。事実を突き詰めていく態度、少なくとも事実を突き詰めていかないと何もわかるはずがないということをあらかじめ知っていることが、一番基本的な教養というものです。 […] その時代を生きているだけでその時代のことがわかるのなら教育などまったく必要ありません。今現在のことも、我々はきちんと調べて学ばないと理解は出来ないのです。何十年も前のことならなおさらです。 (某書より引用)

「大和撫子」という語に関する歴史と、「もう<ピンク・ジャパン>でいいじゃん」、というどうでもいい話

 すんごくどうでもいい話。

 あるサイトを見ていたらこんなのがあった。

 万葉集の時代には『なでしこ』の花と「かわいらしい子」をかけてよく詠まれたのですが、多く女性のことを歌ったようです。そこから『撫子』といえば女性を想像したのですね。『なでしこ』の中でも、特に日本古来のものは『大和撫子』と呼び、【しんの強さと清楚な美しさを備えている女性】のことをいうことばとなっていきました。


 ことばおじさんは、こうおっしゃっている。(「なでしこジャパン - ことばおじさんの気になることば - NHK アナウンスルーム」)

 で、これ本当なの?
 実は少しだけ怪しい。

 実際、杉本つとむ『語源海』を読んでみる限り、日本古代に使われていた用法は、可愛い乙女や、新妻などに使われていたのであって、明確に"日本女性一般"に使われていたわけではないからだ。
 それ以降の「大和撫子」の使われ方を見ても、やはり"日本女性一般"へ使われていたものは、どうも見当たらない。(てか、使われる回数自体が多くなかった。)
 どうやら「大和撫子」が、現在流通しているような"日本女性一般への美称"として定着を見るのは、明治以降になってからのようだ。
 意外と新しい。

 よって、「多く女性のことを歌った」のは間違いではないのだけど、「【しんの強さと清楚な美しさを備えている女性】」云々は、明治以降に使用されるようになったのではないかな。
 (自分が知っているのはこの程度のなので、詳細詳しい方、御教授くだっせ)



 もっとどうでもいいこと。

 「なでしこジャパン」という呼称だが、やはり正式に「佐々木ジャパン」とすべきだろう。JK
 女子バレーボールを見よ。

 もし、「なでしこ」を生かしたいというなら、「なでしこ・ニッポン」で構わないはず。(なんで、「ジャパン」つけたんだ?中途半端な!!)
 それがだめというなら、英語表記だけにして、「ダイアンサス・スーパーバス・ジャパン」とすべきじゃないのか。
 それが長すぎるというなら、「なでしこ(の花)」に対する英語の名称として「ピンク」があるはずなので、「ピンク・ジャパン」とすべきだろう。

 幸い英語における「ピンク」に、セクシャルな意味合いはないはずなので、これで問題ない(英語の場合、むしろ「ブルー」がセクシャル)。
 個人的には、短くて、ゴロもよい「ピンク・ジャパン」を推薦する。

 (そもそもユニフォームがダサい、という指摘については、かわいそうだから控える。)

 ああ、何てどうでもいいことなんだろう。

愛国主義と進化論の関係 IN CHINA -あと、俗にいう「中華思想」について- 吉澤誠一郎『愛国主義の創成』を読む

 吉澤誠一郎『愛国主義の創成』を読む。



 ハクスリー『進化と倫理』は、進化論を背景に人間の倫理を考えた書物。
 しかし、実は、その述べるところはマトモ。

 曰く、例えば、ガーデニングをするとき、そこは周囲とは異なる環境の状態になる。
 つまり、自然の過程とは異なる、人工の過程が生まれる。
 でも、庭造りをする人が維持する努力を怠ったら、元に戻って、庭は周囲の環境と同じ状態になってしまうだろう。
 教訓は何か。
 曰く、人間存在は、確かに生存競争の結果生まれてきたが、これに抗うように倫理をつくらにゃならない。
 これを怠ると、文明は下降線をたどるよ、と。

 彼は、弱肉強食の肯定じゃなくて、その過程の克服(文明)への努力を説いているわけだ(30頁)。



 ハクスリーの主張に対し、中国でそれを翻訳した厳復は、その意義を認めている。
 ただし、彼の真の関心は、次のことだった。
 「確かに、ある生物が現地の環境に最も適応している種なのは事実だが、比較的隔離されていた土地に、外から更に強い種が入ってきたら前の種は淘汰されちゃうんじゃない?」と。
 当時の中国の状況を想定して、厳復はそう述べている。

 実は、厳復が注目していたのは、進化論の中でも、「群」という概念だった。
 これは、societyという語に当たる訳語。
 社会進化論を唱えたスペンサーは、社会学の祖でもあり、"有機体的な存在としての社会(集団)"という考えを持っていた。
 厳復は、その「群」(社会集団)として、特に「国」を重視していた。
 彼は、「群」が一つの有機体であり、生存競争の単位と指摘している。
 厳復の考えにある背景には、自分たちが淘汰されてしまう、という危機意識があった。

 著者曰く、厳復は、進化論を「中国」に適応したというのではなく、団結して生存競争に勝つべき主体として、「中国」等の集団が想定されたのだ、と(34頁)。
 すなわち、まず「中国」という集団が最初からあったのではなく、ある対外的な危機意識と、進化論の"生存競争"という発想とが結びつき、その中から「群」という概念が生まれ、それに当てはめるように「中国」という集団が発想された、というわけだ。

 意外なことに、進化論は、有機体的(不可分)とされる「中国」なる概念を、創造する手助けをしたのだった。



 「中華思想」という概念だが、中国語にそんな言い方のものはない。
 古代以来連続してきたのは、「華」と「夷」の二分法的対語だけであり、その意味や使われ方は、時代によって異なっているのであって、古来より持続する「中華思想」等存在しない(35頁)。 
 清朝の場合、一方で「満」と「漢」の境界を維持しつつ(八旗制度)、他方では、華夷の区別を無化(「天命」という統治の正当化)するという、「その綱渡りに内在する緊張こそが、清朝にとっての華・夷の問題」だった。

 他の時代の「華」「夷」二分法が実際どのようなものだったのか、本書には書かれていないが、この「中華思想」という概念を再考する必要はあると思う。
 
 なお、「中華思想」なる概念が、中国外交に対する説明方法として一般的になるのは、、日本側が昭和初期になって使い出してからのこと。
 本件詳細は、
 幣ブログの「意外な中国外交の側面 -川島真,編『中国の外交 自己認識と課題』
 か、「加々美光行『裸の共和国』」(『Sightsong』様)
 をご参照あれ。



 デ・アミーチスの『クオーレ』は、日本語翻案されている。
 これは、『学童日誌』という題で、杉谷代水によるもの。
 そのなかの、ある場面。

 原作だと、だいたい以下の通り。
 1859年、仏・伊連合軍が、ロンバルディアの独立を助ける戦争をしている時、騎兵隊が敵のオーストリア軍を探るために斥候に出る。
 住民が逃げた村に一人少年が残っていて、家にイタリアの三色旗を掲げていた。
 曰く、戦争を見るために残っているそうで、高い木に登って敵情を見てくれるよう依頼すると、少年は愛するロンバルディアのためには褒美などいらない、とこれを引き受けた。
 少年が木に登ったところ敵弾が飛んできたが、少年は軍人に手本を見せたい、と逃げず、遂に被弾。
 騎兵隊の士官たちはその死を悼み、三国旗で遺体を覆った。

 本題は、中国でのバージョンだが、そこにかかれてある問題はここでは取り上げない(詳細は本書を参照)。

 問題は日本版の方で、主人公が日本人で、舞台が日清戦争に設定されている。
 で、なんと、日本軍に協力している少年が、朝鮮の少年に転換され
ている。
 日本語翻案が出されたのは1902年。
 なんというか、すげー恩着せがましい設定だなww

 そんな杉谷代水だが、『クオーレ』の中の話の一つである「母をたずねて三千里」は、このとき代水が初めて用いた題名だったりする。
 命名者は彼だった。

 もともと『クオーレ』は、統一した後のイタリアで、子供に愛国心を教えるために書かれた書物だった。
 で、原作の戦争というのは、第二次イタリア独立戦争のこと。
 1859年のこのとき、ロンバルディアは、サルデーニャ王国に併合されている。
 念の為。

明治期、実は離婚率が現代よりも高かった件について -ついでに、見合い写真による結婚について- 湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』

 湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』を読む。
 手堅くて、いい本。



 明治時代って、半ば過ぎまで、実は離婚がとっても多い社会だった。
 離婚率は、昭和40年ごろに比べて、3倍近く、最近と比較しても5割近く高い
(7頁)。
 なんで?という疑問に本書は答えようとしている。



 じゃあ、なんで、ある時期まで、離婚率が高かったのか? 
 著者曰く(63、64頁)、
 ①そもそも、結婚は生涯続けないといけないものと言う考えが庶民に乏しかった。
 ②8割以上を占める嫁入り結婚だと、親、特に姑が読めの欠点を指摘して離婚を迫るケースが多かった。
 ③本人たちはともかく、親族や近隣の人が結婚がふさわしくないと考えれば、容易に離婚が行われた。
 ④離婚手続きがルーズで、届出は必要としないケースが殆どだった。(事実上別居してたら、役場が判断して、戸籍に離婚と記入するケースもあった。)


 一般の家庭の場合、大半は、夫側の親族集団が、嫌になった妻を専制的に追い出すケースだったという(71頁)。
 但しその背景に、①の理由が強く存在していたことも、忘れるべきではない(101頁)。



 では、離婚率の急速な低下の背景には、何があったのか。
 その背景には、明治民法があった(施行・明治31年)。

 当時の離婚は、若年(特に妻が25歳未満)がかなりの割合を占めていたと推測される。
 明治民法では、25歳未満だと、事実上親の同意がないと離婚できなくなった。
 つまり、親の同意の存在を厳しくチェックするようになった明治民法が、離婚件数を減少させたと考えられる
わけだ(142頁)。
 ちなみに、離婚に親の同意をも必要とする慣習は、明治民法以前は、あまり多くなかったという。
 何のことはない、"伝統の創造"の一端なわけだ。

 (なお、著者は、戸籍管理が内務省から区裁判所判事の監督下になって、チェックが厳格になったことも、離婚率低下につながったと考えているらしい。)



 見合い写真を使っての結婚について。
 夏目漱石も見合い写真を使って結婚したのは有名。
 
 見合い写真が最も流行したのは明治中ごろから大正にかけて、北米や南米へ移民した日本人男性が利用したケースだという。
 
 しかし、恋愛結婚が当然の米合衆国では、本人にまったく会うこともなく写真一枚で結婚する慣習に反感が強かった(191頁)。
 しかもその上、当時のアメリカでの結婚適齢期を下回る17歳未満の女子がいたりするのが、当時の実情。

 しかもしかも、男性側は、本人を見て貰い損なったと思うとたちまち解消するが、女性は帰国もできず、醜業婦に落ちやすい状況が見られたという。(逆に、結婚意思がまるでない女子もいたりして、周囲の反感を買っていたという。)
 そこで、明治44年に、カリフォルニア州は、18歳未満の移民の妻は、たとえ夫の呼び寄せでも上陸を認めないことを決議した。
 これのおかげで、「写真花嫁」は若干減少したという(ただし、ホノルルやシアトルは規制が敷かれなかった)。



 実は、写真による見合い結婚自体が、そもそも近代以降になってでてきた慣習だったりする。
 それ以前はそもそも写真もないし、殆どの結婚は、村の中の周囲の顔見知りとの結婚が大半だった。
 見合い写真の出現は、職を求めての人の移動が激しくなる明治中期以降。


 一見すると前近代的風習だが、実はこれは近代になってから出現したものであって、この"近代的"なものが、皮肉にも外国で反感を買ったのだった。



(ブクマへの応答)

 mainichigomi キチンとした全国的な統計が存在したんだろうか。あるとしても実態と乖離してそうなイメージが(特に地方)>「離婚率は、昭和40年ごろに比べて、3倍近く、最近と比較しても5割近く高い」

 本書によると、明治初期の統計は殆ど乏しいようです。明治30年ごろになって、やっと全国的に統計を取ってみたら、離婚が実は世界的に見て日本は多かった、ってわかった、という流れですので。
 詳細、本書を当たってください。

「これは"太平洋戦争"ですか」「はい、"アジア・太平洋戦争"です」 -旧日本軍が東南アジアにいた頃-

 倉沢愛子『「大東亜」戦争を知っていますか』を読む。
 所々、反論したい所も出てくるけど、主題部分については勉強になる箇所が多い。
 ちなみに、著者は、太平洋に面してなくても東南アジアも戦場・占領地だったんだから、カッコつきで、「「大東亜」戦争」というべきじゃないかと提起している。
 これについては、その後使われるようになった「アジア・太平洋戦争」の方がより、的確と思われる。(著者も同意されるだろう)



 「大東亜」戦争なんて、所詮帝国主義諸国が領土の再分配を求めて戦った戦争に過ぎないよ、と著者は言う。
 だって、同じ植民地なのに、同盟国ナチスの影響下にあるフランス(ヴィシー政権)の植民地(ベトナムやラオスやカンボジア)に対して、日本は攻撃してないんだよね(24頁)。
 もし本当にアジア解放が目的なら、フランス領も「解放」すべきだろ、と。
 実際の所、フランスを追い出さなくても、日本は既にこの地域に軍隊を駐屯させて、資源もコントロールしていた。
 偉そうなことを題目にしても、実際はこんなものですな orz



 当時、日本軍は、東南アジアでの生産活動のため、日本の民間企業に、人材派遣を要請した。
 トヨタ自動車や、三井物産からも派遣された。
 しかし、派遣先への航路は、既に危険だった。
 長崎の五島列島沖でさえ、米国潜水艦で、派遣された人々が乗った船が撃沈されている。そして多くが命を落してる。

 
 この企業戦士たちが、命からがらたどり着いた占領地で受けたのは、軍人のいじめだった。
 曰く、「おまえたちは軍人にもなれず、利権あさりの民間会社の先兵」で、「いなくてもよい存在」であり、「おまえたちは船が沈没する時には、軍馬、伝書鳩の次におろしてもらえるような人間」だ、と(108頁)。
 軍の委託を受けたはずのに、現地ではこの扱い orz 
 まあ、軍人からすれば、"戦場に行かなくてもよかった恵まれた存在"であり、"優良企業社員というエリート"だったのだから、この反発も分からない話ではないけど。



 慰安婦問題では、きちんと明確な証拠のある事例もある。(有名な話だけど)
 それが、収容所に入れられたオランダ人女性を強制的に軍の慰安婦として働かせた問題である(124頁)。
 終戦後に連合軍によって問題化され、ジャカルタの戦争犯罪者裁判で、有罪判決が出ている
 この事実が判明したのは、1992年のこと。
 ここら辺の詳細は、「慰安婦FAQ」などをご参照あれ)
 (なお、著者は参考文献として、『オランダ人「慰安婦」ジャンの物語』を挙げている。)



 ちなみに、インドネシアでは、「敵性国人」として、現地の植民者たちが抑留され、全13万5千人のうち、20%が死亡、生存者たちも、「骨と皮にやせ細り生きているのがやっと」という状態だったという(125頁)。
 シベリア抑留を完全に、他国の為したこと、と考えてはならない。



 「ロームシャ」という言葉がある。
 占領地の鉄道などの工事に駆り出された、東南アジアの労働者のことたちのことだ。
 ロームシャは、自発的応募が原則だったが、実際は、騙されたり、連行されるケースが多かった(136頁)。
 取り扱いも、連合軍捕虜にはまだいくばくか遠慮もあったが、ロームシャに対する対応は非常に酷く、工事中の死亡率は彼らの方が遥に高かった。
 (少なくとも日本人の多くには、)忘れられた歴史の一つ。



 占領中のインドネシアでは、「隣組」制度が導入された(149頁)。
 住民の相互監視システムとして機能し、また、連帯責任も導入された。
 この制度は戦後も生き残り、特に、スハルト体制では、住民をコントロールするシステムとして機能した。
 こんなしょーもないもの、日本は輸出してしまったのだ orz



 当時の東南アジアは、連合軍によって船や鉄道車両や自動車車両が攻撃され、物資の輸送力が落ちていた。
 そのため、米どころのビルマやインドシナでも、一部地域でコメ不足となった。
 1944年、アンチ省以北の全ての村で飢餓が起こり、200万人近い犠牲者がでている(この数は、ヴェトナム戦争犠牲者より多い)。
 無論、当時の天候不順や、軍のコメの強制買い付けも原因ではある。
 しかし、ヴェトナム南部のメコン・デルタでは、輸送手段がないために大量のコメが有り余っていた。
 これを北部へ運べれば、餓死者はもっと抑えられただろう
(155頁)。



 インドネシア側が、独立のために、日本兵たちに協力を求めたケースが多いことは良く知られている。
 だが、インドネシア側が、日本人を拉致して無理やり戦闘に参加させたケースもある。
 近衛騎兵隊の准尉石井正治は、軍の任務でインドネシア側との交渉に出かけたところを拉致されている(219頁)。
 そのエピソードは、石井の『南から』という手記に記載されているという。
 なお、ある記述によると、「人質となりそのまま一年間の独房生活。その後インドネシア独立気運の高まる中、インドネシア軍兵士として独立戦争に参加」した石井は、その後、「インドネシアで6つの会社その総従業員数6000人を有する企業体の会長となった」。そして「2002年7月27日帰らぬ人」となったという。



 インドネシアだけで、800人以上の日本人が残留したが、その背景には、インドネシア側が手厚く迎えたことと、現地でオランダ官憲の目を逃れて生きていくためには、独立軍に身を投じるのが一番安全だったことも背景にある(219頁)。



 インドネシア独立について。
 1943年3月時点では、「大東亜政略指導大綱」を出して、永久に日本領土にする方針だった(223頁)。
 だが、戦況悪化につれ、日本も妥協をして、1944年9月に、小磯声明において、「近い将来に独立を許容すること」を発表した。

 1945年8月17日、インドネシアで、独立宣言が行われた。
 憲法は既に日本占領時代に準備された枠組みを採用。
 日本側に、インドネシア側は、官庁や事業所を引き渡すよう要求。
 表向き、日本軍は正式には認めなかった(ポツダム宣言に縛られていたため)が、現地の日本人は、それを受け入れ、官庁や放送局、電力会社、鉄道、銀行などは、インドネシア側に引き渡された(227頁)。
 
 ただし、武器の引渡しには、軍が抵抗した。
 インドネシア側は、武器引渡しを拒んだ日本軍部隊から力ずくでも奪おうとした(当時連合軍はインドネシア独立を認めおらず、その一つ、英印軍がインドネシアに向かっていたため)。
 殆ど抵抗することのない日本軍の部隊もあった一方で、真剣に応戦した部隊もあった。
 
 こうしたインドネシア側の事業所や武器の奪取の成功の背景には、むろん、連合軍の到着の遅れ(9月)があった。
 その後、英印軍を経て、オランダ側との闘争が4年続いたが、最終的に、アメリカが国連を通じて干渉し、オランダに圧力をかけて手を引かせ、独立が達成された。
 アメリカが、インドネシアの共産主義化することを恐れたため
である(229頁)。
 この年、朝鮮戦争が勃発し、一年前には中華人民共和国が成立していた。

 以上の記述から分かるのは、帝国時代の日本がずっと積極的にインドネシアの独立に協力していたわけではないこと、そして、彼らの独立を助けたのは、むしろ国家とは離れた日本人の協力だったこと、そして、独立自体の決め手になったのは、当時の冷戦状況だったこと、である。

社会民主主義、あるいは「社会」と「民主主義」の相克と和解について -信頼の構築-

 進藤榮一『敗戦の逆説』を、またしても。



 著者は、日本戦後の自民党と(戦前から持続する)中央集権的官僚制による支配には批判的。

 一方で、戦後占領期の"財閥解体"と"持株会社の禁止"には肯定的で、それによって達成された"中小企業の育成・強化"は擁護している(180頁)。
 そして、"農地改革"と"労働改革"とあわせて、これらが日本の"市民社会"強化につながったのだという。
 シャウプ税制による累進化税制にも、これが日本国内の内需を強めたとして、やはり肯定的。



 こうしてみると、著者は"市民社会"という概念に拘束されている感がなくはない。(事の詳細は、植村邦彦『市民社会とは何か』をご参照。)
 通常、「ソシアル-リベラル」の対立軸で考えるなら、中央政府による再配分がソシアルの前提となるが、著者は、中央集権的な官僚制には否定的だ。
 それどころか、地方分権に肯定的、と。
 一方で、累進課税には肯定的。その一方で、地方分権には肯定的、と。
 はて、どうなっているのか?



 整理して考えると次のようになるだろう。

①著者のリベラルな面
・中央集権的な官僚制(および保守的な自民党との連携体制)に対して批判的
・地方分権に肯定的
②著者のソシアルな面
・財閥解体や持株会社禁止といった政策に賛成
・労働改革(労働三法)や農地改革といった改革に賛成
・累進課税強化に賛成

 以上から、やはり、著者は、"市民社会"という概念のはらんでいる矛盾に、拘束されている嫌いがある。
 ただ、"民主主義"というのを念頭に置くと、この問題も理解できなくもない。
 ①の場合、これまで自分達の政治的な意思を妨げていた官僚制には批判的になる。
 ②の場合、民主主義の目的たる"市民"の経済的自立を促進するので肯定的。
 こう考えれば、著者の"ねじれ"も理解できなくはない。



 戦後改革の後も、他の諸改革に比べると、中央集権的官僚制は残存されたままになった。
 むろん、問題は官僚制だけにあるのではないし、ずっと与党だった政権党にだけあるのでもない。



 社会民主主義とは、ソシアル(国家による再分配)と民主主義をいかに調和させるかが肝心になる。
 言い換えるなら、「再配分を行う中央政府と、国民(市民)とが、いかにして相互信頼の関係を構築していくか」、ここが肝心。
 で、その再分配と信頼構築を、"会社組織"に依存したまま、戦後は歩を進めていった。
 今、そのツケを支払っている。

 著者は、多分、そのことに気付いていないような気がする。
 (ソシアルにとって重要な、民主主義との関係については、市野川容孝『社会』が、とりあえず必読か。)

戦前からあった中ソの溝と、"有条件降伏"の愚かさ -第二次大戦の挿話-

 進藤榮一『敗戦の逆説』を再び読む。



 米国側の守旧派と変革派の抗争は、日本に対してだけでなく、中国にもあった。
 そこで、興味深い点がある。
 中ソという共産主義国に対する見方である。

 前者は、中ソを一枚岩と見たのに対して、後者は各々が一枚岩などではないと見ていた。
 後者は、延安(中共)とクレムリン(ソ連)は既に潜在的に敵対関係に入っていたことを確認していた。
 当時コミンテルンの特使だったウラジミロフは、毛沢東の側近・康生(当時特務を担当)に絶えず監視されていたのだ(66頁)。
 50年代末にやっと明らかになった中ソ対立は、すでに、第二次大戦中に存在していた。
 しかし、それは米国側にきちんと周知されることなく、やがて冷戦を迎える。
 


 例の無条件降伏論争についても、次のように述べる。
 国務省は、日本に対する降伏勧告の名宛人を、「日本国」でなくて「全日本軍隊」にすることを主張した。
 これは、しかし、あくまでも連合国が日本の「国家や民族の全滅」を意味しないことを明らかにして、日本側の受諾への抵抗を減ずるためだったという(147頁)。
 それだけでなくて、また、日本国外の中国大陸や太平洋の島々で戦い続ける日本兵の投降をも促すことが出来るためでもあったという。これをすれば、彼ら兵士たちを、ジュネーブ協定違反で処理できるためだった。
 そもそも、無条件降伏において重要なのは、敗者の側が勝者に何の"条件"もつけられないことであり、ポツダム宣言の第六項以降の項目は、敗者が履行を義務付けられたものに過ぎない(165頁)。
 第六項以降の項目は、"日本に対して好き勝手しません"というような項目などではなく、あくまでも、日本に対して、降伏した際に履行せよという義務項目だというわけだ。




 著者は、一九四〇年体制論に対して批判的である(176-8頁)。
 まず、占領軍側は経済システムを変革する気満々であった(だから戦前との連続性は薄いことになる)。
 企業別組合の原型といわれる産業報国会も、実際は戦争末期には「機能麻痺」に陥っていた。
 (そもそも、産業報国会は、組合員の下からの要望を吸い上げるという労組の機能をきちんと果たせていただろうか、という疑問もある。)
 戦時下の農業会も、土地制度事態は改革しなかったし、食糧管理制度が創設されてもなお、四五年時点で農民は、30パーセントの供出負担を強いられていた。
 橋本寿朗らの主張と考え合わせれば、確かに、一九四〇年代論は説得力に欠ける面が少なくない。

"知日派"の実像と、ニューディーラーたちの抗争 -対日占領政策の政策的抗争をめぐって-

 進藤榮一『敗戦の逆説』を読む。



 憲法押付け論(例えば、江藤淳)でもなく、かといって、"米国知日派と日本の知米(英)派との融和的共同作業"と言った主張(例えば、五百旗頭)とも違う"占領論"を、著者は説いている。
 前者は、米国側が対日懲罰的なハードピースをしたと主張する。
 後者は、米国側は後々対日懲罰的なハードピースになっていくが、米側の知日派の融和的なソフトピースに助けられた、という主旨の主張をする。



 著者はそれらを論駁し、述べる。
 曰く、占領するアメリカ側には、二種類の勢力がいたという。
 片方が、日本の旧体制の支配層に親和的なグルーやドゥーマンら。もう片方が、日本の体制を変革しようとした年下世代のニューディーラーたち。
 この米国側の、守旧派と変革派との抗争が、本書のメインテーマとなる。
 前者が、日本の政治のうち、形だけ、つまり、政治分野だけを微温的に"民主化"しようとしたのに対して、後者は、日本の社会や経済に対しても"民主化"を試みたという(144頁)。
 著者は、後者の存在は、米国のニューディール、英国の福祉国家政策、北欧諸国の福祉的経済体制、すなわちこれら"社会民主主義"的動向を背景にしているという。
 つまり、変革派の動きというのは、歴史的偶然ではなく、歴史的な潮流の中にあるものだというのだ。
 


 上の両者の大きな違い、それは、前者が、可能な限り日本の政治体制を変えず温存させようとしたのに対して、後者が日本の政治体制を大きく改革し、経済・社会の分野にまで及ぼそうとしたことである。
 後者は"無名の民衆"に対して、民主主義を作る潜在性を信頼していた(49頁)。
 それに対して、前者の場合は、日本の旧支配層であるセレブリティに信頼を寄せてはいたものの、日本の民衆は信頼していなかった。
 結果、占領期日本の政治改革の原型を作る役割を担うのは、後者のほうであり、天皇を含む旧支配層の政治責任を重く見たのも後者である。



 本書では、いくつも、興味深い箇所がある。
 例えば
 米軍が空爆を日本本土に行う際、米国爆撃機の飛行の要路だった浜松を、他都市空爆の時に余った「爆弾の捨て場」にしていたという事実(30頁)。
 おかげで、浜松は毎日爆撃されていた。
 "ついで"という理不尽さで、一都市が爆撃されまくるとは・・。



 あと、京都に原爆が落ちなかった件について。
 京都に原爆落ちなかったのは、文化財の重要性を説いた、スチムソンやウォーナー博士のおかげ、という神話がある。
 著者は、吉田守男の研究を紹介し、次のように書いている。
 曰く、スチムソンが京都に原爆を落とすことを否定したのは、文化財保護のためなどではなく、京都に原爆落したら、冷戦後になって日本が米国に敵意を抱いてしまう事を恐れたため(31頁)。
 ウォーナー博士の場合は、一切、原爆を投下する都市の選定に関っていなかったし、それどころか、20年代には敦煌の千仏洞の壁画を仏像数体と一緒に米国へ持ち去った"前科"もある人物である(40頁)。



 知日派といわれるジョン・マックロイだが、一方でかれは、日系人を強制収容所に隔離した政策決定の最終責任者でもある。
 そんな彼が、こんな名言を残している。
 「日本人の民族的性格からいって、けっしてわれわれは日系市民を理解できないし、信用することさえできなかったのである」(74頁)
 知日派、ここでいう守旧派とは、つまるところ、日本の旧支配層以外はついぞ信頼することもなかったし、その可能性に賭ける事もしなかった存在のことである。

検閲する側の苦悩と、検閲される側のお気楽 -占領期メディアの"逆説"をめぐって- 有山輝雄『占領期メディア史研究』(3)

 続きを書くよう要請があったので、書いてみました。短いですが。


■宣伝記事「太平洋戦争史」が、弁護したもの■
 江藤の「太平洋戦争史」(全国の新聞紙上に連載された、GHQによる"宣伝記事"のこと。詳細はググってね)に対する見方に対しても、著者は"異論"を出しています。
 江藤は「太平洋戦争史」が 「戦後日本に歴史記述のパラダイムを規定」 したといいます。"軍国主義日本は悪玉"という"戦後史観"の事を指しているのでしょうね。
 それに対して著者が着目するの別の所です。
 例えば、「太平洋戦争史」は、真珠湾攻撃は天皇の意思ではないし、戦争の決定的段階で天皇は何も知らされていなかったという、天皇の免責を強調しています。
 また、当時の日本人が反発を感じるほどに毒々しく戦争の"真相"を暴露している一方で、

国民と天皇は「軍国主義者」によって「真実」を「隠蔽」されていた被害者として責任を免除する回路を用意

していました。
 無論、被害者として免責されたのは、メディアまた同じです。江藤の主張とは異なり、この"宣伝記事"は、免罪符ともいうべき役割を担ったのです。


■検閲する側が悩む傍で、検閲される側は"お気楽迎合"という構図■
 当時占領軍において、検閲に対して責任を負った組織は、CIS(民間諜報局)と、CCD(民間検閲支隊)でした。後者がGHQの管理下にあった組織です。これらの組織は、自分達の行う検閲が自由化政策と矛盾することに十分意識的でした。
 実際、例えば、苦悩の末にCCDは、検閲を治安維持と情報収集の目的を限定することで、何とか言論の自由との矛盾を調整しようとしました。あくまでも自分達の検閲は思想取締りなどではなく、自由主義的なものであるとみなしていました(231頁)。そう自分たちを納得させようとしました。彼らなりに苦悩はしていたのです。
 実際、基本的にCCDの検閲は、治安維持と情報収集に即したものであり、思想宣伝とか思想殲滅とかいったものに即したものでなかったのは確かです。(しかしもちろん、占領政策の変化によって、その運用が変化していったのは否定できない事実です)
 しかし一方で、こうした検閲する側の、内部矛盾による自己抑制的な姿勢が、日本の既存マスメディアの体制を温存させる大きな要因となりました
 当時の日本の新聞社は、ゲラ提出に伴う手続きについて質問したのみであって、何が検閲に抵触するのか、そもそも何故検閲などするのか、といった発言は、全然していなかったのです。あくまで検閲への順応に専念しました。
 戦中の姿勢と同じです。戦中、内務省や情報局に従順かつ迎合した新聞社は、占領期に、占領軍の検閲にもしっかりと迎合しました。
 結局、米国の方がむしろ、自分たちが行う検閲の"悪"に相応に苦悩し、一方、日本側のメディアは、戦前から継続して検閲を苦悩もなく受け入れていたようなのです。
 以上を考える限り、"閉ざされた言語空間"という件は、占領した側の問題というより、された側の戦前からの方針のほうに、大いに問題があったと思わます。まあ、このこと自体は、江藤著出版当時から言われていたことでしたけどね。

(終)

実は微妙にゆるかった言語空間 -エガシラさんと占領期初期の検閲状況- 有山輝雄『占領期メディア史研究』(2)

 震災より10日以上を過ぎてなお、大地震が与えた傷はまだ癒えておりません。そんな中、江頭(えがしら)さんが、物資不足の福島県いわき市に自ら運転して支援物資を届ける、という偉業を成しました。
 その偉業に経緯を評し、今回は別の江頭(えがしら)さんについて、書いていきたいと思います。江頭敦夫(筆名:江藤淳)さんです。
 ・・・というか、以前書いた奴の続きです。すいません。


■有条件降伏に関する異論■
 江藤といえば、"有条件降伏"の件で有名です(わかんない人はおうちの人に聞くか、ググってみてね)。
 本書では、江藤の主張に対する全面的な批判は行っていません。しかし、その一部主張には異論を書いておられます(191頁)。

 例えば、江藤は「『朝日新聞』の紙面を見るかぎり、敗戦直後の日本人がポツダム宣言受諾による降伏を有条件降伏、やがて開始されるべき連合国軍の占領を保証占領と考えていたことは、ほとんど議論の余地がないもののように思われる」と書いています。
 さらには、当時の日本の報道機関が「正当にも、ポツダム宣言第十三項が明示する通り、「無条件降伏」したのは「全日本軍隊」のみで、政府と国民は同宣言の提示した条件を受諾して降伏したのだと解釈していた」とも主張しています。
 
 実際はどうだったのか。当時の報道機関は、有条件降伏を認めていたのでしょうか。
 当時の朝日新聞の論調は、確かに、日米が対等であるかのようなものでありました。これは、有条件降伏を支持する要素にも思えます。
 しかし、当時の『朝日新聞』の論調はあくまで、"国体護持"の体裁を取り繕うための虚勢ではなかったか、と著者はいいます。
 実際朝日新聞社は、9月19日(プレスコードが出された日です)、占領軍と対面した際に、有条件降伏等の主張を微塵もしていないのです。
 まさか、散々ディスっといて、御対面したとたん怖いんで撤回しました、とかじゃないよね(笑)。要するに、"有条件降伏は当時の日本のメディアの共通認識"という江藤の主張は、根拠の薄いものです。こんなチキンな報道姿勢じゃ、有条件も何もあったもんじゃないですし。


■検閲は国民に秘密にされてた、というわけでもなさそうね■
 もっと根本的な異論も挙げてみましょう。
 江藤の良く知られている主張として、CCD(民間検閲支隊)による検閲の存在は日本人には一切秘密であって、検閲される側も検閲に言及しないという義務を遵守させられた、というものがあります。これが現在に至るまでの日本人による"タブー"になった、と主張する人は現在でもいます。
 この話については、『閉ざされた』出版当時から、すでに異論の出されていたことなのですが、本書の場合はどう反論してるのか。

 確かに、伏字などで検閲されたという証拠を残すことをすら認められなかったし、後には検閲への言及は削除対象でした。しかし、CCDが最初から検閲の存在を秘匿する意図を持っていたというわけでもありません。
 江藤自身書いていますが、10月8日からの東京有力紙への事前検閲実施は、日本の新聞に報道されているのです。えっ。しかもどうやら、この検閲開始を伝える記事を、占領軍が慌てて差し止めようとした事実はありません(221頁)。

 しかも10月11日には『読売』が通信検閲実施を報道しているし、一般紙ではないが日本新聞連盟の機関紙が、11月1日号に、「米軍の検閲をパスして印刷に附される迄なごやかな米軍検閲所風景」と題された記事が掲載されたりしています。おいおい。検閲はぜんぜん秘密じゃなかったのです。
 少なくとも、占領軍による検閲の事実は、初期は公然としていた、と著者は言います(223頁)。まあ、『読売』が報道していたことを考えると、詳しい人は絶対知っていたんでしょうね。言語空間の閉ざされ具合ってのは、こんな感じだったみたいです。

(続く)

昭和二十年お前が言うな大賞 「新聞社様各社」  -有山輝雄『占領期メディア史研究 自由と統制・1945年』(1)-

 江藤淳が亡くなって大分経ちますが、この前とある人と話してたら、『閉された言語空間』の話題になりました。内容は詳しく覚えてませんが、とにかくGHQのせいだ云々、とかいう話でした。
 『閉された言語空間』以降も、ちゃんと研究は進んでいて、少なくとも江藤の描き出した世界観通りのものでないのは、歴史学的な共通認識だと思うのですが。本書の登場当時から、既に本書への批判はちゃんと存在していたはずで、柄谷行人とかもいろいろ書いていたはずなんですけどね。

 しかしまあ、こちらもこの戦後の検閲の実態について深く知っているわけではないので、たまたま手元にあった有山輝雄『占領期メディア史研究 自由と統制・1945年』をたどって書いていきます。本書は、メディア研究の本を良く出してる柏書房の本です。


 本書であしざまに描かれるのは、GHQではなく、日本の新聞社の方です。
 今現在では、戦中戦後の新聞社の"醜態"は良く知られているでしょうが、本書はなにぶん、1996年に出た書物なもので。
 ともあれ、見ていきましょう。


■新聞社どもが、説教臭すぎる。で、自分たちのことは当然棚上げw■
 まず目に付くのは、日本の新聞社の"醜態"。例えば、1945年8月の『読売報知』の終戦後の社説(110、111頁)。
 この社説は実は他の『朝日』や『毎日』に比べれば、まだ"先進的"な方だったのですが、これが酷い。日本による中国及び東南アジア諸国への侵略に対する反省がないのは、まだ差し引いておきましょう。しかし、戦中の「全体主義」体制に対する分析は欠けていて、それだけならまだしも、

民衆を「自主自立」を欠くと規定した上で頭ごなしに「民主主義的鍛錬」を教育しようと押している趣き

があるという始末。自分達の自己反省ゼロ、それでいて"自立自主"が民衆にない、とかいっちゃう。見事な棚上げです。

 酷いのはもちろん、『読売』だけではないわけで。例えば『朝日新聞』。

自らの活動を縛っている法規制や情報局を自らの運動によって撤廃させるのではなく、占領軍の力によって撤廃してもらおうとしているのである。(166頁)

まあ、これだけなら、"新聞社も大変だったんだな"で済ませてもいいのかもわかりません。しかーし、この新聞、紙面ではぬけぬけと、「国民自らの政治的自由を取り戻し、確固不動のもの」としなければならないとか、ほざいているわけです。どの口が(笑)。
 自分たちを棚に上げることにかけては、新聞社は天性の才能を発揮するようです。マスメディア様たち、見事なまでに「自主自立」してません。

 彼ら新聞社は、「秘密主義」の前に沈黙し、自由を求める運動を起こしえなかった自身を反省もせず、占領軍から贈与された"自由"を追認していながら、国民に対しては指導者面をして、読者に"放埓"を諌めたり"萎糜沈滞、無気力"を批判したりしていました(286、287頁)。
 皆様、声を合わせて一言。 「お前が言うな!!」

 以上、敗戦直後でも上記の新聞社たちは、散々その民衆を煽った反省はないままに、これからも民衆を"導く=煽る"という姿勢でいたようです。この高飛車な姿勢、現在においてもぜんぜん変わってない気がしますが(笑)。
 実際、高見順は、8月19日の日記で、新聞は"厚顔無恥"だと批判しているのです(112頁)。むべなるかな。

 次回は、本題。江藤淳『閉された言語空間』に関して、書いていこうと思います。

(続く)

手紙はいろいろ知っている  袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』

 なぜ、日本は先の大戦で、誰も駐留米軍に対してレジスタンス活動などを行わなかったのか。
 軍のトップに立っていた天皇がそれを求めない以上、そんなことが出来るわけがないし、そもそも他国ないし他勢力からの援護が期待できない状態でのレジスタンス運動など不可能だ



 袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人の手紙』(岩波現代文庫) を読了した。
 400ページを超える著作だが、退屈さを感じさせない良書。
 既に書評があり、例えば以下のようなもの(「絶望よりも反省よりも『拝啓マッカーサー元帥様』」)。

 確か一億玉砕まで誓った戦争だった。神国は不滅であり、必勝不敗は揺るがせない国是だった。
 だから総力戦の敗北は、帝国臣民を深い挫折へと追いやったはずであり、日本の滅亡を認めないものは、決起したはずだ。
 だが、現実はどうかといえば、ひとりのパルチザンも生まなかった! その事実に気付くとき、マッカーサーに対する見返りを求めない庶民の善意溢れる手紙も、実は相手が誰であれ、拝跪できさえすれば構わない質の純朴さではないかと思えてくる。
 あの戦争は幻だったのかというくらい、かつての立場にこだわりがない。それを権力者に対決しない本能というのでは、説明になりえない。


 このパルチザン云々は、既に、「軍のトップに立つ天皇が制止する以上そんなことが出来るわけがないし、そもそも他国ないし他勢力からの援護が期待できない状態でのレジスタンス運動など不可能だ」と上に書いたとおり、的外れと思われる。

 「実は相手が誰であれ、拝跪できさえすれば構わない質の純朴さではないかと思えてくる」も、諸々本書を読んでみる限り、的を若干はずしている気配がある。
 確かに、「マッカーサーに手紙を書くような人々」は「戦中戦後に自国の指導者にも投書をしていた人が多い」のは事実だ(216頁)。
 無論、全員ではないらしいが、戦争煽った奴らの少なからずが、手の平返して司令官様にこびへつらった、というのは間違いない。
 しかし拝跪には、当然物質的な要因も含まれる。
 食料と海外からの引揚げ。「深刻な食糧不足」に対して「マッカーサーが大量の食料を救援物資として搬入することを許可」し「何百万という旧軍人と一般人の引き上げを促進」したという事実、かなりの投書がこの点に触れているらしい(431頁)。
 彼が当時の日本人に好まれた具体的な要因。
 素朴さだけでは人は跪くまい。




 本書は、植民地や人種という話題に多く触れる。
 著者によると、占領軍のみならず、自らの非をみつめた投書は少ないとのこと(74頁)。
 投書のなかには、米国兵士の振舞いを非難するものもあったが、自国の振舞いを問い直す当初は少なかったらしい。

 「日本人ってつまらん民族だと思ったね。あんな手紙をマッカーサーに書くなんてサ」と、ハワイ出身の沖縄系二世の米国ATIS隊員が発言したという(412頁)。
 その「つまらん民族」は、「沖縄」を捨てた。

 「敗戦日本の占領が、アメリカ人でなく中国人によって行われたと考えてみたらいい」。
 そうジョン・ダワーが解説している(425頁)。

 確かにマッカーサーへ向けられた"畏敬と賞賛"は、もし司令官が中国人だったら、向かうことがなかっただろう。
 「日本人の多くは、自分たちが他の民族に及ぼした苦難についてはあまり考えなかった」と、ジョン・ダワーはまとめている(429頁)。



 一方、松本治一郎の追放解除を要請する手紙を書いた人も大勢居た(18頁)。
 帰国後逃亡罪で12年の刑に処せられた夫を救おうと手紙を書いた妻もいた(372頁)。
 「つまらん民族」には例外もいるのだろう。



 『拝啓マッカーサー元帥様』に、占領期、木村毅ら反左派系出版人たちが、自らの戦争協力の過去を棚に上げて、日本の出版会の主流にのし上がる旨の記述がある(351頁)。
 当時、雑誌『キング』も戦意煽ってたのである。

 マッカーサーは厳しいスケジュールの中、送られた手紙を読むことにかなりの時間を費やしていたらしいが(10頁)、こういう手紙も読んでいたのだろう。
 当時、『キング』がどのように戦意を煽っていたかについては、佐藤卓己『キングの時代』等参照。
 木村毅、1945年時には、グルーやニミッツ、マッカーサーらに厳罰を、との旨のことを書いてる(345頁)。
 当時の"身の軽い"マスコミの動きを象徴する人物といえる。




 マッカーサーによる「日本人十二歳」発言で(これは誤解らしいのだが)、日本国民はマッカーサー熱から冷める(408頁)。
 その背景に「占領という事態にあまりにもやすやすと身を寄せたことへの恥ずかしさ」が国民にあったというが、はてさて。

 (加筆訂正:2011/8/9)
 (加筆訂正:2013/8/5)
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