スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「兵士は天皇のために死んだ」という建前が消えた戦後 -小沢郁郎『つらい真実 虚構の特攻隊神話』再読-

 小沢郁郎『つらい真実 虚構の特攻隊神話』を再読した。
 これで何度目か。
 すでに他のブログさんで取り上げられている( これとか、これ。あとはこれも )が、「特攻」を知る際、読んでおきたい本の一つだ。

 とりあえず、書いておきたいことだけ。



 大西瀧治郎が発案したとされる海軍の特攻作戦だが、実際は、中沢佑作戦部長は、神雷部隊の編成に同意していた。
 (この部隊は、特攻兵器「桜花」の専門部隊である。)
 そして、大西の特攻隊編成以前に、軍令部レベルで、体当たり戦術が海軍戦術として公式に採用されていた。
 大西が「発案」というのは、正しくなかったのである(116頁)。
(もう少し詳しい話は、こちらのブログさんの記事をご参照あれ。)



 戦前、海軍省は、天皇のために特攻隊員は献身して死んだ、というふうに書いた。
 だが戦後になると、天皇のためとは言われなくなり、家族や同胞を含む民族のために死んだ、と言われるようになった。
 「天皇」が隠ぺいされたのである(121頁)。

 戦前には、「家族のために死ぬ」という兵士の論理を、軍側が拒否した事例がある。
 「俺は家内のために死ぬんだ」と言い残して戦死した特攻隊がいた。
 その話を報道班員がとりあげようとした。
 すると、上官が「けしからん」と書き直しを命じた。

 靖国神社は「国民」のために死んだ人間を祀っているのではなく、「天皇」のために死んだ人間を祀っている。
 「天皇陛下万歳」という言葉の意味と使われ方を、もう一度噛み締めてみるべきだ。



 陸軍特攻隊第一陣万朶隊の指名者だった少将今西六郎は、「志願者を募れば全員が志願するであろう。指名すればそれでよろしい」と述べている(127頁)。

 志願制とはいったい何だったのか。



 夜間攻撃の特殊訓練に打ち込んでいた美濃部正少佐は隊員たちにいった。
 「貴様ら、これができないと特攻に入れるぞ」
 全員が特攻を志願したならば、ありえぬ言葉である(131頁)。

 なお、美濃部正は、ニコニコ大百科にも名前が載っている。



 特攻の「闇」を真っ正直に書いたことで知られる高木俊朗。
 彼が体験した「ぐう畜」エピソードがある。
 
 菅原道大。
 大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』にも名前が載っている、特攻の責任者である。

 そんな彼が戦後のインタビュー時に、命令口調で高木に要求した。
 特攻を書くのもいいが、自分が慰霊をしている特攻観音のことも、大いに書いてもらいたい(160、161頁)。

 すぐ地獄に落ちるべき言動である。



 1946年、マニラの戦犯容疑者収容所で、武藤章はパナイ島関係者に訓示している。
 曰く、日本陸軍のために、士官学校を卒業した者が非戦闘員の殺害(マニラ虐殺事件)を命令したなどと、絶対に言ってはならぬ。
 高級将校たちはこの方針によって、何も知らず存ぜぬで通した。
 結果、命令に従った下級将兵を見殺しにする結果となった(187頁)。

 出典は熊井敏美『フィリピンの血と涙』となっている。

 ちなみに、のちに東京裁判で死刑判決を受ける武藤であるが、先の「マニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人補佐として出廷し山下らの弁護につとめた」(Wikipediaの武藤の項目より引用)。
 


 (未完)

ともあれ、「加害者の顔が見えない"和解"は茶番である」というような話。 -梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』再読-

 梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』を読んだ。
 2011年に出た良書である。
 久々に読んだが、やはり面白かった。
 3年前の本だけど、古びていない。

 (あまり関係のない話だが、例の「壁と卵」のスピーチの問題点は、「卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます」と述べ、「焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たち」を支持する者が、果たして、抑圧されるがゆえに武器を手にとった「卵」に対してどう向き合うのか、また、もしその返答が例の小説だとするなら、あの小説はどう見てもその回答として不十分としか言えない、という点と、そして、あのスピーチは「壁」が「爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾」と「システム」と二種類出現していて、「システム」変えようぜと言うのは”そーですね!”(アルタ風)という返答しかないのだが、一方の、「爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾」を使用する側の「卵」の加害への責任はどうするんだよ、という二つの点だと思う。ともあれ、「加害者の顔が見えない"和解"は茶番である」という伝説の名言を噛み締めるべきだ。 )
 
 以下、興味のあるところだけ。



 数年前にあった、毒入り餃子事件を発端とする、中国産食品に対するバッシング問題について。

 1990年代後半、農産物の過剰生産により、中国の地方政府は輸出振興策を行った。
 その動きに乗ったのが、中国の人件費の安さに目をつけた日系の商社や食品会社だった。
 そもそも、現在の日本の中国からの輸入農産物は、ほとんどが、日本企業によって生産・品質管理・加工などのノウハウが持ち込まれた、「開発輸入」によるものだった。
 本書によると、農薬の多くも、もともとは、日本企業によって持ち込まれたものだという指摘もあるらしい(19頁)。

 問題は、中国側の人件費などの生産コストが上昇していく中でも、消費者が「安さ」しか求めない、という日本における中国産食品の位置づけが、当初とまったく変わらなかった点にある、というのが著者の主張。

 これは、当時の日本のデフレ経済も含めて考えるべき問題なのだろうが、「デフレ脱却」を政府が唱道する2014年現在、「中国産食品の位置づけ」は、どこまで変わってきているのだろうか。
 2011年の「事故」によって忌避される目に遭っている福島県産の食品の位置づけも。
 (この件については、こちらのブログの記事も参照されるべきだろう)。



 CSRの問題点について。
 
 多国籍企業のCSRや民間機構による認証は、ILOのような国際機関の定めた労働基準と違い、立場の異なる複数の当事者の粘り強い「摺り合せ」によって作成されたものではない。
 すると、どうしてもそこに、先進国の価値基準が入り込んでしまう可能性が出てくる。

 たとえば、ナイキのような多国籍企業がCSRを盾にして現地企業の労使対立に介入したり、組合の結成を助けたりするのは、法で言う「自力救済」に当り、国内法・国際法ともに違法行為である可能性が高い(39、40頁)。
 いくらナイキの方が現地政府より開明的であるように見えても、容認されていいのか、ということである。

 もちろん労働CSRは、きちんとした国内法の運用と組み合わせれば、確実に途上国の労働者の待遇改善につながる(41頁)。
 だが、現実に途上国で運用されるCSRの問題点は、その理念が現実社会で実現されるための精緻な「方法」を欠いている点にある。
 これが著者の言わんとするところだ。

 さて、日本の場合は、どうなのか。
 はてダの記事「「人権」問題のグローバル化はすでに終わっている 」を読んでそう思う。
 日本は一応、先進国である。
 先進国だと聞いていたのだが。

 とりあえず、"現実社会で実現されるための精緻な「方法」"として、労基署の権限と労働組合の力を強化しよう(こなみかん。



 現実のデータを見れば、むしろ米国の金融緩和が、ホットマネーの流れを通じて中国の物価水準の上昇を招くなど、中国の金融政策全般に影響を与えている(104頁)。
 その逆ではない。
 中国がいくら世界第二位の経済大国になったとはいえ、まだ中国経済が米国に与える影響力は、その逆に比べてはるかに弱い。

 この件については、2009年の時の著者のブログ記事も参照されるべきだろう。
 2014年の今でもこのような構図は、変わっていないように思うのだが、はてさて。



 ラヴィア・カーディル氏(世界ウイグル会議議長)。
 著者のブログ記事から引用すると、もともと、議長は「改革開放の波に乗って財を成しながら、『誰もが平等に金儲けのチャンスが与えられる社会』を目指す、という形で民族のおかれた状況を改善していこうと」した人である。

 ビジネスを拡大する場合には漢族だろうと外国人だろうと、信頼できる相手なら積極的に協力している(148頁)。
 また、民族の伝統に対しても異説を唱える姿勢は、イスラムの保守的伝統に縛られたウイグル人男性たちの批判を浴び、夫にさえあきれられるほどだった。
 この姿勢に、著者は、J・ジェイコブズの「市場の倫理」と「統治の倫理」のうち、前者を見ている。
 (簡単にいうと、身内びいき(「統治の倫理」)ではなくて、「商人」が身内ではない相手との間に分かち持つような「信頼」を重視している(「市場の倫理」)、という話。)

 このカーディル議長が、2012年、会議メンバーをともなって、「日本人支持者と共に靖国神社に向かい、集団での昇殿参拝というパフォーマンスを行った」。(以下、引用元は、著者によるウェブのこの記事。)
 この出来事について、著者は、「日本に亡命したムスリム」が「日本の国家主義に利用されていった」テュルク系ムスリム、クルバンガリーの事例を紹介しつつ、「なぜ戦前から現在に至るまで、日本の国家主義たちは、自分たちを頼ってきたアジアのムスリムたちを、信仰的に相いれないことが明らかな国家神道の儀式に巻き込もうとするのだろうか?」と提起している。
 そして、「そのような『野合』がうまくいかないことくらい、戦前の日本の経験を少しでも振り返れば明らかなはずだ」と批判している。
 まあ、その通りである。

 問題はこの議長の行為をどう考えるか、だ。
 彼女のような「市場の倫理」に従っている、とみられていた人物でさえ、たやすくその道を外れて、身内(仲間)びいきをしてしまったのである。
 あるいは、「漢族だろうと外国人だろうと、信頼できる相手なら積極的に協力」するという「市場の倫理」を忠実に守り、日本の右翼を信頼して靖国参拝をしたのだろうか?
 とすれば、この出来事は「市場の倫理」の結果によるものと考えるべきなのか?

 ともあれ。
 著者は、「複雑な民族問題について『正義』を追求するとき、曲がりなりにも普遍性を追求しようという姿勢がない限り、ご都合主義的なニセの連帯が生まれるだけである」と、真っ当なことを述べている。
 普遍性とはすなわち、身内や仲間にしか通じない倫理ではなくて、それ以外の人、さらには敵においてさえ、通じるような(反論しがたいような)倫理を追求せよ、ということだろう。
 もっとわかりやすく言うと、ダブスタをするな、ということだろう。

 ちなみに、人道的介入におけるダブスタの問題については既に書いたことがある



 新自由主義の重要な要素である「搾取しやすく相対的に無力な大量の労働力の存在」が見られるという点では、間違いなく新自由主義経済な中国(186頁)。 
 アルゼンチンへの輸出攻勢によって現地の伝統産業が破壊を受けるという批判に対して、中国は「そのような産業は滅びるにまかせ、急激に発展している中国市場に原料や農産物を輸出することに専念しさえすればいいと忠告」した国、中国(187頁)。
 (これについて、「一九世紀にイギリスがインド帝国に対して振舞った時のやり方そのもの」である、と、ハーヴェイ『新自由主義』は書いている(邦訳193-194頁))。

 とりあえず、中国人民は立ち上がって、ゼネストを起こすべきではないだろうか(マテヤコラ 。



 石原吉郎「アイヒマンの告発」を著者は紹介している(220頁)。

 石原は、広島の平和運動への違和感を述べている。
 ①政治的な「告発」は「当事者(被害者あるいは目撃者)」によってしかなされるべきではない。
 ②政治運動としての「告発」が基本的に死者の「計量可能性」の前提に立っており(「一人二人が死んだのではない」というなら「一人二人ならいいのか」。)、一人一人の犠牲者をないがしろにすることにつながっているのではないか。

 ①はそのとおりだし、②も確かにそうである。

 ただし、後者の「一人の死者もないがしろにするな」論法を濫用してしまうと、1982年の「反核異論」において、戦争による死や後遺症のみならず「老衰による自然死」までも(!)被爆者の問題と同等の事柄として扱おうとした吉本隆明みたいになってしまうから、注意が必要である。
 ある特定の死を特権化するのは確かに危うい、だがしかし、警戒するあまり、ある死や害における「加害性」を覆い隠してしまうのは、やはり、いただけないと思う。

 (吉本の「反核異論」については、こちらのブログの記事をご参照あれ。また吉本の80年以降の言論の「衰え」を批判した田川建三『思想の危険について』も参照されるべきだろう。)



 中国の「左派」の話(255頁)。

 社会の矛盾をあくまで「資本主義化」の弊害として捉え、国家による分配の平等を重視するのが中国の「左派」である。
 この立場からは、インターネットの言論統制を批判し、法に基づいた基本的人権の擁護を訴える知識人や弁護士などは、しばしば「ブルジョア的な自由主義」の論理を体現しているとして批判の対象にされる。
 例えば、「欧米の団体からカネをもらって共産党政権の転覆をはかる資本主義の手先」といったステレオタイプの誹謗中傷を受ける。

 平等の理念をまとった国家(指導者)への帰依、という彼らの観念が、外敵から平等の理念を守る、という考えに転嫁してしまう。
 (リベラル=「右派」とソシアル=「左派」という問題である。)

 著者はそうした左派に対し、希望を「民間思潮」に求めている(詳細は、こちらの記事を参照)。
 「民間思潮」の「民間」は、日本語の意味と違う。
 「社会の病根を『外部』に求めるのではなく、『内部』の専制政治に目を向けることで変えていこうとする、極めて象徴的な意味を持っている」。

 リベラルとソシアルと「民主主義」をめぐる問題については、kihamu氏のブログ記事、例えば、これとか、これが、実に有益でおすすめである。



 (未完)

なぜ日本は女性ホームレスが「少ない」か。あるいは、「自立」・「自律」再考 -丸山里美『女性ホームレスとして生きる』について-

 丸山里美『女性ホームレスとして生きる』を読んだ。

 珍しい女性ホームレスを扱った本書だが、その実態を論ずるだけではなく、女性ホームレスの存在を通して所謂「主体性」への批判的吟味にまで達している。

 そもそもなぜ、日本は女性ホームレスが「少ない」のか。

 例えば、他の先進国の場合、DVなどを理由にシェルターに逃げ込んだ人も、統計的にホームレスに当てはまり、そのため女性ホームレスにカテゴライズされる人が多いのに対して、日本の場合は統計に入らないため、数が少なく算出される。
 また、日本の雇用制度の帰結として、男性の場合、労働者として福祉の網から外されやすいのに対して、福祉制度の保護(生活保護)を比較的受けやすい女性は、その分ホームレスになりにくいかった。
 こうした理由から、女性がホームレスとして(統計的にも実質的にも)表れにくい、という日本の事情が、本書では説明されている。
 (日本の雇用形態の場合、女性は男性に養われるのが前提となるような設計のため、女性は例え家庭内で虐げられている場合でも、その婚姻関係のもとに忍従せざるを得ないケースが少なくなかったという事情も、本書には書いてある。)

 だが、彼女たち女性ホームレスは、数は少ないながら、それでもなお、存在していた。
 本書は彼女たちに焦点を当てることで、日本のホームレス研究に新しい視角を与えるだけでなく、人の「主体性」そのものをも再吟味しようとする。
 用いられる理論は、既知の書物・議論によって構成されている。
 しかし、それが女性ホームレスの具体的な存在に触れることによって、見事に活性化している。

 以下、簡単に面白かったところだけ。



 ギリガンは、女性が選択に際してしばしば示す躊躇や逡巡を、(略)背後には、他者の要求にこたえることを長年期待されてきたために、自分で決断してものごとを実行していくことに対して、女性は自信を持ちにくいのだと考えるのである。  (248頁) 

 ギリガンとは、「ケアの倫理」について提唱した人物である。
 「ケアの倫理」とは何か。

 こちらの記事が、本書の当該箇所を引用している。

 曰く、ギリガンは、「『ハインツのジレンマ』と呼ばれる、有名な道徳性の発達指標」にたいして疑問を抱いた。
 このジレンマは、「癌にかかった妻を救うために、夫のハインツは高価で買えない薬を盗むべきか否かを問う」ものである。
 それによると、「男の子のジェイクは薬を盗むべきだとはっきり答え、財産と生命を比べて生命の方が尊いと判断し、これを権利の問題へと修練させていく。
 女の子であるエイミーは、薬は盗むべきではないが妻を死なせるべきでもないと自信なさそうに答え、薬屋が二人の事情に配慮しないのがよくないのだと言って、これを責任の問題として解釈した」。

 そして、「従来の発達理論においては、人間の発達は他者を気遣うことから、規則や普遍的な正義の原理にしたがう つぎの段階に漸進的に発達すると想定されて来たために、エイミーはジェイクよりも未成熟であると解釈されてきた。
 だがギリガンは、発達段階をはかるものさしが男性を規準につくられており、伝統的に女性の徳だと考えられてきた他人の要求を感じ取るという特徴こそが、女性の発達段階を低いものにしてきたことを指摘した」。

 以上の内容である。

 従来の倫理(「正義の倫理」)は、選択と決断を重視し、権利の問題に焦点を当て、抽象化された規則や普遍的な正義の原理にしたがうのを良しとしてきた。
 それに対して「ケアの倫理」は、戸惑いや逡巡に留まって、利害の異なる具体的な他者の要求を感じ取り、気を遣うことを良しとする。
 これら原理は、前者が主に男性に当てはまり、後者が主に女性に当てはまるものとされ、従来は前者が注目されがちだったのを、ギリガンは後者に焦点を当てた。
 (ただし、ギリガンも述べているが、男性にも「ケアの倫理」の特徴を持つ人はいるし、その逆もあり、基本的に男女を問わない。これは、本書の引用にあるように、本質主義的にではなく、構築主義的に考えられるべきだろう。)

 著者は、この(主に女性に見られがちな)「割り切れなさ」や「選択のできなさ」を主体性に関する議論の出発点としている。
 
 (なお、本書ではあまり触れられていないが、「ケアの倫理」では、問題の解決の仕方もまた重要なポイントである。
 例えば、先の「ハインツのジレンマ」を例に挙げると、「ケアの倫理」だと、ただ逡巡するだけでなく、盗まずにお金を借りるとか、もっと別の仕方を考えてうまく調整するとか、選択肢を増やして現実と折り合うという創造的な側面がある。
 この点については、こちらのサイトの記事もご参照いただきたい。)



 あらかじめすでに自立した人間がいるわけではない。むしろそれらのサポートがあってはじめて、彼女たちの自立能力は形成されるのである。笹沼弘志がいうように、「あるモノに出会い、それが自己の欲するものだと気づくことが多々あるように、むしろ、ニーズは後追い的に構成されるものである。精神的自律能力は、助言による選択肢の創出により、初めて涵養されるのである。まず精神的自律能力があってそのあとに選択がなされるのではなく、自覚なく選んでしまった「選択」という実践を通じて初めて精神的自律能力なるものが形成されるのである」 (252、253頁)

 これは、笹沼弘志『ホームレスの自立/排除』の本書からの孫引きである。
 ニーズ(欲しいもの、必要なもの)は、人にとって最初から明確であることは、実はまれである。

 何を欲していたかは、人から指摘されたり、それを得た後になって、判明することが多い。
 ニーズは、たいてい、後追い的に、気づかされるものだ。
 (市場的ニーズをその観点から把握して説明した本として、三宅秀道『新しい市場のつくりかた』などがあるが、今回の話とはあまり関係がない。)

 精神的自律能力というのも、同様に後追い的なものだ。
 自覚なく選んでしまう実践を通じて、初めて、精神的自律能力が涵養される。
 自律とは孤立とは異なる。
 自律能力とは先天的にあるのではなく、身に着けて終わるものでもなく、常に醸成され続ける「過程」である。

 そして、このような「自律」の性質にこそ、「支援」の存在理由はある。



 支援策を利用して野宿生活を脱却することなく路上にとどまり続ける、本書で見てきたような女性野宿者たちを、「自由意志と選択する能力が備わった人格によって」野宿生活を選択していると単純には考えられないからこそ、「女のおしゃべり会」のような取り組みは長く続けられている。 (254頁)


 たとえ保護という名のもとでも、野宿や売春をやめよという呼びかけをすることではなく、野宿や売春をしていても、どのような自分でありたいのか自由に想像し、それが尊重されるための領域を確保するよう、取り組んでいくこと  (255頁)


 主体とは、あらかじめ自立してあるようなものではなく、むしろ長いプロセスのなかで現れてくるもの、つまり、野宿をやめて居宅生活に移るという選択を、その後長い時間のあいだ、失敗もしながら他者とのかかわりのなかで維持していく、その終わりのない過程の中にこそ現れると考えるべきではないだろうか。 (260頁)



 彼ら、彼女らは、単に怠惰な存在なわけでもなく、主体的に自立した個人でもない。
 前者なら、見捨てるべきだ、という議論になるか、かわいそうだから救おう、という議論にしかならない。
 後者なら、自分で選んだ選択なら、別に助けなくていいよね、という議論にしかならない。

 そうした二項対立ではとらえられないものを、著者は見ようとする。
 (だから、ジュディス・バトラーの「エージェンシー」の概念などを登場させているし、ドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域への権利」についても話が及ぶ。)

 そこにあるのは、選択する能力が備わった人格によって野宿生活を選択している「主体である人」ではなく、支援を受けながら能力を身に着けていって、どう生きるかを選択しようとする「主体になる人」とでもいうべき存在だ。
 なりたい主体になるために、急くことなく、じっくりと選択をできるために、そして、その選択が尊重されるためにこそ、継続的な支援が必要になる。
 (引用部にある「女のおしゃべり会」の詳細については、本書を当たられたい。)



 本書を読んで、この時になされた議論を再興しようと思ったが、また別の機会にする。



 (未完)



 (未完なのに追記)
 いくつか、ブクマについてお返事(?)を書いておこう。

ricenoodles  青空ホームレスも実はホームレスたちのなかでの社会があって、それがまた結構ガチガチな排他性があるから女性は弾かれやすいって事情も聞いたことあるなあ。ホームレスとて一人では生きられないからね

 そこらへんの事情も本書に書いてあります。
 そして、そうした現場において、女性たちが生き抜く方法は、一様ではないこともまた。

spamalot 近所に一人いる。そこらへんで排泄するので、いろいろと驚きます。あと、地域の細かいトラブル情報などをよく握っている。市役所の人が困り果ててる。

 このブクマのお方と市役所との関係の方が気になりました(ソッチカヨ

fatpapa 働ける人よりも累犯障碍者同様、知的障害がある場合の受け皿の方が問題。日本の場合、善し悪しは兎も角水商売や風俗という受け皿があり、軽度なら風俗で働けるゆえ男性よりホームレスの選択は少ないと思われる

 「AよりもBを救え」論法は、あまり好みません。
 (なお、精神病患者については、この記事で、さらに児童自立支援施設の子供たちについては、この記事で扱ったことがあります。)
 女性の場合、指摘されている理由でホームレスになる数が少ない、というもの、本書で触れられています。
 ともあれ、一読をお勧めします。

マナーは思いやりではなくて、単なる他者との共存のすべである、という話。 -野矢茂樹編『子どもの難問』を読んで-

 野矢茂樹編『子どもの難問』を読んだ。
 幾人もの日本を代表する哲学者たちが、「子どもの難問」に、こたえていく内容。
 一つの問いあたり、二人の哲学者が担当しており、その対比も見どころ。

 じつは、最大の読みどころは、巻末に載っている哲学者たちの出身地と履歴だったりする(マテヤコラ。
 (あながちウソではない。みんな、当然だが、高学歴である。)。 

 本書の哲学者の回答の中から、特に興味深かったところだけ。
 誰がその回答をしたのかについては、実際に本書をあたられたい。



 「生きている」のは、「生きている」こと自体を深く経験するため。これが、あえて言えば、「なぜ」に対する私の答えです。/「あえて言えば」と言ったのは、「生きている」ことの自己目的性を強く意識しすぎると、それはそれで、深く経験することを阻害するようになると思うからです。ちょうど、眠ろう眠ろうと意識しすぎると眠れなくなってしまうように。 (78頁)

 生きることは味わうこと、それ自体が目的、とでもいうべきものだ。
 だがしかし、その自己目的性を意識しすぎると、かえって、生きることを味わえなくなる。

 味わうとは、何かのために味わうのでも、味わうために味わうのでも、ない。
 そういう「目的-手段」関係から距離を置くものなのである。

 この手の議論については、以前書いていた(のをさっきまで忘れていた)。



 誰にも見えない心の奥でキミは自分を育てている。そしてそのヒミツの一部をごくわずかな人に伝えることで、キミは濃淡のある人間関係をつくれる。これがプライバシーが大切にされてきた理由なんだ。みんなテレパシーで心の中が御見通しになったら生きやすいと思う? (82、83頁)


 キミは「僕の気持ちをわかってくれない」と思うだろう。この「わかる」は「知る」じゃない。「尊重する」とか「許す」だ。こっちの意味での「わかりあう」方がずっと大切じゃないかな。 (83頁)

 結構、意表を突かれた回答である。
 お察しの通り、これは自然主義を唱える哲学者による回答である。

 プライバシーは人間関係を築く礎として機能している。
 ある人と距離をとり、ある人と距離を縮めるための手段として、プライバシーは機能する。

 大切なことは、ある特定の人と距離をゼロにすることではなく(不可能だ!)、その距離を適度にコントロールできる自由を持てることだ。

 そして、適切な関係を築くことで、他者を尊重し、他者に尊重され、他者と尊重し合うことも、可能になる。
 相手に「僕の気持ちをわかってくれ」るようにするためには、相手との関係を再構築できるよう、自分の「ヒミツの一部」を伝えていくことが大事だ。

 分かってくれないなんて、不満に思ったって何も解決しないから、それよりも、自分がまだ相手に伝えていないことを、適切な形でちゃんと伝えるべきだ。
 (なんだか、人生論っぽくなってしまった、、、)



 科学が提供する「説明」は、基本的には「どういう仕方でそうなるの(how)?」という問いに対する答えであって、「なぜそうなの(why)?」という問いに対する答えではありません。 (100頁)

 科学の話だ。
 火をつけるとモノが燃える一連の現象(how)を説明はできても、なぜ火をつけるとモノが燃えるのか(why)には、突き詰めていくと、答えることはできない。

 こちらのブログさんの記事が紹介している。
 すなわち、夏目漱石が言うように、「科学はいかにしてということすなわち How ということを研究するもので、なにゆえということすなわち Why ということの質問には応じかねる」
 科学は、「いかなるプロセスで花が落ち、実を結ぶのかという一連の手続きの記述」にあり、「なぜ、花は落ち、実を結ぶのかは顧みない」。



 この配慮を思いやりややさしさと取り違えないでほしい。なぜなら、それは気持ちや自発性とは違って、豊かな共同生活に必要なスキル、身に着けるべきものだからだ。 (139頁)


 仮にそれが相手の何の役にも立たないとしても (略) やさしさは誰もそれを要求したり強制することのできないものだからこそ、素晴らしい (同頁)

 マナーと思いやりは、結構混同される。
 だが、混同してしまうと、結構息苦しい。

 マナーの基底にあるのは、他者への配慮である。
 だけど、その他者への配慮は、自発的でなくても可能だ。
 あくまで「べき」という社会的必要によるものだ。
 他者との共存、そのための単なるスキル(すべ)であり、慣習である。

 一方、思いやりや、やさしさというのは、自発性、非-強制性によって成立している。
 愛と同じく、自発的なものだからこそ、尊い。
 愛は素晴らしいが、愛を強要するのは、おかしなことだ。

 二つのものは相異なるものであり、二つの混同は悲劇を招く。

 マナー良くふるまうには、自発性があった方が、そりゃ、やりやすいだろうが、無理に自発性を持とうとすると苦しいだけだ。
 敬語と同じで、突き詰めれば、敬意を持っている必要は無い(この議論の詳細については、滝浦真人『日本の敬語論』などを参照のこと)。

 少し似たようなことを「友情」を主題にして、書いたことがある。
 (いっそう冷めた見方だったけど。)



  僕らの発言や行動の全部を照覧して、その首尾一貫性を要求してくる存在という一種の幻想が生まれる。それが神。僕らが言葉を使って考え、一貫性をもたせようとすると、そこに不可避に生まれる錯覚 (171頁)



 嘘をつけない言葉を語る機会を、われわれ自身が必要としているからである。そういう機会を作らないと自分が何であるかわからなくなってしまうからである。/そのとき、われわれは言葉を超えた神に向かって言葉で語りかけることになる。  (174頁)

 二人の哲学者による、神の存在に対する説明である。
 結構似た回答だ。

 前者の場合、どこか、某社会学者の「第三者の審級」みたいな概念である。
 いわば、「保証人としての神」である。
 自分という首尾一貫性を保つためには、不完全たる生身の人間には事実上不可能。
 ならば神を要請するしかない、というわけだ。(カントかよ。)

 後者の場合、これもまた、「保証人としての神」である。
 嘘をつくには、真実の言葉と嘘を峻別できないといけない。
 しかし、それができないと嘘すらつけないし、言葉が混乱する。
 そこで、その真実の言葉を保証する存在が必要になる。
 もちろん、その必要とされた存在が、本当に存在するのかは、著者が述べるように、分からないのだけれども。

 神とは、寄る辺なき人間の不完全性に由来するものなのである。



 (未完)

「分かるやつにだけは分かる」こと、あるいは、近代芸術の「逆説」 -阿部良雄『ひとでなしの詩学』から-

 阿部良雄『ひとでなしの詩学』を読んだ。
 詳しい内容については既に、書評がウェブ上に存在する。(良い阿部良雄入門にもなっているので一読してほしい。)

 以下、気に入ったところだけ書く。



 写実主義から印象主義へと、描く対象が市井の人々や見慣れた風景になってくると、画家の工夫は画題の珍奇ではなく、芸術的な独創に注がれるようになる。
 神話に出てくるような人物や王侯貴族ではなく、もっと平凡なものが描かれるようになる。
 その時、画家は技の独創性を前面に押し出す。

 すると何が起こるか。
 黒ずくめの服の中での創意工夫が、自分もそうした苦心を知っているダンディ仲間の目にしかとまらないように、芸術家も、その工夫を理解・歎賞できるのは、芸術家のみ、という状況が生ずる(174頁)。

 分かるやつにだけ分かる。
 そうした見えにくい差異、理解しにくい差異が、芸術の中枢を占めるようになる。

 ダンディスムとは、あえて際立った特徴を消し去る(黒ずくめ)によって、その創意工夫を分かるやつにだけ分かるようにする所作であり、そうした生き方である。
 同じようなことが、芸術においても生じる。
 芸術家の工夫は、旧来のテクニックの常識にとらわれる素人には見えにくい(同頁)。



 当時(1850年代)において、印象派の絵画を買うのは、主に、貴族や富豪の上流階級である。(現代芸術の受容の様を想起せよ。)
 一般観衆は、当時の風俗画や古代風俗と称するエロティックな絵だの、エキゾチックな風物の絵画などを喜んだ(同頁)。
 分かるやつにだけ分かる、このことは、当然、階級なども無縁でない。



 文学でも、同じようなことは起こる。
 例えば、ボードレールの散文詩「港」。

 港へ行って海や空を眺めてぼーっとしているならだれでも出来る。
 これは、デモクラティックな事態だ。
 しかし、そうした何の変哲もない主題から<詩>を引き出すのは、誰にでも出来る事ではない。
 これは、アリストクラティックだ(175頁)。

 多くの「大衆」が「芸術」に手を伸ばせるようになる時代、それは、芸術じしんが「大衆」から差別化・差異化を図って「分かるやつにだけ分かる」という側面をいよいよ顕在化させる時代でもあった。
 近代芸術の逆説。



(未完)

「きれいな被害者」を求める社会は、幼稚だと思う。 -宮地尚子『トラウマ』雑感-

 宮地尚子『トラウマ』(岩波新書)を読んだ。
 トラウマとは何か、そしてトラウマに関する諸々を学べる良書。
 初心者にもとっつきやすい。

 興味を持ったところだけ書いていく。



 裁判などで「事件の次の日も平気で仕事に行ったのは不自然」ということで犯罪報告の事実が否認されることがありますが、被害者が事件の次の日に仕事に行くというのは珍しいことではありません。(略)あまりに衝撃が強く、感情が麻痺してしまうために、事件後の被害者や遺族が「冷静」に見えるということは、少なくありません。 (12頁)

 トラウマとは、人間が抱えるにはあまりにも大きすぎる。
 それは、"平時"に生きる人間には、推し量りづらいものだ。
 上記のくだりは、まさにそれを表している。
 犯罪被害者に対して上記の点を気を付けたい。



 トラウマに「慣れる」ということはなく、むしろ次のストレスへの耐性を弱め、他の人にはトラウマにならない些細なことがトラウマになりうるということは、これまでの研究からすでに明らかになっています。 (177頁)

 「トラウマ」は、経験として蓄積されるのではなく、経験して積もった地層を破壊し、傷跡を残す。
 トラウマは人を強くするのではなく、ひたすら弱い存在へと追い込む。
 人にできるのは、そうした弱さや傷と共に生き、付き合っていくことだけだ。
 (この点について、著者はトラウマを「耕す」という表現をとっているが、詳細は本書をあたられたい。)



 身体的暴力がまったくない場合、被害者もそれをDVだと思わないことがほとんどです。けれども、「モラハラ」(モラル・ハラスメント)という言葉を知り、その内容をネットなどで検索してみて、加害者の言動とあまりにぴったり重なることに驚く被害者もいます (116頁)


 日本の調査でも、加害者に「殴ったり蹴ったり」される例は少なく、「逆らったら殺すぞ」などと「言葉で脅かされた」り、「相手の体が大きいので逆らえないと思った」という被害者が多いことがわかっています。 (139頁)

 暴力が無くてもトラウマになる。
 当たり前のことだが、見過ごされがちの点である。
 特にDVの場合は。

 暴力が無くてもDVはDVである。
 覚えておこう。


 

 私は、公私の二分法の「私」を「親密」と「個」に分け、公的領域、親密的領域、個的領域の三文法に変形させて考えることにしています。そうすると、DVとは親密的領域における暴力と支配であり、それによって被害者の個的領域が奪われることだと、すっきり捉えることができるからです。 (121頁)

 公的領域(会社とかの公の場)ではまともな面をしているのに、家では横暴、みたいな奴がいる。
 こういうやつは大抵、その暴力性が社会にばれにくいので、厄介である。

 DVというのは、「公私」の二分法で考えようとすると混乱する。
 たとえば民事不介入の良い口実として扱われかねない側面があるからだ。
 そこで著者は「私」の領域を「親密」(家族とか友人とかの領域)と「個」(文字通り一個人の領域)に分けた。
 すると、どうなるか。
 第一に考えねばならない「個人的領域」が「親密的領域」における暴力に脅かされる、だからこそ、その暴力に対して対処せねばならない (公的であれ何であれ、何らかの「介入」が必要とされる)、ということが明確になる。 



 米国の研究によると、PTSDの発症率は、自然災害を受けた人の場合五%くらいですが、レイプの場合、女性で四六%、男性で六五%ととても高くなります。日本でもいくつかの調査で、被害者の半数以上にPTSDが発症するという結果が出ています。 (131頁)

 レイプのトラウマになる率は、震災を優に超す。
 それはなぜか。
 PTSDの発生率の高さについて著者は、「性暴力被害の場合、加害者との距離が非常に近く(というより密着され、侵入されるという意味では、距離がゼロかマイナスになります)、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など、すべての身体感覚が侵襲された状況が長く続くからです。」(132頁)と説明している。
 レイプとは、相手の「自己」の身体へ、直接的に侵攻し痛めつける行為なのである。
 自分の身体から逃れられるものはいない。



 事件の判決で、神戸地裁は「被害者の落ち度」を理由に、求刑よりかなり低い刑を宣告しました。被害者がテレクラで加害者と知り合ったからだというのですが、テレクラで知り合った相手には手錠をかけられても許されると、法は社会に向かって宣言するのでしょうか。 (141頁)

 よく知られるとおり、2001年の「兵庫県監禁致死事件」の地裁判決の話である(「中国自動車道女子中学生手錠放置事件」とも)。

 「きれいな被害者」を求める社会は、幼稚だと思う。



 同じような悪ふざけを、下級生や部下に対してはするけれども、上級生や上司にはけっしてしないとしたら、それはやはり親しみではないでしょう。 (180頁)

 では何と呼ぶべきか。
 「かわいがり」と呼ぼうか。
 この社会には「かわいがり」が多すぎる。



 暴力を直接ふるうことに、たいていの人間は嫌悪や苦痛を感じるのですが、命令者と実行者を分けることで、心理的苦痛を最小限にできるというのです。 (191頁)

 グロスマン『戦場における「人殺し」の心理学』を参照して、このように述べられている。
 ミルグラム実験を想起すべきだろう。

 責任から外れると、人は容易に放埓になる。
 ギュゲースの指輪の話をも、思い浮かべるべきか。



 (未完)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。